第2話
目を覚ますと、其処は古びたお堂の中だった。
体を起こし、辺りを見渡す。
ギシギシと軋む床板の上には埃が積もり、長い間人の手が入っていないことが窺える。
未だ判然としない頭を押さえながら、ここへ至るまでの記憶の糸を手繰り寄せる。しかし幾ら考えようと何も思い出せなかった。何はともあれ外を確かめれば分かることだ。立ち上がろうと腕に力を込める。すると、指先に何やら硬い感触があった。おずおずと視線を下げると、そこには武骨な刀が二本転がっていた。
天華はそれらを拾い上げる。気を緩めては取り落としかねない重み。天華はすぐにこれが真剣であることを悟った。鞘に収まった刀を胸の高さにまで持ち上げるや、勢いよく抜き放つ。
澄んだ鞘鳴りとともに姿を現したのは、妖艶な輝きを放つ、抜身の刃だった。
息を呑むほどに美しい、鏡のような刀身に天華はしばらく陶然と見入ってしまう。
「でも、何でこんな所に真剣が‥‥‥?」
偶然なわけがない。目が覚めると見知らぬお堂の中、側には鋭利な刃物が落ちていたなんって話し、一体誰が信じるだろう。ともかく一刻も早くここから出なくては、そう思った矢先、お堂の外から何やら物々しい足音が近づいてくる。
直後、勢いよくお堂の入り口が開かれた。薄暗い堂内に眩むような光が差し込み、思わず顔を背けた。それからゆっくりと閉じた瞼を持ち上げ、入り口に佇む貴影を視界に捉えた。
つるりとした禿頭に、薄汚れた僧衣を身に纏う巨漢の男。一目でどこぞの僧侶だと見受けられたが、その僧侶の姿を認めると同時に、天華は警戒を強めた。
その僧侶の身なりはあまりにも怪しく、息は乱れ、額には珠のような汗が滲んでいる。
「それ以上近づくな!」
「待て! 今はそれどころじゃ‥‥‥ッ!」
反射的に刀の柄に手を伸ばしかける天華を、僧侶は慌てて押しとどめる。
直後、お堂の外から幾つもの足音が聞こえてくる。僧侶はコチラが二の句を告げるより先に、戸を閉じると汗の滲む鼻先に指をたて、小声で「静かにしろ」と告げた。
これには天華も唖然とさせられたが、僧侶の言う通り物音を立てぬように息を潜めた。
しばらくすると、お堂の外から声が聞こえてきた。
「おい、あの坊主どこいきやがった!」
「探せ、この近くにいるはずだ」
「野郎、舐めやがって見つけ次第ぶっ殺してやる」
漏れ聞こえてくる話し声には相当な殺意が込められていた。
足音が遠ざかり、そこからたっぷりと数分待ってから、僧侶は戸口の隙間から外の様子を覗き見る。そして長々と安堵の溜息を零し、戸を背にしてずるずると座り込んでしまう。
「やれやれ、しばらくは外を出歩けんな」
ぽりぽりと頭を掻きながら僧侶がぼやく。
と、そこで僧侶はコチラの存在を思い出したのか、無精髭の生えた口元にニッと人のよい笑みを浮かべる。
「巻き込んですまなかった。勝手にお主の寝床に上がり込んでしもうて、詫びの一つでもしてやりたいところだが、生憎と今は手持ちがない。さっきの奴らに賭けで負けてしもうたばかりでな、すまんが赦してくれ」
カッカッ、と大口空けて笑う僧侶の姿に警戒を緩め、柄から手を離した。
「ったく、とんだ生臭坊主だな」
「はっはは、坊主と云えども人間だ。人生張り合いがなくてはつまらんからな」
「はぁ~~、用が済んだならさっさと出て行けよ。巻き込まれるのは御免だよ」
別に自分の所有地でもなかったが、天華は野良猫を追い払うようにシッシッと手を振る。
「おっ、その剣。お主―――ひょっとして女だてらに剣客か?」
「ちょっ、早く出ていけよ!」
「ははー、そう言うな。こう見えても刀には詳しいのだ。その刀、銘は何という?」
ずいっ、と僧侶の太い指が天華の握る刀を指差した。
「はぁ⁉ そんなの‥‥‥、知るわけ‥‥‥、『伯耆安(ほうきやす)綱(つな)』…‥‥?」
無意識に、刀の銘が口を衝いて出た。
「――――ッ‼」
何で、今、私はこの刀の名前が『伯耆安綱』だと判った?私はこの刀のことなんって知らないはずなのに‥‥‥。
突然口を噤む天華の様子を僧侶は怪訝に眺めていたが、何やら合点がいったのかポンと諸手を打つ。はた、と天華も僧侶に視線を向ける。
「なるほどなるほど、そういうことか」
「どういう意味だよ? アンタ、何か知ってんのか?」
「フム、知っておる。だが今ここでそれを話したところでお主は信じぬだろう」
自身の無精髭を撫でつつ何やら意味深な台詞を残し、僧侶は戸口を開くとそのままズカズカと歩いて行く。呆然と立ち尽くす天華に、僧侶は肩越しに振り返ると、
「ついてこい、お前の知りたいことを教えてやる」
未だ混乱していたが、兎にも角にも僧侶の言う通りここにいても何も始まらない。意を決してお堂の外へと足を踏み出して直ぐ、天華は大きく眼を瞠った。
空気に匂いがあった。
都会の雑踏のなかでは決して味わうことの出来ない瑞々しさが、天華を優しく包み込んだ。
鼻腔を擽る花のあまい香り。遠くから聞こえてくる鳥たちの囀り。これまで体感したことのない爽快な樹の匂い。肌に突き刺さる陽の光。
これまでの人生のなかでこれほど自然を感じたことがあっただろうか。
まるで新しく生まれ変わったような爽快感が、全身の細胞の隅々まで染みわたるようだった。
吹いた柔らかい風が、天華の黒髪を優しく撫でる。
「本当に何所なんだ、此処は?」
東京でないことは間違いない。だが、それならどうやってここまで来たのか? 何故、私は古びたお堂の中に倒れていたのか?
「おーい、何しとる! 早くせんと置いて行くぞー!」
既に数十メートル先を歩く僧侶が声を張る。
分からない事は多いが、一旦疑問は脇に置き、先を歩く僧侶の元まで早足に駆け寄っていく。
◇
そして―――僧侶に連れられ訪れたのは大きな繁華街だった。
しかし、天華の知る繁華街とは異なり、そこはまるで時代劇のセットで使われるような街並みだった。街路には多くの人々で賑わい、路肩に立ち並ぶ屋台からはひっきりなしに客引きの声が上がっている。天華はその様子に唖然としたまま見入っていた。
「どうだ、驚いたか?」
「…‥‥ああ、本当にこれ、現実なのか?」
おずおずと隣に立ち並ぶ僧侶に問う。
僧侶はニッと悪戯が成功した悪童のような笑みを口元に浮かべ、
「当たり前だ。此処こそこの国の中枢である『古都』だ」
『古都』という聞き慣れない地名に眉根に皺が寄る。
「何だ、古都は初めてか?」
「‥‥‥初めてっつうか、何って言うか‥‥‥」
戸惑う天華に、僧侶は街を見渡しながら言う。
「お前さん―――日本から来たんだろ?」
「――――――ッ⁉」
弾かれたように僧侶へ振り向く。
その様子に、カッカッと僧侶は笑う。
「やっぱりな。実を言えばな、お前さんのような者は初めてじゃない。儂の爺さんも、そのまた爺さんも、お前のような者と会ったことがあるらしい。ここではない、遥かなる彼方からこの地を訪れた旅人。儂等はお前さんたちのような者を、『迷人(まろうど)』と呼んでいる」
「迷人?」
コクリ、僧侶が重々しく首肯する。
「ここ『大和(やまと)』は、お前さんような迷人たちが暮らす日本ではない、別の世界だ」
「‥‥‥‥‥‥‥」
しばらく僧侶が何を言っているのか理解出来なかった。
唖然と眼を見開く天華に、僧侶はそれ以上何も言わず、視線を再び正面の街並みへと戻す。
その後を追うように天華も正面へ向き直る。其処に広がる街の喧噪、人々の賑わう声。肌を撫でる微風。腰に佩く大小二本の刀の重み。その全てが現実であることを物語っている。
「それともう一つ、これは儂の爺さんが今際の際に言っていたのだが、何でも迷人は元々この世界にいた人間と入れ替わるらしい」
「どういう意味だ?」
「うーむ、儂もその話を信じてはいなかったが、お前さんの反応、それと‥‥‥」
自然と僧侶の眼が天華の左腰に佩く太刀に向けられる。
「先程、お前さんが言っていたその刀『伯耆安綱』。どこかで訊いたことがあると思ったが‥‥‥、そうか、お前がそうなのか」
「おい、何だよ! 一人で勝手に納得すんじゃねえ、早く教えろ!」
今にも殴りかからんばかりの勢いで迫る天華に気圧され、降参とばかりに諸手を上げた僧侶が掠れた声を洩らす。
「つい先日、古都の名門剣術道場の一つ『吉岡道場』が一人の剣客に大敗を喫したと噂されていた。当主の清十郎をはじめその弟 田七郎を討ち取り、その報復に奔った門弟七十人以上を悉く斬り捨てし『修羅』―――名を宮本 武蔵。その者が持つ刀こそ『伯耆安綱』であると」
「は?」
思わず間抜けな声が漏れた。
たっぷりと数秒放心してから、どうにか立ち直った天華は更に僧侶へ詰め寄る。
「じゃあ、私があの『宮本 武蔵』だってのか⁉」
と、途端、二人の周囲を行き交っていた群衆がピタリと制止すると、一斉に距離を空けた。
「ははーん、どうやらお前さんのことが怖いようだな」
「だから、私は宮本 武蔵なんかじゃ‥‥‥ッ‼」
更に声を荒げるも、周りの人々には天華の姿が『宮本 武蔵』として映っているらしかった。
「まぁ、無理もない。吉岡道場は古都でも指折りの名門。その門弟の悉くを斬り殺した武蔵のことを快く思わない連中も多いだろうな。気を付けろ、仇討を目論む者もこの街には大勢おるはずだからな」
「仇討って‥‥‥」
どうして私が。と口にしかけたその時、不意に背後から近づいてくる冷たい気配―――殺気を感じ、天華は反射的に左腰の伯耆の柄を掴むや、身を反転させた勢いそのままに抜刀、左上段から刀を鋭く一閃させる。
キィィィィン! 澄んだ金属音とともに空中に舞う一本の小刀。
振り向くとそこには、目尻に涙を浮かべながら尻餅をついた子供の姿があった。
一瞬唖然としながらも、天華は剣尖を少年の眼前へと突きつける。
「どういうつもりだよ、ガキ」
刀を突きつけられた少年は、目に怨嗟の色を湛え、声を震わせながら叫んだ。
「父上を‥‥‥、よくも‥‥‥よくも…‥‥」
「なるほど、早速仇討に現れたか。しかもこんな幼子がな」
「は、どういう意味だよ?」
「解らんか? この坊主は、お前に―――宮本 武蔵に殺された者の血縁者なのだろうさ」
「な――――ッ⁉」
今度こそ開いた口がふさがらなかった。
それでは今、私は身に覚えのないことで、こんな子供に殺されかけたというのか?
だとしたら―――冗談じゃない。
突然、こんな非現実的な場所で目覚め、お前は宮本 武蔵だと告げられたばかりか、挙句の果てに殺されかけたなんって悪い冗談にもほどがある。
と、その時、天華はある違和感を覚えた。
少年の眼前に突きつける刀。その柄を握り締める自身の右手。
四年前の事故以来、箸すら真面に握れなくなったはずの手が、刀を、しかも真剣を掴んでいる。これは一体どういうことなのか?
何がなんだか分からなくなってきた。刀を握る手が震え、それ以上真面に持っていることもできなくなり、刀が指間から滑り落ちた。ガシャン、と重い金属音を訊く前に、天華は踵を巡らせ、多くの人々で賑わう街の雑踏の中へと消えていった。
◇
あの頃はまだ、誰の背中も追いかけていなかった。
振り返れば、必ずアイツは私の後を追いかけていた。
そのことを私は揶揄い、最後には必ず待ってやる。
だけど今は、振り返っても後ろには誰もいない。
それどころか、そこには何もない。
道すらない。あるのはただ―――後悔だけ。
額から嫌な汗が頬を伝う。
右手には未だ刀を握っていた感覚がありありと残っている。
奇妙な感覚だった。以前は、当たり前だった感覚なのに、四年ぶりに握った『刀』は記憶のそれとは随分違っていた。天華はひどく戸惑い、そして恐怖した。
背筋にひやりとした悪寒が奔り、天華は足を止め周囲を見渡す。
先ほどの少年のように自分に―――否、宮本 武蔵に恨みを抱く者から、いつ襲われるのではないかと気が気ではない。忙しなく流れていく人並みの只中で立ち尽くす天華へ、すれ違う街の人々からは奇怪な眼差しが向けられてくる。
「何、してんだろうな」
知らず、乾いた呟きが零れた。
一体いつから私はこんなにも臆病になってしまったのだろうか?
四年前、事故に遭う以前の焔 天華なら決してこんな無様な姿はさらさなかっただろう。
戦う術を失い、自暴自棄になりかけていたところを凪に救われた。それからはいつも彼女が側にいてくれた。でも今は、その凪が側にいない。これじゃまるで兎の後を追いかけ御伽の国に迷い込んだ童話の少女そのものではないか。
大きく違うのは、少女は新しい世界を受け入れ、元の世界に帰るために数々の苦難を乗り越えるが、私にはとても真似できそうにない。
きつく瞼を閉じ、夢ならば醒めてくれとひたすらに願った。
が、いくら祈願したところで現実は変わらない。
しばらく呆然と立ち尽くし、最後は半ばあきらめ交じりにゆっくりと歩みを再開させた。
全身から疲労と倦怠感が抜けきらず、ぼんやりと歩いていると、突如横合いから人影が飛びこんできた。突然のことに真面な受身が取れず、そのまま押し倒される形で地面に倒れた。
「痛っ!」
打った部位を抑えながら、とりあえずはぶかってきた相手に文句のひとつでも言ってやろうと叫びかけた寸前、天華は鋭く息を呑んだ。
天華に覆いかぶさるようにして倒れていた少女の栗色の頭がゆっくりと持ち上がる。
「ごめんなさい、ちょっと急いで‥‥‥て‥‥‥」
少女もまた天華の姿を認めた途端、言葉尻を窄めた。
「凪?」
「天ちゃん?」
その声を聞き間違えるはずがなかった。
二人はそのままお互いの瞳を見つめ合い、同時に相手に抱き着いた。
「やっぱり、天ちゃんだ! うわー、すっごく会いたかった! 何で、なんでここにいるの⁉」
子供のように無邪気にはしゃぐ凪の姿を普段なら軽く揶揄っただろうが、今この瞬間だけは、そんな冗談を口にする精神的余裕が残っていなかった。
凪の胸の谷間に鼻先を深く沈めながら、天華は幼子が母親に甘えるように低く鼻を鳴らした。
「こっちの台詞だよ、バカ」
「‥‥‥天ちゃん‥‥‥。うん、そうだね、ごめん」
凪は何も悪くないのに、短く詫びると、天華の黒髪を優しく撫でる。
道行く人々からは今度こそ奇怪な眼差しが向けられているだろう。何しろ、こんな人の往来の激しい場所で、少女二人が泣きながら熱い抱擁を交わしているのだから、変に見られて当然だ。そうして、長い抱擁を解き、改めて顔を見合わせる。
「話したいことがたくさんあるんだ」
「うん、私も。でも天ちゃん、その前に一旦ここから離れよう!」
立ち上がるや、徐に右手が掴まれ、そのまま有無を言わせずに走りだした。
「――――ッ⁉」
直に、天華はある違和感に気付いた。
「凪、お前‥‥‥走って大丈夫なのか?」
心臓に重い疾患を抱えている凪は、短時間であろうと激しい運動が出来ない。その為、学校にもほとんど通わず、家と病院を往復する毎日を送っていた。それでも時折、天華を連れてスイーツ店や買い物に付き合わされることはあっても、こうして天華の手を引きながら走ることなど、本来なら出来るはずがないのだ。
振り返った凪はコチラの云わんとする意味を察したのか、ニッと口元を綻ばせ、
「だいじょーぶ! 私、この二年ですっごく強くなったんだ! だからこのくらい平気!」
「二年? お前、さっきから何言って‥‥‥」
「詳しい話はあとで! 今は急ぐよ!」
疑問を遮り、凪はさらに走る速度を加速させた。
◇
そして――――連れてこられたのは古びた舞台館だった。
裏口を通り、客席ではなく舞台袖へと通される。
未だ状況が呑み込めず混乱が抜けきらぬ天華に、凪はここで待っているように告げると、奥の方に引っ込んでしまう。舞台裏では芸者たちの他にも裏方衆が忙しなく行き交っている。
ひどい場違い感に居心地悪く、自然と隅の方へ移動した。
垂れ幕の向こう側から聞こえてくる喧騒。既に客席は結構な客入りらしい。
数分後、開幕の報せを告げる鐘の音が会場全体に鳴り響いた。
歓声が上がる。舞台壇上では、色鮮やかな衣装に身を包む芸者たちが舞を、笛を、琴を、演じていく。その度に会場は湧き、芸者たちへの惜しみない拍手が送られる。そして壇上に静寂が満ちる。自然、会場全体が妙な緊張感を帯び、観客の期待は高まっていく。
やがて舞台袖から一人の芸者が現れる。これまでの華美な衣装ではない、白と緋色を基調とした衣服。神社などでよく見かける巫女装束に身を包んだ少女が足音を静かに舞台中央に進み出る。ダンッ! 袴の裾を大きく閃かせ踏み出された足踏みが、張り詰めていた会場全体の空気を震わせる。右手に握られた扇子が宙に美しい曲線を描き、その奥で楚々と息を潜める舞者は触れれば儚く散る硝子細工のようですらある。しかしそれも次の瞬間には一転する。それまでの静謐さを押しのけ、激しく燃え盛る劫火の如く舞は勢いを加速していく。会場の誰もが息を呑み、ただただ圧倒されていた。やがて笛の音が佳境に近づくにつれ舞はより一層激しさを増し、時に静寂の緩急を織り交ぜ、見る者を釘付けにする。
永遠にも思えた時間は、舞の終わりとともに幕を閉じた。
それからしばらく、会場には小さなどよめきが満ちていた。誰もが呆けたように立ち竦んでいる。感想など、必要なかったのだ。人間は真に感動を覚えたとき、呆然と立ち尽くすのだと、舞台袖から会場の様子を盗み見ていた天華は知った。
「どうだったー、天ちゃーん! 私の舞はー?」
そんな明るい声とともにコチラに駆け寄ってくるのは、巫女装束に身を包む親友――風祭 凪。先ほどの凄絶極まる舞を演じた人物と同一人物には思えぬ、間延びした声だった。
「あ、ああ‥‥‥、凄かったよ、すごく」
忌憚のない感想を口にする天華に、にへーと口元をだらしなくさせる凪が栗色の頭を胸元へ摺り寄せてくる。
「えへへー、もっと褒めてほめてー」
そんな親友の頭を優しく撫でていると、奥の方から他の芸者たちがぞろぞろと集まってくる。
「いやー、本当に助かったよ。今日だけで講演三回分の稼ぎだよー」
「ちょっと、座長。今は金の話しやめてください」
「そうですよ。せっかくの感動が醒めちゃうじゃないですか」
「悪いわるい、感動したのは俺も一緒だ。なんたって、あの有名な出雲阿国(いずものおくに)の舞をこの目で見られたんだからな」
「出雲阿国?」
「いやー、そんなー、私なんってまだまだですよー」
そう謙遜しながらも芸者たちから取り囲まれる凪はまんざらでもなさそうだ。
そんな親友の耳元でボソリと訊ねる。
「なぁ、出雲阿国って、ひょっとして凪のことか?」
「うん、そうだよー。この世界じゃ、私は風祭 凪じゃなくて、出雲阿国っていうんだー」
と何でもない事のように告げる凪に、天華は呆気にとられ言葉を詰まらせた。
宮本 武蔵に出雲阿国。如何に歴史に疎い天華でさえ一度は聞いたことのある偉人たちだ。
ふと先程の僧侶の言葉が脳裡に過る。
『迷人は元々この世界にいた人間と入れ替わる』、と。
話を聞いた時は何を言われているのか解らなかったが、これまでの体験と凪の話をすり合わせれば自ずと答えに辿り着いた。
「ん? 天ちゃん、どうかしたの? 顔色悪いみたいだけど」
「あっ、いや何でもない。少し考え事してただけ」
「そう?」
怪訝な眼差しを向けてくる凪に、天華はくしゃりと相好を崩し、彼女の髪を飼い犬にするようにワシャワシャ撫でてやる。それだけで凪の瞳に恍惚とした色が浮かぶ。
普段は穏和な愛玩動物のような印象を見る者に与える凪だが、彼女はこれで中々勘が鋭い。
天華が嘘をついている時は十中八九見破られてしまう。そんな時はこうして頭を撫でてやれば大丈夫だということは、三年の付き合いのうちに学んだ。
こんな不特定多数の人がいる場所で迂闊なことを口走り、先程のように宮本 武蔵に恨みを抱く何者かに襲われるとも限らない。ひとまずここは大人しくして、後で凪にこの世界のことを色々と訊ねよう、そう思った矢先――――。
観客と役者との間を遮っていた垂れ幕が勢いよく翻り、その奥から明らかに関係者には見えないガラの悪い男衆数人がこちらに近づいてくる。
天華以下、他の芸者たちも男衆の存在に気付くと皆一様に顔色を曇らせる。
一同を代表して座長と呼ばれていた初老の男がおずおずと前に進み出る。
「すみませんが、ここは関係者以外立ち入り禁止です。御用がなければこのままお引き取り下さい」
緊張に額に脂汗を滲ませる座長の姿を、男衆の先頭の男が無精髭に覆われた口元を歪めた。
「用がなくちゃきちゃだめなの? 一体誰のおかげでこうして舞台やれてると思ってんの?」
「そ、それは‥‥‥」
口籠る座長の様子に、男はさらに調子よく言葉を続ける。
「俺たちのおかげだろうよー、座長さーん。忘れてもらっちゃ困るぜー、それに借りたモンはきっちり返してもらわねーとなー」
男に賛同するように他の男衆からクツクツと忍び笑いが漏れる。
「ふ、ふざけんな! 勝手にケツ持ち気分で法外なショバ代ふっかけやがって! 手前ェらにやる金なんざ一銭たりともあるもんか!」
先程の演目で凪に次ぐ人気を博していた芸者の一人が、たまらず声を荒げた。
その声を皮切りに他の芸者たちからも非難の声が上がる。
が、男衆はその様子を愉しそうに見つめ、やがて深々と息を吐き、
「やれやれ、仕方のねぇ連中だ。痛い目に遭わなきゃわからねぇらしいな」
それまでの剽軽な印象から一転、ドスの利いた低い声に先程まで勢いづいていた芸者たちがシンと静まり返る。その様子にフンッと鼻を鳴らすと、男は振り返り、
「先生、宜しくお願いします」
男衆が割れ、その奥から他とは異彩を放つ男が進み出る。
その場に居合わせた誰もが、男のいで立ちに眼を釘付けにされた。
袖なしの貫頭衣。首からはネックレス感覚で大粒の数珠を下げ、背中に大きく『天下無双』
『夢想 権之助』とデカデカと書かれた旗を二本背負い、頭の後ろで横向けに担ぐのは持ち主を優に凌ぐ長槍。眼の下にはスポーツ選手が日光や照明を軽減させるために用いるアイブラックが炭で塗られている。
その珍妙ないで立ちに、最初に啖呵を切った芸者がプッと小さく噴き出した。
たちまち他の芸者たちにも笑いの波は広がり、先程までの張り詰めた雰囲気は霧散した。
刹那、男が動いた。次いで、最初に笑った芸者が高々と宙を舞う。そのまま勢いよく背中を背後の壁に打ち付け、地面に転がった芸者は蹲り苦悶の呻き声を洩らした。その左肩を覆う布がじんわりと赤黒く染まり、地面を濡らし始める。
突然のことに誰も反応できずに身構える中、天華だけが、何が起きたのか正確に理解し、そして驚愕に空色の瞳を見開いていた。
「迅い‥‥‥ッ!」
男がやったことは至極単純。肩で担ぐ槍を構える。突く。それだけだ。
だが、たったそれだけの動きにあまりにも無駄がなく、ひたすらに早かった。
槍使いを見たのは天華もこの時が初めてだった。しかし眼前の男が相当な手練れであることは間違いない。ブルリ、と総身が震えた。心臓が早鐘のように脈打ち、指先が熱を帯びたように熱くなる。気付けば、右手が腰に佩く脇差しの柄へ伸ばされていた。
「――――ッ⁉」
まさか、あの男と闘おうとしているのか?
だとしたら、それは勇敢ではない。唯の蛮勇だ。
四年以上も真面に剣を握ってこなかったのだ。今更、剣を振るったところで私じゃ、あの男には勝てない。そんな事はやる前から判っていることだ。‥‥‥それなのに、何故? こんなにも胸の内が熱く燃え盛っているのか? 忘れかけていた闘志がチリチリと刺激されていくのが解る。やめろ、無茶だ、という理性の呼びかけとは裏腹に、自分の力を試してみたいという欲求があるのもまた事実だった。
そんな天華の葛藤など露ほども知らぬ槍使いの男が、勢いよく槍の石突を床へ打ち付け、
「すまんのー、儂をみて笑おうた奴はたとえ女子供であろうとも許しておけんのよ。じゃが、安心せい命までは獲らん。まぁ、しばらくは真面に飯も食えんじゃろうがな」
カッカッと声高らかに哄笑を上げた。
「せ、先生‥‥‥、さっきの男はこの座の看板でして‥‥‥」
おずおずと声を挟む男衆を、先生と呼ばれた槍使いは冷たく一瞥する。
「じゃあ、なにか? この夢想権之助を愚弄した連中を捨て置け、っちゅうのか?」
「い、いえ、そういうわけでは‥‥‥」
完全に気圧され男が小さく後退る。
「まぁ、これも仕事ちゅうならしゃあないのー。儂も給金分の働きはせんとな」
改めて混乱冷めやらぬ座長、芸者たちへと向き直り、
「それでぇー? ソイツがさっき言うてたショバ代を払う気はあるか、ないのか、どっちかの~? 返答しだいじゃ、あそこで転がっとる阿呆と同じ目にあと何人かはあってもわにゃ思とるが、どうする?」
「ぁぁ‥‥‥」
すっかり委縮してしまっている座長に、夢想権之助なる槍使いは更に距離を詰める。
「さぁ~? どうする気じゃ?」
「~~~~~~‥‥‥」
顔を蒼くさせ、言葉を詰まらせていた座長が口を開こうとした、その時。
パンッ、と乾いた音が通路に響き渡った。
「貴方たち、さっきから人として最低よ!」
権之助の頬を平手打ちにした凪が、威勢よく叫ぶ。
これにはこの場に居合わせた誰もが、天華、権之助までもが唖然と固まった。
最初に冷静さを取り戻した男衆の一人が慌てて凪に詰め寄ろうとする。
「て、テメー! いきなり何を‥‥‥」
「止めェ、平祐」
「し、しかし先生、この女は先生に‥‥‥」
「のぉ~平祐、貴様、いつから儂に口答えするようになったんじゃ?」
「そ、そういう訳では‥‥‥ッ! すいません出過ぎた真似でした」
粛々と詫びの言葉を添え、男は取り巻きたちの元へと戻っていく。
「さぁーて、女ー、儂の頬を張ったからには高くつくぞぉー?」
凪の方へと向き直った権之助が、声を低くして凪との距離を詰める。
だが、凪は構わずにふくよかな胸元を張り、声高に言う。
「そんなことより、喜兵衛さんに謝りなさい!」
「はぁ~? ワレ、何を言うて‥‥‥」
「貴方が怪我させた喜兵衛さんに謝りなさい! 悪いことをしたらちゃんと謝る。子供だって知ってる、人としての当然の理屈だわ! 貴方がどこの誰かは知らないけど、喜兵衛さんに謝って! 早く、心を込めて、謝って!」
「小娘ェ‥‥‥」
眉間に皺をよせ、値踏みするように眼を眇めていた権之助が、唐突に膝を叩いて笑い始めた。
「気に入った! 小娘、貴様を儂の女房にする!」
「は――――ッ⁉」
あまりにも突然の告白に、思わず間抜けな叫びが漏れる。
権之助は男衆の方へと振り向き、
「ちゅうわけで、今回のショバ代はこの小娘一人っちゅうことで勘弁したれや」
「先生、それはあんまりでしょー! 何のために貴方に高い金をだしてると思って」
「ゴチャゴチャぬかすな。儂がこの娘を貰う言うとろぉーが、貴様等は黙って儂の言うこと訊いとけばいいんじゃ」
あまりにも傲岸不遜な物言いに、平祐と呼ばれた男衆は二の句を告げずに固まっていた。
「ちょ、ちょっと、いきなり何を‥‥‥⁉ そ、そりゃ確かに、私はまだ独り身だけど、いきなりそんな‥‥‥、そういのってまず順序が大切じゃないかしら」
と、一人、狼狽を露わにする凪の元に天華は慌てて駆け寄った。
「ちょっ、馬鹿、凪、しっかりしな!」
「で、でも、私、男の人に求婚されたのって初めてで‥‥‥、こういうのってどうしたらいいの?」と、真剣な表情で訊ねられる。
無論、一介の女子高生に過ぎない天華が求婚の断り方を知るはずもなく、「えっと…」「だから…」としどろもどろに答えに窮する。そして、向き直った権之助が顔を凪の方へ近づける。
「お前に拒否権はない。それに喜べ、この天下無双の兵法家、夢想権之助の嫁になれるんじゃ、こんなめでたいことは他になかろうが」
ヌッと槍を持たぬ手が凪の方へと伸ばされ―――。
しかし、その手が触れる寸前、権之助の手首を掴んでいた。
「何じゃ、われ?」
「汚い手で凪に触んな」
「あ~? 喧嘩売っとるんか、ワレ?」
両眼に強い敵愾心を滾らせる権之助。すると、突然、凪が勢いよく諸手を打った。
「ごめんなさい、やっぱり貴方のお嫁さんにはなれません。だって私の生涯の伴侶は―――」
言葉を区切り、天華の右腕に自身の両腕を絡めてくる。
「ここにいる、天ちゃんって決めてますから!」
「はぁ~~~~~⁉ 凪、お前、いきなり何を言って‥‥‥」
突然のことに声が裏返る。凪の瞳は真剣そのものであった。
そして、求婚を断られた権之助は。
「なんじゃ、それは――――」
顔を俯け、むき出しの両肩を細かく震わせ、
「じゃあ、儂がこいつより強いと証明したなら、儂と結婚しろ!」
◇
主街区の外れにひっそりと佇む古びた道場にて夢想権之助と対峙していた。
「解っとるじゃろうな? 儂が勝てば、その娘は儂が貰うぞ?」
その不遜な物言いに、天華は吐き捨てるように悪態をつく。
「勝手に凪を巻き込んでんじゃねぇよ。これは私とアンタの喧嘩だ」
「この夢想権之助様と喧嘩とは、笑止千万! 片腹痛いとはこの事じゃ。己が身の丈に合わぬことを申すな。地に膝を突き、頭を垂れて許しを請うがいい。そうすればこれまでの無礼の数々、赦してやらんこともないぞ?」
「馬鹿言うな。凪にたかる蠅を追い払うのは私の役目って三年前から決まってんだ」
実際、凪はモテる。
その類い稀なる容姿に加え、人当たりの良い性格。父親が大病院の院長を務めており家柄も申し分ない。だが、幼い頃から生活のほとんどを病院で過ごしているせいか一般常識に疎いところがある。誰に対しても分け隔てなく接するのは凪の美点だが、そのことで異性に余計な勘違いを抱かせることは多々あり、それが原因で度々、トラブルに巻き込まれている。
そんな時はきまって天華が仲裁に入り、穏便に(根気強く拳で語り合い)事を収めてきたのだが、本人にその自覚はない。
そして今回もいつものように処理すればいいだけだ。
が、それは一般人においての話である。
実際、いくら強がろうとも、天華と権之助の戦力差には大きな開きがある。
天下無双と嘯いてはいるが、その実力の一端はさきほどの騒動の只中で垣間見た。
あの槍捌き、只者ではない。
それに引き換えコチラは、剣―――それも真剣での立会など生涯初。
贔屓目に見ても、この勝負コチラに勝機はない。
だが、今更臆病風に吹かれて尻尾を巻いて逃げるわけにもいかない。理由はどうあれ、何もしなければ凪があの男の手籠めにされてしまう。それだけは絶対に阻止しなくてはならない。
「天ちゃーん! 負けるな、頑張れー!」
道場の端。舞台用の巫女装束姿のまま応援に駆け付けた凪の暢気な声援に、思わず笑みがこぼれた。これから命がけの闘いに身を投じようというのに、何とも気の抜ける声援である。
細く、長く息を吐き出し、胸の中にすくう不安、恐怖を外へ締め出し。
ゆっくりと左腰の得物へと右手を這わせた。
そこでもう一つ、天華は己が失策に気がついた。
先刻、路傍で少年に襲われた際に『伯耆安綱』を放り捨ててしまっていたのだ。
唯でさえ、太刀と長槍では槍の方に分があると云うのに、これでは勝負にならない。
天華の構えた小太刀をみた権之助以下、その後ろに控えている男衆からクツクツと忍び笑いが漏れ聞こえてくる。
しかし、天華の胸中にはさざ波すらない。
理由は解らない。これから始まる仕合に緊張していないわけじゃない。
技も経験も相手に劣っている。加えて、長期間のブランクが天華から剣士の勘を奪い去っていた。―――にも拘わらず不思議と負ける気がしない。
構えは基本の正面中段。切っ先をまっすぐ権之助へと突きつける。
「ほー、女だてらに心地よい剣気を放ちよるわ」
権之助の眼に鋭い光が宿った。
そうして道内に満ちる緊張感が徐々に膨れ上がり―――。
「いざ―――尋常に―――」
権之助の野太い声が道場に響き渡る。
「勝負―――ッ‼」
開戦の報せが上がる。
「あ⁉」
飛ぶようにして槍の間合いに天華を捉えた権之助から怪訝な声が漏れた。
通常、太刀と槍持ちが正面切って戦った場合、刀術者は何がなんでも槍使いの懐に飛び込もうとする。唯でさえ太刀は槍よりも短く、刀術者はその特性を生かし敵の懐へ飛び込む。
そうなれば今度は槍術者の方が不利になる。つまるところ刀術者と槍術者の闘いとは、如何に敵を己の間合いに誘い込めるのか、間合いの奪い合いである。
にもかかわらず天華は動かない。迫りくる槍の穂先を凝然と見据えながら微動だにしない。
臆したか⁉ この常識では有り得ぬ行動に、権之助が勘繰る。
しかし、天華には別の思惑がある。
権之助が槍を突く。と同時に、天華は中段の姿勢を崩さず大きく後ろへ飛び退った。
槍がむなしく空を切る。権之助は得物を引き寄せるや続けざまに二度、三度と槍を突いた。
しかしその悉くを天華は後ろへ下がることで槍の間合いから逃れる。間に合わぬ時は、小太刀で弾き、もしくは身を捻って躱した。そのまま一分が過ぎた頃、権之助の額に太い青筋が浮かび上がった。
「なんじゃ、さっきから逃げてばかり! そんな逃げ腰の剣術でこの権之助様に勝てると思うとるのか―――ッ!」
権之助渾身のひと突き。天華はその一撃を寸前まで引きつけ―――しかし、今度は逃げなかった。槍の一撃を小さな横移動で躱すと、一気に床を蹴り権之助との距離を詰める。この突然の反撃に権之助は眼を丸くし、慌てて槍を引き戻す。が、それより早くすれ違いざまに振るった天華の一閃が権之助の体を捉えた。
血飛沫が舞う。
天華は大きく距離を取ってから身を翻した。
「くっ‥‥‥、まんまと挑発にのせられたわけか」
左脇腹から出血する権之助が憤懣やるかたないといった表情で天華を睨みつける。
だが権之助の苛立ちは、天華に対してではなく、むしろ自分自身に対してのものであった。
その証左に、権之助の血走った眼に冷静さが戻るのを天華は感じた。
「チッ‥‥‥」思わず舌打ちが漏れる。
正直、今の一撃こそが天華の最後の勝ち筋であった。
斬った感触が掌にありありと残っている。
権之助の脇腹を切り裂く一瞬、躊躇してしまった。
怪我をする以前、『神童』と謳われた才女は、勝負の行方を左右する刹那、相手を斬ることを躊躇ってしまったのだ。天華が知る剣とはあくまでも格闘技であり、スポーツに過ぎない。
だがこれは命を懸けた殺し合いなのだ。
その渦中にいながら敵の身を案じるなど烏滸がましいにも程がある。
加えて竹刀の感覚が抜けきっていなかったのも仕留めきれなかった原因の一つだった。
自らの得物が小太刀であることを正確に捉え、操っていれば勝負は決していた。
鈍と化した実戦の勘を、この短時間で取り戻せるほど甘くはない。
焦燥感が募る。
対する権之助は、先の一撃がどれほど重い失策だったのかを冷静に受け止め、野生の獣を彷彿とさせる眼孔には、次は仕留める、という必殺の意思が込められている。
「…‥‥‥ッ‼」
半歩、天華は後退った。
反対に傷を負った権之助がすすっと間合いを詰める。
コチラから打ち掛かるのは自殺行為。だからこそ権之助の大振りを待つ他、天華に勝つ術はない。しかし権之助は先の失策を踏まえたうえで、大振りはせず慎重に天華との間合いを図っている。刃を交わさぬ無言の均衡は、後退しきった天華の背中が道場の壁にぶつかると同時に崩れた。
「しまっ―――‼」
天華が己の失策に気付き、壁から離れるより早く、右上段から左下段へと槍の一撃が襲い来る。受けてはマズい、と天下の危機回避能力が警鐘を鳴らす。迎撃は諦め、回避を試みる。
ほとんど膝から崩れ落ちるような恰好でしゃがみ込んだ天華の頭上、髪先数本を巻き込み、権之助の槍が道場の壁を砕く。
飛散する木片。
その桁外れの剛撃を視界の端に捉えつつ、身を起こし、その場からの全力離脱を試みる。
だが、それを易々と見逃すほど権之助も間抜けではない。速射砲さながら打突の嵐が天華を襲う。小太刀の腹で弾く、身を捻って躱す。さらに弾く、と繰り返しながら天華は槍の間合いから逃れようとする。しかし権之助は執拗に天華を追い詰め、とうとう槍の横単発水平斬りが天華を捉えた。足裏がわずかに浮き上がった、と思った時には道場の端から端へと吹き飛ばされていた。背中を強くうち、肺の中の空気が零れた。
左肩に炎で炙られるような激痛が奔った。気合だけでは如何ともし難い苦痛。
痛い。いや、これが本物の痛みか⁉
怪我する以前は、試合や稽古中にできた痣やすり傷は絶えなかった。そのことで一時、家庭内暴力を疑われたほどだ。―――だが、左肩に奔る痛みは、それら過去の痛み全てを足して尚、余りある。
おずおずと伸ばした指先が紅く濡れていた。
それが、血であると認識するのに数秒を要した。
―――勝てない。
僅か一撃で、天華の戦意は根こそぎ奪い取られてしまった。
ゆっくりと確かな足取りで、権之助が近づいてくる。
元々、勝ち目のない戦いだった。
それが此処まで競ったのだから、もう十分だ。
たとえここで負けたとしても、別に誰も死ぬわけじゃない。
ならば潔く自らの敗北を認め、生き永らえる事こそ賢い選択なのだろう。
悄然と項垂れ、「降参」の二文字を口にだす寸前。
脳裏に、ある男の声が蘇った。
『俺は先に行く』
瞬間、天啓にも近い衝撃が天華の意識を揺さぶった。
ここで敗北を認めてしまえば、その瞬間、焔 天華はただの臆病者に成り下がる。
激しい動きで解れた前髪の隙間から、きつく両手を握り合わせる親友の姿が見えた。
今にも泣き出しそうな顔で懸命に天華の勝利を、否、無事を祈っている。
守ると誓ったはずの相手に心配されとは、何と間抜けな話だろうか。
自分自身の弱さを激しく呪い、それを振り払うように―――、
ガンッ!
徐に右手で握る木立の柄頭で思い切り自身の額を打った。
鈍い音が堂内に響く。その姿にこの場に居合わせた誰もが唖然と固まっていた。
「はー、スッキリした」
無論、単なる強がりに過ぎない。
左肩の傷口は未だ燃えるように痛み、出血多量で今にも倒れそうだ。
それでも、この瞬間だけは意志を示さねばならない。
なぜならこれは、かつての天才 焔 天華の回帰ではない。
小さく息を吐き出し、天華は再度小太刀を構えた。
その空色の瞳には、一片の迷いも存在しない。
カチリ、天華の中で何かがハマる音がした。それはまるで噛み合っていなかった歯車がかみ合い、彼の無敗の剣豪、その器に焔 天華が完全に乗り移ったことを意味していた。
「さぁ――――戦ろうぜ」
先程とは比較にならぬ、触れる物すべてを焼き焦がすような剣気が道場全体に波響する。
気配が変わった?
眼前に佇む華奢な少女。
だが、権之助の兵法家としての勘が、容易に撃ちかかってはならぬ、と警笛を鳴らしていた。
少女は開戦から変わらず、コチラの槍の間合いの外でカカシのように動かない。
勿論、少女の挑発にまんまと乗り脇腹を裂かれたのは、単にコチラの油断が原因だった。しかし、今はそのような驕り微塵もない。少女の空色の瞳、小太刀を握り締める手。足、体の向きに至るまで、事細かにその仔細を観察、その一挙手一投足に至るまで警戒を払っている。
にもかかわらず権之助は動けずにいた。
空気が張り詰めていく。頬を伝う汗が顎先から滴り落ちる。
「こないのか?」静かに少女が口を開く。
その瞳に先程までの気負いはない。
命がけの真剣勝負において、これほど静かな眼をした兵法家はこれまで見たことがない。
「‥‥‥くっ‥‥‥」
何だ、これは⁉
先程までの精神的優位性は、少女の謎の奇行以降、完全に逆転していた。
それは天下無双を謳う兵法家 夢想権之助にとって無視できぬ『屈辱』であった。
「ぜああああああ―――‥‥ッ‼」
空気を震わせる叫びとともに、槍を突く。
対して少女は泰然自若と構えている。
そして―――槍の穂先が、少女の眼前にほとんど触れる距離で静止した。
否、そこが権之助の槍の間合いの限界であった。
「~~~~~~――――ッ⁉」
ブワリ、全身が総毛立つ。
―――馬鹿な⁉ 俺の槍を前に、身を引くことも、躱そうともしない。それどころか瞬きすらしていなかった。有り得るのか? こんなことが‥‥‥。
―――もし有り得るとすれば、この娘は、俺の槍を完全に見切っている。
驚愕に見開かれた双眸がゆっくりと怒気を孕んでいく。
―――ふざけるな。そんなことあっていいはずがない。この夢想権之助様が何処の馬の骨とも知らぬ小娘に負けるなど、絶対にあってはならない!
つと、脳裡に―――かつての敗北が蘇った。
兵法家として各地を放浪し、勝ちを重ねていた頃、権之助は出会った。
人の身でありながら、人ならざる武を納めし本物の怪物ども。
その一人の姿が、眼前の少女と重なったような錯覚を覚えた。
「させぬ‥‥‥」
夢想権之助は人の身においては、まさしく天下無双に違いない。
が、そこにひとたび彼の剣豪どもが加われば、その存在はそこいらの有象無象と差異はない。
「儂は‥‥‥強い‥‥‥ッ!」
ほとんど自己暗示同然に叫び。それと共に権之助は槍を引き絞り、床を蹴った。
床を蹴る乾いた音がした。直後、打突の嵐が天華を襲った。
しかし、天華はその全てを最小の動きだけで躱し続けた。否、右の小太刀で受けもするが、それですら最小の範囲内であった。ただ避けるより受けた方が早いからそうしているだけ。
突かれた槍が鼻先数ミリを残して操者の元へ返っていく。
この時の天華はまさに、夢想権之助の槍を『見切っていた』。
事故に遭う以前の天華が神童と呼ばれた所以はそこにある。
対峙した相手との距離、得物、相手の腕と自分の腕の長さ、僅かな癖、呼吸、位置、心理、をほとんど初見、もしくは数合撃ち合うだけで見抜く。
父親をはじめ、有段者たちは天華のその眼のことを―――『天眼』と称していた。
まさに神の如き異能である。
無論、才能だけで済む話ではない。
如何に見えているといっても、敵の攻撃が眼前に迫れば人間は反射的に顔を背けてしまう。だが天華にはそれがない。一歩誤れば致命傷は免れないところを、天華はその眼を以て限界まで見極めてしまう。天華の持つ最大の才能とは即ち、死を恐れぬ心の強さである。
現に、先程まで権之助の剣圧に気圧されていたが故に、天華はその本領を発揮できなかった。だが遙か彼方を歩む憧憬に追いつくため、四年もの間眠り続けた虎がついに、その牙を剥き、咆哮を上げた。
「があああああああ―――‥‥ッ‼」
泡交じりの唾を飛散させ権之助が突く。だが槍は天華には届かず空しく空を切った。
額に玉のような汗を滲ませ、肩を激しく上下させる槍術者の眼が、僅かな焦りを帯びたのを天華は見逃さなかった。
それまで動かなかった天華が、突如、小太刀を高々と振り上げた。
自然、腹が隙く。
「――――ッ‼」
直線の軌道を描く槍にとって、これほど格好の隙は無い。その空いた腹を突く、それだけだ。
終わりの見えなかった暗闇の中に差し込む、細い糸に―――権之助は縋ってしまった。
「ぬかったな、小娘ェ‼」
居丈高な叫びとともに権之助の持つ槍が鋭く突かれた。
「お前がな」
短く吐き捨てる。
権之助の視線が重なる。途端、その眼が自身の失策を悟り大きく見開いた。
「しまっ―――」
「遅い!」
振り上げた小太刀が、迫る槍先を叩き、軌道が大きく右へ流れた。慌てて槍を引き戻そうとするも、それより早く権之助の懐深くに潜り込み、左手で槍の柄を握る。
「終わりだ」
振り下ろされた小太刀は、権之助の喉元で静止していた。
槍術者の手から得物が滑り落ちる乾いた音が鳴る。
力なく両膝から崩れ落ちた権之助は、未だ夢現を観ているような陶然とした眼で天華を見詰め―――やがて降参を告げた。
「ま‥‥‥参った。儂の負けじゃ‥‥‥」
その言葉を受け、天華は小太刀を鞘へ納めた。
数秒、権之助の姿を見下ろしてからゆっくりと踵を返す。
「天ちゃーん~~~~‥‥ッ‼」
途端、真剣勝負の直後とは思えぬ明るい叫びとともに凪が抱き着いてくる。
「な、ちょっ、凪‥‥‥⁉」
そのまま押し倒される形で、二人揃って道場の床に転がった。
その時、負傷している左肩を激しくぶつけ、余りの激痛に声にならない苦悶の呻き声が漏れた。それを聞いた凪が弾かれたように体を離し、
「ご、ごめん。天ちゃん大丈夫?」
正直、まったくもって大丈夫ではない。しかし凪には随分と心配をかけてきたという自覚もあったので天華は努めて笑みを浮かべ、「大丈夫、だいじょうーぶ」と強がってみせる。
「それより凪、ありがとな。また助けられた」
「ぽぇ?」
何のことかまるで解らない、といった表情で凪が小首を傾げる。
そのことが何だか可笑しくて、思わずクツリと笑みが漏れた。
「あー、なに、なに? 何で天ちゃん笑ってるのー⁉」
仲間外れにされた子供のように、頬を膨らませる親友の頭に手を置き、優しく撫でる。
「あの時、勝負を投げそうになった。でも、ギリギリのところで凪のこと思い出して、それで元気が出たんだ。何っていうのかな、要するにこの戦いは凪のおかげで勝てたってこと」
最後は勢いに任せて言い切った。
一瞬キョトンとしていた凪だったが、天華の言葉の意味を咀嚼するとニッと花が開くような笑みを浮かべ、
「そっか」
いつもの甘えてくる時と違う、もっと優しく温かい抱擁が天華を包み込む。
そんな彼女の頭を優しく撫でてやっていると、そこでようやく我に返った権之助が口を開く。
「一つだけ、聞かせろ」
スッと凪が顔を離し、二人は兵法家へと向き直った。
「娘、お前さん一体何者だ?」
直には答えられなかった。何故なら今の天華は、姿、中身こそ高校一年生の焔 天華だが、この世界『大和』の人々の眼には、あの有名な剣豪『宮本 武蔵』として映っている。
言葉に窮する天華。その時、傍らの凪が力強く声を張り上げた。
「天ちゃんは、天ちゃんだよ! 他の誰でもない、焔 天華だよ!」
「‥‥‥凪‥‥‥」
「焔 天華? 訊かぬ名だ。それだけの腕がありながら何故、無名なのだ?」
「あー、それはなー‥‥‥」
本当は宮本 武蔵って名前だよ。と名乗るべきか数秒本気で逡巡した。
それでも天華は、死力を尽くして戦った権之助に対して嘘をつきたくなかった。
意を決し、名を告げようとしたその時―――、
「なーに、そ奴はつい最近まで儂が面倒見ておったからなー、無名なのは儂がその事を隠しておったからだ」
道場入り口。薄汚れた僧衣を身に纏う僧侶が、仁王立ちで佇んでいた。
「あっ、オッサン!」
思わず声が出た。それは目が覚めた天華をこの街まで案内してくれた謎の僧侶だった。
「ったく、探したぞ。ほれー」
ズカズカと歩み寄って来た僧侶が、鞘に入った刀を天華へ投げて寄こす。
受け取り、小太刀とは違う刀の重みを少し逞しく思った。
「もう失くすなよ。今度は拾ってやらんからな」
「‥‥‥ああ、ありがとよ」
「おい、坊さん。さっきの話は一体どういう意味だ?」
二人の遣り取りに権之助が口を挟む。
「ああ、要するにだ! この娘、女だてらに刀を振り回す故、故郷の村でも嫌われ者のじゃじゃ馬でな、親からコイツが真人間になるまで面倒を見るように頼まれておったのだ。それで数か月前に寺を出した故、まだ大した名が挙がっておらんのよ」
この場で咄嗟に思いついた割には筋の通ったホラ話だ。だが、誰がじゃじゃ馬だコラ、という文句を込めて僧侶を鋭く睨みつけるも、僧侶は気付かないフリをする。
「なるほど、どおりで知らぬわけだ」
どうやら納得した様子の権之助の背後。彼の取り巻きの一人が僧侶の顔をしげしげと眺め―――思い出したように声を荒げた。
「あー、テメーこの糞坊主!」
「クソぼうず?」凪が呟く。
「はて? お若いの、どこかで儂と会ったかの?」
「忘れたとは言わせねぇぞ! ウチの賭博場で負けた分の金、ちゃんと払えよな!」
「‥‥‥おい、オッサン」
天華のゴミを見るような眼差しを受けて尚、僧侶は泰然自若とした態度を崩さない。
「はて? そんな覚えはないが‥‥‥、さてはお主、誰かと人違いしておらんか?」
「その髭面、そう簡単にゃ忘れねーぜ! とにかく金はキッチリ払ってもらうからな!」
「さっさと払っちまえよ」呆れ交じりに天華が呟く。
「うーむ、払いたいのは山々だが、生憎と今は手持ちがない。それに、そもそも儂は賭け事はせんからな」
僧侶の飄々とした態度に、男衆から剣呑な雰囲気が漂い始めた。
これは流石に庇いきれん、と匙を投げかけたその時、閉じられていた僧侶の瞼が持ち上がり、
「喝―――ッ‼」
鼓膜を震わす一喝が道場に響き渡る。
「知れ者め! この儂を一体誰と心得ておるか! 光王家顧問役 沢庵であるぞ! 皆の者、頭が高いわ!」
「将軍?」
小首を傾げる天華を除く、全員が皆一様にひざを折り、頭を垂れる。
「な⁉ ‥‥‥こ、コイツ等、一体何して‥‥‥?」
「天ちゃん、ひょっとして光王さまのこと知らないの」
「‥‥‥?」
何も答えられない天華に、凪が説明しようとするが、
「とりあえず、お前は先に治療を受けてこい。話はそれからだ」
◇
僧侶 沢庵に云われるまま左肩の治療を済ませ、次に案内された宿の一室。
天華に付き添っていた凪共々、部屋に入った途端、酒臭さに思い切り顔をしかめた。
「よー! お前ら、遅かったな! こっちは先に始めとるぞー!」
陽気な笑い声を上げる沢山。その手には酒杯が握られ、畳の上には空の酒壺が転がっている。
「‥‥‥遅かったじゃねぇよ、この凧坊主が‥‥‥」
「ん? 何してる、お前らも早く座れ」
着座する凪に倣い、天華もその隣に腰を下ろす。
「で? 一体何の話を聞かせてくれんだ?」
天華の不遜な態度を、既に顔を蛸のように紅潮させている沢庵が気にする様子はなく。。
「なーに、まずはお互い自己紹介をしておこうと思ってな。では改めて―――」
それまでの剽軽な印象から一転し、沢庵が真剣身を帯びた顔で自らの素性を明かす。
「儂は光王陛下に仕えておる、名を沢庵という。今は分け合って大和各地を旅しながら、優秀な人材の発掘および、それを御三家へ斡旋するのが主な仕事だな」
何だかスポーツのスカウトみたいだな、というのが正直な感想だった。
「して、お前さんらは?」
「私の正体はもう知って‥‥‥」
「違うちがう、こっちでの名ではない。お前さんらの本当の国―――『日本』での名だ」
眼前の僧侶を見据える天華の眼差しが鋭くなる。
―――コイツ、何でこんなに私たちの話をすんなりと受け入れてんだ?
そんな天華の邪推を知る由もない、傍らの凪が「ハイ!」と手を上げ、
「私は風祭 凪って言います。こっちの世界では出雲阿国として大和各地を旅しながら舞を踊ったりしてまーす!」
「ほう! 出雲阿国とな⁉ ではお前さん‥‥‥ではなく、元の出雲阿国の話はよーう耳にするぞ。そういえば随分と昔にだが光王様の御前で一度舞ったことがあると聞いておる」
「えへへー、そんな私なんって大したことないですよー」
本人は褒められていないのに我が事のように喜ぶ凪の楽天家ぶりに、改めて驚嘆させられる。
と、そんなことを考えていると沢庵の問いの矛先が天華へと向けられる。
「‥‥‥焔 天華だ。えっと、こっちじゃ宮本 武蔵なんだっけ?」
最後は気恥ずかしさを誤魔化すように質問系にして言う。二人の名前を聞き終えた沢庵は、何度か口中で天華と凪の名前を呟き、覚えたのか音高く膝を叩いた。
「では凪に天華、お前さんたちのような者をここでは『迷人(まろうど)』と呼ぶ。迷人どもの存在は古い資料でも度々確認されておる。まぁ一部の学者たちは唯の法螺話という者もおるが、現にお前たち二人は『日本』からやってきたという。ならば儂はお前さんたちの言い分を信じる。そしてその上でお前さんらがこれからの手助けがしたい」
「手助け? おい、オッサン、そんなことしてアンタに一体何の得がある?」
報酬なき善意ほど信じられぬものはない。隣の凪は良い人だなーと思っているだろうが、天華は単なる善意で見ず知らずの他人を助ける人間をそう易々と信じられるほど、魯鈍ではなかった。しかし沢庵は、こちらの思惑などお見通しだと云わんばかりにその理由を話す。
「当然、儂にも利はある。さっきも言った通り儂は光王陛下よりとある命を受けておる」
「?」
「それを話すには、現時点での大和の内情を話さねばならん」
「もったいぶらなくていい。早く教えろ」
「まあ、そう急くな。―――まずは大和政権の頂点におられるのが光王陛下、であるということは勿論知っておろうな」
コクリ、大きく首肯する凪。反対に天華は、周囲の反応、口ぶりから、その『光王』なる人物がこの世界『大和』を統べる人物であると朧気に理解した。
「だがこの広い大和を光王陛下お一人の力で統べることは難しい。そこで陛下は大和を大きく三つに分けられた。それが御三家、関東の源氏、西国の飛鳥、古都の足利。この三家が各地方を治めておるからこそ、今日の大和は戦のない平和な時代となった。だが、ここ数年、とある問題が浮上してきてな。それが光王陛下のお世継ぎを誰にするかという跡目争いだな」
ドラマや映画、で度々目にするアレか、と話半分に聴く天華の隣では凪が真剣な面持ちで沢庵の話に聞き入っている。
「そこで御三家の連中は、その跡目争いに自分たちの家の者を送りだそうと画策しておる。故に御三家の連中は陛下に対する忠義の証として、後々、自分たちと光王家との橋渡しのために優秀な人材を送り込もうとする。だがそうなれば自然と光王家に仕える公家どもは御三家側から賄賂をくすねるようになり、近い将来、光王家が腐敗の温床になることは容易に想像がつく。そこで儂のような者を各地に派遣し、優秀な人材を実際に見分し、光王様にご推薦しているのだ」
「んん~? 途中からわけわかんなくなってきちゃったぁ~」
「要するに、光王は武器や宝じゃなく、人材を求めてるってことだな?」
その説明に教師役の沢庵が深く頷き、
「大体のところはそれで合っとる。だが肝心なのはここからだ。優秀な人材といってもその才能は多岐にわたる。そこで光王様は大和各地、それも身分を問わず広く優秀な人材―――それも武芸に秀でた者を集めるように御命じなされた」
「武芸に秀でた者?」
「如何にも。わずか十名の大和最強の剣豪だけを集めた独立機関。名を―――『十本指』」
「十本指」
鸚鵡返しに呟く天華に、沢庵はニッと口端を吊り上げ。
「そしてどういう訳か、この世界にやってきた迷人どもは例外なく、その道の達人どもと入れ替わっておるらしくてな、儂らにとって迷人は極上の献上品となるのよ」
「それが私や凪、ってことか?」
「如何にも。お前さん等を御三家のいずこかに推挙した後、十本指になってもらう。勿論、それでも確実に十本指になれる保証はない。なにしろ十本指になる奴らは皆、一様に化け物ぞろい。中には神格化され小大名を凌ぐ名声をもつ猛者がおるほどだ」
「なるほど話がみえてきたな。つまりアンタは紹介先から、その分の報酬を頂くってわけだ」
沢庵は小さな苦笑を浮かべるだけで、何も語ろうとはしなかった。
「ねぇ、天ちゃん」
不意に呼びかけられ、振り向く。
「私、天ちゃんと一緒ならどこでもいいよ」
まっすぐに真剣な凪の眼差し。
心臓に重い疾患を抱え、二十歳すぎまでは生きられない凪にとってそれは自らの人生を賭けるだけの価値ある願いなのだ。その願いに私が入っていることが誇らしく、何より嬉しかった。
凪へと身体ごと向き直り、天華は深々と頷く。
「解った、ずっと一緒だ」
パアアアアッ、と琥珀色の瞳を輝かせた凪が歓喜の叫びとともに飛びついてくる。
仲睦まじく抱き合う二人に、驚いてみせる沢庵が決断を迫る。
「それでどうする? 儂とともに来るか? それとも―――」
「少し考えさせてくれ」
きっと沢庵の提案はこの世界の人たちからすれば大変名誉なことなのだろう。
しかし、一度この話に乗れば自由はなくなる。いろんな所を一緒に旅したいという凪の願い、その足を引っ張ることになるかもしれない。だからこそ安易に決めることは出来ない。
心中を察してか、沢庵は好々爺然とした笑みを浮かべ、
「まぁ、とりあえず今日は休め、話はまた後日にしよう」
「悪いな、助かる」
小さく頭を下げ、凪の抱擁を解き二人は部屋を後にした。
◇
翌日、天華は凪に連れられ古都の散策へと出かけた。
「天ちゃーん、次はあそこ見に行こうよ!」
「ちょっと待てよ、凪」
天華の手を掴みズンズン人の波の間を縫って進む凪は、ひどく楽しそうで、そんな親友の姿を見ていると思わずこっちまで愉しくなってくる。
「ねぇ、次はあの茶屋に行ってみようよ!」
「ったく、しょうがねぇな」
短く嘆息を洩らし、茶屋へ駆けこんでいく凪の後をおい暖簾をくぐろうとしたその時。
街路の方から野太い怒鳴り声が聞こえてきた。
暖簾に手をかけたまま固まった天華は、騒ぎのする方へ向き直った。
「喧嘩だ。こっちで芸人と役人が喧嘩してるぞ!」
「ちょっと誰か止めてやりなよ、あの旦那怪我しちまうよ」
野次馬たちが声を低く囁き合う。人だかりの隙間から当事者らしき二人の武士の姿が見えた。
一人は、この世界について疎い天華でさえもひと目で高貴な身なりと判る肩衣を纏う役人。
もう一方は、遠目からでもスラリと背が高い。蒼い羽織は膝ほどまでの長さ、その背中には、ずいぶんと長い刀を背負っている。通常の刀よりも倍近い長さだ。もしそれで戦うのだとすれば真面に振り回すのは至難の技だろう。
こめかみには血管が浮き上がり、腰の鞘に手を掛け今にも一触即発、といった雰囲気である。
見るからに両者強そうには見えない。だが、天華の中の何かが無視できぬと囁いた。
己の野次馬根性に呆れつつも身を翻し、人ごみを掻き分け、どうにか最前列に顔を出した。
「貴様、ぶつかっておいて無視するとはいい度胸だな!」
「ぶつかった? いや、これは失敬。辺鄙な漁村の出でな、あいにくと都の世辞に疎い。しかし、ここはおかしな場所だな? この街では山賊もそのような雅な装いをするのか?」
「な、何⁉」
歌舞伎風の男の皮肉に、野次馬から微かに苦笑が漏れる。
「俺は避けたが其方が自らぶつかって来たのであろう? 詫びを入れるなら早々に申されよ。さすれば俺もこれ以上は咎めまい」
「芸人風情が調子に乗りおって!足利家に仕えるこの俺を愚弄して、唯で済むと思うなよ!」
叫ぶなり、男は周囲の制止する声を振り切り、勢いよく刀を抜き放った。
真剣の妖しい輝きに周囲から悲鳴が起こる。
誰も止めようとはしない。誰だって厄介ごとに巻き込まれたくない。それが御三家の一つ足利家に仕える役人ともなれば尚のこと。
それに、人々は観たがっている―――流血を。
「キエエエエッ‼」
八相の構えから、甲高い猿叫とともに男が飛び出した。
無粋だが、これは助太刀に入るべきかと逡巡する。
しかし、そこで歌舞伎風の男が奇妙な行動に出た。
背の、飾りと思っていた刀を澄んだ鈴の音を思わせる音と共に抜き放つ。
瞬間、全身に戦慄が駆け巡った。
「無益な殺生は好かぬが―――来るなら斬る」
囁きかけるような勧告も、興奮した役人には届かない。
唸りを上げて迫る刃に対し、歌舞伎風の男は音もなく刀を下段に構え―――。
役人の一撃をひらりと躱し、すれ違いざまに撫でるように胴を薙いだ。
ゾワリ、全身が総毛立った。
この場に居合わせた者の中に、この一連の動きを理解できた者がはたして如何ほどいただろう。傍目からは、役人の斬撃が虚空を切り、それを躱した男と立ち位置が入れ替わっただけに映る。現に、何も起きないことに野次馬からはどうしたのか? と、低いざわめきが起き始めていた。
すると、刀を振り下ろした姿勢のまま固まる役人を余所に、歌舞伎風の男が刀を背の鞘へと納めた。
「勝負はついた」男はそれだけを言い残すと、踵を巡らせその場を後にする。
しばらくして野次馬から騒然としたざわめき起きる。
「おいおい、何だよ、もう終わりか!」
「つまらねぇな、それより、役人の野郎いつまでカカシみてぇに突っ立ってやがる?」
と、そこで、やじ馬たちも気付いた。
役人は動かないのではなく、動けないのだと言うことに。
糸の切れた人形のように頽れた役人の眼は裏返り、手足は瀕死の蛙さながらに細かく痙攣している。広間に束の間の静寂が流れた。その直後、堰を切ったように野次馬が騒ぎだす。
既に勝負が決していたことに今更ながら驚き、勝者である歌舞伎風の男が去った方角を見やる。が、その時には既に、男の背中は影も形も残ってはいなかった。
そして―――迷人の女剣士もまた、その場から姿を消していた。
街路の方から野次馬が湧きたつ頃、天華はさきほどの歌舞伎風の男の後を追跡した。
しばらくすると寂れた街角を曲がる男の背中を捉える。天華はさらに走る速度を上げ、両者の距離は瞬く間に縮まっていく。細路地に入っていく男を追いかけ、足袋底で地面を削りながらターンする。しかし男の姿は何処にもなかった。
「何者だ?」
不意に、首筋を撫でる冷たさに、全身が石のように固くなる。
背後から聞こえるその声音には明確な敵意と、動けば斬る、という殺意が込められていた。
逃げるか、それとも―――そっと腰の鞘に手を伸ばしかけた所で、その手を戻した。
「ほー、感心だな。鞘に手を掛けていればその首斬り落としていた。もう一度だけ問う。お前は誰だ? なぜ俺の後を追う?」
素直に答えていいものか、コンマ数秒間、逡巡し、ゴクリと小さく嚥下する音が響く。意を決し降参とばかりに両手を真上に上げてからくるりと身を反転させる。
「久しぶりだな―――玲」
「――――ッ‼」
刀を突きつけた白皙の美剣士。その瞳が驚愕に見開かれた。
「天華⁉」
そう呟くのは、幼馴染である満月 玲 その人である。
「やっぱり、お前か」
「どうして、お前がここに」
「そんなの私も知りたいよ」
ニッ、と不敵にほほ笑んでみせる。
「‥‥‥そうか。それで? 俺に一体何の用だ?」
「ハッ、こんな場所で幼馴染みと感動の再会を果たしたんだ。気になって後を追いかけてきたってだけじゃダメなのか?」
笑みを崩さぬまま不敵に嘯いてみせる天華へ、玲が薄く口元を綻ばせた。
「どうやらお互い、数奇な因果を辿っているようだな」
「でもおかげで、私はもう一度剣士になれたよ」
その言葉に玲の肩がピクリと震えた。が、直にいつもの鉄面皮に戻り。
「‥‥‥そうか」と、短く一言だけ呟いた。
「再開ついでに教えろ。さっきの‥‥‥、アレは一体なんだ?」
「見ていたのか?」
「私の眼には、アンタの剣が、役人のオッサンの胴に叩きこまれる瞬間しか見えなかった」
「質問の意味がよくわからない。俺が応えられるのは、ただ斬った、それだけだ」
「ただ斬っただけ、だと?」
冗談じゃない。先の一閃は、そんな生易しいモノではなかった。
人間が為し得る速度の限界を超えた、まさしく神業だ。
「話はそれだけか? だったら俺は行く」
首に突きつけられていた剣尖が下がる。
その瞬間、弾かれたように鞘から刀を抜き放っていた。
「――――っ‼」
意識して抜いたのではない。ただ、天華の裡に眠る剣客としての本能がそうさせたのだ。
「どういうつもりだ? 悪いが今は、お前と闘っている暇は―――」
玲が言い終わるより先に、天華は横一線に刃を振り抜いた。
火花が散る。
寸前のところで刃を防いだ玲は、静かに刀を下段に構えた。
「悪いな、玲。アンタ一人を先に行かせるわけにはいかねぇんだ」
「‥‥‥本気なんだな?」
言葉を切り、小さく息を吐いた玲は続ける。
「そういえば、さきほどの技を知りたいと言っていたな。ならば―――その身を以て知るがいい」
奇抜な構えである。大きく踏み出された左足、体は半身、重心は地面に根を張るように深い。そして、長刀を右後方へ引き絞る。まるで木こりが斧で樹を叩くような姿だ。とても実戦で使われるような構えではない。
しかし―――。
「隙がない」ぽつりと言葉が漏れた。
そのガラ空きの胴体めがけて刀を突けば勝てるだろう。
しかし、それは無謀だと本能が告げていた。闇雲に突っ込めば斬られる。
刀を構え、対峙しているだけで天華の額には珠のような汗が滲んでいた。
対する玲は、眉一つ動かさず静かにコチラを見据えている。
がたん、と野良猫が木の柱を倒した音に驚き、天華は反射的に地面を蹴っていた。
「しまっ‥‥‥!」
あれほど無暗に攻めては駄目だと思っていたのに、雑音に反応して飛び出すなんって何たる間抜けか。胸中で激しく己を罵りたい衝動にかられるも、そんな悠長な暇はなかった。
踏み出したのなら、あとはもう全力で剣を振るうのみ。
「ぜえああああああああ!」
内に燻る不安と恐怖を、叫び声と共に吐き出し、右上段から刀を振り下ろした。
「遅い」
玲の口から洩れた短い言葉。
次の瞬間、左脇腹を衝撃が駆け抜けた。次いで、全身を浮遊感が包み込む。
一体何が起きたのか理解する間もなく、側に立て掛けられていた材木に頭から突っ込んだ。
濛々と土煙が上がる。崩れた材木の上で仰臥しながら、何が起こったのかに思案を巡らせる。
「心配するな、峰打ちだ」
コチラの身を案じての台詞だろう。しかし今は侮辱としか思えなかった。
あの瞬間、私は斬られたのだ。
刀の切っ先すら見えなかった。それほどまでに凄まじい一撃だった。
せめて皮肉のひとつでも返してやりたいが、息を吸うたびに脇腹が痛み、そのせいで上手く喋れなかった。
「俺は先に行くぞ、天華」
混濁とする意識の中、踵を返し立ち去っていく玲へ手を伸ばし、
「‥‥‥待て‥‥‥私は、お前に‥‥‥必ず‥‥‥」
徐に立ち止まった玲が肩越しに振り返り。
「じゃあ、どちらが先に頂に辿り着けるか競争だな」
「…‥‥‥‥?」
「俺は―――待たないぞ」
その言葉を最後に、天華の意識は闇に落ちた。
「‥‥‥‥ん、‥‥‥ちゃん‥‥‥、天ちゃん‥‥‥ッ!」
どこか遠くから聞こえてくるその叫び声で、天華は眼を覚ました。
見つめる先には目尻に大粒の涙を浮かべた凪が安堵の笑みを浮かべる。
「よ、よかった、本当に。急にいなくなっちゃって、ずっと探してたんだよ。そしたら‥‥‥こんなにボロボロで倒れてて、一体何があったの?」
「ごめんな、心配かけて」
高かった太陽も、既に茜色に色づいている。どうやら随分長い間、ここで意識を失っていたらしい。
「だけど、ようやく解ったよ。私の進むべき道が」
「進むべき、道?」
「必ず追いついてみせる。アイツがいるところまで‥‥‥」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます