第4話

 生まれ故郷である漁村を発ち、三ヵ月が過ぎようとしていた。

 あの男―――一刀斎に渡された書面には、『三ヵ月後、古都にある五条大橋へ向かうように』、とだけ書かれていた。小雪は、たったこれだけしか書き記さなかった一刀斎の不真面目さに腹を立てたが、当事者である小次郎がそのことを気にした様子はなかった。

 当日、小次郎は「少し出かけてくる」と言い残したきり帰ってこなかった。

 別段珍しいことではない。昔から、野良猫のようにふらりと消えて、気が付いた時には何事もなく帰ってくる事はこれまでにも何度もあった。

しかし、今日だけは帰ってきてほしくはなかった。

 古都へ向かう道すがら、辺鄙な漁村が世界の全てだった小雪と小次郎は行き交う人々から様々な話を聞いた。その中で十本指という存在がどれだけ高名であるのかも知った。

 無敵だと思っていた小次郎を軽く一蹴した伊藤 一刀斎。

あの男もその内の一人だと知った時は、よくもそんな傑物と戦い命があったものだと驚いた。そして今夜戦う相手もまた、伊藤 一刀斎と同格の剣士というではないか。

 一刀斎はあくまでも小次郎の力量を見極めるために戦っていたが、今夜は違う。

 きっと、命がけの戦いになる。

無論、小次郎がそう易々と負けるとは思っていない。

それでも一人の女として、どうしても心配してしまう。何の力も持たぬ小雪にとってただ待つ事は、それ自体が戦いなのだ。

まだ戦いは始まってすらいない。それなのに心臓は早鐘のように脈打ち、胃がきりきり痛んだ。このまま小次郎が帰ってこなければ何も起こらない。ならばいっそ戦わないでほしい。無事に生きてさえいてくれればそれだけで十分だ。

 そんな望みを嘲笑うかのように、小次郎は平然と戻ってきた。

 「行こうか」

 「‥‥‥はい」

 ただ頷くことしか出来ない自分が、心底腹立たしかった。

 

 書き記されていた五条大橋に向かう最中、小雪はぐっと口を噤み続けた。

 兵法家の妻ならば、『ご武運をお祈り申し上げます』くらいの口上を述べるべきだろう。

それなのに最悪の結果ばかりが脳裡を過り、何も話すことが出来なかった。

 「緊張しているのか、雪?」

 繁華街に差し掛かった頃、不意に訊ねられた。

 村とは違い、お祭りでもないのに多くの人が往来を行き交う喧騒の中でも、小次郎の声はよく通った。

 これから戦場に向かおうとする夫を励ますどころか、逆に励まされてしまうとは妻として失格だ。恥じ入るように顔を俯けながら、口を開いた。

 「‥‥‥小次郎様。雪は、怖いのです」

 「そうか。実はな――俺もだ」

 「え?」思ってもみない台詞に思わず間抜けな声が漏れた。

 「こうしている今も震えが止まらない」

 見れば、小次郎の手は細かく震えていた。

 「これから、命がけの闘いをすると思うと、怖くてたまらない」

 思えば先程までの喧騒は遠のき、夜の静けさだけが二人を包み込んでいた。

 「情けない亭主ですまんな。あの男と仕合うまでは、自らの技に疑問など抱かなかった。だが今は、負けて死ぬことよりも、これまでの全てが通じないのではないかと、それだけが怖くてたまらない。アイツから剣を奪った俺に、負けることは許されぬというのに‥‥‥」

 その時の小次郎の後ろ姿は、誰よりも小さく見えた。

 ―――ああ、この人も同じだ。負けて全てを失うことを畏れている。本当は逃げ出したいはずなのに、それでも前に進もうとしている。

 考えるより先に、背中越しに小次郎の体に腕を回していた。

 「いやなら、逃げたっていいんです」

 「‥‥‥‥」

 「その時は、雪も一緒に逃げますから」

 おずおずと抱擁を解き、振り返った小次郎の瞳が真っすぐに向けられ。

 「ありがとう、雪」

 口元を綻ばせ、今度は小次郎が小雪の矮躯を両手で包み込んだ。

 早鐘のように脈打つ鼓動がひどくうるさかった。

 「ついて来てくれるか?」

 「勿論。どこまでもお供いたします!」


◇◇◇


 五条大橋は、古都の中心部からほど近い大川に差し掛かる巨大な橋の名称である。

橋の長さ三十メートル、横幅三メートル。同じように一条から十条を冠する大橋が古都の周囲を取り囲むように川の上に跨っている。何故、五条大橋が対決場所に選ばれたのか、その理由はこの橋が古くから古都における決戦の地として有名だからだ。

 『刀狩り』を冠する悪僧と『神童』と謳われた童の決闘。

 そして―――橋の中央にて、対戦相手の到着を待つ小次郎の見つめる先、月明りに照らされながら近づいてくる貴影を捉えた。

 しゃらん、という軽やかな音がチラチラと流れる川の音を押しのけ厳かに響き渡る。

 現れたのは身長二メートルを優に超える偉丈夫。

 手には錫杖を携え、頭部を包み込む白い頭巾。顔だけを見れば達磨のようだが、そこから覗く顔には無数の刀傷が走っている。気の弱い者が見れば卒倒しかねない風貌である。

 男の放つ尋常ならざる威圧感から、この修験者こそ一刀斎が言っていた十本指であり、これから斬り合う相手だという事は容易に察せられた。

 「貴殿が選定人か?」

 「‥‥‥‥‥」

 問い掛けに対し、沈黙が返ってくる。

もしや聞こえなかったのか?

それとも、侮られている?

その時だった。

 夜の帳を払うような美麗な笛の音が流れたのは―――。

これから始まる戦いを一瞬失念してしまうほどに美しい音色は、前方に佇む巨漢の修験者の方から聞こえてくる。だが、修験者はさきほどから仁王立ちのまま一歩も動いていない。

では声は何処から聞こえたのか?

「小次郎様‥‥‥、アレ」

 小雪が指し示す方角を、玲も視線で追いかけた。

 いつの間にそこにいたのか、修験者の左肩に腰掛けるひとつの貴影。

 十二歳前後の美しい顔立ちをした童であった。

男が見れば女にも、女が見れば男にも見える中性的な顔立ちをしている。

白を基調とした狩衣姿、長い袖には桜の刺繍が施され、足元には歯の長い下駄を履いている。

毛先にカールのかかった長い髪は桜色。髪留めまで桜を模した簪を使っている。まるで桜の化身のような童であった。

 先程の音は、その童が吹く竹笛によるものらしい。

やがて音が止み、童は修験者の肩から軽やかに飛び降りた。

朱色の大きな瞳が真っすぐに小次郎を見据え、花が綻ぶように破顔する。

 「お兄さんが一刀斎さんの推薦した人なのかな?」

 「如何にも、某は佐々木 小次郎。兄弟子一刀斎より推挙され今宵参上仕った」

 「やっぱり、結構いい剣気纏ってるもんね。どことなく一刀斎さんに似てる気がするよ」

 あどけなく笑う童は、奥で沈黙を続ける修験者の付き人―――否、弟子なのだろうか?

背後からも雪の困惑する気配が伝わってくる。

と、その時、小次郎は童の腰にある小太刀に視線が移った。

 「その脇差し、子供にはまだ早かろう」

 小次郎にとって心遣いのつもりだったが、桜髪の童はぷくーっと不満げに頬を膨らませる。

 「なんだいなんだい! 僕が子供だからって馬鹿にしているのかい⁉」

 子供の癇癪にこれ以上付き合うほど、今は精神的ゆとりがない。小さく嘆息を零し、改めて沈黙する修験者に向かって問い掛けた。

 「それで、俺は何をすれば認められる? 仕合って勝てばいいのか? それとも何か他の選定法があるのか?」

 「‥‥‥‥‥」

 またしても沈黙を貫く修験者に、小次郎はたまらず声を荒げた。

 「おい、聞いているのか‼」

 「ねぇ、お兄さん―――」

 「これ以上無視するつもりなら勝手に始めさせてもらうぞ!」

 「ねぇ、お兄さんったら!」

 「卑怯だとは言うまいな。コチラが名乗った以上そちらも名乗るが礼儀であろう!」

 「ねぇ…―――」

 「ええい、童! 今はお前と遊んでいる暇は―――」

 瞬間、総身を戦慄が駆け抜けた。

 恐る恐る視線を下げる。喉元を撫でる零下の殺意。月明りを妖しく照らす小太刀を突きつけるのは、さきほどまで眼前にいたはずの童であった。

 「ねぇ、お兄さん。一体何を勘違いしているのかは知らないけれど、いいかげに僕の話を聞いてくれないかな?」

 変わらぬ邪気のない笑顔。

しかし今はそのことがひどく歪で、恐ろしく見える。

 玲の無言を肯定と受け取ったのか、ニッと愛らしい八重歯を覗かせ童は告げた。

 「お兄さんを見極めるのは、あっちじゃなくて僕(こっち)」

 「な―――っ‼」

 これには背後の雪からも鋭く息を呑む気配が聞こえた。 

 喉元から小太刀が離れた。そのまま流麗な舞子のような足取りで、元いた場所まで戻っていく童は続けた。

 「僕は十本刀の一人 牛若丸。で、こっちの大きいのが同じ十本刀の武蔵坊弁慶。基本、僕の質問にしか答えないし、ちょっと怖いイメージあるかもだけど、結構可愛い奴だよ」

 にゃはははっ! と笑い声を上げる牛若丸を、小次郎は改めて見据えた。

 感じる。

見た目は子供ながら充溢する剣気は、背後で控える弁慶なる修験者より遥かに深く濃かった。

何より、さきほどの動き。まるで見えなかった。

確かに童―――牛若丸を敵として認識しておらず、油断はあった。

だがそれでも視界の端に写っていた相手に喉元まで接近を許すようなことが有り得るのか?

 もしそれが可能だったとして先の間だけで、一体どれほど殺す機会があったことだろうか。 

 「まぁ、弁慶は僕の付き添いだから気にしないでいいよ。それと見極めの方法だったね。僕も一刀斎さんと同じで、面倒事は嫌いだから、とにかく刀(コレ)で――戦ろうか?」

 瞬間―――先刻を倍する剣気に中てられ、心臓が早鐘のように脈打つ。

 緊張で口の中が干上がっていくのが解る。数分前まで胸の内側に充溢していた闘争心が跡形もなく霧散していく。否、強すぎる恐怖で心だけでなく、全身の、指先に至るまで氷像と化したかのように硬直していた。

 ゴクリ、誰かの嚥下する音がよく聞こえた。

 すでに抜刀し、戦闘準備を整え終えた牛若丸が、動く気配のない玲を怪訝に見つめてくる。否、すでに見透かされているのかもしれない。俺の心の弱さを。

外見通りに邪気を感じさせない純粋な光が牛若丸の瞳には宿っている。

今すぐに逃げろと、全身の細胞がヒステリックな悲鳴を上げている。

長い間一人で技を磨き続けてきたことによる弊害。

実戦経験の少なさが最悪の形で露見してしまった。

たまらず半歩、後退った。

実際は後退したと取られぬほどに小さな動きだったが、牛若丸はコチラの様子に気付いたのか小さく嘆息を洩らし、途端に瞳から興味の色が薄れていく。

初めて体感する己の脆弱さに、自分自身でも愕然とさせられた。

―――俺に、天下に名高い剣士と戦う資格など最初からなかったのだ。戦っても勝てないのなら、こんなにも怖いのなら、いっそのこと…―――。

胸の内の残っていた炎が最期の揺らぎを見せ、潰えかけた瞬間―――。

「信じています!」

夜の静けさを突き破るような叫びに、玲だけでなく、牛若丸も驚き視線を向けた。

振り返ると、胸の前で両手をきつく握り合わせ小さな体を震わす小雪の姿が視界に飛び込んできた。

「小雪?」

「小次郎様、雪は信じています。アナタが強くなろうとされる勇敢なお人だと!」

その言葉に、背骨の真ん中を突き抜けるような衝撃が走った。

一体俺は、いつから自分が強いなどと思い上がっていたのだろうか?

元いた世界で、彼女がいなくなった日本で最強の称号を手に入れたことで慢心していたのか? だとすれば何と滑稽な話だろう。

である自斎を含め、数人としか真剣で斬り結んだことのない若輩が、どうして強いなどと自惚れることができるのだろうか。自分のバカさ加減にホトホト呆れるほかにない。その事に気づかせてくれた小雪には、この戦いが終わったあと、心から礼を言いたい。そしてこう付け足すのだ―――。

お前のおかげで勝つことができた、と。

固く握りしめた右拳で己の頬を思い切り殴りつける。鈍い打撃音のあとに流れ込んでくるジンジンとした鈍い痛みで視界が鮮明(クリア)になったような気がした。

それを唖然と見ていた牛若丸が突如、堪え切れないと言う風に矮躯を折り曲げで笑った。

「なんだい、なんだい、お兄さん。すっごく面白いじゃないか。いいねぇ、すごくいいよ。さっきまで弱々しかった眼の奥の光が、今は良い色をしているよ!」

喜色満面の牛若丸に、クスリと微笑を浮かべて見せ、

「すまなかった。貴殿ほどの剣士を愚弄する数々の発言をどうか許してほしい。そして叶うのなら、改めて尋常な一騎打ちを所望したい!」

自斎より譲り受けた名無しの長刀―――『物干し竿(ものほしざお)』を背の鞘から音高く抜き放つ

体を半身に構え、左足は大きく前へ、刀は右下段。さらに上体を捻じった奇抜な構え。

それを見た牛若丸も腰の鞘から小太刀を抜き放った。長い一本歯下駄で器用に飛び跳ねている。その姿は遊戯を楽しむ童にしか見えなかったが、それがコチラを嘲るモノではなく、純粋な戦闘態勢であることは理解出来た。

「いいとも! その挑戦、この十本指が一人 牛若丸が受けよう! 互いに降参を口にするか、戦闘不能になった時点で終了。勿論、僕を斬れば君も新しい十本指の仲間入り―――だから死力を尽くしてかかっておいでよ!」

「承知―――っ‼」

やがて、大橋の下を流れる川のせせらぎが、額に垂れる前髪を揺らす夜風が、手に握る物干し竿の重みが、そして眼前の牛若丸以外の周囲の風景全てが、闇に溶けて消えた。

そして、対峙する両者が放つ剣気が最高潮に達した瞬間、戦いの火蓋は切って落とされた。


まず初めに牛若丸が動いた。

たんっ、という下駄が橋を叩く乾いた音が鳴る。

瞬間、視界から牛若丸の姿が掻き消えた。

それを見た両付き人は対極の反応を示した。

弁慶は己の主が掻き消えたことを当然のように見つめ、片や固唾を吞んで見守る小雪は、牛若丸の姿が消えたことに驚愕のあまり唖然と目を丸くした。

刹那、小次郎の背後に現れた牛若丸が、その背目掛け刀を突く。

まるで理解の及ばぬ現象である。剣術の心得を知らぬ小雪ですら、対戦相手の牛若丸から一瞬たりとも目を離していなかった。

では如何にして一瞬で背後に回り込んだのか?

完全に牛若丸の姿を見失っている小次郎は、背後からの一撃に気付く様子はない。

しかし――――

ガギィイン、と鼓膜を揺さぶる剣戟音と火花が辺りを明るく照らし出した。

牛若丸の一撃が小次郎の背を貫く間際、接近に気付いた小次郎が辛うじて反応してみせた。

更に小次郎はそこから、体勢を崩した牛若丸に向けて神速の居合を返した。

必中の間合いである。

牛若丸の細首が宙を舞う姿を幻視し、思わず眼を背けた。

しかし小次郎の振るった剣は、微かな風切り音を残すして終わった。

「え?」

再三に渡り起こる不可思議な現象に、思わず間抜けな声が洩れる。 

 橋の欄干に降り立った牛若丸が、陽気な笑い声を上げた。

 「ハハハッ、すごく早いね! 今のはちょっぴりヒヤッとしたよ!」

 訳が分からなかった。さきほどの一撃、小次郎の斬撃は間違いなく牛若丸を捉えていた。

それなのに、牛若丸は一太刀も浴びずに小次郎の刃圏から逃れている。

 「なるほど、貴殿の技の正体見抜いたぞ」

 「へぇ~、一応聞いてあげるよ」

 「以前、師から聞いたことがある。鞍馬(くらま)山に住む天狗が似たような技を使うと。確か『縮地』といったか」

 「博識だね~、だけど補足するとさっきのは縮地じゃない。僕は『八艘(はっそう)跳び』、って呼んでる。僕の師はね、君の言う通り鞍馬山の大天狗さ。そこで色々な技を教わったよ」

 まるで途方もない話に思考が停止しかける。

 「それにしても、よくさっきの打突を捌けたね。君のその構えも、一刀斎さんと同じ流派なのかい?」

 「さぁな。故郷の漁村以外に知らぬゆえ、俺が使う鐘捲流以外は何も知らんよ」

 「そっかそっか、じゃあ分かるわけないよね。そういえば一刀斎さんは独自の改良を加えて一刀流っていう我流剣法を創始していたからね。よく見れば僕の知る一刀斎さんのどの型とも違う。ということは、一刀斎さんも知らない鐘捲流か、それとも君自身が独自に編み出した我流剣術のどっちかってことになる。って、話が脱線しちゃったね。じゃ、まぁ、技の種明かしもやったことだし、ここからは本気で行くよ」

 その時ふと脳裏をある疑問が過った。

 ―――そういえば、小次郎様は一体どうやってさっきの攻撃を防いだのかしら? 相手の口ぶりから凄く早く移動していることだけは分かったけれど、それでもさっきの攻防を制していたのは小次郎様の方だった。

 トクン、トクン。とこれから始まる第二幕に向けて鼓動が加速していく。

 

 十本指に最年少で抜擢された稀代の天才剣士―――牛若丸もまた小雪と同種の疑問を抱いていた。

 ―――さっきの反撃、明らかに僕より後に動いてたよな?

―――それなのに何故、反撃出来たんだ?

 大天狗より授かった技の中でも、特に牛若丸が得意としたのが『縮地』であり、そこに独自の改良を加え編み出されたのが『八艘跳び』である。

その名の由来は、かつて参戦した戦で―――牛若丸率いる軍団の勝利が確実となった時、敵大将はせめて一矢報いるべく単独でコチラの船に乗り込んできた。無論、その目的は総大将である牛若丸の首を求めてのこと。

しかし牛若丸はそれ以上の殺生をよしとせず、瞬く間に船から船へと飛び移り撤退した。

これを卑怯と見咎める者もいたが、その光景を目の当たりにした者は口々にこう呟いた。

曰く、その姿は戦場に舞う神風の如く。

その噂を耳にした牛若丸は、この話をえらく気に入り、ならばと思案を巡らせ命名されたのが縮地―――改め、『八艘飛び』である。

 実際のところ、縮地には大きな欠点がある。

一から三メートル。それが縮地の間合いである。

一瞬の判断が生死を分ける戦場において、刀の届く範囲を瞬間移動さながらに飛ぶことの出来る縮地は極めれば無敵の奥義と化す。が、一度縮地を決めてしまえば次の縮地に移るまでに隙が生じる。その反面、八艘跳びは八回までなら連続で行使できる。

さらに移動距離は三倍近く伸びる。それだけあれば敵を斬りつけてから相手の刃圏から逃れることも、一瞬で懐深くまで潜り込むことすら容易になる。

この八艘飛びこそ、牛若丸を天才剣士たらしめる所以であった。

 ―――何にしても、動かないことには何も始まらない。

 たんっ! 一本歯下駄が欄干を蹴りつけた。

軽やかに宙を舞う牛若丸の姿に、この場に居合わせた全員の視線が釘付けとなる。

刹那、牛若丸の姿が夜の闇に掻き消えた。

「「――――ッ⁉」」

空中で敵の姿を見失った挑戦者とその従者は瞠目する。

その挑戦者の背後。

闇夜に紛れて白刃が突かれた。

―――獲った!

牛若丸は、己が勝利を確信した。

直後、真紅の双眸が驚愕に見開く。

死角からの一撃に白髪の挑戦者は一瞥すらくれず静かに刀を右下段に構えた。

次の瞬間、辺り一帯の空気を巻き込みながら大太刀が横一線に薙ぎ払われた。

 「ッッッ‼」

 辛うじて刃を返し、挑戦者の一撃を凌ぐ。

 だが、その威力までは防ぎきれず体勢が大きく崩された。

 挑戦者の返す二の太刀が迫る、寸前。

 牛若丸は飛んだ。

 『飛脚』と呼ばれる奥の手である。

不十分な体勢、足場のない空中でさえ八艘飛びを可能とする奥義。

全身を暴力的なまでの加速感が全身を包み込む。

次に牛若丸が飛んだのは、挑戦者の左側面。

先の一撃。驚きはしたが結局のところ狙いも何もない単なる力業。それが偶然にも背後から迫ったコチラ側と被っただけ。そう結論付けた牛若丸は、決着の一撃を振るった。

その瞬間、朱色の双眸が信じられない現象を目撃する

 何と挑戦者は、一の太刀からそのまま二の太刀へと技を繋げていた。

 「連続剣⁉」

 己の失策を悟った瞬間、天才剣士がもつ生存本能が警笛を鳴らす。

反射的に、技の限界域まで後退する。

 「有り得ない、何だよあの技!」

 いや、技だけではない。

 一度目の『飛脚』で、挑戦者の死角をついた時点で勝負は決していたはずなのだ。

 何より驚嘆すべきなのは、死角からの攻撃を一度ならず二度までも防がれたことだ。

牛若丸は八艘跳びを会得しているから十本指に選ばれたのではない。

生まれ持った剣才。加えて、常人には想像すら及ばぬ壮絶な修行の末に、十本指に選ばれたのだ。それは唯の打突ひとつとっても並みの剣客には及びもしない必殺の一撃である。

にも関わらず挑戦者の技は、牛若丸を越えていた。

それが偶然ではなく意図して成されているとすれば、人間技ではない。

 これと似た経験を以前にもしたことがある。

当時の十本指との入れ替え試合をしていた時のことだ。

それまで負け知らずの牛若丸は、現役の十本指との立ち合いでも変わらぬ優位を保ち、相手を完封してのけた。天下無双と謳われる十本指ならばもっと楽しませてくれるのではないか? と期待していた分だけ、その落胆は大きく側で立ち合いを見守っていた他の十本指もこの程度なのか、と愚弄するような発言をした。

すると、一人の剣士が一本先取の立ち合いを所望した。

不満が募っていた牛若丸はこれを了承し―――その結果。

ぐうの音も出ぬほどの完敗を喫した。

 生涯己の全てを剣に捧げたとしても決して辿りつけぬ領域はあるのだと痛感させられた。

 それと全く同じモノを眼前の剣士から感じる。

否、今はまだそこまで至ってはいない。

だが、いずれ必ず辿り着くことは剣士としての直感―――本能が告げていた。

 不意に、右手首に燃えるような痛みが奔る。

桜の刺繍が入った袖が裂け、そこから覗く肌に薄く血が滲んでいた。

 どうやら、回避が間に合わなかったようだ。

 指先でそっと傷口から垂れる血に触れ、それをペロリと舐める。

 不味い。とても口にできぬ苦々しい味だった。

同時に沸々と胸の奥底から沸き起こる熱に意識が犯されてゆく。

 「まずは一本、俺の勝ち、といったところか?」

 挑発するような微笑を浮かべる挑戦者。

 それは、牛若丸が味わう二度目の敗北であった。

 「っざけんなよ、このクソ雑魚がぁ―――ッ‼」

 桜髪を獅子の如く逆立て、朱色の双眸には憤怒の炎が爛々と燃え盛る。

 「調子乗ってんなよ…―――っ‼」

 「それが貴殿の本当の姿というわけか」

 最早、挑戦者の発する言葉全てが怒りの発火材料であった。

 「殺す―――っ‼」

 鋭い呼気とともに地を蹴りつける。

 八艘跳びに頼らない単純な速度に挑戦者の双眸が驚愕に見開かれる。

 これまで交わした剣戟で、牛若丸は小次郎の刃圏を正確に掴んでいた。

 八艘跳びの最大飛距離が十メートル。

対する、挑戦者の刃圏は五メートル。

故に可能な限り接近することで挑戦者を中心にして飛距離を稼ぐことが出来る。

だが、その狙いすら挑戦者は見抜き、既に技の構えに移っている。

 一秒が数分に感じられるような濃密な読み合い。

 一歩誤れば、待つのは即―――死に直結している。

 久しく忘れていた命を賭した戦いに、総身を駆け巡る高揚感に気付けば両者の口元には無邪気な笑みが浮かんでいた。

 そして、小次郎の刃圏に踏み入る寸前、牛若丸の姿が四散する。

 次に牛若丸が現れたのは挑戦者のほぼ真下。如何に神速の剣技であろうとも、右後方に引き絞った体勢からでは技は届かない。

それでも、この程度では佐々木小次郎を仕留める事は出来ないと確信していた。

挑戦者の喉元めがけて小太刀を突き上げると同時に地面を蹴る。二度目の八艘跳び。そこから連続して三度、四度と技を繰り返した。傍目からは七人に分身した牛若丸が上下左右、全方向から一斉に斬りかかっているように映っている事だろう。

いかに剣速で八艘跳びを凌駕しようとも同時に七か所からの攻撃を防ぐ術などない。

 刹那、白銀の閃光が視界に奔った。

 その段になってようやく牛若丸は、挑戦者の技の正体を見抜いた。

 挑戦者―――佐々木小次郎の技はおそろしく早い。

これまで見てきた、どの剣士たちよりも剣速、技の冴えともに数段上だ。

しかし問題はそこではない。神速とすら呼べる剣速は音を、さらには光すらも置き去りにしている。つまり小次郎の刃圏全てが斬撃範囲なのだ。足を踏みいれた時点で、そこには防ぐことも、避けることも叶わない。反撃に特化した無敵の剣。

 胸を横一閃に切り裂かれ勢いよく血が噴き出した。

暗い水底へ沈もうとする意識の糸を、牛若丸は辛うじて繋ぎ止めた。

 勝利を確信してか小次郎の剣気が僅かに薄れた。

 それを―――待っていた。

 既に満身創痍、生きていたことすら奇跡の深手。それでも牛若丸を動かすのは剣士の意地。

 八艘跳び、最後の八段目が残っている。

 倒れようとする下駄の歯が、タンッ、と小気味よい音を響かせた瞬間、牛若丸は消えた。

飛先は小次郎の真正面。

右上段から引き絞られた小太刀が勢いよく突き出された。

 「もらった…―――っ‼」

 勝ちを確信した瞬間は隙が生まれやすい。

 この八段目こそ、牛若丸の勝ちへの執念が掴み取った好機。

 ―――のはずだった。

 「貴殿ならそうくると―――信じていたぞ」 

 朱色の双眸が大きく見開かれる。

 「一刀斎と並び立つ最強の剣客の一人、やはり底知れぬ強者だった。だからこそ感謝せずにはいられない」

 柔かな笑みを浮かべ、左上段に構えられた長刀が右下へと銀の軌跡を以て袈裟斬りに振り下ろされ、そこからさらに左斜めへ滑るような切り返し。小次郎は反撃に特化した剣士だと思っていたが、その実、自ら仕掛けた時の技も持ち合わせていたのだ。

 神速の二連撃。

 先刻の回転斬りを『虎切刀』、とでも称するならば。

 この技は、飛翔する燕の両翼すら斬り落とす。

 名付けるのなら『燕返し』、こそ相応しい。

 牛若丸の命を絶つべく迫る刃は、不意に両者の間に割って入った巨漢によって阻まれた。

 間欠泉の如く勢いよく吹き出す鮮血が、橋の上に赤い湖畔を拡げていく。

 両者共に、驚愕に眼を大きく見開いた。

其処にはこれまで静観を続けていた武蔵坊弁慶の姿があった。

傷口からはとめどなく血が流れている。それでも武蔵坊は微動だにせず、静かに口を開いた。

 「すまぬ、拙僧の我儘を許せ」

 その言葉でようやく驚愕から覚めた小次郎は、くつりと笑みを零した。

 「いや、これは驚かされた。主を思うその覚悟感服するほかない」

 そこでようやく我に返った牛若丸は、自身が負った怪我のことも忘れ、慌てて駆け寄った。

 「何バカなことを‥‥‥、こんなに血が‥‥‥!」

 年相応に狼狽を露わにする牛若丸。

すると、その桜髪の頭を、無数の古傷が奔る手がわしゃわしゃと撫でまわした。

 「わっ、ちょ、ちょっとやめろって!」

 「よい、拙僧はそなたの臣下だ。あのままでは主君を失っていた。‥‥‥だが二人の闘いに水を差したことにはかわりない。此処は拙僧の首を以て幕引きにしてほしい」

 そう言うと、弁慶は重々しく音立ててその場に膝を突いた。

 「‥‥‥バカ、お前を‥‥‥斬れるわけ、ないだろう‥‥‥大切な友達を‥‥‥」

 

 「終わったの?」

 未だに事態が呑み込めていない小雪の元に、覚束ない足取りの小次郎が歩み寄ってくる。慌てて駆け寄ると、小次郎が両腕を小雪の背に這わせた。

 「こ、小次郎様⁉」

 「雪、俺は勝ったのか?」

 これまでに聞いたことがないほど弱々しい思い人の声が耳元で囁かれた。

 「はい‥‥‥はい、勝ちましたとも。真に勇ましゅうございました」

 「‥‥‥そうか、俺は、勝ったのか‥‥‥良かった‥‥‥本当に‥‥‥」

 

◇◇◇


傷の手当てを済ませた牛若丸と弁慶と改めて対峙する。

 「まさか本当に負けるなんてなぁー。このこと一刀斎さんや他の人達に知られたら絶対文句言わるよ」悄然と肩を落としながら呟く牛若丸は戦う前より幾らかスッキリした笑みを浮かべていた。

 「この勝負、君の勝ちだ。文句なく君は新しい十本指‥‥‥その第一候補になれたわけだ」

「ん? ちょっと待って。第一候補ってどういう意味? 小次郎様はアナタたちに勝ったのよ? それってつまり、小次郎様が新しい十本指に選ばれるんじゃないの?」

 「あぁ、確かに僕もそうだと思うよ。だけどね~、取り決めでは、十本指見極め儀は、二人以上の十本指の立会人が必用なんだよね。本当はあともう一人、っていうかそれこそ一刀斎さんがくる予定だったんだけど、ほらあの人、約束事とか全然守らない人だからさぁ~」

 「ちょっと、そんなのあんまりよ! じゃあこの戦いは何だったの⁉」

 「ああ、それについては心配いらないよ。確かに取り決めの条件は満たされていないけど、僕に勝ったことは紛れもない事実だ。それは弁慶もちゃんと見ているから、偽りの情報は流さないと約束する。それに十本指第一候補っていうのも、実質、十本指と大して変わらないんだ。じゃあ何が違うかって言うと、その第一候補の座を巡って他の武芸者たちが君に挑戦を申し込んできた時は、問答の余地なくそれを受けなければならないっていう縛りがある。しかもそれを断って戦わないと、第一候補資格が剥奪されるから注意してね」

 「じゃあ、どうやったら十本指になれるの?」 

 「勝ち続ければいいのさ。まぁ僕に勝ったんだから、大抵の奴はもう相手にならないだろうから、心配する必要はないよ。僕に勝ったって噂もすぐに広がるはずだから、そう遠くないうちに小次郎くんが新しい十本指就任って、お達しがくると思う」

 と、そこまで口にした時、暗闇の奥から突如、影が人の形を成したような風体の忍が、牛若丸の側に拝跪し何やら書状を手渡した。

 訝しむようにその忍を見つめ、手にした書状を広げてその中身に目を通した牛若丸の朱色の双眸が大きく見開かれ、次いで、にゃははは、と陽気な笑い声を上げた。

 「残念なお知らせだよ。もう一人、十本指第一候補者が現れたみたいだ」

 「まさかそれって‥‥‥」

 「どうやら小次郎くん以外にも、十本指に勝った人が現れたみたいだね。だから二人には第一候補、いや十本指の座を巡って仕合をしてもらわなくちゃいけなくなった」

 「ちなみに、その者の名は?」

 「宮本 武蔵。‥‥‥女剣士だそうだ」

 「女剣士?」

 雪はそっちの方に反応していた。

 しかし、玲はその名前を、何処かで訊いたことがあるような気がした。

 まだ会ったこともないはずの女剣士の名を口の中で反芻する。

 「‥‥‥宮本 武蔵」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る