六章 母の顔 第三話

 アリノは午後から王宮の北にある王都城に正行の練習相手を見繕いに行くと言って竜卵宮を出ていった。王都城は国軍の拠点として、平時は王都の治安維持と訓練を、有事には王の指揮の下、戦場に出向くと言う。


アイトラは、ぐんぐんと音が聞こえてきそうなほど、早く成長していたが、正行を乗せて飛べるようになるまでは、まだかかる。それまではこちらの社会について学びながら、剣の修練を、アイトラが飛べるようになれば、飛行訓練を始めていくらしい。


 アリノの講義が休みなので、正行は素振りをすると言って、庭に出た。ステラはアイトラを庭で遊ばせながら、太刀を持って何かを確認するようにゆっくりと同じ動作を繰り返す正行を見ていた。


――辛くはないのかしら?

ステラは思った。


母を失い、見知らぬ国に突如、喚ばれた彼は自分の使命を受け容れた、ように見える。それはもちろん、王女である自分や風竜国の民にとっては喜ぶべきことである。竜の主が自らの務めを果たすという事は、民にとっては最も直接的な恵みと言える。しかし、今はなぜか手放しで喜ぶ気分にはならなかった。


ステラはこの国に竜がいた時代を知らない。竜がいれば、父と過ごす時間が増える。竜がいれば、死ななくていい人たちが死ぬこともない。竜がいれば――ただ、そう思っていた。十四年の空白を経て、再び、この国に竜が生まれた。しかし、新しい主は異界の少年だった。彼は言った。自分がこの国を守ると。その時は素直に嬉しかった。


――でも、正行はどう思っているのだろう?


自分の母は自分を産み落とした時に亡くなったと聞く。十以上も年の離れた父に嫁ぎ、二人の娘を産んで亡くなった母。メリダとステラの金髪は亡き母譲りであり、二人は母に生き写しだともよく言われる。母はどんな人だったろうと思った事は何度もあるが、母がいなくて寂しいと思った事はない。父は厳しかったが、公平で、厳しさの裏には確かな愛情を感じていたし、その父がいない時も、姉メリダは常に優しかった。それにステラの周囲にはジェインをはじめとする侍従たちもいた。母はいなくとも、ステラには家族がいたのだ。でも――


――正行にはお母さんしかいなかった


父も、他の兄弟もなく、身近に侍従などもいない。正行にとっては母が全てであり、その母を失ったのみならず、彼は同じ日に故郷も失ったのだ。ステラは正行がこちらに来てから、毎日顔を合わせていた。竜が孵るまで毎日、卵を見に来ていたのと同様に、竜が産まれてからは、竜を見に竜卵宮に来ていた。


 最初はなぜ、竜は異界から主を選んだのかと思ったが、すぐにその主は優しい少年である事に気がついた。それはジェインへの態度を見ていても分かる。下女だからといって、見下したりもしない。謁見の日、涙を見せた自分に対しては、彼は戸惑いながらも優しく手を握ってくれた。


その手からは下心や、ステラが王女だからという理由ではなく、ただただ自分を癒そうという気持ちが伝わって来た。しかし、彼はこの世界の生まれではない。彼に惹かれていく自分に気が付いた時、同時に、この少年をこちらに攫ってしまったのだという意識が生まれた。




「――ねえ」

声をかけられて、正行は刀を振る手を止めて、ステラの方に振り返った。


「大丈夫?」


心配そうに聞くステラを見て、正行はステラが自分の身体を心配しているのだと思った。

「大丈夫だよ。素振りだけだし」


答えると、ステラはゆっくりと首を振った。


「違うわ……お母様の事」


――ああ


「……うん」

「本当に?」

「――うん、多分」


 正直なところ、正行にはよく分からなかった。身近な家族を亡くすというのは、正行にとって生まれて初めての経験であったし、実際、色々な感情があった。辛さ、悲しさ、悔しさ、不甲斐なさ――


 しかし、食事が喉を通らないわけでも、眠れないわけでもない。あのまま日本で生活を続けていたら、いつもの日常の中に欠けた母を想い、悲しみに沈んだままだったかもしれない。


しかし、あの日、母だけでなく、生活のすべてが変わってしまった。変化に押し流されて、よく分からないまま、今ここにいる。心の中に、暗いもやもやとした部分はあるが、それが完全に正行の心を覆い尽くしているわけでもない。だから、多分、大丈夫――正行はそう思っていた。


「色々……してあげたかったことはあったけど、仕方ない。もっと生きててほしかったけど、それは家族を亡くした人はみんなそうだと思うし……」

ステラは正行を見ていた。その瞳はあの日と同じ翠色をしていた。

「でも――大抵の人は誰かと思い出を分かち合えるわ。あなたにはそういう人がいないじゃない。一緒に悲しみを分け合える人が……」


確かにそんな人はいない。

「良かったら、お母様の事聞かせて。それくらいならできるから……」


――そういえば


ステラは葬儀の時も一人だけ長く祈ってくれていた。顔も名前も知らない正行の母のために。


「あ、写真――」

「シャシン?」

「写真なら、まだ見れるかも……」


思い出した。母のスマホには母と正行が映った写真が残っているかもしれない。まだ電池が残っていればだが。


「すごく正確な絵というか……向こうの技術なんだ。もしかしたら、まだ見られるかもしれない」

「見たいわ……正行がいいなら」

「――試してみよう」

正行は刀を鞘に収め、竜に手招きし、庭の入り口に控えていたジェインに声を掛け、部屋に向かった。


 自分のスマホはおそらくもう電池が切れている。向こうの病院にいた時、既に電池残量は残り少なかったはずだ。ただ、もしかしたら母のスマホはまだ電源が入るかもしれない。もちろん、入らない可能性も高いが、もし、見られるなら、最後に母の顔を目に焼き付けておきたい。早足で戻った正行は急いで棚から母のバッグを取り出し、母のスマホを探した。見つけたスマホは淡い桃色のケースに入っていた。画面は暗かったが、淡い期待を込めて電源ボタンを押し込んだ。二秒ほどして、画面が明るくなる。


「開いた……!」

 ステラは興味深そうに正行の手の中のスマホを見ている。右上の残量表示を見ると、残り十パーセント未満ではあったが、まだ残っていた。病院だったから電源を切ってあったのだろう。今日、気が付いた事に感謝した。あと数日経っていたら電池は完全になくなっていたかもしれない。正行は母のパスワードをタップし、ロックを解除すると、画像フォルダを開いた。そこには正行と名付けられたフォルダがあり、中には母と正行とで撮った写真が入っていた。


「これって……」

「写真。向こうの技術なんだ」

「本物みたい……綺麗な人……」


ステラやメリダの方がずっと綺麗だと思ったが、母を褒められたことはなんとなく嬉しかった。フォルダには何枚も画像が残っていた。高校の入学式、中学の卒業式、運動会、一度だけ行った旅行の写真……正行の剣道の大会の時の写真など、正行だけのものもあったが、母と撮った写真もたくさん残っていた。


 一枚見るたび、その時の母を思い出す。カメラを前にすると緊張する正行とは対照的に、写真の中の母はみな笑顔だった。母は、いつも明るく、元気だった。中学の最後の大会での写真もあった。正行が負けた試合の写真だったが、そこでも母は笑っていた。


 一枚、また一枚とかみしめるようにスクロールしていき、最後の一枚を見終えた時、フッと画面が暗くなった。


――電池がもう……


と、ステラがその両手で正行の左手を優しく包む。暖かく、そして、優しい。同時に自分の頬を温かいものが伝う感触に気が付いた。正行はこの国に来て初めて涙を流していた。



――お読みいただき、ありがとうございます。本作はカクヨムコン7に出展中の作品です。ご期待いただける方はぜひ★評価をお願いします。

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