第5話 決まりごと
彼女が消えた後、僕はただただ混乱していた。
無意識にテレビのボリュームを上げると丁度七時のニュースが始まったところだった。僕は、銀縁眼鏡を付けたまま、恐る恐る窓側に視線を向ける。さっきまでオレンジ色に包まれていた木製椅子に今は白い光が射し込んでいる。
この家で起きていることは夢なのだろうか?いや、夢ではない。僕は女性の幽霊と確かに会話をした。それは紛れもない事実だ。そして、幽霊を見ることができるのは、彼女が父親にプレゼントしたというこの銀縁眼鏡が関係していることは間違い無さそうだ。そして、その幽霊はまたねといって消えていった。またねということはまた現れるということなんだろうか。
七月になると午前五時前から陽が昇る。丁度東側に面した小さな窓から見える空が明るくなってきている。昨日、あんな事があったのに、夜中に恐怖を感じることは全く無かった。二十六歳になるまで金縛りにも遭ったことは無い。ましてや幽霊を見たことなど一度も無かった。なのに、不思議と怖くないのはあの幽霊、萌という女の子が、僕が思っていた幽霊像と全く違っていたからだと思う。ちょっと生意気で、ちょっと気が強そうで、そして、ちょっと可愛いのだ。
僕は、二階の寝室から階段をゆっくりと降りリビングに向かった。そして、テーブルの上に置いていた銀縁眼鏡を掛けて木製椅子の方を見る。しかし、彼女はいなかった。辺りを見渡しても何処にもいない。そうだ、幽霊は基本的に夜しか現れないというのが常識だった。でも、昨日は早朝にいたし、それに用事があるから出かけるとか言っていたけど幽霊の用事ってなんだ? 念のため、二階を見ようと階段を上がっていた時、「どいて、どいて、どいてー」と言いながら、凄いスピードで、萌が階段を駆け降りて来た。そして、「ぶつかる−」と僕が叫んだ瞬間、彼女の身体は、透けた状態になり、僕をすり抜けると、また元の姿に戻ったのである。
いた。やっぱり夢じゃなかった。
僕の頭がおかしくなった訳ではなかった。
安堵しながらも視線は彼女を追っていく。すると、彼女はおもむろに食器棚から小さなコップを取り出し、水道の蛇口を捻った。そして、コップ半分くらいになったところで蛇口を締め、ゆっくりとその水を飲み干した。
ここで僕は自分が今まで常識と思っていたことを訂正しなければならない。まず、幽霊というのは透けて見える訳ではないみたいだ。そして、幽霊はものに触る事が出来ない訳ではないらしい。そして、幽霊は何かに乗りうつらなくても話すことが出来るらしい。
「おはよう」
僕の方から話しかけてみる。
「あっ、ごめんごめん。昨日は、驚いたやろ?私もほんまびっくりやわ。だって、私は多分、もうこの世界にはおらんことになってんのにな。それやのに今、こうしてしゃべってるんやから。自分でも訳わからへんわ」
萌は自分の状況をしっかり把握しているようだ。
「萌はな、こうやってものにも触ることが出来るし、範囲は決まってるんやけど動き回ることも出来んねん。おたくで二人目やけどこうして人と話すことも出来るし……」
僕は黙って彼女の話を聞いていた。
「でも、本当かどうかわからへんけど凄く大事な決まりがあってな。毎朝決まった時間までに必ず水を飲まへんと何処かへ消えてしまうらしいわ。それは、柴田のおばちゃんに聞いたんやけど、なんでも山陵町に長く伝わる言い伝えやって。今日はちょっと遅くなったからあぶなかったわ」
そして、一呼吸おいて、萌はぽつりとつぶやいた。
「あと、萌は命があるものを触る事はできないみたい……」
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