九章 翼、開けり 第二話

 飛び始めて十日が経つころには、アイトラは既に、かなり自在に宙を舞う事ができるようになっていた。最初の三日ほどは離着陸を時々、失敗し、着地時に平衡を崩しかける事があったが、もはやそれもない。


 そろそろ正行が乗っても大丈夫だろう、という事で、飛行訓練が開始される事となった。ただ、さすがにこれ以上、王宮の周りを飛び回るわけにもいかない。それに最近では、上空を飛ぶ竜の姿を見に、王宮の塀の外に市民が集まってきているようだった。アイトラは見物客の姿を発見すると、わざと降下して近くをかすめるように飛び、観客の歓声を浴びるのを楽しんでいるようだったが、このままでは警護兵達の負担にもなる。


 そこで、アリノは練習場所として、王都東側にあるベロウワ湖上空を指定した。ベロウワ湖は周囲長四キロほどの真円に近いカルデラ湖である。風竜国王都は中央に王宮を構え、北には軍が常駐する王都城、西と南に市街地があるが、東側にはこのベロウワ湖とその周辺の森があるのみである。風竜国の初代国王が、この美しく澄んだ真円の湖を気に入り、ここを首都とし、わざわざ湖が見えるように王宮を立てさせた(と、ステラが教えてくれた)。このベロウワ湖も王都の城郭の中にあり、代々の王族は夏になると、よくこの湖で過ごしたという。


 ここであれば、人目を気にすることなく訓練ができるという事で、正行達は明日から毎日この湖に通う事になった。まだ一度しか王宮の外に出ていない正行にとって、外の世界を見られる事は楽しみでもあった。


 鞍職人が調整した鞍は、元々、鷲獅子用のものであり、完全にぴったりというわけにはいかなかったが、十分、騎乗に耐えうるよう調整され、安全帯を取り付けられるようにもなっている。


 同時に、兜と飛行服も渡された。これは空騎兵が戦場で使う物と同じであるという。頭部は板金で保護され、目の部分には金属とガラスで作られた、防眼帯が取り付けられていた。頭部の保護と、風から目を守るための装備らしい。飛行服は少し硬めの茶色の革でできており、見た目は現代のバイク乗りが着るような革のスーツに近い。


 出発前に荷物を再度確認し、アイトラの鞍に括り付け、レアードと共に歩いて湖へ向かう。さすがに王女が簡単に王宮を出るわけにはいかない、ということで、ステラが附いてこられなかったのは残念だったが、それでも初めて王宮の外に出る事に正行は興奮していた。


 日本の、正行が生まれ育った町は盆地であった。周囲を山に囲まれ、四方に必ず山が見える。しかし、風竜国には山脈は少なく、王都の近くには山が一つあるそうだが、あの町のようにどこを見ても山があるという事はない。王宮からベロウワ湖までは目と鼻の先であり、王宮の東門を出て林の中を少し歩くと、すぐに目の前が開けた。


 そこは綺麗に澄み切った円形の湖であり、真円を描くと言われる湖の周囲はやや盛り上がり、深緑の木々が連なる林となっている。正行の育った地域には有名な峡谷があったが、ここまで美しい水ではなかった。ベロウワの水はほとんど完全に透明であり、浅瀬には白い砂が透けて見えている。


 湖の淵に沿って少し歩き、その水辺、やや開けた場所で、正行はレアードに乗り方の説明を受けた。まず、左足で鐙を踏み、右足で地面を蹴って一息に鞍上に乗り上がる。


 鷲の場合は手綱があるが、竜には手綱を使わない。手綱は鷲に乗り手の意図を伝えるために使われるが、竜と竜騎士の場合は、心を通じて、その意図を伝える。よって手綱は使わず、左手は鞍の前部に取り付けられた持ち手を掴み、左手と鐙に乗せた足で全身の平衡を保つ。


 竜も、鷲も、基本的にはやや前傾姿勢で乗る、という。後傾したまま、速度を上げれば、風圧で体を後ろに持っていかれるためである。その速度や、飛行角度に合わせて体の角度も前後左右に調整し、竜と一体になって飛ぶことが求められる。


「あとは慣れです」


そう言われ、正行は頷いた。自転車と同じである。こればかりは乗って慣れるしかない。


(自転車ってなに?)

というアイトラに、正行は心の中で笑って、

(忘れていい)

と返す。


(とにかく飛ぼう!)

そう言って逸るアイトラに心の中で頷いた。


「では、やってみます」

レアードに言って、正行は、飛べ、と念じた。


 ばさ、と開かれたアイトラの翼が一つ、大きく、空気を叩く。そして、アイトラは一歩、二歩と後ろ足で地面を蹴って、もう一度、翼で空気を叩いた。


 瞬間、ぶわっ、と正行とアイトラは空に飛び出た。アイトラの翼が上下に動くたび、ぐんと体が上に押し出される。正行は、強い風圧に体が流されないよう、極度に前傾して、アイトラの首に上半身がつくくらい、体を折り曲げた。


 何度かの羽ばたきの後、正行達はもう湖の上空にいた。眼下に広がる湖は話に聞いていた通り、ほぼ完全な真円だった。その円に湛えられた水は限りなく美しく、何者かの手によって作られたかとすら思えるその景色に、正行は感動を覚えた。


 湖だけではない。見渡せば、王宮や、竜卵宮、さらにその向こうには王都の市街地も目に入った。これほど美しい光景を正行は見た事がない。初めてだった。正行は自分が竜に選ばれた事は、幸運だったのだと理解した。


正行は心の中で、アイトラの名を呼んだ。


(俺を選んでくれてありがとう)


アイトラは一瞬だけ、正行の方を片目で見た。


(初めて喜んでくれたね)


 面白がるように言ったアイトラは前方に上昇気流を見つけ、翼を広げて、それを捕らえた。飛膜をぴんと張り、その気流に乗って帆翔し、円を描きながら、さらに上昇する。


 地平線が見える。森や、畑も。ここは日本ではない、と改めて思う。コンクリートで作られたビルや、巨大な店舗などもない。目に入る建物のほとんどは、日本の一軒家よりも小さく、国の人口も日本の四十分の一程度でしかない。日本とは比べ物にならぬほど小さな国。しかし、まぎれもなく「国」だった。


 正行達はその日、飛べるだけ飛び、午を少し過ぎて、竜卵宮に戻った。レアードに礼を言って別れ、正行達は東門をくぐる。


飛行は全身の筋肉を使う。アイトラも初めての、人を乗せた飛行に、かなり疲れた事が伝わってきた。今日も午後にはアリノの講義がある。さすがに疲れてはいるが、今は頑張るしかないだろう。人間の体は二週間で慣れるもの――そう思いながら、部屋に戻った。


 竜卵宮の部屋に着くと、既にステラとアリノがいた。

「ただいま戻りました」

戻りが少し、遅くなったから、待たせてしまったかな、と正行は思った。

「おかえりなさい」

ステラが言った。どこか少し緊張したような声。続いてアリノも口を開く。


「お待ちしておりました。陛下がお呼びです」

「陛下が?」


急な呼び出しに何か嫌なものを感じた。ステラの顔を見る。


「戦が起こったの」

「え?」

「南のスレイベン州に馬人族が侵入しました。五万の大軍だと報せが届きました」

「五万……」


たしか、国王軍は約三万。諸侯軍は多くてもその半分だと聞いている。そして、スレイベンは確かあいつの……


「馬人族五万は尋常の事ではありません。陛下はこれより、国王軍二万と、他州からも軍を借りて、スレイベンに向かわれます。その前に正行様とお話をされたいと」

「はい」


――何を話すのだろう


しかし、数を聞けば、正行にも緊急の事であると理解できた。


「服はそのままで構いません。参りましょう」


正行とアイトラは二人に連れられ、王宮正殿へと向かった。



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