一章 月夜の声 第二話

 起きるともう夕方に近かった。よく、亡くなった人が夢枕に立って――などという話があるが、夢なんか見なかった。いや、もしかしたら、夢を見ていたのかもしれない。普通、肉親が亡くなったら、誰でも涙の一粒くらい流すものだろう。でも、枕はこれっぽっちも濡れていない。昨日の病院からの電話は自分の不安が呼び起こした夢だったのかではないか。そもそも昨日の電話の声が男性だったか女性だったのかも覚えていないのだ。あれが夢だったのなら、それも辻褄が合う。


――一度、病院に電話を


そう考えてスマホを手に取った時、手の中でブルルと振動がした。


――ああ、この振動は昨日も……


通話ボタンをタップする。どこかで聞いたような声が響いた。


「市民病院の者です。お母さまのご遺骨が火葬場より戻ってまいりました。疾病対策のため、最後にお会いさせてあげられず申し訳ありませんでした」


本当に気の毒そうに言った女性は、落ち着いたら母の遺骨と遺品を引き取りにくるように求めた。


「……今から、行きます」


それだけ言って通話を切り、ぼんやりと手の中のスマホを見つめる。


 心と頭と身体がバラバラに切り離されてしまったようで、なんとなく悲しくもあり、同時に無感情でもあり、身体に力は入らず、目に映るものもどこか焦点が合わない。唐突に「自失」という文字が浮かんだ。さらに二文字、茫然という文字が浮かび、ああ、これが――と理解した。


 手の中のスマホの画面が暗くなる。


――あ、行かないと


思い至り、のろのろと立ち上がったが、ふとどうやって行こうかと考えた。病院は町の外れの山の上にある。当然、車は使えない。バスで遺骨を運ぶのはなんだか嫌だった。結局、あまり使った事のないタクシーで行く事に決め、アパートを出て、駅まで歩くと、一台しかいない客待ちのタクシーの運転手は昼寝をしていた。ノックしてタクシーに乗り込み、市民病院へ、と伝えた。




 病院の入り口には どこかで見覚えのある中年男性と一人の看護師が待っていた。


「正行君、久しぶり。こんな事になってしまい、大変ご愁傷様です――」


この人とはいつか会ったような気がする。確か母の上司で、話した事もあったような――

 彼はそっと正行の肩に手を置く。それがどんな意味なのか分からず、戸惑っていると、その人は続けた。


「……お母さんはもう戻ってきてるから、看護師さんと一緒に引き取っておいで。病院の手続きなんかは僕がやっておくから、お母さんに会いに行ってきなさい」


 その人はそう言うと、隣の看護師に母のところまで連れていくよう促した。看護師は行きましょう、とだけ言って、正行を導くように歩き出した。


 地下に降り、薄暗い廊下を歩いていくと、廊下の一番奥の棚にプラスチック製の籠が見えた。籠の中には見覚えのある服。

 看護師は籠の中の服とバッグを正行に渡すと、少しここで、と一礼して、横の部屋に入っていった。すぐに出てくると、見慣れない円筒形の小さな壺と、同じく小さな巾着袋を持っていた。彼女は目を合わせない。


「お母さまのご遺骨になります。それと、お母さまが身に着けていらした指輪です」


と小さく言って、壺と巾着袋を正行に手渡した。陶器で出来たその壺は小さく、しかも、見た目よりもずっと軽い。巾着袋には母の結婚指輪が入っていた。何の飾りもない銀の指輪で、失踪した父が贈ったものだったが、母は父がいなくなってからもずっと身に着けていた。


「この書類にサインを頂ければ、お引き取りの手続きは終了となります」


看護師はそう言って、一枚の用紙を出した。無言で名前を書き、まだ何か言いたそうな、でも、何を言うべきか迷っているような顔の看護師にありがとうございます、と頭を下げて、狭い通路を戻った。


 ――次にこの病院に来るのは、母さんが退院する日だと思っていた


母がこの世からいなくなる事も、二度と会えなくなるなんて事も考えもしなかった。母がウイルスに感染したと知ったのはどれくらい前だっただろうか? 思い返してみたら、それはわずか数日前の事だったと気づき、正行は少し驚いた。感染が明らかになってから、一週間も経っていない。


 ――あの時の母さんは元気そうな声だった。


俺の夕食の心配をしていた。いつだってそうだった。母さんはいつも俺を心配していて、心配していない時は明るく笑っていた。料理を作っている時、母さんは楽しそうだった。多分――俺がうまそうに食べる顔を想像していた。母さんの作る料理はうまかった。


――ああ、そうだ


部活の試合に応援に来た母さんは誰よりも大声で応援してくれていた。俺がやっていたのは剣道だったのに――

剣道の試合であんなに大声で応援している人なんて母さんしか見た事がない。俺が勝った時は自分の事のように喜んでいた。相手が強かろうが弱かろうが、いつも同じように喜んでいた。負けた時は残念だったねえと笑って、焼肉に連れていってくれた。焼肉はそんなに好きじゃなかったが、肉を食べれば強くなる! と言って、いつも食べきれないほど頼んでくれた。


 中学の卒業式では泣いていた。子供の俺はただ時期が来たから卒業するだけだとしか思っていなかったが、母さんは目を真っ赤にしておめでとうと言ってくれた。あまり怒ったり笑ったりしない自分とは対照的に、母さんはいつも表情に溢れていた――


 記憶が溢れてくるのが止まらない。母の表情が、声が、仕草が湧きだして止まらなくなった。気づけば、正行の目からは涙が流れていた。母が死んだと聞かされてから、初めて感情が湧き上がってきていた。涙は止まることなく零れてくる。泣きながら歩き、歩いては泣き、正行はいつの間にか病院の外に出ていた。


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