八章 旋律の中で 第四話
「くそうっ!」
罵りの言葉と共に壁に投げつけられたグラスが派手に砕ける。薄い透明のガラスに淡い若草色の模様が施されたグラスが破砕音と共に砕け散るのを彼女は無感情に見ていた。
「あんなガキに邪魔されるとは!」
卓の上にあった銅の燭台がグラス同様、壁に投げつけられ、壁に小さな傷をつけて床に転がった。この愚かな兄はこの調子で部屋にある調度品をいくつか壊し、多少気が収まったら、娼館にでも行くだろう。
――これの相手をする娼婦にはかわいそうなことだが
ギサは娼婦を軽く哀れみ、思った。娼館の主人には後で金を掴ませておいた方がいいだろう。
王宮大広間で行われた、竜誕生の祝宴は、一時間ほど前に終わり、ギサ達、スレイベン領の一行は宿に戻ってきていた。竜の生誕は人間にとって、最大の関心事である。この国は前竜を失い、十四年が経つ。竜のいない国は、魔族の襲撃と、魔素による害に悩まされるが、収入源を作物に頼り、馬人族の領地に近いスレイベン領は特にその影響が大きかった。
ギサが幼かった頃はゲシュリエクト家も風竜国有数の名家の名に相応しく、裕福な暮らしをしていたが、この国が前竜を失ってからというもの、年々、蓄えを減らしていた。身の丈に合わぬ野心を持つ兄ゲラルフは、それを不服に思い、王都に間諜を放っていたが、その間諜から先だって報告があった。
――次の竜の主は異界の少年である、と。
それを受け、兄は新たな竜騎士候補を懐柔すべく、祝宴を機に少年に近づけ、とギサに言った。ギサから見れば、兄は所詮、凡愚な諸侯に過ぎないが、女に対しては異常な執着を見せる。国王は既に老齢を迎えており、第一王女はおそらく火竜国に嫁ぐことになる。
とすれば、国を継ぐのは第二王女ステラ。兄が第二王女をわが物とし、次の竜騎士を味方に付ければ、ゲシュリエクト家の栄華は約束されたようなものであった。この兄の言う事を聞くのは癪だったが、しかし、これはギサにとっても好機であると考えた。
聞けば、新たな竜の主はまだ十代も半ばの子供である。男など、乳房の一つも吸わせれば、何でも言う事を聞く。初心な少年を操るくらいギサにとっては造作もない事と思えた。兄が第二王女をどうこうできずとも構わないが、竜騎士を自分の虜とできれば、少なくとも自分の栄華は約束される――ギサはそう考えた。
しかし、迎えた祝宴の夜。姿を現した第二王女を見て、ギサにある直感が走った。第二王女は、これまで他の貴族達からの誘いを頑なに断り続けていたが、今日はこれまでとは違い、女の雰囲気をその身に纏っていた。
――第二王女は誰かに恋慕している
女の直感がそう囁いた時、彼女が時折、走らせる視線の先に異界育ちの少年がいる事に気が付いた。
ギサはこれに一瞬、危機感を覚えたが、しかし、それはすぐに違和感へと変わった。第二王女はあの少年から誘われるのを待っている。しかし、少年の方は逡巡しながらも、誘いに行こうとはしない。
ギサは確信した。二人の関係はまだ確固たるものではない。何かは分からないが、おそらく少年の方にその理由がある。そこにつけこみ、自分が少年と踊り始めるのを見れば、失望した第二王女を兄が強引に連れ出す事も可能だろう。しかし――
――“これ”が阿呆であるばかりに……
ギサが二人の様子に気づき、少年を誘い出す機会を探っている間に、早まった兄が騒動を起こした。つけこむ好機だったにも関わらず、それに気づかぬ間抜けのせいで企みが瓦解し、ギサは腹を立てていた。
「くそう!」
何度同じ言葉を叫べば気が済むのか――ギサはこの愚かな兄を冷たい目で見た。手近な物を手当たり次第に投げ、ついに投げるものが無くなったゲラルフは、今度はギサに怒りを向けた。
「お前がさっさとあのガキを連れ出していれば、こんな事にはならなかったんだ!」
――ほうら、来た
どうせ、そのうち言い始めると思っていた。怒りと呆れ――その両方がギサの中に沸き起こったが、努めて冷静に答えた。
「あら――私が誘い出す前にお兄様が第二王女に手を掛けたのですわ」
「なにっ……!」
ギサは冷静だった。ギサは怒りを露わにするゲラルフの目を正面から見据えて言った。
「あの少年と第二王女は一筋縄では行きませぬ。片や竜に選ばれ、片やあの猛王の娘。ただの子供と侮れば、こちらが痛い目を見ます」
ギサの言葉にゲラルフは低く唸った。
「今日は絶好の機会でした。あの二人に割って入り、私達のものとする事は不可能ではなかった――」
ギサは床に転がった燭台を拾い、その曲がった腕を一瞥して、また床に放り捨てた。
「しかし、私たちは好機を逃した。お兄様の短慮でございます」
「なんだと!?」
ゲラルフは怒りで顔を青くし、今にも掴みかからんと身体を起こした。
「短慮――と言っているのです」
ギサは冷たく言った。
「お兄様の目的は何です? 第二王女を手に入れる。それはもはやこの国を手に入れるという事に等しい」
ギサはその冷酷な青い目で兄を見た。
「成し遂げたいのなら、我欲を抑え、機に乗じて一気呵成に動かねばなりません」
ゲラルフは低く唸りながら、ゆっくりと身体を椅子に戻した。
「今は雌伏せよ――と、言っているのか?」
ゲラルフは苛立たしげに指で細かく卓を叩き、不服そうに言った。ギサはゆっくりと首を横に振る。
「逆です。あの二人に何かが芽生えた以上、もはやすぐに動かねばなりません」
「なに?」
「あの少年が第二王女と手を取り合い、竜が成長すれば、王家の支配は盤石となります。そうなってはつけこむ隙がない。少年が竜に乗って戦うようになる前に、王に禅譲させるのです」
「禅譲だと!? 馬鹿々々しい事を」
ゲラルフは首を振って言った。しかし、ギサの宿願を叶えるためには、この愚かな兄に分かるよう理解させなくてはならない。
「王を誘き出し、その隙に王都を制圧し、竜と少年を虜囚とする。その上で王に禅譲を迫るのです。竜の主も今はまだ、ただの子供。虜囚としてしまえば、いくらでも篭絡できます」
ゲラルフは椅子に深く身を沈め、しばし考える様子を見せた。
「……どうやって王を王都から誘い出す?」
「馬人族の酋長を虜囚としていたでしょう?」
スレイベン軍は先の馬人族の襲撃で、酋長の一人を捕虜としていた。
「あれを通じて、馬人族に乱を起こさせるのです。王と国王軍三万の内、二万をスレイベンに引き出す。そして、誼のある州候を動かし、共に王都を包囲する」
ゲラルフは両手の指を組み、躊躇するように言った。
「国王軍二万を出させるには、最低でも五万は馬人族を動かさなくては出てこんだろう」
普通、国王軍が遠征する際、三万の内、二万は王都の防備に残し、一万を出兵する。それで足りない場合は、他州から援軍を呼ぶ。それでも足りぬほど敵軍の規模が大きくなくては、二万もの軍勢を出す事はない。馬人族五万を動かす事ができれば、国王軍二万を引き出す事はおそらく可能だろうが、馬人族は人間国のように一人の王が統べているわけではない。複数の部族にそれぞれ酋長がいて、基本的にはそれぞれの部族が独自に動く。五万の軍勢ともなれば、最低でも三部族を動かす必要があるだろう。
しかし、ギサは言った。
「やるのです。今それが出来ねば、玉座を手に入れる事も、あの小娘を手に入れる事も叶いません」
ゲラルフは暫し考える様子を見せ、そして、言った。
「しかし……それでは禅譲ではなく簒奪だな」
ギサは笑った。
「ふふっ、そんなものどちらでも同じこと――」
ギサはゲラルフの後ろに回り、耳元で囁いた。
「――あの小娘を凌辱し、意のままに泣き叫ばせたいのでしょう?」
途端、ゲラルフの目は虚ろになり、鼻孔は膨らみ、その青白い頬には赤みが差した。
――この変態め
ギサは残忍な笑みを浮かべ、心の中でこの下劣な兄を蔑んだ。
――お読みいただき、ありがとうございます。本作はカクヨムコン7に出展中の作品です。ご期待いただける方はぜひ★評価をお願いします。
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