第4話 萌との出逢い

 年季が入った鍵を鍵穴に差し込んで静かに右に回す。そしてゆっくりと玄関ドアを左へ滑らすとガラガラと扉が開く。靴を脱いでまるでこそ泥のように音を立てずにリビングへ入っていく。


 どうやら朝と何も変わってないようだ。コップも洗面台にある。冷蔵庫を開けてチェックしてみたが異常無し。やはり、荷物が少ない簡単な引っ越しだったとはいえ疲れていたのかもしれない。それに仕事もここ最近上手くいかず気がめいっていたのかもしれない。僕が勝手に勘違いしていただけなんだろう。


 ほっとした途端、お腹が空いてきた。僕は、買ってきた惣菜をテーブルの上に広げ「いただきます」と言い箸を口に運ぶ。


 ショップ柴田の弁当や惣菜はとても美味しい。まるでお袋の味そのものなのだ。

あっという間に食べ終えた僕は、片手に缶ビールを持ちながらニュースをぼんやり眺めていると、急に眠気を催してきた。缶ビール一本でこんなに酔うなんて・・・。僕は不覚にもテーブルにうつぶした格好で眠ってしまった。


 時計を見ると朝五時を過ぎた所だった。

僕は、結局一晩この格好で眠ってしまったらしい。右手に銀縁の眼鏡が触れた。ここに置いてたんだっけ。たとえ誰かのものだとしてももういいだろう。取りに来るわけ無いし、悪いことをしているわけでもない。


 僕は銀縁眼鏡をかけ、一晩中付けっぱなしだったテレビのリモコンを操作し、番組表を映し出してみる。やはり、細かい文字もはっきり見える。チェストの上に置いたカレンダーの日付もしっかり見える。

前の住人の忘れものだとしても、ここまでくっきりと見えるのはとても気分がいい。


 だが、窓側に視線を向けた時、僕は急速に冷え、そして一気に固まってしまった。何故なら、年季の入った木製の椅子に肘をかけて座っている若い女性と目があったのだ。


「き、きみは、ど、どこから……」


声を出しているのだが上手く出ない。彼女は何も言わずただ僕を見ている。


「えっ、見えるん?」


余りのフランクさに一気に緊張がほどける。


「見えるんって、君は家を間違ってるんじゃないか?ここは僕の家なんだけど」

「はぁ?違うわ。何言ってるんよ。ここはずっと萌の家やけど。あっ、正確に言えば一年前まで……、だけど」


 全く話が見えない。混乱する頭で何とか整理していく。彼女は萌という名前で、年齢は多分二十歳前後という感じ。一年前まではここに住んでいて、そして、鍵を持ったままだったのか、夜に間違ってこの家に入ってしまったというところか・・・。


「あのさ、で、君はこれからどうする訳?間違って入っただけだったら僕は何も言わないし。ただ、すぐに家に帰った方が良いと思うんだけど」


 昔住んでいたとはいえ、すでに他人が住んでいる家に間違って入ってしまったという罪悪感はあるはず。できるだけ優しく話しかけた僕に彼女は思わぬ言葉を投げてきた。


「うちのことならお構いなく」


さっきまでの緩い雰囲気が彼女の無機質な声で一気に変わった。


「あのさ、お構いなくって訳にはいかないんだよ。こんな朝早くから他人の家にいるのはおかしいだろう?君はこれからどうするんだよ。この家は今僕が借りて住んでいるんだし君は自分の住む家へ帰ればいいじゃないか」


 できるだけ冷静に伝えようと思っていたのに無性に腹が立ち、きつい言葉を浴びせてしまった。


「じゃあ、私も言わせてもらうわ。私がお父ちゃんにあげた眼鏡を勝手に使わんといてくれる!?」


もう、全く話が通じない。なぜ、この子が自分の父親にあげたという眼鏡がこの家の引き出しの中にあるんだろうか。この子の言っていることは本当なのだろうか?額から汗が落ちてきた。僕は、汗を拭おうと銀縁眼鏡を取る。するとどうだ。さっきまで生意気な言葉を出していた女の子がいないのだ。ただ、差し込む朝陽がオレンジ色の束で木製椅子を包んでいるだけだった。


 僕は、また銀縁眼鏡を付けてみる。するとそこに彼女はいた。そして、僕の方を不思議そうにそしてちょっと怒っている顔で見ている。まさかとは思うものの、この現実を受け入れないと駄目なのだろう。そう、どうやら僕は幽霊が見えているらしい。しかもその幽霊と交信出来ているらしい。そして、その幽霊は、ちっとも透けて無く、足もあるらしい。


 僕は、椅子に座っている彼女に怯えながらも問いかけた。


「君は幽霊なんですか?」

「君はなぜここにいるんですか?」

「君の名前は、歳は?」

「なんで成仏できないんですか?」


 まだまだ聞きたい事は山ほどある。僕が質問を続けていると、彼女は面倒くさそうな顔をしながら話し出す。


「私の名前は萌、歳は十九歳。あっ、あと二ヶ月ちょいで二十歳だけど・・・。何故ここにいるか?そんなん自分でも分からへんよ。天国?行き方なんて知ってんの?うちは頭悪いからわからへん。全くもう!もっとましな質問ないん?」


 あっけに取られた僕は言葉が見つからない。


「まあ、でも、私のことが見れる人は久しぶりやからちょっとだけやけどうれしいわ」


 萌は、さっきとは違い少しだけはにかんだ笑顔でつぶやいた。相変わらずぽかんとしていた僕だが質問の続きを言おうとした時、彼女は壁の時計を見た途端、「ちょっと用事があるから行くわ。またね〜」と言って、僕の前から消えてしまった。


 僕は、その後も銀縁眼鏡を掛けたり外したりして部屋のあちこちを探したが、あの不思議な幽霊を見つけることはできなかった。


これが僕と萌と名乗る幽霊との初めての出逢いだった。

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