第5話

 かこーん!

 浴場の外からししおどしの音が鳴る。

 「ふにゃあぁぁぁ~~~~‥‥‥」

 「大丈夫か、凪? 表情筋ゆるみすぎだぞ」

 「しょうがないよー、数日ぶりのお風呂。それもこんな立派な温泉なんだからさー」

 「まぁ、それもそうか」

 佐々木小次郎―――満月 玲との再会から二ヵ月余り後。

天華と凪は、人里離れた山奥にある湯治場を訪れていた。

泉かけ流しの濁り湯である。白濁した湯に身を浸しながらここまでの旅路に思いを巡らせる。

二ヵ月前。

玲に敗れ、気を失っていた天華は、突然行方を眩ませたことを心配し方々を捜しまわっていた凪に発見され近くの古民家へ運び込まれた。

そして目を覚ますや沢庵の元に押しかけ、保留にしていた誘いを条件付きで受ける事にした。

 それから二か月間、沢庵からいわれるまま武芸試合を繰り返した。

その中には、古都の名門道場出身者や、権之助のように己の腕ひとつで世に旗を立てるべく古都を訪れた大和各地の剣士らが含まれ、天華はその全てに勝利し続けた。

そして先日、ようやく沢庵から十本指との仕合が決まったとの連絡を受け、疲弊した体を回復させるために湯治場を訪れた次第であった。

 「なぁ、凪。ホントに良かったのか?」

 「んー、何が?」

 「いや‥‥‥、本当に私についてきて‥‥‥」

 立ち上る湯気に遮られお互いの顔は見えなかった。それでも凪の視線から逃れるように顔を俯けてしまう。すると、不意に湯舟が波を打つ。怪訝に思い顔を上げると、湯を割きながら凪が近づいて来る。

 「凪?」

 「ねぇ、玲くんって、どんな人?」

 「え?」

 「教えて? 私、天ちゃんの事、もっと知りたいの」

 お互いの鼻がくっつきそうな距離で見つめてくる凪の瞳には、いつもの剽軽さはなく、真剣な色を孕んでいる。その眼光に最後は根負けする形で、天華は縷々と懐古する。

 「初めてアイツを見かけたのは、近所の公園だった」 

 天華は姿勢を変え、胸の前に突き立てた両膝に顎を乗せると、訥々と語った。

 「いっつも公園のベンチに一人で座ってるような地味な奴だったんだ。初めは遊びに入っていく勇気もない臆病な奴なんだと思ってた。だけど思ったんだ。玲は、何かを待ってるんじゃないかって」

 「待ってる?」

 「自分と同じ、いや‥‥‥もっと深い、親とか、兄妹、友達とも違う‥‥‥」

 無数にある言葉の中から、天華は確信とともに告げた。

 「自分のすべてを捧げられるような、『本物』をさ」

 「‥‥‥本物、か。何だかそれ、解るような気がする」

 我ながら要領を得ない説明だったと認めていたからこそ、凪の言葉は少し意外だった。

 「生まれつき体が弱くて、他の子たちみたいに外で遊ぶことも出来なかったけど、それでも私は自分のことを不幸だなんって思ったことはなかったの。両親や病院の人たちは皆優しかったからね。

だけど、ある時気付いたんだ。皆が私に優しくしてくれるのは、私が大人になるまで生きられない可哀そうな子だからだって。そう思うとね、何だか私って生きてる意味あるのかなーって辛くなった。だってそうでしょ? 私は誰も恨んでなかったし不幸でもなかったから‥‥‥」

 凪の云わんとすること何となく天華にも察せられた。

 玲を庇い、事故に遭い剣士としての道を絶たれ、絶望していた頃、周りの大人たちは怪我をした天華に優しく声をかけ続けてくれた。

 まだ、これから十分巻き返せる。

 剣はダメでも、何か他のことを頑張ればいい、等と。

 だけどそれは、天華にとって屈辱に他ならなかった。

 周りから励まされる度に、首を真綿で締められるような苦しさがあった。

 「周りから貴方は不幸なんだって勝手に決めつけられて、憐れまれるだけなんて、そんなのあんまりじゃない? だから、それ以上憐れまれたくなくて、病院の屋上から飛び降りようとしたことがあるの」

 初めて耳にする告白に、空色の瞳を凝然と見開く。

 「でも、やっぱり出来なかった」

 凪はクシャリと口元を歪めてみせる。

 「私より辛そうな娘が、すぐ近くにいたから」

 そっと瞼を閉じ、かつての記憶に思いを馳せながら彼女は言う。

 「その子はね、事故にあって大切なものを失くしちゃったはずなのに、それでも必死に生きようとしてた。そんな姿を見てたら何だか自分がやろうとしていたことが急に恥ずかしく思えちゃって‥‥‥。気付いたらその子から目が離せなくなってた。それで私思ったの。頑張ってるその子を、私が支えてあげたいなって」

 えへへへ、と誤魔化すように笑いながら、凪がゆっくりと体ごと向き直った。

 「あの日、勇気をだして貴方に声をかけてよかったって、今でも心の底からそう思うよ」

 キラキラ輝く瞳をじっと向けてくる親友の姿に、喉が詰まった。つんと鼻先が熱くなる。気を抜けば溢れ出しそうになる感情を必死に抑えつける。真っすぐに思の丈をぶつけてくる彼女に対して涙は不要だった。きつく引き結んだ唇を細かく震わせながら天華は言う。

 「‥‥‥救われたのは‥‥‥私のほうだよ。剣を握れなくなって、腐っていくだけだった私を、繋ぎ止めてくれたのは‥‥‥凪‥‥‥アンタなんだよ‥‥‥」

 訥々と、真心を込めながら天華は言葉を紡いだ。

 が、それもここが限界だった。髪先から滴り落ちる水滴に紛れて頬を伝うモノを意識せぬまま親友の背に腕を回した。直に凪からも優しい抱擁が返ってくる。

 「私は天ちゃんと一緒にいられればそれでいい。それ以外に欲しいものなんって何もない。だから、私は天ちゃんがやりたい事を応援するよ」

 「ううぅ‥‥‥、凪…‥‥」

 凪の首元に顔を埋めながら声を震わせていた、その時―――。

 ズズッ、と鼻を啜る音が聞こえてきた。

 剣士としての本能か。音がする方へ弾かれたように振り返る。

同時に左腰に手を伸ばし、指が空を切ったところで此処が風呂の中であることを思い出した。

何の武装を帯びていないこの状況が如何に危険であるかを今更ながらに思い知る。人里離れた山奥にある温泉地ゆえ油断していたが、この世界において自分は女子高生だった焔 天華ではなく、吉岡道場を含めその他大勢から恨みを買っている剣豪 宮本 武蔵なのだ。

もし今、武蔵に対して恨みを抱く何者かに襲われては凪を庇いきれない。

 凪を背中に隠しながら、天華は立ち上がった。

 「誰だ?」

 湯気で白く覆われた視界の奥に、薄っすらと浮かぶ人影。

 「ごめんなさい、盗み聞きするつもりはなかったの」

 立ち込める湯気の奥から返って来たのは、鈴の音を転がすような声であった。

 「女の声⁉」

 怪訝に眉根を寄せつつも、警戒だけは緩めず前方を注視すること数秒。湯気の奥から現れたのは、一糸まとわぬ裸体を惜しげもなく晒す妖艶な美貌を湛える乙女だった。

 「誰だ、アンタ? ここで何してる」

 下手に動けば斬る、無刀の身でありながら天華の痩躯から迸る剣気がそう物語っていた。

 だが、謎の美女はわずかにも気圧された様子もなく、両手を上げ自らに敵意がないことを示してくる。辺りに他の気配はない。それでも警戒だけは緩めない天華に、背後で唖然と事の成り行きを見守る凪が声をかけた。

 「とりあえず話を聞いてみようよ。あの人、悪い人じゃなさそうだよ…‥‥」

 そのひと事が決め手となり、五メートルほどの距離を空けて、ひとまず警戒を解いた。

 「ごめんなさい、さっきも言ったけれど盗み聞きするつもりはなかったの。それに、こんな辺鄙な場所に私以外足を運ぶ人がいるなんって思ってもみなかったのよ」

 にっこりと大輪の花のように微笑みながら、自らの身の潔白を口にする女性を油断なく見つめる天華に代わり、天華の隣に進み出てきた凪が返事をする。

 「コチラこそごめんなさい。私たちも驚いちゃって‥‥‥」

「いいえ、悪いのは私の方だわ。貴方たちの声が聞こえた時点で声を掛けるべきだったのに、そうしなかった。これじゃあ余計な勘繰りをしてもしょうがないわ」

 「で、アンタ何者だ?」

 「フフッ、そんなに睨まなくても。私は唯のしがない旅芸人よ」

 「笑わせんな。唯の芸人がこんな時間に一人で、こんな場所にくるかよ」

 「さぁ、それはどうかしら?」

 女は答えない変わりに、意味深な笑みを浮かべてみせる。

 胡散臭い。唯の旅芸人等と嘯いてはいるが、この湯治場までの道程は決して楽ではない。起伏に富んだ山道、熊やイノシシといった野生動物、何より山には山賊たちもいる。

女一人でこんな夜更けに足を運ぶにしては危険すぎる。

伝説の剣豪宮本 武蔵の肉体を媒介に、大和に転生した天華や同じく出雲阿国として生まれ変わった凪のような迷人は、常人離れした身体能力を有している。そうでなければ、幾ら豪胆な性格と自他ともに認める天華と云えど、凪を連れてこんな夜更けに山奥に足を運びはしない、

それなのに女は、たった一人で共も従えずこの湯治場を訪れている。

それが一介の旅芸人に出来るはずがない。

明らかに武芸の心得がある。それもこの二か月間相手にしてきた有象無象とは一線を画すほどの使い手。だと、天華は見抜いた。

 「ごめんなさい、盗み聞きついでに少し助言をしてもいいかしら」

 「助言?」

 「十本指と仕合うつもりらしいけど、悪いことは言わないから止めておいた方がいいわ」

 「‥‥‥何で、私が十本指と仕合をすると知っている?」

 「さぁ、どうしてでしょうね?」

 「質問を質問で返すんじゃねぇよ」

 こうなっては仕方ない、力尽くでも正体を吐かせてやる。

そんな決意の元、一歩前へ足を踏み出しかけたその時、背後の凪が突如、口を開いた。

 「それって、天ちゃんじゃ、その十本指って人たちに勝てない、そういうこと⁉」

 何故か、不満げに頬を膨らませる凪の様子に、天華と女は唖然と固まってしまう。

 すると、何が面白かったのか女はフフッと笑みを零し。

 「端的に言えばそうね。言っておくけど十本指に選ばれた人たちは皆、掛け値なしの化け物ばかりよ。そんな化け物を相手に――――」

妖艶な笑みを湛えた女は、拒絶するように頭を振る。

 「今の貴方が挑んだところで無駄に命を散らすだけだわ」

 憐憫交じりの台詞に、天華は眉間に皺を寄せた。

 ―――コイツ、見抜いてやがる。

 この二か月、数多の剣客たちと剣を交えたことで失われた四年間の感覚は取り戻しつつある。だが所詮は付け焼刃に過ぎない。かつて神童と謳われた天才少女 焔 天華は、四年前の事故を境に、剣才のほとんどを失っている。剣を振るう感覚と自身で思い描く剣の軌道が一致しない。

まるで深い水底にいるような閉塞感が常に付き纏う。

その感覚のズレは、『本物』に対しては通用しない。

女はその事を、この短時間―――それも一度も剣を交えることなく見抜いた。

つまり、眼前の女もまた、『本物』側なのだろう。

改めて注視すれば、月明りに照らされ炎を孕む女の体には、僅かな無駄もなかった。凜然とした立振舞い、天華の剣気にあてられながらも欠片も乱れることのない呼気。

 瞬間、天華の胸を衝撃が貫いた。

 「ッッッ⁉」 

 おずおずと視線を落とす。だが胸元には何の傷もない。

 ―――コイツ、剣圧だけで‥‥‥。

 「それじゃ、そろそろ邪魔者は退散するわね」

 「‥‥‥邪魔してる自覚はちゃんとあったんだな」 

 「命は大切になさいね、お嬢さん」

 「余計なお世話だよ」 

 去り際、天華は女を呼び止める。

 「待て、最後に名前を教えろよ」

 「那須与一(なすのよいち)。それが――この世界での名前よ」

 「この世界?」

 ポツリと凪が呟いた。 

 「貴方たちとはまた直に会えそうな気がするわ。それまでせいぜい生き延びなさい」

 最後にそう言い残し、女―――那須与一は湯煙の向こう側へと消えていった。

 「私、この世界に来れてよかった」

 湯けむりに消えていった佳人。その方角を見据えたまま、小さく独言する。

 「あんなのが他にもごろごろいるんだ。やべぇな、これ‥‥‥」

 「フフッ、なんだか嬉しそうだね」

 「嗚呼、燃えてきた」

 爛々と輝く瞳で虚空を捉え、胸の前に持ち上げた拳をかたく握り締めた。


◇◇◇


 古都の中心街からほど近い山の麓に、十本指最古老の剣士 柳生宗矩は暮している。

 周囲を背の高い竹藪に囲まれた庵に、かの国宝『生きる伝説』と称された剣聖が暮らしているとは古都に住まう人々でさえ知る者はいない。

 既に齢七十に差し掛かり、近頃は十本指の務めも満足にこなせていない。

光王陛下へ打診し、独り静かな隠居生活を送っていた。

籍だけは十本指に置かれているため世間的には未だ現役として扱われているが、宗矩本人にこれ以上世間に対し深く関わるつもりはなかった。

運営していた道場も息子と弟子たちが引き継いだことで何の憂いもなく気楽な隠居生活を送れている。このまま死ぬまで平穏で、退屈な牧歌的な暮らしが続くと思っていた。

しかし、先日とある噂話が古都を賑わせた。

それは世捨て人同然の宗矩の耳にも届けられた。

 

白い湯気が立ち昇る湯を啜りながら、宗矩は傍らに控える同輩の話に苦笑した。

 「ほっほっほ、まだこの時代にもそんな気骨のある若者がおったとわな」

 手に持つ湯飲みをそっと囲炉裏の縁に降ろし、剣聖は口元に蓄えられた白髭を梳きながら朗らかな笑い声を上げた。

 「笑い事ではありませんぞ、宗矩殿。下忍どもに探らせたところ、その者、かつて将軍家剣術指南役を務めておりました新免無二なる者の倅とのこと。そして新免無二を破ったのは‥‥‥宗矩殿ご自身。その倅が挑戦状を叩きつけてきた理由は―――」

 背筋を伸ばして座るのは、十本指の一人―――服部半蔵。

まだ宗矩が十本指になる前からの昵懇の中ということもあり、半蔵はことあるごとに隠居してからも宗矩の身を気にかけ、時々、宗矩の元を訪れていた。

将軍家に仕える忍び全てを統括する忍頭でもある半蔵は、国中に張り巡らせた配下の忍たちから齎される情報を管理している。その為、今回の騒動もいち早く調べ上げ、その経過報告を世辞に疎い宗矩へと知らせている。

 「復讐か?」

 「如何にも」

 当然とばかりに半蔵が重々しく首肯する。

 歳は二十近く離れているが、十本指の中では一刀斎に次ぐ年長の男へ、宗矩はクスリと微笑を浮かべて見せた。なぜ笑うのか? と憮然とした眼差しを向けてくる半蔵に、すまん、すまんと詫びつつも、宗矩はかつて斬り結んだ男についての記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せた。

 「その心配はしなくてもいいだろう。あの男―――新免無二は、確かにワシが倒した。しかしな、あの時の闘いはまさにお互いに死力を尽くした、真剣勝負だったよ。どちらが勝ってもおかしくないギリギリの鬩ぎ合い、最後はワシの一太刀が決まり勝負は決したが、交えた剣から伝わってくる剣士としての覚悟は紛れもない本物だった。そんな男の倅が復讐などという些事にとらわれておるとは思えんのだ。ゆえに待つ」

 「待つ、とは?」

 「当然、その宮本武蔵なる者と仕合うのよ」

 その言葉にこれまで仏頂面だった半蔵の口元に薄っすらと歓喜の色が浮かび上がる。

 普段、忍頭としての仮面をかぶる半蔵だが、昔から宗矩の振るう剣術を見る際は、童心に立ち返ったような興奮の眼差しを向けてくるのだ。

 そんな半蔵の反応が可笑しく、ニヤニヤと白髭の下に笑みを浮かべる宗矩に気付いたのか、半蔵はすぐに表情を引き戻し、ワザとらしく咳払いをひとつ挟んだ。。

 「なるほど、それならば拙者が心配する必要もありませんな」

 「ほほほっ、それに楽しみでもある」

 「楽しみ?」

 「うむ、確信はない。しかし、感じる」

 「?」

「半蔵君、君も知っての通り。十本指が結成されたのは、いずれこの大和に襲い掛かる災い、つまりは国の外側に対する抑止力となる戦力を整えるためだ。しかし、近頃は十本指同士での戦いを禁ずるという風潮が生まれている。それは十本指の誰もが感じていることのはず。

それが今は身に見えぬ鎖となって我々を戒めている。唯一、一刀斎の奴がその枠から外れた場所にいるがね。‥‥‥その武蔵とやらが閉塞的な十本指に新しい風を呼び込んでくれるような、そんな気がしてならんのだよ」

 その後も話は進み、決闘の日取りが判らぬ以上、構えていても詮無きことと宗矩が言い放ったため、その日はそこでお開きとなった。

 深夜―――古都に暮らす人々が寝静まったころ、宗矩も床に就く。

 何処からか聞こえてくる獣の遠吠え。ゆっくりと微睡みの中へ沈んでいた頃、闇夜に紛れて枕元に立つ人影があった。

 派手な真紅を基調とした小袖、一本に結い上げられた艶のある黒髪。

 静かに寝息を立てる宗矩の首筋に近づけられていく剣尖。

 逆手に構えられた刀が高々と持ち上げられ、一息に突き降ろしかけたその時―――、

 「誰かな、そこにいるのは?」

 その問いに、喉元寸前まで迫った刀の切っ先がピタリと静止した。

 ひんやりと感じる鋼の冷たさを感じながら、宗矩は瞼を伏せたまま続ける。

 「フフフッ、懐かしいな。儂もその昔、同じことをした」

 「へぇ~、それでどうなったの?」

 荒々しい剣気には似合わぬ澄んだ鈴の音のような声だった。

 相手の正体を見抜いた宗矩は不敵に微笑んでみせる。

 「なに―――少々痛い目にあった、ただそれだけのことよ」

 瞬間、部屋の中に現れる二つ目の気配。

 部屋の隅。闇の中から現れた黒衣の忍頭は、怒気を隠せぬままに口を開く。

 「一体、ここで何をしている?」

 弾かれたように振り返った侵入者。その手に握られた刀が横薙ぎに振るわれる。

 が、それより早く、放たれた拳打が容赦なく侵入者の体を捉えた。

 鈍い打撃音の後に響く破砕音。壁を突き破り侵入者の体が外へと消し飛んだ。


 数日前―――。

 

 「どういうことだ⁉ 十本指への挑戦を止めるとは⁉」

 湯治場から帰った翌朝。天華が告げた辞退宣言に推薦人である沢庵が愕然と呻く。

 「訳を言え、訳を!」

 「言い方が悪かったね。正確には挑戦しないんじゃなくて、沢庵からの推薦人としてじゃなく、唯の剣客 宮本 武蔵として挑戦したいんだ」

 これには流石の沢庵も訳が解らなんという風に眉間に皺を寄せる。

 「では、儂からの推薦を取りやめて、お前個人で十本指に挑む。そういう訳か?」

 「まー、そうなるな」

 「‥‥‥ったく、お前という奴は」

 頭痛を答えるように頭を抱え、沢庵は続けた。

 「一個人で十本指に挑むという意味を本当に解っているのか?」

 「さてね、その辺りはまだノープランなんだ」

 「のー、なんだそれは?」

 「あー、そうか、この時代に英語は通用しないよな」

 「とにかく、お主は御三家の何処にも属さぬ一浪人の身だ。そんなお前が、儂の推薦無しで、一体どうやって十本指と仕合うつもりだ? 言っておくが、十本指は大和の生きた国宝。御三家及び、推薦人の許可なしの決闘は固く禁じられているし、第一、十本指が今何所にいるかも知らんだろうが」

 「その点に関してはアンタを頼らせてくれ」

 「な、何⁉」

 「私が教えて欲しいのは、十本指の居場所だ。後は自分で何とかするよ」

 コチラの提案を足蹴にした挙句、図々しくも十本指の居場所だけは教えろと宣う天華に、沢庵は内心憮然としながらも、その事を表情には出さず、天華の言う段取りとは如何なるモノであるのか訊ねることにした。それに対する天華の答えは、大和随一の賢人と謳われる沢庵ですら考えも及ばぬ下法であった。

 「古都の真ん中に高札を立てる」

 「高札?」

 「ああ、大和中に知れ渡るくらい堂々と挑戦状を叩きつけてやるつもりだ。そうすりゃ、相手はこの挑戦に乗らざるを得ない。そうしなきゃ、戦う前から尻尾を巻いて逃げたと思われ十本指は世間の笑いものになる。アンタも言ってただろ? 十本指はこの国最強の剣客たちだって。経験上、解るんだ。剣士って奴は強くなればなるほどに自分の力を過信する。それが天下無双だなんだと言われてるなら尚更ね」

 確かに通りである。

 が、このような事を大和人の一体誰が考えつくだろうか。

否――――、仮に考えついたとしても、誰もそのような策を行動には移さない。

大和の常識に囚われぬ、迷人たる天華だからこそ成せることなのだ。

 知らず、笑みが込み上げてくる。

 「くっくっ、面白い。‥‥‥但し幾つか条件を付けさせてもらうぞ」

 「ゲッ、まさか抱かせろとか言うんじゃねぇだろうな」

 サッと胸元を両腕で覆い隠し、顔を引き攣らせる天華。

 「フンッ、誰がお前のような貧相な体を欲しがるか。どうせ抱くなら阿国の方がいいわい」

 「この凧坊主! 凪に手ぇ出したら、アンタの一物たたっ斬るからな!」

 「あー、もういいから、話の続きだ! 儂の提示する条件は、お前が十本指に勝った暁には、その手柄は儂がもらい受ける」 

 沢庵にしてみれば、推薦した相手が光王家に召抱えられて初めて評価される。だが天華が一個人として十本指と仕合い、勝利すれば、それは天華の手柄であり、沢庵には一切関係ない。ならばと、手助けをする代わりに手柄を貰わなければ、沢庵としても今日まで天華に費やした金と時間が無駄になる。無論、この提案を天華が拒否すれば、沢庵も協力しないつもりでいたのだが――――。

 「ああ、いいよ。それくらい、じゃあ何か解ったら教えてくれ。私は色々準備するから」

 「待て! 肝心なことを訊き忘れていた」 

 「何だよ、長話は勘弁してくれよ。さっきも言ったけど私も暇じゃないんだよ」

 「お前は何故、斯様な無茶をする?」

 「‥‥‥私には勝たなくちゃいけない奴がいる」

 「それは前に言っていた、佐々木なる迷人のことか?」

 「ああ、だけど今のままじゃ勝てない。その為にも、もっと強くならなくちゃいけない」

 「だがそれは、儂からの推薦を受けても同じことだろう?」

 「いや、違うよ」天華は小さく頭を振った。

 「それは私自身が決めた道じゃない」 

 「儂や、他の者が敷いた道では駄目なのか?」

 「強さってのは他の誰かが決めるもんじゃなくて、自分自身が決めるものなんだ。そして私にとっての強さってのは、勝つこと、それだけが強さの証明になる。たとえ無様に地べたに這いつくばってでも、私は勝ちたい。その結果、周りから卑怯だなんだと蔑まれたとしてもな」

 そう言い切った、天華の瞳は、雲一つない空のように澄み切っていた。

 なるほど、この娘には戦う理由など必要ないのだろう。

 ただ強くなりたい。

 他の何者よりも強く。

 まだ見ぬ、遙かなる彼方を夢見て。

 孤独で、過酷な、険しい道のりを歩み続ける。

 「どうやら、儂はお前さんのことを見誤っていたようだ」

 「‥‥‥‥」

 「しかしお前の歩む道は、いばらの道だぞ。お前にその覚悟はあるのか?」

 「さぁね、それこそやってみやくちゃ解らないよ。だけど一つだけハッキリしてることならある。強くなろうとしなきゃ、一生強くはなれない」


◇◇◇


 それは突然のことだった。

 天華の反対を押し切り、夜襲に同行した凪は、庵の外。竹藪の影に隠れて様子を伺っていた。

 既に辺りは薄暗く、吹きすさぶ夜風は冷たかった。

 悴む掌に息を吹きかけながら温め、天華の帰りを今か今かと待っていた。

 事前の説明では、長くとも十分。もしそれ以上長くなる場合は、逃げるようにときつく言われていた。それでも凪は、その場を動けずにいた。もしかしたら私の助けが必要になるかもしれない、一度そう思い始めると中々動き出すことが出来なかった。なにより天華を置いて自分だけ逃げることなど初めから出来るはずがないのだ。もし中で何らかのトラブルが発生し、天華の身にもしものことが有った場合は、凪も運命を共にすると決めていた。

 そこから更に数分が経った頃、突如、轟音が竹林に響き渡った。

 「――――ッ‼」

 咄嗟に身を硬くし、声にならぬ悲鳴を上げる。

 立ち込める粉塵。すると、中から人影が飛び出した。

 「天ちゃん!」

 「凪、出てくるな!」

 そのひと言で、踏み出しかけていた凪の足は止まった。

 遅れて、天華が見据える先を慌てて視線で追いかけた。

未だ濛々と立ち込める粉塵。するとその中から何やら話し声が聞こえてくる。

 「コラコラ、半蔵くん。壁を壊すんじゃないよ、壁を」

 「も、申し訳ない‥‥‥」

 緊迫した雰囲気には似合わぬ陽気な話し声。まるで散歩の途中に顔を合わせた知り合い同士のような雰囲気である。

そして煙の中から現れた二つの貴影。

一人は、灰色の髪に、寝間着姿の老人。その手には刀が握られている。

 その隣には、上下同色の裁付袴を纏った初老の男性。脇差しの一本も携えていない。にも関わらず身に纏う剣気は天華と同等か、それ以上にも感じられた。

 いいや、注視すべきは寝間着姿の老人のほうだ。

これまでの経験上、実力が高ければ高いほど身に纏う剣気は濃くなるものだが、老人からは何も感じない。それがどれほど異常なことか、兵法家ではない凪にも容易に理解できた。

大和屈指の剣豪。その内の一人は剣聖とまで謳われる伝説の武人 柳生宗矩。そんな生ける伝説。もう一方も纏う剣気からして相当な使い手であることは間違いない。

そんな二人と対峙する天華は、猫の様に体を伸ばし、首や指の関節から小気味い音を奏でている。そこに怯えの色はなかった。準備運動を終えた天華が、鞘から刀を抜刀する。

「待たせたな。それじゃあ始めようか」

闇討ちを仕掛けておきながらの不遜な物言いに、黒衣の武人から峻烈な剣気が迸る。

すると、そんな同輩を宥めるように、好々爺然とした老剣士が陽気な笑い声を上げた。

「これはまた、随分と豪胆な刺客だな」

「寝込みを襲われかけて笑ってられるアンタの方がよっぽど豪胆だよ、爺さん」

「この下郎! まずはその減らず口を聞けぬようにしてくれるわ!」

「こらこら、落ち着きなさい」

黒衣の武人を、老剣士は左手一本で押しとどめた。

そんな二人の何気ないやり取りは見方によっては異様ですらある。

遠目からでも黒衣の武人が尋常ならざる使い手であることは見て取れたが、そのような武人を言葉ひとつで従わせることの出来る老剣士の底知れなさに、改めて背筋を悪寒が駆け抜けた。

その様子を見つめる天華もまた、同様の思考に至り、空色の瞳から先程までの余裕が失せる。

「戦う前にひと問おう。何故、斯様な真似を?」

 「どういう意味だ?」 

 「斬ってしまった後では聴けぬからな。今のうちに知りたいのだ。儂の見立てではお前さん相当な使い手であろう? それなのに何故、夜討ちなどと卑怯な真似をする?」

 宗矩の問いに、紅衣の剣士はフフッとほくそ笑む。

 「別に深い理由はないよ。ただ見極めたかっただけさ」

 「ほーう、では訊ねる。貴公は何を見極めんとする?」

 問われ、天華の口元に不敵な笑みが浮かび上がる。

 「そんなの決まってる。これから私が行くつく先がどれ程のものなのか見極めるためさ」

 「それで? 見極めることは出来たかね?」

 「半分だけ、な」 

 「半分?」

 「あれしきの事で討たれるような奴が天下無双を名乗ってるようなら、他の十本指も程度が知れるってもんだ。だから今はホッとしてるよ。アンタたちが、私の想像していた以上に強いみたいだから。後は、アンタら全員を越えていく、それだけだ」

 その言葉に不敵に微笑んで見せる宗矩とは対照的に、隣の忍の鼻筋には深い皺が寄った。

 「では、始めるとするかの。と、その前に‥‥‥、おーいそろそろ出て来てはどうだ?」

 すると、老剣士がコチラに向かって手招きをする。

 これには流石の凪も驚き、眼を丸くする。

 数秒ほどの逡巡の末、バレているのでは隠れていても仕方がない、と踏み出しかけ―――。

 「あっ、多分、君じゃなくて僕のことっスよ」

 「え?」

 慌てて振り返ると、其処には一人の若い僧侶が爽やかな笑みを浮かべて佇んでいた。

 スラリと背丈は高く、頭は毛の一本も生えていない禿頭。きれいな二重瞼に、くるりと跳ね上がった長い睫毛。柔和な笑みを浮かべる僧侶の手には自身の身長を凌ぐ長槍が握られている。

 僧侶はニッと爽やかな笑みを浮かべると、対峙する三人の方へ大股で歩み寄っていく。

 「いや~、すいません。夕刻までには到着するはずだったんっスけど、途中道に迷った婆さんを見つけて街まで運んでたら、ちっとばかし到着が遅れちまったみたいっス」

 訊かれてもいない遅参の理由を述べる僧侶に、老剣士は苦笑し、黒衣の武人は憮然と声を荒げる。

 「言い訳なんぞいらん。貴様にはあとで説教だ―――胤舜(いんしゅん)!」

 「そんなに怒んないでくださいって半蔵さん。ここの藪道、入り組みすぎてて普通の人なら遭難するっスよ。それに一応間に合ったみたいなんで結果オーライっス」

 長槍で肩を叩きながら宗矩らと天華を挟み込む形で足を止めた。

 「いや、半蔵さんから万が一に備えておけって言われた時は、大袈裟過ぎると思ったっスけど‥‥‥、どうやら予想的中みたいっスね。まさか本当に寝込みを襲ってくる奴がいるなんて」

 皮肉交じりの冗談に、天華はフッと口角を吊り上げる。

 「こっちの奇襲は、全てお見通しだったってわけか?」

「無論だ。光王家お抱え伊賀忍び頭 服部半蔵が知り得ぬことなどこの世に一つとしてないわ」

 服部半蔵―――芸人である凪ですら聞いたことのある名前だった。と、いうより病院生活が長かった凪は、暇な時間の大半を読書に充てていた。その中で読んだ小説や漫画に度々登場してくる名前、それが服部半蔵。確か徳川家康に仕え、その中でも二代目半蔵は、『槍の半蔵』と云われるほど武勇に秀でていたという。

 「配下の下忍どもから貴様のこれまでの情報はすべて知らされている。そこから推察し、あるいはと思っていたが、まさか本当にこのような下劣な方法を選ぶとはな」

 皮肉と侮蔑交じりの言葉に対し、天華は不遜にも反撃する。

 「ハンッ、忍者に夜襲を罵倒されるなんて、この国の忍びは随分とぬるいな」

 「もう一度言ってみろ、小娘!」

 修羅の形相で足を踏み出しかける半蔵を、天華を挟んで向かいの胤舜が笑って押し留めた。

 「ちょっと半蔵さん、自分から挑発しておいて逆に煽られないでくださいよ」

 「ほほほほ、胤舜にまで諭されるとは、短気は君の最大の欠点だな、半蔵くん」

 「くっ‥‥‥、面目次第もございませぬ」

 半蔵の自省を見届けてから、胤舜の話題の矛先が天華へと移った。

 「にしても、俺ら三人を前にしてずいぶんと落ち着いてるっスね? これから死ぬんだから関係ない気もするっスけど‥‥‥。俺も一応は僧侶っスから、死んだ奴の名前くらいは知っておかなきゃなんで、名前、教えてもらってもいいっスか?」

 「ちょ、ちょっと待って!」

 堪らず、凪は隠れていることも忘れ竹藪から飛び出し叫んだ。

 その場に居合わせた全員の視線が集まる。

 「ねえ、ひょっとして三対一で闘うつもりなの⁉」

 「当然だ」

 「そ、そんな‥‥‥」

 「お嬢さん、卑怯だと思うかね?」

 「三対一はあんまりよ!」

「確かにその通りっス。だけど勘違いしちゃいけない。これは尋常な試合じゃないんっスから。彼女は、寝込みを襲うなんって武士としてあるまじき不逞を働いた。その事に対するケジメはちゃんと支払ってもらうっス。彼女はこれから俺らに一方的に嬲られて殺される。異論も変更も認められねぇ、コイツのやったことは十本指、ひいてはこの国の武士への侮辱っスから」

 「―――っ‼」

論破され、言葉に詰まり一瞬、その場の空気が弛緩した―――。

その時だった。 

 口を噤み、胤舜との口論を静観していた女剣士―――宮本 武蔵が放つ、静かだが空気を震わせる剣気が、弛緩しかけていた空気を一瞬にして引き戻した。

 「「「「「――――ッ‼」」」」」

 この場に居合わせた全員が、それぞれ異なる反応を示した。

 ある者は、気圧され地面に尻をつき。

 またある者は、静かに微笑を浮かべ。

 対峙する三人の剣客は一様に得物を構えた。

 「ぁぁ…―――、さっきからゴチャゴチャうるせぇな~‥‥‥。それで? 私の相手は誰なんだ? アンタら三人か? 別にそれでも構わないから早く戦らせろ。もう限界なんだ、アンタらみたいな手練れを前にして、これ以上、腹の奥底で熱く燃え滾る闘争本能を抑えてられないよ」

 空気が変わる。

 吹き抜ける夜風に攫われ足元に降り積もった竹の葉が宙に舞う。

 そして大和最強の剣客三人の意識が、天華を、単なる狼藉者としてではなく、一人の剣客として認知し始めていた。僧兵の貌からは笑みが消え、油断なく槍を構えるその姿が彼らの本気を示す何よりの証左であった。

 「この剣気、どうやら只者じゃなさそうっスね」

 「胤舜。拙者とお主で挟む。呼吸を合わせろ」

 天華を挟んで対岸。黒衣の武人の短いに指示に、槍使いが無言で首肯を示す。

 ――――は、始まる‥‥‥。

 対峙する四人の剣客。

 各々が放つ尋常ならざる剣気が限界を迎え、開戦の火蓋は切って落とされた。

 まず初めに動いたのは、槍使いである胤舜だった。

 予備動作のない滑らかな脚運びで間合いを詰めると、すかさず槍を突く。

 直後響き渡る剣戟音と、飛び散る火花は優に十を超え―――。

 「は、早ッ‼」

 言葉通り、両人の剣戟は壮絶であった。

 僧兵の突く槍を、天華はわずかな体捌きと刀術で弾き、槍使いとの間合いを図る。

しかし槍使いも巧みな槍術により、天華を近寄らせない。

 開戦からわずか数秒で、戦況は早くも人外の領域へと足を踏み入れていた。

 すると其処へ、音もなく天華の背後をとった半蔵の短刀が空を薙いだ。

 その動きを視界の端で捉えた天華は、振り返ることなく抜き放った脇差しをもって捌いてみせる。これには半蔵、胤舜も虚をつかれた格好となった。

 そこから更に数合斬り結んだところで、お互いに大きく飛び退り間合いを取る。 

 「す、すごい‥‥‥」

 戦況は二対一。宗矩を含めれば三対一の劣勢にありながらも、天華が劣っている様には見えない。それどころか優勢にも見えるのは身内贔屓なのだろうか?

 このままいけば―――。

 そんな期待感が脳裡を過った次の瞬間、風を切る飛翔音が何処からか鳴り。

 直後、黒い漆塗りの矢が瑞々しい天華の右太腿に突き刺さっていた。


 「ぐっ‥‥‥!」

 突如、燃えるような激痛が右足を包み込んだ。

 「なんだ、これ⁉」

 刹那、ピュルン、という風切り音を捉えた。視線を向ければ、夜闇に紛れ三本の矢が天華目掛けて襲い掛かってくる。太刀では間に合わない。そう判断し逆手に握り変えた脇差しで飛来する矢を防ぐ。

撃墜した飛来物――――右脚を貫く矢と同じ黒い漆塗りの矢だった。

 矢の飛んできた方角に視線を向けるが、周囲はスクラムを組む巨人のごとき背の竹藪が辺り一帯を覆い、見渡す限りどこにも狙撃手の姿は窺えない。

 「四人目⁉」

 驚愕と戦慄の入り混じった呟きに応じたのは、意外にも黒衣の武人 服部半蔵だった。

 「誰が三対一と言った!」

 「チッ、クソが!」

 舌打ち交じりに毒づき、太腿に突き刺さる矢を強引に引き抜く。傷口を直接火で炙られているかのような痛みの奔流に襲われ、食い縛った歯の隙間から苦悶の呻きが漏れる。 

 「言っただろう? これは尋常な勝負ではないと! だが卑怯とは言うまい。こうなる事も覚悟のうえでお前は我々に戦いを―――否、喧嘩を売ったのだろう⁉」

 たっぷりと皮肉の込められた物言いに、天華は小さく鼻を鳴らし、傲岸不遜に嘯く。

 「天下の十本指が、一介の兵法家相手に四人がかりとは光栄だね」

 「この期に及んでまだ戯言を言うだけの余裕があるとは大したものだ」

 「ハンッ、この程度、かすり傷だっての!」

 正直なところ、天華の計算では二対一ならばどうにか隙を衝いて本丸の宗矩へ接近できるものと踏んでいた。だが相手が三人となれば話は変わってくる。何より厄介なのが姿の見えない弓使い。この暗い竹藪の中、これほど正確に矢を射る技量は勿論のこと、矢を射る際に生じる音や殺気さえも感じ取らせない。

 技術だけではなく、胆力からも相当な手練れであることが窺える。

 矢を嫌い接近戦に持ち込めば、たちまち半蔵、胤舜によって阻まれるだろう。

 そして何より得体が知れないのが、開戦からここまで微動だにしない宗矩の存在だ。 

 隙のない完璧な布陣を前に、最早、天華に打てる手立ては何一つとして存在しない。

 「‥‥‥どうして、この状況で笑ってるんスか?」

 「え?」

 そう指摘され、初めて自分が笑っていることに気付いた。

 「そうだよな? 何で笑ってんだろ‥‥‥」

 気持ちを落ち着かせるように小さく息を吐いた。

 「嬉しんだよ―――アンタらみたいな強い相手と戦えるのが」 

 無意識に放たれた天華の剣気に半蔵と胤舜が弾かれたように大きく跳び退った。

 「ずっと疑問だったんだ。十人いる十本指(アンタ等)のことをみんなが口をそろえて言うんだ、天下無双だってさ。でも、それっておかしくないか?」

 対峙する三人と姿なき弓使いは、静かに天華の言葉の続きを待った。

 「十人全員が天下無双なんってどう考えても矛盾してる。最低でもアンタ等の中の九人は嘘をついてるってことになるわけだが――――アンタらはどっちなんだ?」 


 「「「「――――ッ‼」」」」

 

 「コイツ、ここで仕留めなくちゃ後々厄介なことになるっスよ絶対!」

 「嗚呼、どのみちコイツをここから生きて返すつもりなど毛頭ない!」

 それぞれ得物を構える二人から迸る剣気が更に濃くなっていく。

 「いいねー、そうこなくっちゃなぁー」

 悪童の如き笑みを浮かべ、天華もまた左右それぞれに刃を構えた。

 それを見た三人が怪訝に眼を剥く。

 「貴様、一体どういうつもりだ?」

 声音に怒気を孕んだ半蔵の問いに、天華は微笑とともに返答する。

 「なーに、アンタら四人相手に刀一本じゃ、どう考えても不足だろ?」

 「‥‥‥‥」  

 怪訝な顔をする三人の剣豪。それはもう一人の見えない弓使いも同じだろう。

 それ程に、二刀流というものは常識から外れている。

 まず第一に腕一本と、二本の時とでは腕力に大きな差が出る。両手で剣一本を統べる為に兵法家はその一生を費やす。そんな彼らでさえも二刀は使わない。否、使えない、と言ったほうが正しい。何故なら、腕力の差は技の冴えに、剣速へと繋がる。要するに肉は裂けても、骨までは裂けないのだ。一瞬が生死を分かつ達人同士の闘いで、刹那の遅れが致命的な隙になる。それ故に二刀は実戦では使い物にならない、芸人の技と見られる。

 無論、天華も二刀流の弱点、欠点については承知している。

 だが、不思議と操れると思った。

 理由は解らない。事故に遭う以前に会得した訳でもない。

 それでも体が、『二刀の技を覚えている』ように思えた。

 あの日、古都の路地裏で玲に敗れて以来、天華は過去の自分と決別することを心に誓った。

 どんなに足掻こうとも、かつて神童と謳われていた頃の剣才は、もう二度と手に入らない。

 なればこそ、新しい焔 天華を創り上げねばならない。

 その為に、ここまでの旅路の中で仕合ってきた剣士たちを相手に、二刀流を積極的に取り入れてきた。その過程で二刀流に大切なのが『脱力』にあると悟った。

腕力で刀を支えるのではなく、振り回す際の遠心力を利用する。そうすれば実質、刃を振るう時にさえ力を込めれば、肉を裂き骨を断てる。

 だらりと下げていた刀を下段から中段へ転じるも、その構えは一刀の中段の構えとは異なる歪な構えであった。長短の二刀を切っ先で交叉させた構え。

 天華はこの型を『円極』と名付けた。

 「じゃあ、行くぜ」

 短い呼気と共に地を蹴りつける寸前。

 再度、空を切り裂く飛翔音が鳴る。 

 「二度も同じ手を喰うかよ」

 無警戒だった初撃とは異なり、全方位を警戒していれば如何に不意を衝かれようとも矢を防ぐのはそう難しいことではない。

矢を右の刀で弾く―――、と視界の端で月明りに紛れて迫る一条の矢を捉えた。咄嗟に顔を背けるも完全には躱しきれなかった。頬を掠めた矢が背後の暗闇へと吸い込まれていく。

 「ニャロー、色違いの矢を使い分けてやがるな。セコイて使いやがって‥‥‥」

 夜陰に紛れやすい黒色の矢と、その背後に別色の矢を忍ばせている。

 だがこれで弓使いの戦術は理解した。

いつどこから襲ってくる矢に神経を尖らせるのではなく、常に動き続け弓使いに的を絞らせないことが、この場における最善手だ。

「余所見、厳禁!」

 刹那の隙を咎める叫び声に、天華の意識は思考の渦から引き戻される。

 鋭く突かれた胤舜の槍を天華は小太刀で弾く。

 「何の、これしき!」

 事故に遭い、剣才を失った天華が唯一失うことのなかった『天眼』は、胤舜の槍を正確に捉え、間合いの半歩外側に逃れることで、その大半を体捌きのみで躱していた。当然、遠方から飛来する正確無比な射撃に対する警戒は一ミリも緩めはしない。

 ほとんど綱渡り同然の攻防を続ける天華の背後から、音もなく忍び寄る影。

 「背中がガラ空きだぞ!」

 「不意打ちは、黙ってやれよ!」

 合掌が解かれ銘刀『伯耆安綱』が横薙ぎに振り払われる。

 激闘する太刀と短刀。無数の火花が散り、半蔵の姿が影の中から引きずり出される。

 「甘いぞ、小娘ッ‼」

 鍔ぜり合いから一転、刀の腹を短刀で滑らせ、天華の一撃を器用に捌き、一気に間合いを詰めにかかる。―――だが、この一連の流れは天華の筋書き通りだった。

 振り抜いた反動を利用し、腰に佩いた鞘を思い切り跳ね上げる。狙い違わず鞘の鋒鋩が半蔵の顎を跳ね上げた。

 「チッ、手応えねぇ‥‥‥!」

 顎を撥ねるのと同時に、自ら後方へ大きく跳び退ることでダメージを最小限に抑えたのだろう。鞘から感じる手応えの無さがそのことを如時に物語っていた。

 それでも半蔵を押し返したことで、数秒天華の意識は胤舜一人へと向けられた。

一気呵成に畳みかけるべく踏み込む寸前、今度は左脇腹を突き抜ける強烈な痛みに天華は短く喘いだ。

 脇腹には半蔵が手にしていた短刀が深々と突き刺さっていた。

顎を刎ねられるのと同時に、手にしていた短刀を投げ放っていたのだろう。

 「‥‥‥くッ‥‥‥!」

 そこに生まれる一瞬の隙を見逃すほど、十本指は温くない。

 「ほわああああっ‼」

 槍使いが、その端正な相貌を歪めながら吼える。

 が、槍は天華ではなく、その足元の地面を刺し穿つ。

 「なっ‥‥‥⁉」

 およそ常識の埒外の技に天華は面食らい、動きを止めてしまう。

 瞬き程の隙も許されない高速戦闘の中において、そのコンマ数秒はあまりにも致命的だった。

 地面に突き刺した槍を起点に、棒高跳びの要領で高々と舞い上がった胤舜は、宙で身をねじた反動、さらには槍の遠心力を以て上段から槍を振り下ろした。

 遅れて敵の狙いを悟った天華は、頭上で円極の構えを作り、その一撃を受け止める。

 鉛、いや、小隕石の落下にも等しい衝撃が全身を襲った。

 膝だけは屈してなるものか!

 剣士としての矜持が、凶悪極まる胤舜の一撃を耐え抜いた。

 そんな健闘も虚しく先に根を上げたのは、天華の足元―――地面だった。

 無数の罅割れた足元に奔る。支えを失ったことで保っていた均衡が崩れた。

穴底に押しつぶされる間際、天華は自ら背中から倒れ込むことで衝撃をいなそうとするも、完全には抑えきれず、振り抜かれた槍の穂先が右肩から左脇腹にかけて斬り裂いた。

 激痛に意識の手綱を一瞬手放しかけるが、続けて視界を覆う影がそんな甘えを許さなかった。

 「ッッッ‼」

 横へと飛び退く。直後、先程まで蹲っていた場所を長槍が貫いた。

 動くほどに傷口が開き、痛みと疲労が容赦なく天華から体力と気力を奪い去っていく。

 「‥‥‥ガハッ‥‥‥ハッ‥‥‥」

 起き上がり、貪るように息を吸いこむ。

 「‼」

 背筋を撫でる悪寒。考えるより先に剣士としての本能が天華を突き動かした。遅れて地面に無数の矢が突き刺さる。 

 「休む暇もねぇな!」

 「当然だ」

 「――――ッ‼」

 振り向きざまに振るった横薙ぎの一閃が虚しく空を切った。

 「こっちだ」再び背後から半蔵の声。

反転しかけた所で腹部を鈍器で殴られたような鈍い衝撃が襲った。肋骨数本に罅が入る不快な音とともに数メートル近く吹き飛ばされ、背を竹に打ち付けようやく停止した。力なく項垂れる天華を見据える二人は一定の距離を保ち、不用意に距離を縮めようとはしなかった。

 「油断して近づいても来ねぇのかよ」

 「まだ無駄口叩けるなんって、流石に呆れるっスねー」

 「油断するなよ」

 「分かってるっスよ。俺ら三人がかりで仕留めきれないような奴っスからね。油断とか、マジないっスわ」

 右手の太刀を杖代わりに、ヨロヨロと立ち上がる。

 「正直、アンタら私の想像よりずっと強いよ」

 「そりゃあ、十本指っスから」

 「今更、後悔しても遅いがな」

 ゆっくりと、しかし確実に間合いを詰めてくる二人。遠方からは姿なき弓使いがコチラを狙っている。

 「こりゃあ、ちとマズいな‥‥‥」

 言葉とは裏腹に、天華は意識して笑みを創る。

 余裕のなさを相手に気取られぬ為だが、それもこの状況ではほとんど意味を成していない。何より、未だ本丸である宗矩自身が開戦直後から一歩も動いていないのだ。このままではいずれ押し切られることは火を見るよりも明らか。

 しからば―――賭けに打って出るよりほかに活路はない。

 円極の構えを解き、小太刀を鞘に納める。

 「降参するっスか?」

 爽やかな笑みを口端に浮かべ、胤舜が問う。

 その返答として、天華は上体を前傾させた体勢から一気に飛び出し、地表ギリギリを滑るように疾けた。自陣の勝利を確実なものとしたことで若い槍使いに、一瞬の隙が生まれた。天華はその一瞬を見逃さなかった。包囲を抜け、本丸である宗矩目掛けて突き進む。

 「やべ‥‥‥ッ⁉」

 「宗矩殿‼」

 背後から響く、二人の叫び声。

 「遅ェよ!」

 以前、宗矩に動きはない。

否、相手は全盛期を過ぎた過去の伝説。単にコチラの動きが見えていないだけだ。

 「奥義―――『虎撫』‼」

 右脇構えから、すれ違いざまに相手の胴を薙ぐ絶技。

 足袋底で地面を削りようやく停止した所で天華は肩越しに振り返る。

 「どうだ!」

 手応えは十分にあった。

 「良い一撃だな」

 「な‥‥‥ッ⁉」

 驚愕が総身を駆け抜けた。

 空色の双眸が見据える先、佇む老剣士の体には傷一つない。

 「そんな、馬鹿な⁉」

 まるで理解の及ばない現象を前に、凍り付く天華。すると宗矩が徐に構えを解き、自らの胸元をトントンと叩く。それに気付き天華はおずおずと視線を胸元へ降ろし、鋭く息を呑んだ。

 凪が用意してくれた真紅の小袖に黒い染みが広がっていく。

 傷を認識した瞬間、体から急速に力が抜け、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 薄れゆく意識の中、天華は自分がいつ斬られたのか記憶の糸を辿った。そもそも、あの手応えは何だったのか? 幾つもの疑念に答えたのは、すぐ側まで歩み寄ってきた老剣士だった。  

 「解せぬ、という顔だな。冥途の土産に教えてやろう。お前さんは錯覚したのだ。自分が斬られたことを認められず、相手を斬ったという都合のいい想像としてな」

 軽やかな鞘鳴りを立て、宗矩は刀を収めた。

 「眠るがいい、若く愚かな虎よ」

 その言葉を最後に、天華の意識は暗転した。

 


 天華の胸から紅い花が咲き、やがてそれは血飛沫へと変わった。

 「ッッッ‼」

 悲鳴にも似た、悲痛な叫びと共に凪は隠れていた竹藪から飛び出した。

駆け寄ろうとする凪の進行を黒衣の武人が遮った。咄嗟に護身用の短刀を抜き、声を荒げた。

 「そこを退いて!」

 そんな凪の抵抗虚しく、半蔵が嘆息を洩らした次の瞬間。眼にも留まらぬ早さで得物を弾かれてしまう。得物を失い呆然自失とする凪へ、低い声が投げ掛けられた。

 「奴は直に死ぬ。即刻、この場を立ち去るのならば命までは獲らんと約束しよう。

生き恥を晒し生き延びた貴様にできることは、事の顛末を世に伝え広めろ。奴の無謀さを、卑劣さを、愚さを、余すことなく伝え広めるのだ。それが、友が死んでいく光景をただ指を咥えて見ていることしか出来ない貴様への戒めとする」

 凪は唇を噛み締める。

 唇が切れ、血が滲んだ。

 「そんなの、嫌よ」

 「忠告はしたぞ」

 振るわれる脚撃技。常人では視認すら叶わぬ早さ。喰らえば骨の二、三本は軽く砕いていただろう。しかし風祭 凪は、生憎常人ではなかった。

出雲阿国がもつ敏捷さで、半蔵の一撃を躱すと、倒れ伏す天華の元へと駆け寄った。

着物が血で汚れることも構わず、罅の入った硝子細工に触れるように、そっと天華の頬に指を這わせた。

 戦場にはあまりにも似合わぬ可憐な乙女の姿に、その場に居合わせた誰もが言葉を失う。

 「残念っスけど、これがソイツの望んだ結末だ」

 そう呟く胤舜の声音には、微かに憐憫の気配が含まれていた。

 「だけど俺、ソイツのこと嫌いじゃないっス。久々に本気で戦えた」

 そして、胤舜の貌から笑みが消えた。

 「だからお願いっス。ソイツから離れてくれないっスか?」

 胤舜の問いに、凪は沈黙を以て答えた。

 それが何を意味するのか、解らない彼女ではないだろうに。

 微かに胤舜の肩が震えた。だがそれもほんの僅か。

 二人の少女を睥睨し、槍を構えるのは兵法家としての胤舜ではなかった。

大和の守護者 十本指の宝蔵院 胤舜が静かに槍を振り上げた。

「なら、君も反逆者の一人として、ここで処刑するっス」

若年ながら見る者を威圧する胤舜の剣気を前にしても、凪はその場を退こうとしない。

「覚悟が出来てて、助かるっス」

高々と振り上げられる長槍。直後に振ってくる『死』を前にしても凪は逃げなかった。それどころか口端には笑みすら浮かんでいる。そんな少女の歪さに半蔵は顔をしかめ、胤舜はトドメを躊躇った。

「胤舜、待ちなさい」 

と、横合いから思わぬ助け船が入った。

「殺すな、って事っスか、爺さん?」

 胤舜の問い掛けに、老剣士は静かに頭を振る。

 「最後に語らうだけの猶予は与えてやっていいだろう?」

 「甘いっスね」

 「君もな」

 宗矩の指摘を、胤舜と半蔵は否定しなかった。

 束の間ではあるが命を繋いだ。凪は抱きしめる天華を見つめると静かに語り掛けた。

「天ちゃん、起きて」

肌は冷たく、閉ざされた瞼はピクリとも震えない。

それでも凪は、天華がまだ生きていると確信していた。

「こんな所で終わっていいの?」

脳裡に、天華と初めて出会った時の記憶が蘇る。

人生に絶望し、死ぬことを待つだけの空虚な日々。

そんな時に見かけた一人の少女。

杖なしでは歩けない事故に遭い、それでも必死に前を向くその姿に憧れた。

私も、その子のように強くなりたかった。

だけどソレは叶わない願いだ。

だって、少女はひたすらに前だけを見据えている。

一緒に歩きたいと願う凪とは、目指すモノが初めから違っていた。

 だから、凪は信じた。

 焔 天華が、こんな所で終わるはずがないと。

 故に凪は諦めかった。

 この思いは必ず届く。

 天華のように剣を使えるわけでもない。

 折れそうになる彼女を支えられているのかもわからない。

 それでも、信じることが風祭 凪にとっての闘いだった。

 「立って、戦え―――焔 天華‼」



 暗転。

 天上から降り注ぐ白い輪の中に、天華は佇んでいた。

 「ここは、一体‥‥‥?」

 辺りは一面闇が広がっていた。

 頭上をふり仰げば、強すぎる光量に軽い眩暈を覚えた。

 「私は、死んだのか?」

 「否」

 不意に、背後で声が聞こえた。

 振り返ると、暗闇の中にひっそりと男が佇んでいた。

お世辞にも綺麗な身なりと言えない。しかし身に纏う威圧感から男が只者でないことは容易に察せられた。まるで威圧感を衣服として纏っているかのような男だった。相貌は暗闇ゆえに窺い知ることが出来ないが、随所に垣間見える素肌や骨格から推察するに、若くとも二十後半から三十代前半といった所だろうか。

 「誰だ、アンタ?」

 「名に意味などない」 

 天華の問いをすげなく一蹴し、男は続ける。

 「ここが何処か、解るか?」

 男の問いに頭を振る。

 「なるほど。貴様に我が肉体を与えたのは失策だったようだ」

 「我が肉体?」

 「問おう、剣とは―――強さとは何か?」

 「は? 何だよ、藪から棒に?」

答えに窮する天華へ、更に男は問いを重ねる。

 「質問を変える。貴様は何のために剣を振るう?」

 「‥‥‥そんなの‥‥‥決まってる‥‥‥」

 私が、焔 天華だからだ。

 それ以外に理由などない。

 「では、強さとは何か?」

 「おい、オッサン! 何だよさっきから訳わかんねぇことをベラベラと!」

 「解らんか」

 「だから、何を言って‥‥‥」 

 「解らなければ、貴様はこの先永遠に奴に追いつくことは叶わんぞ」

 「―――――ッ‼」

「拙者が貴様に肉体を明け渡したのは、貴様ならば理に辿り着けると期待してのこと。だが拙者の見立ては間違っていたようだ。貴様のような腑抜けには、その体は無用の長物よ」 

 「て、テメェ、さっきから好き勝手言いやがって」

 左腰の佩刀に手を伸びる。

 「貴様も所詮は贋作に過ぎぬ」

 「何? 贋作だと?」

 「左様、過去の己に縛られ、今を観ようとしない。我が肉体に残った二天一刀の上澄みだけを掬い取り、理を悟ったと勘違いしている」

 心臓が早鐘のように脈打つ。

 「言葉にしなくては解らんか? こうしてお前が足踏みしている間にも、奴は理に近付いているぞ? かつての貴様を理想と仰ぎ見ながら、とうの昔にその理想を呑み込み、奴は剣士としての頂きに王手を掛けつつある」

 男の声は容赦なく天華の胸を抉ってくる。

 脳裏には、背を向け遥か遠くを歩く銀髪の剣士の姿が写る。

 「それで? 貴様はどうする、このまま此処で野垂れ死ぬか? それとも現実で十本指なる棒振り共に殺されるか? どちらでも構わん、好きに選べ。その肉体は既に貴様のもの。拙者にはあずかり知らぬ故な。いずれにしろ今の貴様では奴に届きもすまいがな」

 「じゃあ、どうしろってんだよ?」

 普段の天真爛漫な焔 天華とは似ても似つかぬ、弱々しい声だった。

 「今の私に、これ以上一体何をやれって言うんだよ⁉」

 悲痛に顔を歪め、縋る思いで天華は男に訊ねた。 

 しかし、男はそれすらも容赦なく一蹴する。

 「阿呆め、自分で考えろ」

 「ッッッ‼」

 全くの正論に、言葉に詰まる。

 「そもそも剣に答えなどあるはずもなし」

 おずおずと顔を上げた天華に、男は矢継ぎ早に話を続ける。

 「まずは己の弱さを認めろ」

 「弱さを?」

 「その上で、喰え。己自身も、敵も、そして拙者ですらも己が力の糧としろ! 考えるな、感じろ。もっと耳を澄ませ、己の声に耳を傾けろ。満足するな、もっと貪欲になれ!」

 男の話は半分も理解出来なかったが、何を言わんとしていたのかは理解出来た。

 「宮本 武蔵を越えてみせろ。それが出来なければ奴と闘う資格すらない」

 途端、男の体が暗闇の中に消えていく。

 「ま、待て! 話はまだ終わって‥‥‥」

 「歩みを止めるな、進み続けろ。それだけが貴様の望みのはずだ」

 「――――ッ‼」

 そして、男は消えた。

 伸ばされた掌には何も残っていない。

 だが、胸の奥底、魂と呼べる場所に、男の魂が溶けていくのを感じた。

 男は最後まで自らの素性を明かさなかった。

 面識があるわけでもない。

 それでも、天華は男が何者であるか理解し、口端に苦笑を浮かべた。

 

◇◇◇


 風祭 凪は奇跡を見た。

 長い睫毛が震え、抱きしめる手にそっと手が重ねられた。

 「おかえり―――天ちゃん」

 「ただいま、凪」

 優しく微笑むと、ゆっくりと身を起こした。

 「直に終わるから」

 そう口にする天華の声は確信に満ちていた。

 その姿に、対峙する胤舜を含め、十本指の面々が驚愕に双眸を見開く。

 「その傷で、何でまだ起き上がれるんっスか?」

 焦りを孕んだ笑みを、胤舜は後方の半蔵へと向けた。

 同時に、半蔵の右手が持ち上がるや、遠い空から無数の矢が天華目掛け飛来する。

 姿なき弓使い、その正確無比な射撃が天華を襲う。

 だが直後起こった現象は、十本指ですら理解の及ばぬ現象だった。

 開戦直後とは別人の如く緩慢な動きで振るわれた一閃が、飛来してきた矢をすべて撃墜した。


 「「「「――――ッ‼」」」」


 驚愕に眼を剥き、凍り付く三人の剣豪の姿。 

 コチラにまで聞こえそうなほど、奥歯を噛み鳴らす半蔵が背後へ向けて叫んだ。

 「殺れ、与一!」

 その数秒後。

 夜風に揺れる竹の葉擦れを消し去る無数の風切り音。

途端、月明りが隠れた。

ふり仰ぐと、そこには夜空を覆い尽くす無数の飛影。天華を中心に矢の雨が降り注いだ。

 やがて矢の雨が止んだ。

 一同が注目するその先で、悠然と佇む女傑。

 その足元には、無数の矢が突き刺さっていた。

 しかし矢は、天華を避けるように間合いの外側に突き立っていた。

 「バカな、あり得ん! あの矢の雨を防いだだと⁉」

 愕然と半蔵が呻いた。

 「ならば、拙者自ら引導を渡してくれる‼」

 「待て、半蔵―――っ‼」

 飛び出した半蔵が天華の間合いに足を踏み入れる直前、宗矩の怒号が響き渡った。

 静止した半蔵の眼前が鋭く切り裂かれた。

 「んッ⁉」

 間一髪難を逃れた半蔵は、そのまま大きく飛び退る。

 「面目ない、迂闊でした」

 「よい、アレ相手に死ななかったことだけで十分よ」

 「宗さん、さっきのが何か知ってるんっスか?」

 「知っている。だが信じられんな、この土壇場でまさか五大極地の一つに目覚めるとは」

 「何ですか、それは」

 「我が柳生家に古くから口伝される地、水、火、風、空の五つの技の極地。使える者は柳生の歴史においても片手の指の数にも満たぬ絶技よ。そしてあの娘の技は、その一つである水の極地へと達している。技の名を―――『明鏡止水』」

 「そのような奥義を何故、あのような小娘が⁉」 

 「五大極地は、技であって、技ではない。つまりは精神の在り方に近い。それ故、五大極地は誰にでも操れ、また誰にも操れない技なのだ。故に柳生ではその五つの極地こそが終の技とされているほどだ」

 「では、あれを破る術は?」

 「さて、儂には思いつかんな。何せ儂自身、未だその極地に足を踏みいれておらんのでな」

 「ってことは、つまり今のアイツはこの場にいる誰よりも強いってことっスか?」

 胤舜の問いに、宗矩が悔しさの滲む笑みを返した。

 「そうなるな」

 「じゃあ、アイツを倒すことが出来れば、俺が最強ってことになるっスよね?」

 「胤舜、何を?」

 「止めないでください。俺はアイツを倒してみたい」

 「戦えば十中八九負けるぞ。それでも戦るのか?」

 「宗さん、そんな言い方されたら益々、戦りたくなるっスよ」

 「相解った。ならば止めはせん。存分にやりなさい」

 「感謝するっス、宗さん。見ててください俺が勝つところ」

  

◇◇◇


 古都の南に『宝蔵院』という寺がある。

三千人の門人。その全てが僧兵として教育される。

宝蔵院槍術、と呼ばれ、座主『宝蔵院 胤(いん)栄(えい)』の代を以て発展を遂げ、剣の柳生、槍の宝蔵院、と称されてきた。

しかし昨今、槍聖とまで謳われた胤栄も年老い、後継者を選ぶ段になりある悩みに行き当たった。それが次の座主(ざす)を一体誰が継ぐのかという跡目問題である。生涯妻をめとらなかった胤栄には子がおらず、後継者は門徒の中から選ぶしかなかったが、門弟たちは胤栄を神の如く崇拝していた為、誰一人として後継者に名乗り出る者は現れなかった。

ある日、寺の前に一人の幼子が捨てられ、胤栄はこれを拾い育てた。

やがて、捨子であった少年が十五になる頃には、寺の中で少年に敵うものはいなくなっていた。それを見た周囲の者たちは次の後継者が現れたと確信し、そして次なる槍聖誕生に歓喜した。だが、胤栄だけはそれを頑なに認めようとはしなかった。

少年は胤栄に向かって訊ねた。

 なぜ、自分は後継者にはなれないのか、と。

 これに対して胤栄は小さく頭を振るだけ。

それでも訊ね続ける少年に、胤栄は短く一言だけ告げた。

 『お前はまだ、強さを知らぬ』

 それから三年が経ち、胤栄の知己である柳生 宗矩の推薦をもって少年は十本指と呼ばれる光王家お抱えの剣客組織へと招かれ、これに了承する。むろん胤栄の許しは得ぬままに。それでも少年は大和最強の使い手の中で最強となれば頑なに後継を許さない胤栄も認めざるを得ないだろうと考えた。寺を出る時、少年は養父の名から一字をもらい、名を『胤舜』と改めた。


 刹那の剣戟であった。

豪雨のように降り注ぐ矢の雨をこともなげに叩き落した女剣士に、胤舜は生まれて初めて恐怖していた。

 槍を握る手が震えるのを抑えられぬまま、足が意識せぬままに動きだしていた。

 「やめろ、胤舜。お前ではまだ‥‥‥」

 そう言いかけた半蔵は、胤舜の眼に宿る覚悟を察しピタリと口を閉ざした。

 「ほほほほっ、よいよい、半蔵くん。若者とはこうでなくてわな。我が柳生家が残した極地を無名の女剣士が操るのだ。そんな相手を前に心揺さぶられぬ者が、はたして天下無双を謳う十本指を名乗れるかな?」

 ぽんと半蔵の肩に手を置いて、朗らかに宗矩は笑った。

 「ここからは、若者の時代―――次の世代を担う者どもの時代よ」

 そんな宗矩の言葉も、今の胤舜には届いていない。

 意識は極限まで錬磨され、今ならば針の穴ほどの隙間だろうと槍を百回突いても百回成功させるだけの自信がある。

 幼少の頃より神童、天才と言われてきた。

そのことに疑問を感じたことはない。これまで胤舜は本気の勝負で負けたことがなかったからだ。それは十本指になってからも変わらない。天下無双と称される使い手が集まる剣客組織。だが、入ってみれば何の事はない。同じ十本指同士では試合そのものを禁じる不文律が存在したが故に正確な強さを測ることが出来なかった。

思えば胤舜は常に飢えていた。

自分と対等に戦うことのできる相手に。

 そして見つけた―――眼の前にいる。

 お互い、一足一刀の間合いの外で対峙する。

改めて眼前の女剣士の放つ静かだが、清流の如く淀みのない剣気に総毛立った。

 「十本指が一人、宝蔵院 胤舜。宮本武蔵殿、いざ尋常に勝負!」

 鋭く叫ぶと同時に、胤舜は地を蹴った。

 刀の間合いの外から、電光石火の突きが繰りだされる。

 「てやぁあああ‼」

 雄叫びと共に、秒速二十を超える打突の嵐。

人間の成せる技を超えた、十本指に相応しい槍術である。

対する女剣士は最小限の動きで、迫る槍を捌いていく。

まるで水を衝いているかのように手応えがなかった。

焦りが徐々に、胤舜から冷静さを奪っていく。

傍目には防戦一方に見える攻防も、その実、追い詰められていたのは胤舜の方であった。

幾ら突いても捉えることの出来ない焦り、体力、精神の消耗により技の切れは鈍っていく。

まるで藻掻けばもがくほど深みに嵌まっていく底なし沼のように。

 

 「水の極地とは、強さも、弱さも全てを受け入れるということだ」

 ぽつぽつと洩らす宗矩の言葉に凪は耳を傾けていた。

 「人は誰しも自らの弱さを容易には受け入れられない。死を、弱さを、恐怖を、劣等感を、迷いを、そういった人間ならば誰もが持つ当たり前の感情の全てを受け入れ、はじめて水の極地へと至れる。儂はその境地を知らぬ。これまで想像することすら出来なかった。だが、あの娘を見て、その答えが判った気がする」


 翡翠の眼差しが見据える先、満身創痍の体で、それでも剣を振るう紅衣の少女。

 槍が突かれる度に、流麗な舞を踊るかのような軽やかなステップで攻撃を捌き続ける。

 この二か月、見守り続けた彼女の剣は薪をくべ続けなければ消えてしまう炎のようであった。

でも今は違う。

直にでも治療しなければ命の危険に関わるような深手を負いながらも、その顔は楽しそうで、剣を振るうその姿は、この場の誰よりも―――綺麗だった。

 

 深い水底に沈んでいくようだ。

 集中が深くなるにつれ体の感覚は薄れ、技が研ぎ澄まされていく。

 両手に持つ二本の刀が、羽根のように軽い。

 突き出される槍は静止しているようですらある。

 相手が何を考えているのか、手に取るように判る。

 以前までなら、この打突の嵐を前に成す術なく敗れていただろう。

 だが、潜在意識の中で『謎の男』からの話を経て何かが変わった。

 突き出される槍からは、使い手の『心の声』が聞こえてくる。

 俺は強い。

強くないといけない。

強くなければ認めてもらえない。

 眼の前で、窮屈そうに藻掻く胤舜の姿に、かつての自分自身が重なって見えた。

 事故で失ったかつての自分を取り戻すため、遮二無二に剣を振るっていた頃の自分。

 きっと凪と出会っていなければ、今の自分はここにいなかった。

 以前までなら、このような感傷を抱くことはなかっただろう。

 だから伝えなくてはならない。

私の全てを曝け出させてくれた相手に敬意を込めて。

 胤舜渾身のひと突きを躱し、滑るようにして懐深くまで潜り込む。

 すれ違いざま、胤舜の耳元で小さく囁いた。

 「ありがとう」と。

 そして、静かに刀を振るわれた。

 剣豪 宮本 武蔵から受け継ぎ、焔 天華自身の技へと昇華させた奥義。

 技の名を―――『二天一刀流・虎撫』

 互いの位置を入れ替え、静止した直後。

盛大に血を噴き出し崩れ落ちる胤舜を横目に、天華は夜空に浮かぶ月をふり仰いだ。

 「今夜はこんなに、月が綺麗だったんだな‥‥‥」

 その言葉を最後に、天華の意識は闇に吞まれた。



 数日後、天華は宗矩が暮らす庵で目を覚ました。

 しばらくは自分が何処にいるのか、何故ここにいるのか思い出せなかった。

膝元で縋り付くようにして寝息を立てる凪の姿を認め、ようやく全てを思い出した。

 体のあちこちに新しい包帯が巻かれている。どうやら定期的に交換してくれたらしい。友の献身を嬉しく思い、自然と口元に柔らかな笑みが浮かんだ。

栗色の頭にそっと触れ、指間で梳くように髪を撫でてやる。すると飼い主に撫でられる子犬のような擽ったそうな声が凪の口から漏れ聞こえた。

その姿に更に笑いが込み上げてくる。

不意に、廊下から足音が近づいてきた。

凪の頭に手を置いたまま、入室者を迎えた。

現れたのは、藤の刺繍が施された小袖姿の美女であった。

 「あら? もう目が覚めたの?」

 「アンタは‥‥‥」

 女性の姿を認めた途端、先日の湯治場での一幕を思い出した。

 「まぁ、嬉しい。憶えててくれたのね」

 「那須与一。‥‥‥なるほど、アンタが弓使いだったわけか」

 確信の宿るそのひと言に、女は嫣然と微笑んだ。

 「ご明察の通り、あの夜、貴方の足を射貫いたのは私よ。だけど恨まないで、私は十本指としての務めを果たしただけだから」

 些かも悪びれる様子のない与一の態度を苦々しく思いながらも、天華は敢えて笑みを浮かべてみせた。

 「別に」

 「そのわりには随分とご機嫌斜めのようだけれど?」 

 「‥‥‥凄かったよ、最後まで気配を捉えきれなかった」

 「フフッ、案外可愛い所もあるのね、貴方のこと益々気に入ったわ。だけど耳が痛いわね。結局私の弓は貴方には通じなかった。これでも大和一の弓使いを自負していたから、正直に言うとすごく悔しかったわ。だけどあの後、貴方たちの闘いを見て自分の未熟さを思い知った」

 「あれからどうなった? まさかお咎めなしってわけじゃないんだろ?」

「いえ、そのまさかよ」

 「どういうことだ?」

 「半蔵さんは、気を失ったアナタを殺すべきだと最後まで主張していたようだけれど、宗矩さんがそれを良しとしなかったのよ。そして貴方の命を助けるように私が仰せつかった。これでも一応、医学の心得もあるからひとまずは安心なさい、貴方やこの子の身の安全は私を含む十本指の総意でもある。それに胤舜からも頼まれちゃったの。貴方を死なせないでくれって」

 「何だ、あの禿まだ生きてやがったか」

 「残念?」

 「別に」

「まぁ、貴方以上に重症よ」

 「そうか‥‥‥」

 長い沈黙の末、徐に与一が口を開いた。

 「貴方、迷人ね?」

 予想打にしていなかったひと言。驚きを隠せていないと自覚する表情のままに、天華は顔を上げる。その姿が想像通りだったのか、与一はクツクツと忍び笑いを洩らしている。

 「コイツ‥‥‥」顔が引き攣るのが自分で判った。

 「ごめんなさい、彼女から話は聞いていたの」

 膝元で今も寝息を立てる凪を見据え、与一は訥々と語り始めた。

 「私も貴方たちと同じように、五年前、日本からこの地で那須与一として生まれ変わったの」

 以外には思わない。与一の口ぶりからそうではないかと予想は出来ていた。

 「私の本当の名前は、紫村 冴。凪ちゃんの話と照らし合わせたら日本では貴方たちの一つ年上、高校二年生だったみたいね」

 「ちょっと待て、五年前って‥‥‥、私がこの世界にきたのは半年前だぞ?」

 「この世界に転生した人は大なり小なりタイムラグが起きているようね。現に凪ちゃんもこの世界にきたのは二年前って言ってたから、実際その通りなんでしょう」

 「‥‥‥それで、何で私にそんな事を話すんだ?」

 「勿論、同じ境遇、それも女子なんだから仲良くしたいと思って」

 「そんな御託はいいから、早く本題を話せよ」

 「あらそう?」

 とぼけた様子の与一―――改め紫村 冴に、早く続きを話すよう促す。

 「私が訊きたいのは一つだけ、この世界に飛ばされる直前、貴方にも届いたはずよ―――『赤い招待状』がね」

 刹那、この半年朧気だった記憶が鮮明に蘇ってきた。

 「あれが何のか、アンタは知ってるのか?」

 質問に対し、冴は苦笑しながら頭を振る。

 「ごめんなさい解らないわ。この五年、他の迷人を探して同じことを訊ねてみたけれど何も判らなかった。貴方たちも迷人なら、もしかしたらと思ったのだけれど、どうやら今回も外れのようね」

 外れで悪かったな、と非難の眼差しを向ける。それに気付いた冴は微笑し、気を取り直すように話の続きを口にする。

「だけど話を聞いて分かったこともあるの。例えば招待状を受け取ったのが十八歳以下の高校生だけ、とかね。そして大和に転生した人は皆、元々この世界で存在した人物と入れ替わってる。それが中身だけなら解りやすいのだけれど、どういう訳か容姿や性別はそのまま、元の人物として他の人には認知されてるみたいね。

何より、転生した元の宿主は一人の例外もなく、私たちの世界で歴史的にかなり有名な人ばかりが選ばれているということ。例えば私の那須与一は平安時代末期、屋島の戦いで活躍した武将で貴方はあの高名な剣豪 宮本武蔵。他の迷人も皆、似たように歴史的に有名な人ばかりだったわ。そして、私たちは入れ替わりながらも、宿主たちの経験を引き継いでいる。あの晩、貴方が振るった二刀流もそうなのでしょう?」

 そう言われれば思い当たる節は幾つもある。

 見覚えのない刀について詳しかったり、初めて振るう二刀流に何の違和感も感じなかったこと等。その全てが冴の言うように、宮本武蔵という一人の武人が体得した技だとすれば、私はただ他人が血の滲むような修練の果てに会得した技術の上澄みを掬い取っただけに過ぎないのではないか?

 もしそうなら、それは自分の力だと胸を張って言えるだろうか?

 答えは明白――――否、である。

 如何に、宮本武蔵の技を真似ようとも、それは本物ではなく、唯の偽物に過ぎない。

 ならば、あの夜の闘いの全てが無意味だったのではないか?

 答えのない自問を反芻していると、「今の貴方が何を考えているのか解るわ」、徐に冴が口を開いた。

 そのひと言で、我に返る。

 冴はその様子に小さく苦笑し、続けて懐かしむように語り始めた。 

 「私も那須与一という武人の技を引き継いだからこそ十本指に選ばれた。だけど勘違いしないで欲しいのだけれど、私たちは元々、宿主に近い性質を備えていたのよ。

例えば、私は元の世界じゃアーチェリーのオリンピック候補だったわ。だけど怪我をしてオリンピックへの夢は断たれた。そんな時に例の招待状が届いたの。ここからは私の推測だけれど、あの招待状を受け取った人は皆、何かしらの悩みを抱えていたんじゃないかしら?」

 誤魔化すように、膝元で寝息を立てる凪の栗色の髪にそっと触れる。

 「そう、話したくなければ別に構わないわ」

 鷹揚に頷き、腰を上げかけた与一が、何事か思い出したのか、

 「あっ、そういえば一つ言い忘れていたわ」

 ニコリと品のある笑みを浮かべ、

 「十本指就任おめでとう」

 「‥‥‥なぁ、一つきいてもいいか」

 「まったく、大和人なら誰もが憧れる十本指に選ばれたというのにつまらない反応ね。

それで、何かしら? 十本指に選ばれること以上に大切な話なのでしょうね?」

 「ああ、大切だ。少なくとも私には。‥‥‥そのために私はアンタ等 十本指と闘うって決めたんだから‥‥‥」

 「へぇー、興味あるわ。聞かせてその話」

 「佐々木 小次郎。この名前に聞覚えはないか?」

 ピクリと与一の肩が震えたのを、天華は見逃さなかった。

 「知ってるんだな?」

 「ええ、知っているわ。というよりこの後話そうと思っていたのよ」

 「どういう意味だよ?」

 「実は、貴方の十本指就任はまだ正式には決まっていないの。何せ、貴方と全く同じ日に、同じく十本指に勝利した人がいた。それが貴方の言う佐々木 小次郎よ」

 「ソイツは今、どこにいる⁉」

 「会ってどうするの?」

 「戦いたい。いや、戦わなくちゃいけない!」

 「フフッ、やっぱり貴方って面白い。それに良かったわね、その願いは直ぐに叶うわよ」

 「?」

 「今現在、十本指の空席は一つだけ。つまり十本指に勝利はしたけど二人は未だ、十本指の第一候補者に過ぎないわ」

 「回りくどい言い方だな。で、結局何が言いたいんだ?」

 「二人が第一候補者になったのはほとんど同時。だったら、どちらが相応しいのか見極めなくてはならない。つまりは戦って―――勝った方が選ばれる」

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