第3話

 その姿は、満月 玲にとっての理想だった。 

 天真爛漫、天衣無縫を体現するその生き方に強く憧れた。

 元々、病弱で臆病な性格だったこともあり他の同年代の子供たちに上手く馴染むことが出来ず、いつも教室の隅で一人静かに本を読んでいるような、何処にでもいる暗い子供だった。

 だが異国の血を半分引く玲の容姿は、本人の望む望まぬに関わらず周囲の注目を集めやすい。それがまだ年端もゆかぬ子供であれば尚のこと。女子生徒の多くからは好意と羨望を、男子生徒からは嫉妬と畏怖の混在した感情が無遠慮に向けられた。

 元より一人を好む性格ゆえ、それらの視線は玲にとっては耐え難いほどの苦痛でしかなかった。女子生徒数名から好意を寄せられたこともある。

当然、断った。すると瞬く間にその噂はクラス中に知れ渡り、男性生徒からは調子に乗っているという理由で、理不尽な暴力に晒された。

 そんな毎日に嫌気がさし、自然と足は学校から遠ざかり、自宅での個人学習が増えていった。

 その事に不満があったわけではない。見ず知らずの他人が数十人、狭い一室に閉じ込められた動物園同然の場所と比べれば自宅で独り静かに本を読み、勉強することは過ごしやすかった。何より生まれ持った、この銀色の髪を隠す必要もない。

 それでも時折、誰かとの繋がりが欲しくなる。

 そんな時は決まって近くの公園に足を運び、ベンチに腰掛け、無邪気にはしゃぐ子供たちをボンヤリと眺めていた。時折、クラスメイトだった数人の姿も見かけたが、誰一人として声を掛けてくる者はいなかった。

 自分はこのまま、誰との繋がりも持たずに消えていくだけの存在なのだ。

 そんな自虐を考えていた時、不意に声を掛けてくる者がいた。

 艶のある濡羽色の髪は長く、頭の後ろで紅い簪で結われている。季節は十一月だというのに着衣は半袖短パンと夏仕様。スラリとした鼻梁に切れ長の瞳、おそらくは同年代の少女なのだろう。だが顔や手、肘や脛といたる所に張られた絆創膏が、少女というよりも喧嘩っ早いガキ大将といったイメージを思わせる。 

 少女はジロジロと無遠慮な視線を向けてくると。

 「なぁ、お前、よくここに一人でいるよな?」

 全くの初対面ながら、少女に臆した様子はない。

 これまで玲と初めて会った人たちは、皆一様に日本人離れした銀髪に眼を奪われるのだが、少女はその事には一切触れず、あくまでも『満月 玲』だけを凝視していた。

 「別に、いつも一人ってわけじゃ‥‥‥」

 普段と異なる展開に気後れしてしまい、思わずつまらない嘘をついてしまう。

 「ふーん、そっかぁー‥‥‥」

 少女は興味なさげに頷くと踵を返し、そのまま走り去ってしまう。

 突然のことに呆気に取られ、気が付けば右手は虚空へ伸びていた。

 そのことを認め、もう一方の手でおずおずと突き出した腕の手首を掴む。

 行方を眩ませた少女を追って辺りに視線を這わせるが、少女の姿はもうどこにもなかった。

 ゆっくりと視線を落とし、足元に降り積もった枯葉を眺めていると、その上にポツポツと雫が滴り落ちた。それが自分の頬を流れ落ちる涙だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 「あれ? なんで泣いて‥‥‥」

 クラスメイトからの暴力や暴言、差別的な態度に晒らされても決して流すことのなかった涙が、どうして流れるのか。その理由が解らなかった。きつく噛みしめた唇の隙間から声のない嗚咽が漏れる。手の甲で目元を何度も拭うが、一度溢れ出した涙がとまる気配はない。

 「うあっ! ‥‥‥な、何で泣いてんの、お前?」

 おずおずと顔を上げると、先程の少女が引き攣った顔でコチラを見つめていた。

 「な、何で?」

「いや、コレ渡そうと思ってさ」

 そう言って少女が渡してきたのは、一本の竹刀だった。

 「なに、これ?」

 「何って竹刀だよ。見れば分かるだろ」

 「いや‥‥‥、そうじゃなくて‥‥‥」

 「ああ、もうメンドクセェー!」

 半ば無理やり竹刀を渡され唖然とする玲の腕を掴み、少女はそのままズカズカと大股で歩き始めた。突然のことに更に困惑を強め、溜まらず少女に訊ねる。

 「ねぇ、ちょっと何所に連れて行くつもり⁉」

 「いいから黙ってついてこい。面白い場所に連れて行ってやるからよ」

 「面白い場所?」

 「ああ、世界一面白い所だ」

 そう言って連れてこられたのは周囲を長屋門に囲まれ武家屋敷然とした屋敷。その庭先を抜けた先にある剣道道場だった。竹刀を渡された時点である程度予想はしていたが、実際に足を踏み入れると、其処はまさしく未知の世界であった。

 道場には、大人や子供を含め三十人近い門人が詰めかけている。

 床を蹴る音、竹刀がぶつかる乾いた音、扉を除き外界との繋がりはなく、道場の中は異様な熱気に包まれていた。この光景を前にして先程までの寂寞は跡形もなく霧散していた。

 「私は焔 天華。あんた名前は何って言うの?」

 今更ながら、自分たちは互いの素性を何も知っていないことを思い出した。

 「満月 玲」

 「ふーん、玲ねぇー、何か女みてぇーな名前だなー」

 頭の後ろで手を組みながらくつくつと忍び笑いを洩らす天華に、玲は憮然と反論する。

 「そういう君は、随分と大袈裟な名前じゃないか」

 思いつく限りの皮肉を言ったつもりだったが、天華はニシシと得意気に胸を張った。

 「いいだろー、私にピッタリの名前だ」

 傲慢にも聞こえる物言いに玲は二の句を告げなかった。

 「さーて、新しい門人も見つけてきたし、ぼちぼち稽古に戻ろうかねー」

 「ちょっ、待ってよ!」

 「あ?」

 これ以上何を聞くことがあるかという無言の問いに、僅かに気圧されるが、同年代の、しかも女子相手に臆するわけにはいかぬと己を奮い立たせ、最大の疑問を口にする。

 「どうして僕を、ここに連れてきたの⁉」

 天華は眼を大きく見開くと、しかし最後にはニッと不敵な笑みを浮かべ。

 「さぁな、知らねー。自分で考えな」

 余りにも投げやりなその態度に、玲は堪らず天華の肩を掴み強引に振り向かせた。

 「君が無理やり連れてきたんじゃないか! それなのに、何の説明もないなんて卑怯だろ!」

 「卑怯?」

 フハッ、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

 「じゃあ、アンタはどうしたいわけ?」

 「―――ッ‼」

 天華は掴まれていた腕を振り払い、徐に玲の胸倉を掴み上げた。

 「アンタを誘った理由が知りたきゃ、私に勝ってみせな。そしたら教えてやるよ」

 傲岸不遜に嘯き、彼女は掴んでいた手を離すと、そのまま道場の中へと進んでいく。

 その場に取り残された玲は、ジッと渡された竹刀を凝視し続けた。

 「どうしたいか、か」

 ポツリと漏れ出る自問。

 その答えは既に決していた。

 生まれてこのかた、これほど胸を熱くさせたことが一度でもあっただろうか?

 いや―――ない。

 竹刀を握る手に力がこもる。

 その日。

 その瞬回を境に、満月 玲にとって焔 天華は超えるべき目標となった。


 天華はまさに剣の天才だった。

 十歳にして全日本学童剣道大会優勝。小学校卒業まで出場した大会・試合の全てが全戦全勝。

一度の敗北もなく、それは年長者が大勢通う道場においても同様であった。

小柄で、強く握れば折れてしまいそうなほどに華奢な体躯ながら、一度剣を握れば大人相手であろうと無双する。そんな天華に対して人々は様々な感情をぶつけていた。その多くは天華の実力に対する妬みであったが、中にはその圧倒的な才に触れ剣の道を諦めた者もいた。

 そんな中でも、天華は毅然と剣を振るい続けた。

同年の、しかも女の子であれば、そんな心ない周囲の反応に深く苦悩していたかもしれない。

 だが、入門以来最も彼女の側でその姿を見てきた玲だけは彼女の孤独を理解していた。

 天華は周囲の声など気にしてはいなかった。

 彼女が気にしていたのは一つだけ。

 己の全力をぶつけることの出来る好敵手を求めていた。

 なぜなら彼女の剣はあまりにも強すぎたから。

 対戦した相手は軒並み、その天稟を目の当たりにし最後には心を折られてしまう。

 誰よりも剣を愛し、剣に愛されていたが故に、彼女は孤立した。

 いや―――させてしまった。 

 その事に気付いたのは、天華が三度目の栄冠を手に入れた時だった。

 あれほど楽しそうに剣を振るっていた天華は、勝利の歓声に沸く会場、道場関係者たちとは裏腹に、笑っていなかった。何の感情も写さない空虚な瞳がそこにはあった。

 だからこそ決意した。

 孤独から救ってくれた天華を、今度は俺が救ってみせると。

 後日、玲は天華に一対一の挑戦状を叩きつけた。

 そして―――完膚なきまでに敗北した。

 勝てるとは思っていなかった。それでも天華と出会い、剣を握って五年。常に傍らでその天稟に触れてきた自分ならば、もしかすれば、『頂き』に手が届くかもしれない。

 そんな淡い希望を、天華は一蹴してのけた。

 悔しさに唇を噛み締め、気が付けば道場を飛び出していた。

 一瞬であろうと自分の剣が彼女に届くかもしれないと甘い妄想を抱いた己の間抜けさに、心底失望した。彼女を独りにさせまいとしながら、現実は非常だった。

負けたことよりも、天華と剣にかける覚悟の差を見せつけられ、恥ずかしくて逃げだした。

何と間抜けな、天華と出会う以前の独りぼっちだった頃から何も変わっていない。

このまま未練がましく天華の背中を追うより、潔く剣を捨てるべきじゃないのか?

 そんな事を想いながら走っていると、突如、視界の端がカッと白く光った。

 その直後のことは、よく覚えていない。

 覚えているのは、大型トラックのけたたましいパッシング音と濡れた路面を滑るタイヤの摩擦音。次いで背後から勢いよく突き飛ばされたということだけ。

 近くを通りかかった大人たちから、「大丈夫か⁉」「どこか怪我していなか?」と心配する声をかけられる。しかし玲の意識に大人たちの声は一切届いていなかった。

 赤緋の瞳が見つめる先で、血溜まりの中に横たわる胴着姿の小柄な体躯。 

 それが誰なのか理解した瞬間、周囲から音が遠ざかった。次いで視界から色が消えた。

 その後、病院の簡素なベッドの上で眼を覚ました。両親の心配を余所に、あの時何が起きたのか、何より天華は無事なのか訊ねた。

そんな俺の姿に両親や看護師たちは皆一様に口を噤み、ゆっくりと父親が語り始めた。

 周囲の制止を振り切って病室を飛び出した俺は、ぎしぎしと痛む体に鞭打って、彼女が運ばれているという病室に駆け込んだ。

 そこで見た光景は、あまりにも凄絶に過ぎた。

 ミイラのように全身が包帯で覆われ、口元には酸素吸引機がつけられている。肘の内側に金属の管がテープで固定され、そこから伸びるコードはベッドの周りに並べられた用途不明の機械に繋がっている。黒い画面に映る緑色の波が、命の繋がりを見る者に報せていた。

 彼女が眠る病室とを隔てるガラス板に額を擦りつけながら、その場に崩れ落ちた。

 先程、父親から語られた言葉が脳裡に蘇る。

 「天華ちゃんは、トラックに撥ねられそうになったお前を庇ったんだ。幸い命に別状はないようだ。だけど両腕と右足の脛が開放骨折していて‥‥‥、腰椎も圧迫骨折、それ以外にも全身のいたる所の骨が折れて、事故の衝撃で頭を強く打ったみたいで、今後、日常生活にも支障をきたすかもしれない。残念だが、剣道は‥‥‥もう、二度‥‥‥」

 その後の言葉は何も耳に入ってこなかった。

 「‥‥‥ごめん‥‥‥ごめん‥‥‥俺の‥‥‥せいだ‥‥‥」

 食い縛った歯の隙間から嗚咽が零れる。

 どうして天華だったのか?

 何度も、何度もそれだけが頭の中を反芻したが、幾ら考えてもその答えは得られなかった。

 数か所の痣と擦り傷だけで済んだおかげで数日で退院することが出来た。

 以降は、以前のように部屋に引き籠った。扉の向こう側から両親の心配する声と、天華が目を覚ましたからお見舞いと謝罪に行くべきという言葉が続いた。

 「会えるわけ、ないじゃないか。天華から剣を奪った俺が、今更どのツラ下げて‥‥‥」

 やがて両親は何も言わなくなり、一ヵ月が過ぎた。

 両親が共に仕事で家を留守にした隙にこっそり家を飛び出した。別にどこか目的地があるわけでもなく、近所を彷徨った。多分、この時の玲は死に場所を求めていたのだろう。それが彼女から剣を奪ったことに対するせめてもの償いだと、そう思って。

 それなのに気付けば、道場の門前で立ち尽くしていた。

 すると道場の方から、門人たちの話し声が聞こえてきた。

 「それにしても、あれだけの才能、勿体ねぇよなー」

 「まぁ、天華も所詮は人の子だったってことさ」

 「違いない。だが、剣の神様も薄情なこった。あんなにも愛しておきながら、こんなにもあっさりと見捨てちまうんだからな」

 「それを云うなら、何で神様は天華じゃなくて、アイツを生かしたんだろうな?」

 「ああ、満月のことか?」 

 「小学生にしては上背もある方だけど、それでも剣才は天華と比べるべくもねェ、唯の凡人。そんな奴と天華とじゃ釣り合い取れねぇだろうになぁー」

 「剣の神様に愛された神童が今じゃ唯のガラクタになっちまうんだから、人生は解らないな」

 そう言い残し、声は次第に遠ざかって行った。

 「天華が、ガラクタ?」

 「違う」

 「天華はガラクタなんかじゃない」

 「本当のガラクタは、俺だ」

 だがこのままでは、剣士 焔 天華が死んでしまう。

 それだけは許せなかった。

 誰よりも焔 天華が最強なのだ。

 それを証明するためには、方法は一つしかない。

 天華よりも弱い俺が、勝ち続ければいい。

 そうすれば、俺より強い天華は、永遠に最強のままでいられる。

 「‥‥‥殺らせるものか‥‥‥」

 掌に爪が食い込み血が滲んだ。

 「二度も、天華を殺させる訳にはいかない」

 それこそが天華から剣を奪いとった俺に出来る唯一の贖罪なんだ。



 雲一つない快晴だった。

水平線の先で燦然と輝く太陽。浜辺を一掃する波と鼻孔を撫でる潮の香り。

遠くでは漁師たちが仕事に精を出し、遠くで鯨が高い潮柱を上げている。

 そんな中、着衣を羽織ったまま海の浅瀬に身を沈める人影があった。

 手には三尺余りはあろうかという大太刀が握られている。

高い鼻梁と凛々しい眉の精悍な顔立ち。それでいて柔らかな目元には微かに幼さが残り、どことなく憂いを秘めた真紅の瞳。潮風に揺れる癖のある銀髪が少年の放つ独特の色香を漂わせていた。

長い睫毛を伏せ、満月 玲は静かに刀を構えた。

 瞬間、引き絞っていた刀が勢いよく振り抜かれた。

 が、それを見た者には何が起きたのか理解できなかっただろう。

 音を置き去りにして、切り裂かれた虚空には陽炎のような揺らぎが漂っていた。

 最早、人間になせる業の領域を超えていた。

 もしそれが見えていたとすれば、それはもう人ではない。

 剣に全てを捧げた者。その中の砂粒ほどの、選ばれし者のみが感じることの出来る世界。

 故に、波辺の方から聞こえてくる野太い笑い声の主は、きっと人ではないなのだろう。

 閉じていた瞼を持ち上げ、肩越しに振り返る。

 見つめる先に佇む二つの人影。

一人は白の小袖を纏う小柄な少女。名を小雪という。

長く艶のある黒髪。この世界に来て最初に出会ったのが彼女である。

振り返った小次郎と眼が合い、ニコリと華のある笑みを浮かべてみせる。

 その隣には、襤褸のようにくたびれた小袖を身に纏い、口元には何ヵ月も剃られていない無精髭で覆われている。見るからに怪し気な男が仁王立ちで佇んでいた。小雪と隣り合わせで並んでいることでより一層、男の怪しさに拍車をかけているように思えた。

 しかし、遠目からでも男が只者でないことは察せられた。

 何者かは知らぬ。

 だが見て見ぬふりは出来ぬ凄みが、男にはあった。

 何より今日まで世話になった師の孫娘の隣に怪しい男がいる。

基より無視できるはずもなかった。

瞼を眇めつつ、浜辺の方へと歩み寄る。

 海から上がると、まず最初に小雪が勢いよく頭を下げた。

 「申し訳ありません、小次郎さま。大切な稽古をお邪魔して!」

 「別に構わんさ。それよりも、コチラの御仁は?」

 「‥‥‥っ! こ、この人は‥‥‥」

 言葉を詰まらせる小雪を遮り、男が口を開く。

 「さきほどの剣技見事であった! あれほど流麗な剣は初めて見た!」

 改めて間近に迫った男、その威容に驚かされた。

デカい、その一言に尽きる。

この世界を訪れて二年余り――――、『大和』に暮らす住民たちは、玲の知る日本人の規格と比べると平均身長が低いように思えた。 

だが眼前に佇む男はそのような次元に収まらぬ迫力がある。

筋骨隆々たる体躯から発せられる体臭、燃え立つように爛々と光る双眸の鋭さから、男が只者ではないことを小次郎は直感的に悟っていた。

 「褒められているのか?」

 「無論だとも。拙者は生来正直者ゆえにおべっかは使えん。さきほどの言葉は拙者が感じた率直な感想だ!」唾を飛ばしながら豪快な笑い声を上げる。

 確かに人に気を遣うようなタイプではなさそうだ。

 「それで、俺に一体何のようが?」

 対峙しただけでこれ程の威圧感を感じたのは、元の世界を含めて初めてのことであった。

 「ハハハッ! そう気を荒げるな! 拙者は、お前の兄弟子だぞ」

 「兄弟子?」

 「うむ、鐘捲 自斎は、かつての師でな。まぁ破門されてしまったが、兄弟子には変わりあるまい。ああ、そう言えばまだ名乗っておらなんだな、拙者、伊藤 一刀斎と申す!」

 「‥‥‥‥」

 豪快な名乗りも、玲の薄い反応によって気まずい雰囲気へと変わった。

 一刀斎は困ったようにガリガリと頭を掻き―――刹那、腰から勢いよく刀を引き抜いた。

 ガギィン、という耳を劈くような金属音が空気を震わせる。

 「ほう! この一刀斎の初太刀を受けよるか」

 「ッッッ‼」

 突然の出来事に、眼を白黒させていた小雪が溜まらず声を荒げた。

 「ちょっ、あなた‥‥‥! 一体どういうつもり⁉」

 「ん? なーに、どの程度の腕前か見極めようと思うてな」

 随分乱暴だが、確かに実力を見定めるだけなら最も合理的だ。

 「殺す気か?」

 「無論だとも。この程度で死ぬような輩は求めておらんわ」

 もし今の一撃を防いでいなければ確実に首が飛んでいた。

それほどの明確な殺意が、今の一撃には込められていた。

「しかし‥‥‥、まさか本当に止められるとは思っておらなんだがな」

 一刀斎の瞳が興奮に染まっていくのが判る。

 「一体どうやって拙者の初撃を見抜いた? 勘だけではあるまい。あの反応の早さ。初めから儂がどう動くのか見切ったような動きだった」

 爛々と目を輝かせ、興味深そうな視線を向けられた玲は眉一つ動かさずに答える。

 「よく観察しただけさ」

 「観察だと?」

 一瞬、唖然とする一刀斎が次の瞬間、体をくの字に折り曲げ呵々大笑する。

 「これまで多くの剣豪どもと仕合ってきたが、斯様なことを言う奴は初めてだ。なるほど、なるほど‥‥‥。先生がお前を隠そうとしていた理由、少しわかった気がする」

 一人で勝手に納得する一刀斎に、玲は無表情に訊ねる。

 「それで――――戦るのか?」

 「フフッ、大人しそうな面のわりに随分と好戦的な小僧だわい。拙者の初太刀を受け切り、その上平静を保つ胆力、さすが鐘捲 自斎の弟子といったところか。

面白い! 小僧、いや小次郎! 気が変わった。本当は今の一撃を受け切れば合格とするつもりだったが、お前の底を見てみたくなった!」

 一刀斎は豪笑し、ヒョイと手にした刀を上段―――火の構えを取る。

 対する玲は下段に構えた。

足の裏から根が伸び広がるような不動の姿勢、その反面上半身を捻った奇抜な構えである。

一方、一刀斎の口元には感嘆の笑みが滲む。コチラの放つ剣気を感じ取ったのだろう。

 「むほっ! その構え拙者の知らぬ鐘捲流か? それとも‥‥いや、聞くだけ野暮というものだな。これより先は刀で語り合うとしようぞ‼」

 それ以上の言葉は不要である。それだけは玲も同感だった。

 玲は元々口数が多い方ではない。天華に無理やり入門させられるまでは、内気な性格からイジメの標的にされることも多かった。その中で身についた特技が『観察』である。

相手の言動、性格、ちょっとした仕草や癖、その他事細かに観察し―――予測する。

 故に先程の一刀斎の初太刀を防げたのも、観察から予測してのことだった。

 敵の先の先を予め知る以上、如何な相手であろうと負ける道理はない。

 楚々と、鯉口を切る。

 足裏で感じる砂浜の熱も、鼻をくすぐる海の香りも、そして既に体の一部同然の刀の重さに至るまで、全てが己と同化していくかのようだ。

 開戦の狼煙は、海猫たちの呑気な鳴き声だった。

 一刀斎が砂浜を蹴りつけたことを、足裏から伝わる微細な振動から感じ取った。

 空気を切って恐ろしい速度で間合いを詰めてくる。

 しかし慌てる必要はない。ただ待ち続ければいい。

 刀の声に耳を傾け、来るべき時をひたすらに待つのだ。

 

一刀斎が刃圏に踏み込んだ瞬間―――


一条の軌跡が宙を薙いだ。

音も、光すらも置き去りにした神速の居合い。

 その瞬間、立て続けに不可解な現象が起こった。

 観察と予測を得意とする玲は、その過程で幾つかの技を会得した。

その一つが、大地の震動から敵の位置を把握することである。

そのため、玲は眼を閉じていても足裏から感じる微細な震動で相手の動きを一分の狂いもなく把握することができる。しかし刀を振り抜いた刹那、感じたのは一刀斎の地鳴りのような踏み込みより先がなかったことだ。

 遅れて、玲は己の致命的なまでの過ちを悟った。

 一刀斎は動いていなかった。

 開戦直後から一歩も。ただ激しい足踏みをしただけで。

 彼の剣豪が放つ苛烈な剣気により、誤認させられたのだ。

 「な‥‥‥っ‼」

 しかし気付いた時には後の祭り。

渾身の一撃が虚しく空を切る。諦観の思いとともに神速の袈裟上げが空振りに終わり、その直後に訪れる刹那の硬直が、金縛りのように全身を襲った。

空かさず一刀斎が飛ぶように間合いを詰めた。

眼前に迫った切っ先。轟然と振り下ろされる一撃。

その瞬間、満月 玲は直後に迫る『死』を覚悟した。

しかし、幾ら待てども刀が降りてこない。

怪訝に思い顔を上げる。すると一刀斎の口端に悪童の笑みが浮かんだ。

直後感じたのは、水月を貫く衝撃と鈍い打撃音だった。

全身を浮遊感が包み込んだ。

殴り飛ばされたと気づいた時には、玲の体は錐もみしながら海面に着水。高い水飛沫をあげて海の中へと沈んでいった。

寸前、小雪の悲痛な叫びが聞こえたような気がしたが、それを確認する間もなく意識は途絶えた。


 目を覚ますと、澎湃と涙を零す小雪の姿が視界に映りこんだ。

 「‥‥‥雪?」掠れた声でそう呼ぶと、更に声を大にしながら額を胸に押し当ててくる。

 状況は未だに判然としなかったが、とりあえず心配をかけたことは間違いないので、小雪の髪を梳くようにして撫でてやる。そうして幾らか小雪が落ち着いたのを見計らい、改めて状況を確認する。

 身を起こし、辺りを見回す。

 すると近くの灌木に腰掛けながら酒を煽る一刀斎を見つけた。

 「井の中の蛙大海を知る。されど、空の青さを知る」

 飲んでいた酒瓶を置き、一刀斎は続ける。

 「この負けを活かせよ――――小次郎」

 「…‥‥‥‥次は勝ってみせるさ」

 「フフッ、それでこそ鐘捲自斎の弟子よ」

 「そういえばさっき自斎のことを先生と呼んでいたな」

 「儂も元は先生の門弟の一人よ。‥‥‥まぁ、破門されたがな」そう呟く一刀斎の声音には、どことなく哀切な色が滲んでいるように思えた。

 「この時代剣客を名乗るような輩は皆、戦い方が上品過ぎて好かん。だがな、先程の技は実に面白かった。同じ鐘捲流を相伝した者として共感できる。誰でも負けを認めるのには勇気がいる。だが、負けをアッサリ認めちまうのもどうかと前々から思っていたのよ」

 「それって、つまり、小次郎様の負けん気を評価しているってこと?」

 目元を赤く腫らした小雪がおずおずと問いを挟む。

 「まぁ、そうだな。拙者も暇じゃない。雑魚を相手に無駄骨を折るほど十本指の立場は軽くはない。何度負けようが、命続く限り、何度でも挑みかかってくるような無鉄砲な阿呆が欲しいのよ。そういうわけで小次郎。拙者と一緒にこぬか?」

 「―――――――ッ‼」

 「小次郎様?」悲痛な眼差しが小雪から向けられる。

 その眼にはどこにも行かないでくれという願望が滲んでいる。

 そうと知りながらも、敢えて彼女の思いに気付かぬふりをして一刀斎に問い掛けた。

 「お前についていけば、お前よりもっと強い剣士と闘えるか?」

 「ま、拙者以上となれば大和広しと云えども柳生の爺さんか、塚原の小僧以外にはおらんだろう。まぁ、その二人も直に超えてみせるがな。

それは他の連中も同じだ。無論、お前もな―――小次郎。

だが今のお前を斬ったところで何の自慢にもならん。だから、まずは十本指の座を力づくで掴み取ってみせろ。そしたらまた仕合ってやろう」

 「‥‥‥いいだろう。貴様の口車に乗せられてやろう」

 「決まりだな」

 ニヤリという形容詞の似合う獰猛な笑み。

 「出立は明日の明朝。それまでに身支度を済ませておけ」

 


 佐々木 小次郎として、『大和』に転生してから既に三年の月日が流れていた。

 あの日、天華と数年ぶりに再開した直後、スマホに届いた一通のメッセージ。

 差出人不明『あなたの願いは何か?』と、メッセージはそう綴られていた。

馬鹿らしいと思いながらも、玲はそのメッセージを無視できなかった。

 「もう一度、機会が欲しい。天華ともう一度戦いたい」

 直後、意識が急激に遠のき、気が付くと見覚えのない古びた漁港の浜辺に倒れていた。

 更に不運は続いた。転生直後、どういう訳か自らの素性、名前や生まれた育った場所すら、何も覚えていなかったのだ。そこで浜辺に打ち上げられていた旗。そこに書かれた兵法家 佐々木 小次郎。という名で半年ほど過ごした。

そんな時に偶然出会ったのが、鐘捲 自斎とその孫である小雪である。

自斎は見ず知らずの玲を食客として自宅へ招き、翌日には『鐘捲流』の稽古が始まっていた。自分自身に関する記憶の一切合切を失っていたにも関わらず、それでも不思議と剣の扱いだけは体が覚えていた。

他にやることもなかったので自斎に付き合い、気付けば鐘捲流免許皆伝を許され、病弱で嫁

の貰い手が見つからなかった小雪を妻として娶ることになっていた。

 無論、嫌だったわけじゃない。 

 自斎のことも、小雪のことも好きだったから、本当の家族となることに抵抗はなかった。

 だが玲の記憶は、時の流れとともに少しずつ蘇りつつあった。

 そして、半年前―――前触れもなく日本にいた時の記憶を取り戻した。 

 自分が、佐々木小次郎ではなく、満月玲という名前であることも。

 そして、自分が何の為に剣を振るい続けてきたのかも。

 全てを、克明に思い出した。

 

 「どうだった弥五郎は?」聞き慣れた嗄れ声。

 使い古された囲炉裏の奥に見える小柄な人影―――鐘捲 自斎はパチパチと音を立てる火へと視線を向けたまま続けた。

 「強かったか?」

 「俺が、弱かった」

 「一刀斎‥‥‥弥五郎の奴が言っておった。たった一人で強くなったと勘違いしている内は、ただの棒振りに過ぎぬと。負けを知り、弱さを知り、怖さを知った者のみが、頂へと続く道を歩むことができるのだ。今日のお前はどうだった? とな?」

 唇を噛みちぎらんばかりに引き結んでいるせいで、口を開くことが出来なかった。

 「以前のワシなら、弥五郎の話を聞いてもお前に話そうとは思わかっただろう。でもそれは間違いだった。お前を初めて見た時からその才能に気付いていた。だが、そのまま剣の道に進ませることが怖かった。かつて剣に狂っておった儂が言ったところで説得力に欠ける、ともかく、お前には儂と同じ苦しみを背負って欲しくなかったのだ」

 罅の走った湯飲みから白く湯気の立つ、熱湯を一口含み続けた。

 「一度、剣の道に進めばそれより先は終わりのない闘争しかない。斬るか、斬られるかの殺し合い。それが剣術の本質。だから儂はお前をこの狭い村に閉じ込めた。だがそれは儂の我儘に過ぎなかったのだろうな」

 俯きながら、膝元に置かれた湯飲みを握る手が細かく震えている。

 「‥‥‥出て行け‥‥‥小次郎‥‥‥、お前は‥‥‥今日限りで破門と‥‥‥する‥‥‥」

 途切れ途切れにそう口にする自斎。必死に嗚咽を堪えるその姿に、思わず眼の奥がカッと熱くなる。それでも涙だけは流さなかった。座したまま姿勢を正し深々と頭を垂れた。

 「長い間、お世話になりました。この御恩は生涯忘れません」

 小次郎は決して顔を上げようとはしなかった。おそらくは自斎もそうだったろう。

これ以上二人の間に言葉は必要なかった。遅かれ早かれこうなることは分かっていた。

唯、お互いにキッカケがなかっただけ。

 二人の間に別離は意味を成さない。

側にいなくても師弟の絆は、如何なる名刀であろうとも断ち切ることはできないのだから。

 

 翌朝―――まだ辺りは薄暗く、森には霧が立ち込めていた。

 ずいぶんと見慣れたはずの光景も、今朝はまるで違って見えた。

 最後まで自斎とは言葉を交わさなかった。

振り返りたい、戻ってまた自斎と二人で一緒に暮らしていたい。

 三年間過ごした家のことを思うと、郷愁に似た感情がちくりと胸に刺さる。

 それでも前に進まなくてはならない。

 最強であることを示さねばならない。

 一つは、焔 天華が最強であることを証明するために。

 もう一つは、鐘捲 自斎の弟子は天下無双であると世に知らしめるために。

 迷いを断ち切るべく愛刀の鞘を勢いよく鳴らす。 

そして、先の見えない旅路へと足を踏み出した。

 森を抜けた先に広がる、水平線の彼方に登り始める陽の光。海面は無数の宝石がちりばめられたように燦然と輝き、この光景もしばらくは見納めになると思うと少し寂しく思えた。

罅割れた貝殻や、打ち上げられた海藻類、頬を撫でる潮の匂いも、その全てが俺をここまで育ててくれた。三年も過ごしてきたこの場所を離れることが、怖くもあり、それ以上にワクワクもしている。きっと自斎はこの感動を教えたかったに違いない。

村にこもり静かに死んでいくことだって出来たはずだ。

だけど、そうはなりたくないと心の中に居座るもう一人の俺が囁きかけてくる。

 あの時―――一刀斎に敗れた瞬間、胸の内に沸き起こる奇妙な感情があった。

 当然、負けたのだから楽しいはずがない。悔しいし、恥ずかしいという思いもあった。それなのに嬉しいと思う自分も確かにいたのだ。まだこの世界には俺の知らぬ先がある。自斎が床に臥すようになってから、誰とも剣を交えず、孤独に剣を振り続けた。最強の証明さえなされればそれで十分だと己に言い聞かせていた。

でもそれは結局、自分を誤魔化していただけに過ぎなかったのだ。

 本当のところ、ずっと飢えていた。

 俺は本当に、近づけているのだろうか?

 焔 天華という理想を追い求めて、今日まで剣を振るってきた。

 でも、それは一人では叶わない。

 だから今は多くのモノに感謝したい。

 敗北を教えてくれた、伊藤 一刀斎へ。

 いつも側で見守ってくれていた嫁、小雪へ。

 ここまで育て、剣を教えてくれた師 自斎へ。

 そして―――いつか必ず追いつかねばならぬ憧憬の後ろ姿に。

 気付けば澎湃と涙が頬を伝っていた。

 それは歓喜の涙か。それとも故郷への別れの涙なのか、あるいは‥‥‥。

 「ハッ、どうしたこんな所で男一人、しみったれた顏をして」

 嘲るような響きを含む声。見れば浜辺で座禅を組む貴影があった。

 「まだ残っていたのか」

 「おいおい、お前を負かした兄弟子を呼び捨てとは礼儀がなってねェなぁ~」

 憮然と呟く一刀斎には応じず、ずっと引っかかっていた疑問を口にした。

 「なぜ、俺を生かした?」

 「ん?」

 「あの時、アンタは俺を斬れたはずだ。それなのに、なぜ‥‥‥」

 「フンッ、知れたこと。――――お前に惚れたからだ」

 不意に背筋にゾクリと泡立つモノを感じ、顔を引きつらせると、一刀斎は憤慨した声を上げた。

 「待て、待て、何もそういう意味で言ったんじゃない。お前の技に惚れたのだ」

 「―――っ!」

 予想外の言葉に息が詰まった。あの戦い、いや戦いとすら呼べぬ圧倒的な敗北であった。

それなのに、この男は俺に惚れたという。

 「なぁ小次郎、剣は好きか?」

 何度も自斎から聞かれた問いだ。

 答えは既に―――決まっている。

 「ああ、好きだ。剣は俺の全てだ。魂であり、血であり、骨である」

 「ハハハッ、青いな小次郎。それでは辿り着けん」

 「むっ!」

 素直に述べた思いを一笑され、眉間に皺が寄る。

 「お前は剣に愛されている。あの時対峙して改めてそう思ったよ。でもそれだけでは足りんのだ。反対に剣に愛されなかった者はどうかと問われれば、ソイツもまた駄目だ」

 意味の解らない言葉だ。それに矛盾している。

それでも一刀斎は水平線を見据えたまま続けた。

 「拙者も若い頃は、剣に愛されていると信じて疑わなかった。剣聖などと御大層な二つ名で呼ばれていたくらいだからな。だが、そんな時、奇妙な男が現れた。その男は刀に好かれているわけでもなく、かといって嫌われているわけでもない。そんな男に敗れたのだ。昨日のお前と同じように何も出来ずに無様に空を眺めていたよ。それから幾度となく戦いを挑んでは、勝った負けたを繰り返したのちに悟った」

 そこで言葉を切り、懐かしむような声音で、

 「拙者たちは剣を振るいながら探しているのよ」

 「何を?」

 「己を収めてくれる鞘を、刃を探し続けている」

 「どういう意味だ?」

 「確かに頂には近づいた。その自負はある。だがそれより先に行くには一人では叶わんのだ。そのことに気付くのがあまりにも遅すぎた。だがお前は違う。同じ師を仰ぎ、同じ‥‥‥いやそれ以上に剣に愛されたお前ならば必ずたどり着ける」

 そこで立ち上がり、一刀斎はまっすぐに玲を見据え、

 「お前の全てを受けとめ、引き上げてくれる好敵手を見つけろ。その先に我ら剣客の求める答えがある」

 ひょいっと、投げられた一枚の和紙を掴み取る。

 「小次郎。古都に行け! そこにいる十本指と戦ってこい」

 「十本指?」 

 聞き慣れない言葉だ。けれどきっと強き者であろう。そんな予感がする。

 「一度戦えばわかる。そしてその先で拙者は待っている。お前が強くなったその時は―――本気の仕合をしよう」

 ブルリと総身が総毛立ち、握りしめる和紙に幾筋もの皺が走った。

 「それと‥‥‥ホレ、思い人も一緒に連れて行ってやれ」

 顎で小次郎の裏をクイッと指され、振り返ると、気の陰に隠れた小雪の姿があった。

 「小雪、どうして⁉」

 何の考えなしに口を衝いて出た言葉に、小雪は小ぶりな唇をクスリと崩し、

 「私は天下無双の妻になる女ですから。何処までもお供いたしますとも」

 「だ、駄目だ。危険な旅になる。‥‥‥それに、自斎の側にいてやってほしい」

 自斎が寝込むようになってから最も側にいたのは小雪だ。弱っている自斎を独り残していくことを心配もしたが、小雪がいてくれればと思っていた。

 「おじい様から頼まれたのです。アナタを守ってやってほしいと」

 「―――っ‼」

 守る、という言葉の意味を一瞬思い出せなくなった。なぜなら小雪は剣術も、弓術も、何の武芸の心得もないただの村娘だ。そんな彼女から守ると言われ、それがどういう意味なのか分からなくなった。

 すると、後ろから一刀斎が野太い笑い声を上げた。

 「ハハハッ! 女子に守られるか小次郎。面白い、さすがは鐘捲先生だ」

 「な‥‥っ! わ、笑うな!」

 途端に沸き起こる羞恥に、顔が熱くなる。

 「だが先生のお考えも解る。ただ真っすぐな鉄は傷つきやすく折れやすいものだ。連れて行ってやれ小次郎。それがきっとお前を更なる高みへと導く鍵となるだろう」

 一刀斎の言うことは最後までよくわからない。しかし小雪は覚悟を定めっている。こうなった雪を説き伏せるのが無理なことくらい、今日までの付き合いの中でとうに理解していた。

 「解った、一緒にいこう雪」

 その言葉を聞いた瞬間、可憐な花が綻ぶような笑みを浮かべ、コクリと頷く。

 「はい」

 「それにお前、古都までの道のりも知らんだろう?」

 「むっ!」

 「大丈夫です。私が存じて上げておりますので!」

 駆け寄ってきた雪がそのままグイッと手を掴み、

 「行きましょう、小次郎さま!」

 そんな雪に手を引かれるまま、旅路への一歩目を踏み出すのだった。


◇◇◇


 極東の島国『大和』。

長い鎖国政策により大陸の諸外国との国交を断ち、未開の島国、と他国からは揶揄されていた。曰く、人食い文化のある国である。外国人に対して異様なまでの差別主義国家である、などと何の根拠もない噂だけが独り歩きしている。

そんな中、光王家主導の元、御三家間による合議によりそれまでの旧態然とした鎖国体制は緩和され、その結果多くの諸外国との国交が開始された。

そして思い知った。

大和が如何に世界に遅れをとり、取り残されていたかということを。

 不思議な力を宿した武器。天災を人為的に引き起こしうる魔法使い。そんな諸外国がこれまで大和に攻め入らなかったのは、鎖国制の影響で大和の内情が知られていなかったからだ。

しかしその正体は露見した。にも関わらず大和国内では未だに御三家を筆頭に光王家に取り入ろうとする奸臣が蔓延っている。このままではいずれ他国からの侵略は免れない。

 そこで御三家重鎮たちは話し合いの末、大和の国内から選りすぐりの手練れを集め、その者たちを光王家の御親兵とした。それも魔法や魔法道具のような兵器に頼らずとも、それ以上の能力を人の身で体現し得る者を、身分に関係なく広く募った。

そして集められた十人の剣士を『十本指』と称した。

 慧眼は正しかった。十本指はそれぞれが一騎当千の猛者であり。それを見た他国の外交官たちは、大和の戦力を過大評価した。しかしそれも十年前の話である。

 当時の十本指だった者たちの中には、年をとり引退した者もいる。これではせっかく示した大和のイメージが大きく崩れるのは必然だった。

そこで御三家は再び十本指を募った。ただし今回は以前のように広く募るのではなく、十本指、光王家直轄の指南役らがそれぞれ推挙した者の中から厳選していくという方法だった。

 一刀斎もその一人である。

彼も十本指に相応しい猛者を求め全国各地を放浪した末に、師である鐘捲 自斎が育てた無名の剣客―――佐々木 小次郎を見つけるに至った。

一刀斎は一目見た瞬間から小次郎の只ならぬ剣才を見抜き、彼ならば未来の十本指を率いる器であると確信した。故に、小次郎を新たな十本指に推挙することにした。

その選抜方法が同じ十本指の者と仕合って認められなければならぬとしても、その結果死ぬことになろうとも、小次郎ならばきっと切り抜けられる、そう確信して―――。

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