九章 翼、開けり 第一話

竜の祝宴から四日が過ぎた。既に六月も半ばを過ぎ、今は朝とはいえ、日差しは強い。こちらは日本よりも少し涼しいとはいえ、夏がすぐそこに来ている事を実感する。気温と共に気圧差も大きくなっているのか、今日は南東から強い風が吹いていた。


 祝宴を終えた各地の諸侯たちは、めいめいその領地へと帰り、ここ数日、浮かれ気味だった王宮内の空気も、今朝は日常へと戻っていた。


 竜卵宮の庭で、正行は祝宴以来、初めてステラと二人で過ごしていた。アイトラは庭を駆け、ジェインはわざとらしく少し離れたところにいる。祝宴の翌日、帰国の途に着くエスリオスを、ステラやメリダらと共に見送ってからは、ステラと二人で話す時間が取れなかったが、二人きりになれば、それはそれで気恥ずかしい。


 正行が何を話したものかと、アイトラが元気に庭を駆けるのを眺めていた時、それは起こった。

 翼をばたつかせながら、竜卵宮の広い庭を駆けるアイトラに、突如として強い風が吹いた。その風を受け、アイトラの飛膜が帆船の帆のように大きく膨らみ、瞬間、ぶわ、という音と共にアイトラの体が宙に浮いた。そのまま、二度、三度と翼を羽ばたかせると、庭にいる正行達に強い風を吹き降ろし、アイトラは瞬く間に上空に飛び上がった。


 それは、正行が想像していたドラゴンそのもの。驚く正行達を残して、一瞬のうちに王宮の塔ほども舞い上がり、アイトラは上空で旋回し始めた。大きく翼を広げたまま、おそらくはそこにあるのであろう上昇気流を翼に受け、遥か上空を旋回するアイトラ。アイトラの、ついに空を飛んだという歓喜の感情が正行の心に伝わってきた。


「すごい……」


ステラだった。

感嘆の声を漏らしながら、ステラが上空を見上げている。それは正行とて同じ気持ちであった。


――ついにアイトラが空を飛んだ


 アイトラが生まれてからこの日まで、わずか一か月と少し。その僅かな期間で、アイトラは話し、飛ぶようになった。考えてみれば、あまりにも早い。まだまだ成竜には遠いとはいえ、空を飛べば、もう竜としては一人前みたいなものだろう。


「これは……」


背後に声が聞こえて振り返ると、いつの間にかそこにはレアードが来ていた。


「風竜はあんなにも優雅に飛ぶのですね」

レアードが言った。普段、剣の事以外では口数の少ないこの男が感動している姿を見るのは初めてだった。


「鷲や、他の竜とは違いますか?」

正行は訊いた。


「はい。火竜の飛び方とは少し違います。まして、鷲などとは」

レアードは上空を見ながら、首を振る。


「陛下とアリノ様に報告いたしましょう。稽古のお時間ですが、行って参ります」

レアードはそう言って、木剣を置き、早足で庭を出て行った。


 アイトラは気流に乗りながら上昇し、ある程度の高さまで行くと、その気流を降りて、別の気流に乗り換え、また旋回しながら上がっていく。翼があるとはいえ、既に小さな馬ほどもある巨体である。どうやって体を浮かせているのか、気になっていると、アイトラの声が聞こえてきた。


(僕は竜だからね)

アイトラはその飛膜を膨らませながら、滑空と滞空を繰り返し、正行達のところまで降りてきた。

 見れば、その顔には思いきり得意げな表情を浮かべている。


「アイトラ、すごいじゃない!」

ステラが飛びついた。その長い首に両手を巻きつけ、抱きしめる。アイトラは尻尾を大きく揺らし、誇らしげにする。


(もうちょっとしたら、正行も乗せられると思うよ)

正行はアイトラの背に乗る自分を想像した。

(ああ! 楽しみだ)

 アイトラを撫で、褒めていると、レアードがアリノを連れて戻って来た。


「初飛行を見逃してしまいましたか」

アリノが少し残念そうに言う。


「レアード殿が珍しく興奮して飛んできたので、何事かと思いましたが、竜が飛んだのですな」

「はい! それはもう、美しかったです!」

正行が口を開く前にステラが答えた。


「既に体も跨れる程度に大きくなっている。まだ、鞍が出来上がっていませんが、鷲用の鞍を調整させましょう。そうすれば、飛行訓練を始める事が出来ます」


――ついに!


「はい、お願いします!」

「飛行訓練もレアード殿にお願いしてあります。私は一旦、戻って鞍作りの職人を午後にもこちらに来させますので」


そう言って、アリノは正殿に戻っていった。

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