かの国にて竜翼は開く

かっつん

一章 月夜の声 第一話

 二〇二〇年冬。中国武漢で発生した新型肺炎ウイルスは、発見からわずか数か月のうちに全世界に拡大した。陰では「もしや軍事利用を目的とした生物兵器なのでは?」という噂が囁かれるほど、強力な感染力を持ったこのウイルスは、各国政府の想定を軽々と上回り、効果的な打開策を見出せぬまま、人々はかつての日常を失った。毎日のニュースで報告される感染者数は一向に収束する気配もない。




 鷹見正行の生まれ育った岐阜県山間部にある人口四万人ほどの小さな市は、これまで世の中の喧騒とは、ほぼほぼ無縁と言って良い田舎町だったが、そんな田舎町にもいつの間にかウイルスは侵入したらしい。


正行が通う高校でも、誰それの親が感染した、あのスーパーで発生したらしい、などとうわさが飛び交い、高校二年の始業式が終わったばかりだというのに、早くも学校閉鎖となってしまった。


 剣道部の選抜選手に選ばれ、春の大会を控えていた正行にとって、この学校閉鎖は少し残念でもあったが、元々あまり熱心に部活に取り組んでいなかった正行はすぐに気持ちを切り替えた。


――どうせ剣道なんてプロがあるわけじゃあないしな


正行は思う。小学校の頃から地元の剣術道場に通ってはいたが、本当はバスケがしたかった。ただ、この呑気で寂れた田舎の中学にはバスケ部がない。バスケなんて試合人数が五人、控え含めて十人もいればなんとか試合をできるだけの人数が揃うにも関わらず、昨今の少子化のあおりを受けて正行が入学する前に既に廃部となっていた。正行の通っていた中学には部活動全員参加というルールがあり、全員がどこかの部活には入らなくてはならない。正行は仕方なく、中学では剣道部に入った。


 無駄に格式ばっていて、古臭い上下関係というのも好きにはなれなかったが、ぼちぼちと稽古に精を出し、中学卒業時には身長も一七五センチまで伸びた。これくらいなら初心者でバスケ部に入ってもぎりぎりやっていけるだろう、そう思って高校に入学したら、なんと正行が入学したその年、学年最初の会議でバスケ部廃部が決まってしまった(なんでも卒業と退部で男子部員が二人になってしまった――と後で聞いた)。


 おいおい、マジかよ――とは思ったが、さすがに初心者一人でバスケ部を再び立ち上げるのは自信がない。正行は帰宅部になって放課後はバイトでもしようと考えたが、ここで母の思わぬ反対に遭った。生まれてこの方、勉強しろ、などすら言った事がない大らかな母だったが、なぜか、高校でも剣道をやればいいじゃない、と強く推し、結局、高校でも剣道部に入る事にした。




 その電話がかかってきたのは、学校閉鎖が終わって、ようやく高校二年生がちゃんと始まったころだった。


「ごめんね。職場で感染した人が出ちゃって、お母さんも罹ってる可能性が高いんだって」


母だった。これから検査を受け、結果次第では明日帰れると言った母は、冷蔵庫に入っているいくつかの食材と、高級アイスの買い置きがある事を正行に伝え、電話を切った。


 ウイルスは確か中国で発生したとニュースでやっていた。正行が初めてそのニュースを見たのは、半年ほど前だったろうか。その時はこの町にも感染者が出るなんて思いもしなかった。


 山と田んぼ。この町にあるのは、ほとんどそれだけである。この町発祥の和菓子が少々、有名らしいが、旅行者が来ることはほとんどない。外国で発生した未知のウイルス騒動にしたって、どうせ正行には関係のないところで広まって、いつの間にか収束し、何事もなかったかのように終わるのだろうと思っていた。


 そんな中、母から聞かされたこの報せには驚いたが、それでも正行は楽観的であった。のんびり屋なのは、おそらくこの地方の気質である。二十一世紀の日本にしては珍しいくらいのどかな町。三階建て以上の建物はほとんどなく、遠くを見やればどこかに必ず山が見える。電車は三十分に一本しか通らず、少々、学校に遅刻したところで、とやかく言われる事もない。


 とりあえず学校はしばらく休む事になり、翌日、母の着替えやスマホの充電器などをバッグに詰め込み、山の上にある市民病院へと向かった。

 この町は人口が四万程度しかいないわりには、やたらと小さな病院が多い。その理由の一つは、大きな病院がこの市民病院一つしかなく、その市民病院もなぜか町はずれの山の中にあるからだ――と正行は思う。二時間に一本しか通らないバスに乗り、無人の車内で好きな席を選び、細長い山道をバスに揺られて病院に向かう。


町から病院までは何もない山道である。神社、お墓がところどころにあるくらいで、ほとんどは田んぼである。何にもない道端に時々錆びついたバス停が立っているが、そこにバスを待つ人はいない。乗ろうとする人も、降りようとする人もないバスは、結局、途中のバス停には一度も停車しないまま、三十分ほどかけて、終点である市民病院に着いた。


 黒々としたアスファルトの駐車場、山の中に違和感を備えてそびえたつ直線と直角で形作られた巨大な建物、にも関わらず、患者や見舞いらしき人影はほとんど見えない。このどこかに母がいるのだろうと思いながら、受付に行くと、すぐに呼ばれた。担当医と名乗った三十代くらいの医者は、お母さんは陽性でした――と告げた。


「二週間の隔離入院となり、症状が出なければ、七十二時間の観察を経て退院となります」


「どういう病気なのか、よく知らないんですが、母は大丈夫なんですか?」


口にしながら、間の抜けた質問だと思ったが、眼鏡をかけた穏やかそうな医者は笑って答えてくれた。


「陽性ですが、今のところ症状は出ていません。まだお若いですし、このまま無症状で終わるかもしれません。ご持病もないので、症状が出ても悪化する可能性は低いと思いますよ」



 そう言われ、とりあえず安心した正行は、念のため自分の検査も受け、母の荷物を看護師に預けて、自宅に帰った。夕方、電話をかけてきた母には、食事は自分で作れるから心配しなくていいと話した。あんたパパに似て料理うまいもんねえ、と母は陽気に笑ったが、顔も憶えていない父親の料理なんか分かるかよ、と笑い返し、電話を切った。


 電話の母は明るく、咳もしていなかった。ニュースで見る死亡者は、高齢者が大半である。無症状で隔離入院するだけ。母一人子一人。ずっと二人暮らしだった正行は、母の入院中、しばらく一人を満喫できる。やりたかったゲームや読みたかった漫画は、この前の学校閉鎖の時に粗方、終わらせてしまっていたため、夜は少々、暇だったが、ネットで時間を潰して過ごした。


 翌日、母から症状が出たと電話があった。無症状という話だったはずだが……とは思ったものの、熱はそれほど高くなく、多少の咳は出るが、風邪とそんなに変わらないらしい。お母さんの事は心配しなくていいから、好きな事やってなさい――そう言われて電話を終えた。母が言うには、軽い咳と、三十七度程度の発熱。


――なんだ、本当に風邪みたいなものか


都会の連中は何を大騒ぎしているのかと思いながら、その日は寝た。



 翌日は朝から適当に時間を潰しながら過ごし、適当に食事をしていると、母から電話があった。電話越しの母は、確かに咳はしていたが、声にはハリがあり、テレビを見ているだけで退屈だと言っていた。いつも忙しく飛び回っている母には、ベッドでじっとしているなんて本当に退屈なのだろう。そう言えば、正行は食事中以外で母が座っている姿を見た記憶がほとんどないような気がした。母は仕事、家事、さらに友達付き合いにも積極的で、平日も休日もいつも動き回っていたような気がする。


 たまに正行が皿洗いでも手伝おうとすると、「男の子が台所に立つもんじゃないの」などと言われ、台所から追い出される。時々、食べたいものがあれば、スーパーで食材を買ってきて、母のいない隙に勝手に料理をしたりもするが、食べ終えた皿はわざと流し台の中にそのまま置くようにしていた。そんな古風、と言うより、もはや時代遅れな母に、今は二十一世紀だぞ、と思ったりもしたが、ありがたく甘えていた。


 その翌日は、母からの電話はなかった。代わりに病院から、症状が急変した、と電話があった。集中治療室に移し、万全を尽くします――そう言われた時、正行は初めて「怖い」と感じた。今まで十六年間生きてきて、怖いと思った事はなかった。いや、子供の頃はオバケが恐いとか、中学の上級生を恐いと思った事はあったが、それらとは全然、種類が違う。


 自分には母しかいない。父親は自分が幼い頃に失踪した――と聞く。母方の祖父母は既に亡くなっており、父方の親族とは会った記憶もない。何かにつけ構ってくる母を鬱陶しいと思う事も時々はあったが、自分が母を好きだという事は自分自身、認識していた。


 いなくなってほしくない。何も返せていない。旅行に行きたいなら、金を稼ぐし、孫の顔が見たいというなら、いつか結婚もする。だから、それまで元気でいてほしい。正行は今まで信じた事がない神様に祈った。


 さらに翌日は電話がなかった。病院からも、当然、母からも電話がない。何も手につかず、とりあえず、冷蔵庫にあるものを食べたが、洗い物をする気にはなれず、ほったらかしたまま、布団に入った。しかし、眠る事ができない。家にいつもいる誰かの気配がないというのが、怖いものだと初めて知った。明け方ようやくうとうとしかけた頃、急にスマホが鳴った。まだ日も明けきっていない。午前5時の電話なんていい事であるはずがない。出たくない。出たくないが、出なくてはいけない事も解っていた。電話は病院からだった。


「お母さまがお亡くなりになられました。手は尽くしましたが……申し訳ありません。このまま火葬へと――」


 どんな声だったかも、どんなトーンで言われたかも覚えていない。母が死んだという事実のみが脳に残った。そこから何分か、十分くらい話したかもしれない。正行はいつの間にかスマホを手に持ったまま、眠ってしまっていた。


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