七章 竜の声 第三話

 正行達が庭に出るのを見送り、ジェインは日課である部屋の清掃を始めた。シーツを替え、家具や床の清掃をする。普段は一人で行うが、今日は部屋の椅子に王女が座っている。彼女は少し頬を紅潮させたまま、ややうつむき加減に椅子に座り、足をぶらぶらと前後に揺らしていた。ステラがどうやって切り出そうかと考えている事は、長く仕えてきたジェインには明白であった。


「正行様を好いておられるのですか?」


箒で床を掃きながら、ジェインは訊いた。訊かなくても答えは分かっていた。もう七年も傍仕えとして一緒に過ごしたこの少女は、ジェインにとっては主であり、同時に妹でもあり、娘でもあった。ジェインの主は、顔を赤らめたまま、こくりと頷く。


 こうなるかもしれないとは考えていた。この、まだ年若い主は、最初は竜の様子を見に来ていただけだったが、次第に竜の主に惹かれて行っているようだった。当の正行にはそんな自覚はないようだったが、ステラの態度を見ればジェインでなくても、気が付いただろう。


「恥ずかしがる事ではありません。ステラ様も女性になられたという事。殿方を想うのは自然な事でございます」


 竜が孵ってから、ひと月もしない間にステラはすっかり変わった。ジェインにはそれが嬉しく、また複雑でもあった。


――以前は、社交に興味を示さず、剣の稽古ばかりしていたのに……


 ジェインがステラの傍仕えになったのは、ジェインが夫と我が子を亡くして半年ほどが経った頃。ステラはまだ九歳だった。全てを失い、家で塞ぎがちだったジェインをあえて外に出そうと、元夫の親族の口利きで、王宮の侍女として採用された。出仕する前から、第二王女はおてんばだと噂には聞いていた。


 風竜国はかねてから馬人族の脅威に晒される土地であり、国王シフナスは前国王の時代から戦場に出る事が多く、結婚は遅かった。王が三十も半ばに差し掛かる頃、ようやくにして娶った后は、八国一とも謳われる美貌の女性だった。彼女は第二王女ステラを産み落とした際に亡くなったが、残した二人の忘れ形見は亡き王后に生き写しだと言われ、幼いながらも、二人とも母の美しい顔立ちと、艶やかな金髪を受け継いでいた。


 しかし、姉メリダが女らしく、温和で、控えめな性格をしているのに対し、妹ステラは男勝りで、剣の稽古に明け暮れており、周囲を悩ませている、というのがもっぱらの噂だった。ジェインがステラの傍仕えとして宮廷に入ると、すぐにその噂は真実だった事を知った。


 彼女は毎日、剣を振るい、時には怪我をして帰ってくる。そのせっかくの美しい顔に傷をつけて帰ってくる事すらあった。傍仕えの侍女の職務には、ステラに淑女としての振る舞いを教える事も含まれる。ジェインは幼きステラに言った。


「男の子のように剣を振るってはなりません。王女としてのご自覚をお持ちください」


 ステラが怪我をして帰ってくる度、ジェインはそう言ってたしなめ、剣の修練を控えるよう、小言を言った。しかし、ステラはそれを聞き入れない。ジェインだけではない。周りの侍女も事あるごとにステラに小言を言った。しかし、ステラは何も言わない。ただ、口を引き結び、毎日疲れ果てるまで剣を振るう。


――せっかく美しい顔と髪を母君から譲り受けたのに


 やんごとなき身分に生まれ、その容姿は将来が楽しみなほどに恵まれた少女。その少女がなぜ騎士の真似事などしたがるのか、ジェインには分からなかった。


 出仕が始まり二ヵ月ほどが経った頃の事だった。夫と我が子を続けて亡くし、まだ一年も経っていなかったジェインは、仕事中にふと失った家族を思い、手が止まってしまう事があった。いけない、と頭では理解しつつも、心が止まってしまい動く事ができない。優しく不器用な夫を支え、愛しい我が子を抱き、三人で過ごした日々――それを失った絶望に心が支配され、金縛りにあったように体の自由が奪われる。


 この日、手が止まったジェインを見とがめたステラは、ジェインの傍らに自分の背丈ほどもある椅子を引きずるようにして運んできた。ジェインは、ステラが椅子を引きずる音で我に返り、自分が仕事中だった事を思い出した。


――謝らなければ!

と思ったその時。


ステラはその椅子の上に立つと、両手で優しくジェインの頭を抱き、まるで幼子にするかのように頭を撫で、言った。


「私がジェイン達の悲しまなくていい国を作るからね――」


 たった一言だった。まだ十にも満たぬ少女はそう言って、母のようにジェインを抱いた。その一言と、小さな体から伝わる温もりに、ジェインは理解した。この少女は男勝りなのではない。その本質は深い優しさにあり、その優しさが少女に剣を取らせたのだ――と。


 その幼くも温かい手と声は、深い悲しみの淵から抜け出せずにいたジェインを癒した。以来、ジェインはこの幼い少女こそ自らが仕えるべき主だと信じ、仕えてきた。


 ステラから正行の世話を命じられてからというもの、二人を最も近くで観察していたジェインは、二人の心が通じ始めている事にもすぐに気が付いた。お互いの辛さを吐き出し、お互いを支える関係に育ちつつある。今までステラは王女としての責任から、無意識に自分が女であることを抑圧していた。それが今、解放されようとしている。民思う主を敬愛しつつも、同時にその強すぎる責任感を心配していたジェインにとって、ステラが年相応の少女に変わっていく姿を見るのは嬉しかった。しかし、騎士を愛するという事は、それもまた困難な道である事をジェインは身を以て知っていた。




 ジェインは椅子に座ったステラの傍らに両膝をつき、主の目をまっすぐに見上げた。

「ステラ様、本当に諸侯の子息達ではなく、正行様が良いのですか?」


ステラは床を見たまま、こくり、と頷く。


「先ほど、ステラ様は、諸侯は戦に出ないと仰られましたが、戦に出ずとも、領地を良く治めている諸侯はいらっしゃいます。戦に出ようと出まいと、民を大切にしていれば、それで良くはありませんか?」


ステラは言葉を探しているのか、無言で床を見る。ジェインは構わず続けた。


「正行様はいずれ竜騎士として戦場に身を置かれるお方。騎士を愛するという事は、常にその身を案じ続けることになります。私達、女は戦場の夫の元に駆けていく事はできず、もし、愛した方に何かがあっても、死に目を看取る事もできません。屍すら帰ってこない騎士も多うございます」


ジェインの脳裏にかつて愛した夫が浮かぶ。

――優しかったあの人も私の知らぬ地でその命を散らした


「私も……」

ステラが言葉を紡ごうとしている。ジェインは主の言葉を待った。


「私も戦に出るわ。私が正行を守れば――」

「なりません」


ジェインはわざと強い言い方をした。


「女が戦場に出たところで何ができます。守らねばならぬものが戦場に増え、正行様の負担を増すだけでございます」

ステラは黙った。主の悔しさはジェインにも分かる。女として、力なき者として生まれた悔しさ―― 


「正行様は今、あれほど熱心に学ぼうとしておられます。自身も母君を亡くされたばかりでありながら、ステラ様や、私にまで優しく振舞い、顔も知らぬ民のために御身を捧げようとしておられます」


ジェインは主の心に届くようにと、願いながら言った。


「正行様も、ステラ様と同じお心を持っておられます。いずれきっと立派な竜騎士になられる。私はそう信じております。ならば、ステラ様の為すべき事は、正行様を支え、正行様が守られる国の下々にまでその恵みが行き渡るよう国を整える事ではありませんか?」


ジェインは、もう一度、ステラの目をしっかりと見つめた。

「騎士を愛するのならば、失う覚悟もなさらなくてはなりません。それでも愛すると決めたのならば、生涯をかけて支えていくのです」


話しながらも、ジェインには分かっていた。主はおそらく既に心を決めている。それでも、あえて言った。


 ステラは揺れる瞳でジェインを見た。


「……でも……正行は私を選ばないかもしれないわ」


ジェインはステラの目を見つめたまま、ゆっくりと首を横に振り、両の手を愛する主の頬に添え、優しく微笑んだ。


「何をおっしゃいます。これほど美しい女性を選ばぬ殿方などおりましょうか――」



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