一章 月夜の声 第三話

 既に日は落ち、夜の空には満月が出ていた。ふと、病院の近くにある稲荷神社を思い出した。幼い頃、母が満月の日に連れていってくれた。


――この神社は満月の日にお参りするとご利益があるのよ


そうだ。そう言われて、夜に参拝した事がある。あの時の母がいるような気がして、正行は神社に足を向けた。


 神社の周りは昔からの木が残る小さな森になっている。鬱蒼と茂る広葉樹の森の中、何かが出そうな真っ暗な夜道を歩くのは少し怖かったが、何かに出てほしいような気もしていた。生まれてこのかた幽霊にお目にかかった事はないが、この世に幽霊がいるのなら、母の魂も完全に消えるわけじゃないだろう。いるなら出てこいよ、と心の中で呟きながら歩く。木に囲まれた細長い山道を歩いていくと、少し開けたところにいつかの神社があった。鳥居に一礼して入っていくと、境内に石の腰掛けが見えた。


――狐さんは油揚げが好きだからね


この腰掛けで母とコンビニで買ったおでんを食べた事を思い出し、腰を下ろした。あの時より体が大きくなったためか、なんだか小さく感じられる。あの時は隣の母を見上げていたが、今、隣に座れば、母の方が自分を見上げるだろう。傍らに母のバッグと骨壺を置きながら周りを見渡したが、森に囲まれた神社は物音もなく、ただ静かに満月が照らしていた。


――俺はこれからどうしたらいい?


傍らに置いた母の骨壺に、正行は問いかけた。母は正行を育てるために必死で働いてくれたが、大した貯えもない事くらい分かっている。孤児院みたいなところに引き取られるのかもしれないが、孤児院なんて安っぽいドラマの中でしか見た事がない。どこにあるのかも分からないし、そもそも生活以前に葬式をどうすればいいのかも分からない。


 キリスト教徒じゃなかったはずだから、仏教式のお葬式になるのだろうが、流派やらなんやらもさっぱり分からない。高校生なんてもう半分大人だと思っていたが、やっぱり自分は何にもできない子供で、親に守ってもらっていたんだと実感する。


――前は早く大人になりたいと思っていた。


自分のために必死で働く母を見て、早く楽をさせてやりたいとばかり考えていた。とりあえず適当な仕事に就いて、たまに外食して、年に一回くらい旅行に連れてってやる、自分にとっては贅沢な夢だった。母がいないのなら、誰のために何をすればいいのかも分からない。どこかに就職しても、貰った給料で何かを買ってやる事はもうできない。いつか結婚するかもしれない。でも、孫の顔を見るはずだった人はもういない。しんどい思いをさせ続け、あげく謎のウイルスに母を殺されて、それでも何もできない自分が嫌になってまた涙が出そうになる。何もできなかった。何もさせてもらえなかった。


「――なんで死んじまったんだよ」


思わず声に出した。心のどこかで返事があるのを期待して。


(ゴメン……)


ぎょっ、としてあたりを見回した。誰もいない。が、確かに聞こえた。体が警戒し、心臓の鼓動が早まる。


「……母さん?」


言って耳を澄ます。


――母さんが出てきてくれたのならいいのに!


(ゴメンネ……。泣イテルノ見タ……)


――違う。母さんじゃない


だが、そうじゃないならこの声は何だ?


(コッチニ……)


「どこにいる?」


思わず答えてしまった。幽霊出てこいと思っていたが、本当に何かが出てくるなんて思ってもみなかった。


(乗セテアゲル……イッショニ飛ボウ……?)


「乗せてやる? お前は誰だ?」


返事はない。神様か、幽霊かは分からない。何を言っているかもよくわからない。恐れるべきかもしれなかったが、一瞬、母を期待したのに裏切られたという気持ちが強かった。


――俺は、母さんの死に目にも会えなかったのに!


正行は立ち上がった。


「どこにいるって聞いてんだろ! 出てこいよ! 姿を見せろ!」


怒りのままにそう叫ぶと、自分でも驚くほど周りに響いた。


一瞬の静寂――突然、周りがぐにゃりと歪んだ。


地面がぐらぐらと揺れ、空気が軋み、両耳をつんざくほどの轟音でゴォーという音が響く。


――地震だ!


と気づき、咄嗟に傍らの骨壺とバッグを抱きしめたが、跳ねるように揺れる地面は簡単に正行の身体を宙に放り出した。頭から石畳に叩きつけられそうになり、正行が空中で体を硬直させたその時、また、あの声が聞こえた。


(来テ……)




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