七章 竜の声 第六話

 二人が竜卵宮の部屋に戻ったのは、日が赤くなりかけたころだった。もう初夏だというのに、こちらの夕方は少し冷える。


「おかえりなさいませ」

ジェインは二人を出迎えるとお茶を入れてくれた。ジェインに礼を言って、一口、温かいお茶を飲む。


「さっきの男は貴族……ですか?」


正行の問いにアリノはカップを卓に置いて答えた。

「この国の南部にスレイベンという州があります。彼はそのスレイベンを治める大諸侯です」

「大諸侯というと、位も高いのですか?」

「ええ、侯爵位――爵位で言えば第三位にあたります。数年前に先代が急死したため、まだ若いが、彼がスレイベンの州候を務めています」

アリノは一つため息をついた。


「あの者のように、隷層民を人と思っていない貴族もいます」

正行は口を開いた。

「――ああいった人を取り締まる事は?」

その問いにアリノは首を振る。

「難しい。向こうと違ってこちらの国は弱いのです。王の配下の貴族や、力のない貴族ならば、王の権限で所領を取り上げる事もできるが、ゲシュリエクトは地方の大諸侯です。日本とは違い、国の中にいくつも国があるようなものと考えればいい」

それを聞いて、口の中に苦いものが広がった。


「……王も貴族も取っ払って、身分なんてさっさとなくしてしまえばいい」

正行はぼそりと言う。アリノはまたもゆっくりと首を振った。

「お気持ちはわかります。しかし、身分制度は問題の本質ではありません」


正行はその言葉に怒りが湧いた。

「……身分があるから、貧しい人がいて、蹴られたり苦しめられる人がいるんでしょう? さっきの貴族だって、身分が平等なら女の人を蹴る事なんてなかった」

正行は怒りを抑えながら、目を合わせずに言った。アリノは正行をじっと見ながら、正行の言葉を聞き、そして、言った。


「身分制度が正しいと言っているわけではありません。私とて、思うところがないわけではない。しかし、私たちが生まれた国には表向きには身分はなかった。それでも他者を虐げる人間はいたでしょう?」

正行は黙った。


――卑怯だ。そんな人間はどこにでもいる。


「日本では貴族が女性を蹴り飛ばす事なんてないじゃないですか!」

正行はつい口調を荒げてしまった。しかし、正行を見るアリノの目はは冷静だった。


「確かに日本に貴族という階級はない。しかし、目に見えぬところで虐げられている人々がいたはずです。貧しい者や、弱い者。自分よりも下に見える人間を探して、踏みつけようとする者はどこにだっているのです。向こうは行政が発達したから、表立って人を踏みつける人間が見えなくなっただけでしかありません」

「でも……、向こうは生まれが貧しくても努力して、金持ちになることだってできます! そうすれば、子供を売ったり、理不尽に蹴られる事もない!」


アリノは寂しげに首を振った。


「それは恵まれた者の言う欺瞞です」

「……欺瞞?」

「……全ての人間が努力すれば、裕福になれるのならば、それは本当に素晴らしい国だと言える。誰しも頑張り、幸せになろうとする。しかし、私たちの故国はそんな夢のような国でしたか? 与えられた能力や、生まれ落ちた環境にはそれぞれ差があり、同じように努力しても必ず差がつく。本人の努力では覆せない差も多々、存在する。運良く恵まれた者がそうでない者達から奪い、お前達は努力が足りなかったのだと言い放つ。それは他者から奪う事を正当化する言葉に他なりません。その言葉の陰には、数多の恵まれなかった者達の慟哭がある」


アリノは言葉を切り、一つ息をついた。


「人に個性ある限り、人の世に平等はありえません。私達人間は、一人で生きてゆく事はできず、集まればどうしても序列をつけてしまう。それは人間の持つ業なのです。能力で価値の決まる世の中は、一見、公平に見えるかもしれないが、それすらも実は公平ではない」


 今まで、人は平等であり、努力は必ず報われると教えられて生きてきた。それが正しいのだと思っていた。


「全ての人はこの世に生まれ落ちた時点で、才能や環境で優劣がつく。自分がどのように生まれるのか、それは本人には決められません。容姿、才能、家系、財産――。運よく恵まれた者は幸福に生き、恵まれなかった者は耐えるしかない。しかし、人は簡単に勘違いする。自らが成功すれば、それは運ではなく、自分が人より努力したからだと思い込んでしまう。そして、自分は特別なのだと、他者を踏みつける権利があるのだと錯覚する。そうやって人間は邪悪になるのです。身分だの能力だのは、他者を踏みつけるための道具に過ぎません。重要なのは、恵まれた者はその才を恵まれなかった者達のために使うという事です」


アリノは一呼吸を置き、さらに熱を込めて言った。


「正行殿の怒りは正しい。人が人を踏みつける世が正しいわけはありません。しかし、問題は制度ではない。人間の心なのです。あなたは誰よりもそれを理解しなくてはいけない。竜に選ばれた者は大きな力を得る。同時にその力を正しく使う義務もある。難しいが、あなたならきっと理解できます」








どさり――


正行は寝台に身体を投げ出した。わずかに月明かりの差す天井を見上げ、アリノの言葉を思い返していた。


 アリノは身分制度が本質ではないと言った。納得はできないが、同時にそうなのかもしれない――とも思う。向こうにだって差別はあった。人種、家柄、学歴、顔、身長、性別……無数の差別が。


 日本では子供の浮浪者など見かけなかった。子供が売られるという事もない。子供は大切にされ、国家には不適切な親から親権を取り上げる権限すらある。でも、そんな国でも差別はあった。弱者を攻撃する者がいて、法の裏をかいて金を稼ぐ者達がいる。


日本はこちらよりも進んでいた。日本はこちらよりも豊かだった。それは間違いない。しかし、自分の見えないところに苦しむ人がいた。それも事実だった。


 こちらの人々は竜が生まれた事を喜ぶ。死ぬ者が減り、豊かになると言う。しかし、この国が豊かになったとしても、虐げられる者がいなくならないのならば、どうすればいいのか。


 ふっ、と脳裏にステラの顔が浮かんだ。ステラは顔も知らぬ民のために自ら戦場にも出ようとしていた。民のために犠牲を払わぬ貴族に怒り、人のために涙を流せるあの少女――彼女なら、あの王女なら、何かを変えてくれるだろうか?


(それは分からないよ)


突如、正行の脳に声が響いた。自分の声ではない。はっとして正行は身体を起こすと、窓から漏れる月明かりに照らされて、青白く光を反射する竜がこちらを見ていた。


「……アイトラ? お前……」

正行は竜に問いかけた。


(うん)


いずれ話す、とは聞いていた。


「なんで今まで話さなかった?」


(話せなかったから)


神社では話しかけてきたのに――と正行は思った。


(あれは夢の中だったから)


――夢?


「俺の考えている事が分かるのか?」


(正行が考えている事は大体分かるよ。言葉を心に浮かべてくれれば)

(そうなのか?)

(うん)


――そうか


(僕達に全部の苦しさを無くすことはできなくても、死んでいく人たちを少なくする事はできる)

(そりゃそうかもしれないけど……)

(僕達の仕事はまず人を守る事。そうやって言われてる)

(誰に?)


アイトラは月を見上げた。


(誰だろう? ずっと昔の誰かに)

(誰か?)

(うん、そんな気がする)


正行にはよく理解できなかった。ただ、アイトラが話せるようになったなら、聞いてみたかった事があった。正行は口に出して言った。


「どうして俺を選んだ?」


アイトラは月から目を離し、正行を見た。

(理由はないよ)

「ない?」

(夢の中で正行が泣いてたのを見つけて、この人だって思った。だから呼んだ)

「……それだけか?」

(うん)


どさり――

正行は起こした身体をもう一度、寝台に横たえた。


――これも”たまたま”


「ステラを選ばなかったのはなぜだ?」

正行は天井を見上げ、そう訊いた。

「ステラは毎日お前と一緒にいただろう?」


卵の中のお前と。


(ステラを選んだ方が良かった?)

アイトラは寝台に歩み寄り、頭を正行の左手にもたせた。


 正行の脳裏に、あの謁見の日の夕方、自分のために泣いてくれたステラの泣き顔が浮かんだ。


(いや……ステラに戦なんか無理だ)

(僕もそう思ったから)

(俺も無理かもしれないぞ?)

(正行はできるよ)


正行にとっては意外な答えが返ってきた。


(そんな事なんでわかる?)

(僕は竜だから)

(そんなものか?)

(うん)


――そんなものか


今度は自分に向けて呟いた。まどろみながら、心に言葉を浮かべる。


(誰かを殺すなんて、俺にできるのかな)

(できなければ死ぬ。そしたら、この国の人が大勢死ぬ)


――そうなれば、ステラが悲しむ


(大丈夫。僕たちは死なない)

(そんな事分からないだろう?)

(わかるさ。僕は竜なんだから)


竜の言葉は真実なのか、冗談なのか分からない――そんな事をぼんやりと考えながら、正行はいつしか眠ってしまった。






――お読みいただき、ありがとうございます。本作はカクヨムコン7に出展中の作品です。ご期待いただける方はぜひ★評価をお願いします。

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