第6話

 旅の途中茶屋に立ち寄ると、町人たちの噂話が聞こえてきた。

 「聞いたかい、あの十本指が負けちまったってよ」

 「ホントかよ? どこぞの阿呆が大ボラ吹いてるんじゃなくてか?」

 「ああ、どうやら本当らしい。おりゃあ、よく古都まで積荷を運ぶんだが、古都じゃあ今はその話でもちきりよ」

 「へぇ~、そいつが本当だとしたらエライ話だな」

 「しかも、二人も十本指に勝っちまったらしい」

 「ええ⁉ おいおいそれこそ冗談だろう? 十本指が二人もかい?」

 「嘘じゃねえぇさ。名前だって広がってる。今じゃ天下一の昇り龍と称されてる佐々木 小次郎と、何とコチラがびっくり、もう一人は女剣士だって噂だぜ」

 更に話を聴いた他の客たちも興味を惹かれたのか、町人を囲う人だかりが増えていく。

 「飛ぶ鳥を落とす勢いの女剣士、その名も宮本 武蔵、というらしい」

 「武蔵~⁉ そいつぁ、ホントに女の名前なのかい?」

 「あぁ、そうらしいね」

 「光王様お抱えの十本指に勝つ女剣士がいるとすれば、ソイツは相当なゴリラ女だろうよ」

 向かいの男がゲラゲラと笑い声を上げた。 

 「いやぁ、俺も最初はそう思ってよ、街の連中に聞いてみたんだ。そしたらどうだい、その武蔵とか言う女剣士、古都の遊郭どもも気後れしちまうほどの美人らしいじゃねぇの」

 「なに⁉ この国一の遊女どもが?」

 「いやぁ、話が脱線しちまった。本当に大事な話はここからなんだよ」

 煽るような喋り方に、周囲の興奮はさらに過熱する。それを見計らって町人は口を開く。

 「その佐々木 小次郎と宮本 武蔵の二人が、次の十本指の席を巡って決闘するらしいのよ」

 おおーっ! という歓声が周囲からどよめいた。

 「いったい、何時何処でやるんだい‼」

 誰もが鼻息荒く詰め寄り、落ち着けと宥めてから町人は続けた。

 「三日後、十本指数人が立会の元、離れ小島にある巌流島、という所らしい」

 そこまで話を聞いてから、沢庵は勘定を残して席を立つ。

 鈴の付いた錫杖を打ち鳴らし、暖簾をくぐる。瞬間、眼を焼くような日差しに、きゅっと眼を眇め、雲一つない空に向かってポツリと呟いた。

 「元気にやっとるようだな」

 

◇◇◇


 もう一人の候補者として名前が上がった女剣士・宮本 武蔵についての情報はそう多くない。

 十本指の一人 牛若丸に勝利した小次郎と小雪は、三日後の決闘に備えて、用意された宿に滞在していた。古都でも指折りの宿屋らしく、次代の十本指を一目見ようと押しかけてくる野次馬たちも宿の女中たちが押し留めてくれている。おかげで三日後の決闘に備えて落ち着いて準備を進められる。その間、小雪にできることと言えば、庭先で剣を振るい続ける小次郎を黙って見守ることくらいだった。

 普段、クスリとも笑わない小次郎だが、剣を振るっている時だけは別だ。額から滝のように滴り落ちる汗がキラキラと宙を舞い、その顔には喜びが満ち溢れている。

 その光景は許嫁である小雪にとっても喜ばしいことなのに、何故か素直に喜べずにいた。

 小雪は戦う術を知らない。

元々、病弱な体のせいで外を自由に走り回ることもできない。

古都までの旅路も、小雪にとっては奇跡としか言いようがなかった。道中、何度も意識が飛びかけ、その度に小次郎の足手纏いにだけはなりたくないという一心で、己を奮い立たせてどうにかここまで辿り着いた。そんな事情故に、小雪はいつも小次郎と剣を交わすことのできる相手に対し、嫉妬のような感情を抱いていた。

それがましてや相手が女だというのなら尚更。


 「‥‥‥き‥‥‥ゆき‥‥‥小雪‥‥‥‼」

 微睡みの中、聞こえてくる耳に心地よい声音。そっと閉じていた瞼を空けると、心配そうに顔を覗き込む青年の顔が、吐息を感じられるほどの距離にあった。

 慌てて起き上がると、すぐ後ろの柱にぶつかった。

 「っっっ…~~~~~~‼」

 声にならぬ苦悶の呻きが洩れる。

それを見た小次郎はくつりと喉を鳴らす。

 「相変わらず、せっかちだな、雪は」

 目尻に涙を浮かべながら微笑する小次郎を憮然と睨みつけ、

 「揶揄わないでくださいませ」

 「いやぁ~、すまんな。だが‥‥‥しかし‥‥‥」

 必死に笑いを堪えようとしていたが、忍び笑いだけは隠しきれていなかった。

 「もういいです! それに‥‥‥いいんですか? 私の相手をしていて」

 「ん? どういう意味だ?」

 「以前の小次郎さまなら、戦いの前に雪と口をきいて下さらなかったではないですか」

 悄然と俯く小雪の頭に、ぽんと優しく手が乗せられ、そのまま撫でられる。

 「‼」

 「雪には苦労ばかりかけるな。すまん」

 「そ、そんな‥‥‥。私は、迷惑だなんて一度も思ったことは‥‥‥」

 顔を上げようとした小雪を制するように、小次郎が小雪の背に手を回した。

 「こ、小次郎さま、一体何を⁉」

 「雪はあったかいな」

 「こ、小次郎さまの方こそ‥‥‥、あたたかいです」

 「なぁ、覚えているか、俺たちが初めて出会った時のことを?」

 「当然ではないですか。忘れるはずがありません」

 急にどうしたのだろうか? 小次郎さまの方からこのような話を振ってくるなんって、これまで一度もなかったのに。

 「いやぁ、つい思い出してな。ふふっ、決闘を前に臆しているのかもしれん。今度の相手は、強い。会ったことはないが、そんな気がする」

 「大丈夫ですよ。小次郎さまなら」

 「ほほう、なぜそう言い切れるのか聞かせてもらおうか?」

 「だって‥‥‥、だって雪がお側におりますから!」

 その言葉に小次郎はしばらく目を丸くして固まっていた。

でもそれは小雪も同じで、なぜそんな大胆なことを言ってしまったのか、言い終えてから後悔するハメになった。しかし、小次郎はフッと苦笑し。

 「そうか‥‥‥、そうだな、俺には雪がいる。だから大丈夫だな」

 「ええ、大丈夫に決まっております。雪の夫は、天下一の剣士ですから!」

 全てを失くし、全てが始まったあの日から、私たちは共にここまで来たのだ。

 「勝ちましょう、小次郎さま。そして先生の元に一緒に」

 「ああ、早く自斎の所に帰ってやらないとな」

 

◇◇◇


 決闘の日、早朝。

凪はいつもより早く眼を覚ました。

 遠くから聞こえる鶏の鳴き声、襖一枚隔てた向こう側には、国中が注目する決戦を控えた女剣士が寝息を立てている。物音を立てぬようにそっと襖を開き、中の様子を伺う。

六畳一間の和室。そこに敷かれた布団の上で豪快に両手両足を広げながら寝息を立てている天華のいつもと変わらぬ姿に思わず笑みが零れた。

 そっと襖を締め、そのまま足音を殺しながら台所の方へと向かった。

 旅を始めてからの天華の食事の用意は凪にとって大事な仕事である。

ああ見えて天華は味にはうるさく、味噌も赤より白を好むし、焼いた魚も塩を振る量を誤ればすぐに不機嫌になる。他にもいくつか注意すべき点はあるが、最後は美味いといって残さず食べてしまう。そんな彼女の姿が愛らしく、凪は料理を作るのが苦ではなかった。

 まだ陽も登りきらない中、厨房には数人の見習い調理人が仕込みの準備を始めていた。

 宿泊するようになって五日目、もうすっかりその時間の調理場に凪が訪れること慣れてしまった調理人たちへ、手短に挨拶をすませ、早速、朝食の支度に取り掛かった。

 芋の皮むきをしていると、とんとん、という小気味いい包丁の音を立てる調理人たちから声を掛けられた。

 「いよいよ、ですね」

 「正直、天ちゃんより私の方が緊張しちゃって昨日はあまり眠れなかったです」

 そんな凪のネガティブジョークに、周囲からどっと笑い声が起こる。 

 「でも実際、どんな方なんですか、天華さんって? 自分らは、ここからあまり外に出られないんで、まだ見たことないんです。女中の連中が、凄い別嬪だって噂していましたけど」

 「確かに天ちゃんは美人ですよ。天ちゃんの魅力を語れと言われれば、三日三晩あっても語り尽くせない程に。だけど、剣士としての天ちゃんを語るには言葉じゃ言い表せません」

 「と、言いますと?」

 「天ちゃんほど奇想天外で、自由奔放、天真爛漫な人は他にいませんから。剣を振るうこと、戦うこと以外に興味がない。普通の人ならブレーキをかけるような場面でも、天ちゃんは迷わず突っ込んでしまう。抜身の刃、っていう表現はちょっと違うんですけど‥‥‥。まるで、抜身の刃物で遊ぶ子供、みたいな感じなんです」

 「なんだか、聞いているだけで只者じゃないって感じがしますね」

 「そうなんですよ。只者じゃないんです、ウチの天ちゃんって。でも、だからこそたどり着けると思うんです。天ちゃんが目指してる、遙かな高みに」

 丁度その時、料理長が現れ、楽しげだった空気は一変した。以降、誰もそれ以上口を開こうとする者はいなくなった。その間に凪は、天華の朝食の準備を着々と済ませていくのだった。


 既に起きなければならない時刻を過ぎても天華が現れないことを怪訝に思った凪は、彼女の寝所に続く襖を許可なく開けた。しかしそこには空の布団が残るのみで、部屋の中を見渡しても天華の姿は何処にも見当たらなかった。

 と、その時。

 「おーい、凪。こっちだ、こっち」

 声がする方へ振り向く。捜していた相手は庭先にある小さな池を覗き込んでいた。

 「もー、天ちゃん何してるの? 早くしないと遅れちゃうよー」

 「ああ、ちょっと考え事してた」

 「考え事?」

 池の側に歩み寄り、天華と並んで池の中を覗き見る。

 「ひょっとして、緊張してる?」

 「‥‥‥まぁ、さすがにな」

 凪の知る限り焔 天華ほど緊張と縁遠い存在はいない。

しかし、傍らで池を見つめるその姿は、年相応に打たれ弱い十六歳の少女である。

 凪は足元に転がっている小石を一つ摘まみ上げ、溜池に放り込んだ。

ぽちゃん、小さな水音と波紋が広がり、やがて消えた。

「ねぇ、天ちゃんは自分を、さっきの石と水に例えたらどっちだと思う?」

質問の意味が解らず、さりとてふざけている風にも見えない凪の問い掛けに、天華は黙考の末に、誠実に考えを口にする。

 「両方かな」

 「その心は?」

 「これまでの私は、石だったと思うんだ。どんなに広くて深い水の中にも迷わず飛び込んでいく、みたいな感じ。だけど今は、うまく言えないんだけど、何が来ても受け止めきれる、そんな気がする。だから水かなって」

 誤魔化すように笑う天華の左手を、凪が優しく握り締めた。

 「天ちゃんなら、大丈夫だよ」

 「‥‥‥ったく、凪には敵わないな」

 ニッと破顔する天華。その背に腕を這わせ、耳元で短く激励の言葉を口にする。

 「天ちゃん。頑張って」

 「嗚呼、頑張ってくる」

 

◇◇◇


 大和西方に位置する長門から、小舟で半刻ほど離れた小島が、次期十本指が選抜される決戦の地として選ばれたのが『巌流島』である。

 普段は漁師たちも休憩地として立ち寄るその島は、この日は完全な貸しきられ、当事者及びその関係者以外は誰一人近寄ることも、上陸することも固く禁じられていた。

 それでも長門の沖合には、国中を騒がせる世紀の決戦を一目見ようと大勢の見物人が詰めかけていた。無論、観衆の目的は、武蔵と小次郎だけではない。

普段、一堂に会することのない十本指を見るためである。

既に立会人として数人の十本指が島に上陸したと聞きつけた人々が浜に押しかけていた。

 巌流島に併設された仕合会場の立会人席には、元々、招集されていた宗矩、半蔵、与一の他に、一刀斎、牛若丸、弁慶、胤舜と総勢七名もの十本指の姿が並んでいた。

 無論、これは招集されたからではなく、単なる興味、関心があるが故の行動である。

 にも関わらず用意された三名分の座椅子を巡って一悶着が起こり、左から一刀斎、真ん中に宗矩、右には牛若丸、という順で座っている。

 「なぜ、勝手に参加したお前らがその席に座っている‼」

 そんな忍頭の怒髪天にも屈せず、鼻をほじりながら、だらしなく寝そべる一刀斎が応えた。

 「別にいいじゃねぇか、細けェことをネチネチと女みてェによ、だからお前ェはモテねぇんだよ」

 「そうだ、そうだ! 僕も前から一刀斎さんと同じこと思ってましたよ! 半蔵さんって、ミカン食べる時、絶対ヘタとか剥かないと食べられない人でしょ」

 一刀斎の暴言に、牛若丸が便乗する形で乗る。ビキッ、という太い血管が切れる音が半蔵から鳴り、それを察した与一が柔らかい微笑みを浮かべながらフォローする。

 「あらあら、私は半蔵さんのそういう、細かなところ結構好きですよ」

 「にゃははは、与一さん、それフォローになってないよ!」

 我慢できないと、腹を抱えて笑い転げる牛若丸に、ついに半蔵の堪忍袋の緒が切れた。

 「ええい、この小童め! お前は前々から目上の者に対する言葉遣いや態度がなっとらんと思っておったのだ! その腐った性根ごと叩き直してくれるわ‼」

 「やれるモンならやってみなよ。それにどっちが十本指最速か、ここで決めとくってのも悪くないしね」

 くいくい、と人差し指で呷る牛若丸が居た場所に短刀が突き刺さった。

 「あっぶねぇ~、八艘跳びが間に合ってなかったら怪我してたよ、いやマジで!」

 「ええい、黙れ! そして覚悟しろ、小童‼」

 「全く、半蔵さんも相変わらず気が短いですね」

 与一がため息をつく隣で、巌の如く鎮座する弁慶。その隣では、本来は療養中の身である胤舜が、全身を包帯でグルグル巻きにされた胡坐を組み、二人の、音速の喧嘩を見物していた。

 「ガハハハハハ‥‥ッ! やっぱ祭りってのはこうでなくっちゃな! なぁ宗矩の爺さん」

 半蔵と牛若丸が暴れる傍ら、静かに座し茶を啜る宗矩に、一刀斎が声をかけた。

 「それにしても、爺さんが推薦した武蔵とやらは一体何時になったら現れるんだ? もうとっくに約束の刻限を過ぎちまってるぞ」

 「ほっほほほ、この程度は想定済みよ」

 一刀斎の言うように、武蔵は刻限を過ぎても一向に現れようとしない。

もう一方の佐々木 小次郎は既に控えの間で待機している。

 「へっ、まさか、怖気づいちまって逃げたんじゃねェのか?」

 「そいつはねぇっスよ、一刀斎の旦那」 

 「ほ~う何だ、胤舜? 負けちまってずいぶんと丸くなったじゃねェか~? 元々、頭は丸かったけどな、ガハハハ‼」

 「そんな風に笑っていられんのも今の内っスよ」

 「ほ~う、ずいぶん生意気な口を利くようになったじゃないか、青二才」

 「いえいえ、偉大なる大先輩相手に俺みたいな若輩が物言えるワケねぇっス。ただ、ひとこと言わせてもらうなら、あそこに座ってる旦那の推薦人より武蔵の方が強い剣気を纏ってのは間違いないっスよ」

 「なら、いっちょ賭けるか?」

 「望むとこっス」

 「他のお前ェらはどうするよ?」

 「あっ、僕は小次郎さんに一票!」

 一瞬姿が掻き消えた牛若丸が、すたっ、と着地するなり答えた。

 その後ろでスッと沈黙を貫く弁慶が手を上げた。

 「弁慶も、小次郎さんみたい!」

 ひと言も喋らずに、どうやって意思疎通を交わしているのか解らない主従関係である。

 「なら、私は武蔵に一票。武芸者として彼女には完敗しているもの」

 艶やかにほほ笑む与一。

 「‥‥‥拙者は‥‥‥、チッ、忌々しいが小娘の方だ」

 「クックッ、ほんと半蔵さんって素直じゃないよねェ~」

 「まだ言うか小童ぁ‼」

 再び再開された諍いを尻目に、一刀斎は残る宗矩へと問う。

 「さぁ、後はアンタだけだぜ爺さん。今のとこ三対三だ? さぁ、どうするよ」

 決断を迫る一刀斎と、剣聖の答えを静かに聞き入る他の面々。

 そして―――宗矩が答えようとその時、ザッ、と一同の前に姿を現した黒い忍者装束の男。

 「ご歓談中、失礼いたします。たった今、宮本 武蔵殿がご到着なされた模様」

 その報せは、控えの間で待機する小次郎の耳にも届けられた。

 

 天華が巌流島に到着したのは、予定されていた時刻より二時間遅れた後だった。

 燃えるように紅い小袖に身を包み、腰には大小の二本の刀を佩いている。

 沖を悠々と歩くその姿に、遅参したことを詫びる様子は欠片も見受けられない。

 観覧席に座る十本指の面々。その正面へと歩み寄るや。

 「遅れて悪い」短い謝罪の言葉を口にする。

 天華の後を、散歩でもするような軽い足取りで歩く凪がぺこりと腰を折って一礼する。

 無作法に過ぎる天華一行の態度を、半蔵と小雪以外の面々は、珍獣でも見つめるように繁々と観察している。そんな十本指を代表して、立会人代表である宗矩がスッと腰を上げた。

 「随分と、支度に手間がかかったとみえるな」

 「まぁ、これでも一応レディーなんでね、支度には色々と手間取るのさ」

 ニヤリ、と悪童めいた笑みを浮かべる天華。しかし異国の言葉を知らぬ大和人は、天華の口にしたレディーという言葉の意味が解らず怪訝な顔をしている。唯一人、与一だけがクスクスと忍び笑いを洩らしていた。

 そして―――、天華は沖合いで静かに佇む剣士へと向き直る。

 「待たせたな――――玲」

 本名を呼ばれた銀髪の剣士。満月 玲の口元にフッと笑みが浮かぶ。

 「いや、俺は待っていなかったよ、天華」

 それは、二ヵ月前の路地裏以来の再会であり。

 天華にとっては、四年六か月、玲にとっては七年ぶりの再会である。

 発せられた言葉とは異なる二人だけに通ずる意思の疎通に、その様子を観覧席から見つめる一同は何を話しているのか? と、怪訝な様子だった。ただ許嫁が他の女と何やら通じ合っている姿を白衣の少女はヤキモキしながら見つめ、舞子の少女は微笑まし気に眺めていた。

 対峙する武蔵と小次郎。

 否―――天華と玲。

 自然、その足が前へと進み始める。

 「二か月前の借りを返すよ」

 空気を震わせるような荒々しい剣気を受けて、玲は不敵に微笑した。

 「よい、剣気だ。ならば俺も―――抜くとしよう」

 言うや、玲も背に吊った鞘から刀を抜き放つ。

 長い、改めてそう思った。

物干し竿と揶揄されるその刀は天華の背丈を凌ぐほどに長い。あんな長物を一体どうやって振り回そうというのか?

 そんな疑念も、直後。玲から発せられる清廉な剣気によって掻き消された。

 「双方、準備はいいな?」

 観覧席から審判役の宗矩の声が沖に響き渡った。 

 「それでは、いざ尋常に――――始め!」

 開戦の宣言とともに、二人は地を蹴った。

 

◇◇◇


 小雪は、驚愕にただ息を呑んでいた。

 眼の前で繰り広げられる戦いの凄まじさに。

 両者共に手にするのは一振りの刀のみ。

しかし、閃く剣尖が空間というキャンバスに白銀の軌跡を艶やかに描き、それが激突する度にオレンジ色の火花が華やかに彩っていく。

 永遠にも思える時間の中、響き渡る剣戟音とその衝撃が、宙を薙ぐ剣風が、小雪の濡羽色の髪を激しく揺らした。

 二人の達人が織りなす超高速の剣舞は肉眼では捉えきれない。

 小次郎が羽織る、背に藤色の桔梗が刺繍された直垂(ひたたれ)。それ以上に派手な武蔵の真紅の袴、大小二本の刃が入れ替わる度にびりびりと空気は震撼し、衝撃と火花が巻き起こる。

 悔しさにきつく噛みしめた奥歯がきりりと痛んだ。

 小雪では、決して足を踏み入れることの出来ぬ世界。

 その事が歯痒く、こうして見守ることしか出来ぬ己の無力さが恨めしかった。 

 「ほぉ~、あの嬢ちゃん中々の手練れじゃねェか!」

 「まだまだこれからっスよ!アイツの本気はこんなもんじゃねえっスから!」

 興奮気味に叫ぶのは、体のいたる所を包帯でグルグル巻きにされた若い僧侶。それに対して耳障りな太い笑い声で応じているのは、小次郎を武者修行の旅に誘い込んだ一刀斎だ。

 「ガハハハ、そいつは小次郎も同じことよ!」

 「そうだよ、胤舜。小次郎さんの剣はもっと早いよ!」

 桜髪の少年・牛若丸が言葉を重ねる。

 「それにあの二人‥‥‥、さっきから何やってるわけ?」

 「遊んでおるのだろう。二人の剣には未だ余力を感じられる。それにしても何と相性のいい者同士であろうか。刀が―――互いの魂が共鳴しておるようだわい」

 「魂?」

 胸の奥に鋭い痛みが奔った。この痛みの正体ならもう判っている。

 そちら側に行けずとも、せめて理解したい。それすらも出来ないことが悔しくて、情けなくて、小雪は膝の上に置いた拳をギュッときつく握りしめることしかできなかった。

 

 そしてそれは斬り結ぶ両人もまた同じ思いである。

 面白いように体が動く。刀を振るう位置が、柄を握りしめる力加減も、何もかもが手に取るように分かる。相手がどう動きたいのか、何がしたいのかまで理解できてしまう。これまで感じたことのない奇妙な感覚に、最初は驚いたがそれもすぐに馴染み、そのことが今はひたすらに心地よかった。

 ギギィン!

金属同士が擦れ合う音と飛び散る火花。

互いの額がぶつかりそうな距離での鍔迫り合い。

鋭い犬歯を覗かせて天華が笑う。

 「今日は初手から、あの技使わねぇのか?」

 「なに、使う必要を感じなかったのでな」

 あからさまな挑発。だが、天華は敢えてその挑発に食って掛かる。

 「こんにゃろー、絶対泣かせてやる!」

 「やってみろ」

 そんな天華の挑発に、玲も悪乗りする。

 「ハッ! その言葉、後悔すんなよ!」

 強引に押し返したことで生まれる刹那の間隙を衝き、腰に佩く小太刀を抜刀した。

 「二刀流とは面白い!」

 対する玲の構えは右下段。腰を落とし、上体を捩じった奇抜な構えである。

 天華は直感的に、それが二ヵ月前にこの身を以て体験した技と同種のものだと悟った。

 技の名を『虎切刀』。

鐘捲流奥義にして、一撃必殺の技である。

 このまま突っ込めば斬られると、剣士の警笛を鳴らしていた。

その理性に蓋をして、天華は敢えて前進を続けた。


 「よい覚悟だ。しかし―――それは蛮勇だぞ」

 『虎切刀』の刃圏へ踏み込む寸前。

天華は二本の刀で地面を盛大に斬りつけた。

足場は砂浜。一瞬で視界が砂で覆われた。

敵の姿を見失っても、玲は冷静さを失ってはいなかった。

 前、右、左、それとも上か?

 姿を眩ませた天華の気配を探ろうと瞳を転がすが、敵影は見えない。

 「見えぬなら―――聞くまでのことよ」

 スッと、長い睫毛が伏せられる。戦いの最中に眼を閉じるなど、よほど力量が離れていても危険極まりない愚行である。しかし、こと玲に関してその常識は通用しない。

 七年。否、それよりも以前より、満月 玲は、焔 天華を観察し続けてきた。

 事故に遭わず、あのまま成長を続けていれば、辿り着いていたであろう姿。

 最強が最強のままであり続けた可能性。 

 何千、何万ものシミュレーションを重ねてきた玲にとって、目晦まし程度、何の障害にもなりえなかった。

 確信をもって踵を巡らせ、背後から迫る天華を肉眼に捉えた。

 「見切ったぞ―――天華!」


 天華の策は完璧だった

 死角からの一撃は、回避はおろか、そこからの迎撃が間に合う事はない。

 しかし、砂の目晦ましから飛び出す寸前―――背筋を悪寒が駆け抜けた。

 咄嗟に意識を攻めから守りへと切り替える。

直後、耳を劈く金属音が弾け、視界が白く染まった。

あまりにも激しい衝撃と間近で弾けた金属音により、一時的に三半規管が麻痺していた。

 ―――二撃目がくる‼

 意識だけが先走り、肉体が一向についてこない。

 「遅い!」 

 鋭い呼気と共に、放たれる二の太刀。

 「があああっ!」

 口端を噛み切った痛みで、自省を取り戻した天華は、そのまま後退、迎撃が間に合わぬと悟るや全身から力を抜く。そのまま地面に倒れた。遠心力によって威力、速度ともに勢いを増す虎切刀 二の太刀から逃れることに辛くも成功した。

 素早く身を起こし、そのまま次の一撃が来るより先に後方へ大きく距離をとる。

 「驚いたな、まさか今の一撃を躱されるとは思わなかった」

 「ハッ、驚いたのはコッチだよ。何だよさっきの、完全に不意をついたはずだったのに」

 「俺以上に、焔 天華を知る者は居ない。例えそれが天華、お前自身だとしてもな」

 「よく解らねぇが、要するに奇襲の類が通じねェんだろ? だったら奥の手だ!」

「奥の手?」

 「水の極地―――明鏡止水‼」


 雰囲気が変わった?

先程までの野獣のような気配から一転し、今は小川を流れる清流のような静けさを、まるで着物を羽織るように全身を包み込んでいる。

 嵐の前の静けさ。玲の頬を冷たい汗が伝った。

 両手に握られた刀の切っ先は地面を這うように低く下段ですらない。手に持つ刀も指に引っ掛けているだけのように見える。否、そうとしか見えない。

そのまま力感のない歩みでゆっくりと、しかし確実にコチラとの距離を縮めてくる。 

 それは玲の知らぬ構えであった。

 これまで脳内で繰り返してきた『焔 天華』との仕合の中ですら、只の一度として目にしたことがない。故に反応が遅れた。戦闘の最中に一瞬とはいえ呆けていた己を戒めると同時に、この構えに対する警戒を解いた。

 天華にどのような思惑があるにせよ、斯様に脱力しきった構えで、『虎切刀』を防げるわけがない。刹那、玲の意識が憤怒に埋め尽くされていく。

 「‥‥‥ふざけるな」

 満月 玲にとって、この戦いは七年越しに実を結んだ―――まさに悲願であった。

 その神聖な戦いを穢すのは、例えそれが焔 天華であろうと赦すことは出来ない。

 先程までの戦闘に対する高揚感も、歓喜も、全てが怒りで塗りつぶされていく。

 そして、天華を技の刃圏に捉え―――。

 「侮るなよ!」

 一撃必殺の絶技が、右下段から左上段へと振るわれる。

防御どころか回避すら間に合わぬ神速の一撃。天華の胸から吹く大量の鮮血を幻視した。

 しかし―――

 必殺の一撃は、何の手応えもないまま虚空を彷徨っていた。

 「―――⁉」

 一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。

躱されたのなら、弾かれたのなら、受け止められたのなら、まだ理解も出来ただろう。

しかし、刹那ではあったが物干し竿を通じて感じた、微かな手応え―――ふと視線を向ければ、コチラまで残り半歩の所まで接近を許していた。

 「おい、何処を見てんだ⁉」

 交錯の一瞬に投げ掛けられ言葉を、玲はどこか他人事のような気持ちで訊いていた。

 手を伸ばせば触れられる距離に迫った天華。その両手に握られる二振りの刀が閃く。

 次いで。 

 全身から力が抜け、玲はその場に崩れ落ちた。 

 何が起きたのか理解が追い付かない。

 遠くから小雪の悲鳴が聞こえてくる。

 何をそんなに騒いでいる?

怪訝に思い起き上がろうと地面に手を衝く。

そこで玲は自らの異変に気付いた。

紅く濡れた砂浜。

風に乗って香る血の匂い。

そして今尚、零れる胸の傷。

現実を認めるのに数秒を要した。

 視界が翳り振り向くと、其処には刀の切っ先を衝きつけコチラを睥睨する天華の姿があった。

 「お前はさっきから誰と闘ってるんだ?」

 その問い掛けに、直に応えられなかった。

 「俺は‥‥‥」

 言葉に窮し口籠る。

 すると、天華は徐に刀を下げ、次いで玲の胸倉を掴むやそのまま強引に引き寄せる。

 「いつまで昔の私を追いかけてんだ⁉ 今、アンタの眼の前にいるのは、私だろうが!」

 「ッッッ‼」

 掴んでいた手を放すと、天華はそのまま踵を巡らせる。

 遠ざかるその背中は、七年前より随分と大きかった。

 「待ってくれ」そう言いかけ、玲は伸ばしていた手を下ろした。

 「どうやら、過去に縛られていたのは俺だけのようだな」

 思わず自虐気味な笑みが零れ、玲は静かに眼を閉じた。

 瞼の裏側に、あの日より今日にいたるまでの記憶が走馬灯のように蘇っては消えていく。

 焔 天華の最強を証明しなくてはならない。

それが使命だと、天華から剣を奪った俺に出来る償いだと。そう思い込まなければ耐えらなかった。孤独から救ってくれた彼女から宝物を奪っておいて、自分だけがのうのうと剣を振るえることが辛くて、焔 天華という幻想に縋ってしまっていた。

 だが天華は違った。

 一度は夢も希望も失くし、三年にも及ぶ倦怠に沈んで尚。

 こうして剣を以て対峙している。

 以前の、神童と謳われていた頃の焔 天華を。

俺の想像など軽く飛び越えて、再び眼の前に現れた。

 あの日、公園のベンチで孤独に涙していた時のように。

 『ようやく至ったか』

 不意に背後から声が聞こえた。

 振り向くと、其処には見知らぬ長身痩躯の男が佇んでいた。

 顔は陰になり伺い知ることが出来ない。

 質素ながら最上級の衣を身に纏い、その背には槍より短い大太刀を背負っている。

 男が何者なのか、玲は朧気に理解した。

 『最早、君を縛りつけるモノは何もない。後は思う存分に剣を振るうがいい』

 「感謝する」

 『礼などいらぬ』

 「いや、貴殿のおかげ俺はもう一度、夢を追うことが出来た」

 心からの賛辞に、顔の見えない男が薄く笑ったような気がした。

 「貴殿を、貰い受けるぞ」

 『好きに使え、そして―――必ず勝て!』

 その言葉を最後に男の姿は掻き消えた。



 それは、剣士としての本能か、それとも得体の知れぬ恐怖によるものか。

 何にしろ、足の先から指の先に至るまで雷に打たれたような衝撃が駆け抜けた。

 弾かれたように飛び退き、刃を構え、空色の双眸が見開かれる。

 振り向いた先―――大太刀を杖代わりに、満月 玲は立ち上がった。

 ダラリと垂れ下がった銀色の髪の端々に、赤い斑が滲んでいる。

 その姿に、天華は軽い当惑を覚えた。

 胸の傷からは今尚、血が溢れている。

 とても戦闘を続けられる状態ではない。

 にも関わらず玲の総身から迸る剣気は先程より更に鋭くなっていた。

 そして―――、

 垂れ下がった前髪。その隙間から覗く真紅の双眸を認めた途端、体が震えた。

 さながら蛇に睨まれた蛙の如く。刀を構えたまま身動ぎひとつとれなくなる。

 「――――ッ⁉」

 それが相手の剣気に中てられ気圧されたと気付くのに数秒を要した。

 「玲、お前‥‥‥」

 その続きは言葉にならなかった。

 対峙する銀髪の剣士は音もなく、太刀を上段に構えた。

 先程までの奇抜な右下段ではない。とりわけ変わった構えでもない。

 それは何の変哲もない、剣道で言うところの『火の構え』である。

 だが天華は、これが唯の火の構えでないことを素早く見抜いていた。

 余りにも隙がありすぎるのだ。

 振り下ろされる渾身の一撃を、天華は太刀で捌き、残る小太刀でガラ空きとなった胴を薙げばそれで済む。そして、水の極地へと至った天華にとって、その程度のことは児戯にも等しい。

 では何故、私は今、玲の刃圏に足を踏み入れることをこれ程恐れているのか?

 頬を冷汗が伝う。

 両者睨み合ったまま、時だけが流れた。

 一秒が数分、いや数時間にも思えるほどに天華の意識は極限まで研ぎ澄まされていた。

 故に気付くのが刹那遅れた。

 五メートル近くあった間合いが、気が付けば一足一刀の間合いまで接近を許していたことに。

 「な―――――ッ⁉」

 驚愕が意識を犯したその一瞬を、玲は見逃さなかった。

 「シッ――――‼」

 上段より大地に向かって降り降ろされる必殺の一撃。

 天眼を以てしても、迫る剣の軌道を見切れなかった。

 それほどに、玲の一撃は早い―――否、早すぎた。

 先の『虎切刀』を凌ぐ剣速。最早肉眼で捉えきれる領域ではない。

 しかし―――。

 乾坤一擲の一撃は、髪先数本を巻き込み、刀身の腹を滑り受け流された。

 観覧席がどよめく。

 迫る神速に対し、天華が行ったのは唯受けに徹する、それだけだ。

 確かに驚愕すべき一撃である。回避はおろか、受け流すことすら本来なら不可能のはずだ。が、天華は接近を許すと同時に、使い手である玲を―――その赤緋の瞳だけを見据えていた。

天眼による動きの先読みではなく、眼が語る未来。つまりは相手の動きを予測したのだ。 

 この瞬間、天華は己が勝利を確信した。

後はガラ空きとなった腹へ小太刀を滑らせればソレで終わりだ。

 と、不意に視界の端で奇妙な光景を捉えた。

 打ち降ろされた物干し竿が地面にあってキラリと刃を返し、そのまま意思を持った生物の如く、撥ね上げられた。

 「ッッッ‼」

 先刻に倍する驚愕に、両眼を剥く。

 即座に攻撃を中断し、防御へと移るも間に合わず、胸と額から紅い霧が吹いた。

 痛みよりも先に、視界が血で紅く染まる。

敵の姿を見失うことを嫌って、残る意思力を振り絞り、敵の間合いから逃れた所で地面に膝をついた。

 「何だ、今の一撃は‥‥‥⁉」

 僅かに受けが間に合い、九死に一生を得た。

 しかし受けた傷以上に事態は深刻だった。

 片目が血で塞がったことで天眼の効果が半減しているのだ。

 これでは、次の一撃を防ぐ手立てがない。

 燃えるような痛みに苛まれ、焦燥感を募らせながらも、頭の片隅では冷静に先程の攻防についての分析を始めていた。

 

 観覧席。十本指の面々、それぞれが先程の攻防に関する分析を口にする。

「あの脚運び、僕の『八艘飛び』と同じ、いいや少し違う‥‥‥」

 「うむ、牛若の歩法を自己流に昇華させたものだろう」

 「それだけじゃねぇ、あの打ち降ろし。俺様の一刀流も組み込んでやがった」

 「唯の模倣ではなく、見本を越えていると?」

 「いやいや、十本指の技を見て真似るってだけでも驚きっスけど、それを超えるって」

 「注目すべきはその観察眼だ。一体如何なる道を歩めば斯様な技を身に付けられるのか」

 「何はともあれ、この勝負―――そう長くは続くまい」

 

 「仕留め、損ねたか‥‥‥」

 最後、胸を裂き、顎を砕くはずだった一撃は、寸前の所で防がれた。

 意識の外側。勝利を確信したことで生まれる心の隙を衝いた。

 「それでも仕留められないとはな‥‥‥」

 玲は意識を正面、よろよろと身を起こす天華へと向けた。

 小袖を千切り、切り裂かれた額に巻いて止血を済ませ、ゆっくりとコチラへ近づいてくる。

 そして、お互い間合いの外側で改めて対峙する。

 「やりやがったな」

 お互いに満身創痍の身でありながら、その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。

 「やり返しただけだ」

 「女の顔に傷をつけるたぁ、ヒデェ野郎だなテメェは」

 「何だ? お前は俺に女として見られたかったのか?」

 「ハッ、ぬかせ。そんな目で見やがったら唯じゃおかねぇ。ぶっ殺してやる」

 「おー、それは怖いな。だが安心しろ、俺がお前を女として見ることは一生ない」

 「ハンッ、最低の誉め言葉だな」

 「光栄だろう?」

 「嗚呼、最高だよ」

 「お前もな」

 「「‥‥‥‥‥‥‥‥」」

 これより先、二人の間に言葉は不要だった。

 どちらから言うでもなく、二人の足は相手の刃圏へ踏み入り。 

 正面から対峙した。

 二人は望んだ。

 この先を。

 「決着(ケリ)つけてやる‼」

 「望むところだ‼」

 そうやって進む以外の術を、二人は知らない。

 錯綜する。

 刃と刃。

 「ぜやああああああああああ…――――ッ‼」

 「はぁああああああああああ…――――ッ‼」

 裂拍の雄叫びと共に、二人は己の誇りを賭けて激突する。

 

 刃が振り下ろされる。

 二対の刃がそれを受ける。

 浜辺に響き渡る剣戟音。

 無数に飛び散る火花。

 空気を震わす衝撃。

 もう既に、三十合ばかり打ち合いながら、両者共に敵を己の刃圏に捉えきれていなかった。

 奇抜な構えから繰り出される回転剣戟『虎切刀』。

 迫る刃を見据える天華は極めて冷静であった。

 一の太刀を防いでも、その次の二の太刀を防ぐことは出来ない。故に天華は左の小太刀一本でこれを迎え撃った。刃ではなく、小太刀の柄頭で迫る物干し竿の横っ腹を小突く。それにより技の軌道が逸れる。その一瞬の間隙を衝き右の太刀を薙ぐ。

瞬間、視界の端で影を捉えた。

反射的に攻撃を中断し、急制動をかける。

そのコンマ数秒後に玲の右回し蹴りが空を切る。

あのまま踏み込んでいれば頭蓋骨を砕かれていただろう。

 ゾワリ、全身に震えが奔った。

 油断していたわけではない。

 それでもほんの刹那の隙が致命傷となる。

 対峙する。

 互いに一足一刀の間合い。

 この距離なら、どちらが先に剣を振るうかで勝敗が決する。

 即ち、敵にコチラの動きを悟られた方が負ける。

 故に両者は動けない―――はずだった。

 しかし、二人はまるで示し合わせたかのように刀を構えた。

 二対の刀。その切っ先が交差する合掌―――『円極』の構え。

 対して玲は大太刀を大上段―――秘剣『燕返し』の構え。

 沈黙は十秒と保たなかった。

 初めに玲が動いた。

 風が唸る。

 音を置き去りにした神速の一撃。

 天華はコレを円極の構えで迎え撃つ。

 瞬間、起きる。

 衝撃。

 火花。

 剣戟音。

 その余波は、戦いの行方を見守る観覧席にまで及んだ。

 残る体力は僅か。 

 恐らく、この攻防で決着すると二人は見抜いていた。

 故に全力全霊。

 刃が抜ける。

 燕返し。その一の太刀を凌ぐ。

 が、直後、刀が翻り神速の二撃目が天華を襲った。

 そして、この二撃目こそ勝負の分かれ目。 

 天華は臆することなく、コレを受ける。

「「うおおおおおおおおおおおおおおおおお…―――ッ‼」」

僅かでも力を緩めれば、押し負ける。

―――負けたくない。

―――負けるものか。

意地と意地のぶつかり合い。

―――勝つんだ。

―――勝ちたい。

燃えるような思いを力へと変換し、二人は喉が張り裂けんばかりに吼えた。

永遠にも思えた時間は、直後、意外な形で終わりを迎えた。

ピシッ―――。

二人の瞳が大きく見開かれる。

次の瞬間―――ガシャン、という幾千もの硝子が割れるような破砕音が浜に響く。

 水平線の彼方に半ばまで姿を隠した夕陽が、宙を舞う金属片を眩く照らす。

 凝然と見据える先―――鍔より先、半ばから砕け散った物干し竿の残骸が宙を舞う。

「「ッッッ‼」」

人の限界を超えた技に、使い手ではなく、刀が先に音を上げたのだ。

雷に打たれたような衝撃が奔る。

終わりの見えない暗闇に差し込む一条の光。

 ―――抜ける!

 得物を失った敵に対して憐れむことも、躊躇うこともなく、天華は駆けた。

 トドメの一撃を振るうべく、刃を振りかぶる。

 刹那、顎を衝撃が襲った。

 「ガッ‥‥‥!」

 顎が跳ね上がり、口から血が噴き出す。

 視線を向ければ、損壊した刀を手放した玲が、空になった拳を振り抜いていた。

 「俺は、負けない‼」

 圧倒的なまでの勝利への執念。

 予想外の攻撃に、天華の手から刀が滑り落ちた。

 「テメェー、潔く負けやがれ‼」

 鋭い犬歯を覗かせ、天華は疾ける。

 玲の拳を躱し、腹部へ深々と右拳が突き刺さる。

 が、苦悶の呻きを洩らすのみで鋼の意思で耐えぬいた玲の拳が再度、天華の顎を跳ね上げた。

 「勝つのは―――俺だぁ‼」

 半歩後退しただけで堪えた天華が、お返しの一撃を見舞う。

 「負けねぇー‼」

 そこから先は、喧嘩―――殴り合いとなった。

 「天華――ッ‼」

 「玲――ッ‼」

 


 茜色に染まった太陽が、水平線の彼方に沈もうとしている。

 夕焼けに照らされた海面が、幾千もの星々を想起させる輝きに彩られていた。

 その先で、魂をぶつけ合う二人を見つめる誰もが、胸を熱くさせていた。

 真面に立っていられないほどに、二人は体は既に限界を超えていた。

 しかし、どれだけ殴られようとも、剣士としての誇りが、倒れることを許さない。

 ぜぇぜぇ、とか細い呼気を洩らしながら、それでも果敢に殴りかかる。

 そんな友の姿に、凪の眼からは澎湃と涙が溢れ、顔をぐしゃぐしゃに濡らしていく。

 ―――もう、十分だよ天ちゃん‥‥‥。もう十分に戦ったよ。だから、これ以上は、もう‥‥‥早く楽になって。アナタのその姿を私はこの先ずっと忘れない。だから‥‥‥もう‥‥‥。

 胸の中で何度も繰り返し、唱えた文句も、しかし言葉には出せなかった。

 言えばきっと天華は、あとで凄く怒るだろうから。

 無論、天華の勝利を願っている。

だが、これ以上天華が傷つく姿を見たくなかった。

それでも天華は止まらない。

いや、止まれない。 

それが彼女の―――焔 天華の願いなのだから。


 ずっと後悔していた。

 「小次郎さまは、いつも独りぼっちでした」

 傍らの与一は、黙ってその言葉に耳を傾ける。

 「誰よりも剣を愛していながら、剣を振るう時の小次郎様はいつも苦しそうでした。ですが、そのことが雪には悲しくもあり、ほんの少しだけ嬉しかった‥‥‥。剣を握ることの出来ない雪では小次郎様の役に立てない。それでも、側にいつ続けることでそのお心をお慰め出来ている、そう思っていたんです。だけど―――」

 言葉を切った小雪が見据える先。

 其処には満身創痍の身でありながら、無邪気に笑う彼の君の笑顔があった。

 「それは単なる思い込みに過ぎなかった」

 誰にも見せまいと顔を俯けるも、頬を伝う涙が紅い光を取り込むせいで上手く隠せなかった。

美しいはずの夕日が、今は無性に恨めしい。

 「本当はもっと早くこうすればよかったと薄々感じていながら、そうしなかった。だけど今は、もっと早く、私たちから解放されていれば、あんなにも傷つかずに済んだかもしれない。そう思うと、私は‥‥‥」

 悔恨の言葉を洩らし続ける、その背中を与一の手が添えられる。

 「それはきっと杞憂よ。ほら、見て」

 そう言われて指さされた方角を見やる。

 その先では、傷だらけになりながら、それでも楽しそうに笑う彼の姿があった。

 「アナタが気に病むことなんて一つもない。だって、あんなにも楽しそうなんだもの」

 「‥‥‥はい、はい‥‥‥はい」

 声が震え、何度も呟いた。

 唇をきつく引き結び、その雄姿を最後まで見届ける。

 それが今のあたしに出来る、唯一のことなんだ。


◇◇◇


 もう何処が痛むのかさえも分からなくなっていた。

 何でまだ、立っているんだったか?

 どうやって拳を繰り出しているのかさえもわからない。

 何度目かの拳打が、天華の頬を捉える。

 よろよろと蹈鞴(たたら)を踏むが、天華は倒れなかった。

 もう負けてもいいんじゃないか?

 十分頑張ったじゃないか。

ここで諦めたとしても誰も俺を責めはすまい。

小雪なら優しく慰めてくれるだろう。

 もう疲れた。早く終わりたい。

 天を仰ぎ、瞼を閉じる。

 すると、何処からともなく声が聞こえてくる。

 『それが、本当に君の望みなのか?』

 それが誰の声かは直ぐに分かった。

 『違うだろう? 君はここに―――この世界に何をしにきた?』

 そんなの、決まってる。

 『ならば勝て! それだけが君の望みを叶える唯一の道だ』

 言われなくとも、最初からそのつもりだ。

 「うらああああああああああああ…―――‼」

 獣のような唸り声を上げ、渾身の拳打が天華の頬を捉えた。

 「俺は負けんぞ‼」

 

 喀血し、ぐわんぐわんと揺れる頭で、天華は思った。

 強い‥‥‥。強すぎるだろ…‥‥。

 一体、どれだけ殴れば倒れんだよ?

 技も、心も、何もかもを注ぎ込んで尚、倒すことが出来ない。

 負けたくない、勝ちたいって、その思いだけで戦ってやがる。

 何だよソレ、そんなにボロボロになって何でまだ‥‥‥。

 悔しいなあ‥‥‥。その思いはきっと私以上だ。

 でも――――。

 だからこそ―――。

 勝ちたい―――。

 玲に勝って、証明したい。

 私こそが―――天下無双であると。

 途切れかけた意識を繋ぎとめ、無我夢中で前へ大きく一歩を踏み出す。

 「勝つんだぁ―――‼」

 

 交錯する二人の、文字通り、最後の拳がお互いを捉えた。

 その瞬間、長かった激闘が終わりを迎えた。

 敗者は倒れ――――。

 勝者は吼える―――。

 十本指選定試合。

 その大激戦を制したのは―――。

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