終章

 全てを語り終えたレイは、当時の記憶を思い出すように神秘の帳に包まれた静謐な夜空を仰ぎ見た。次いで、口元に妖艶な笑みを浮かべ、詩でも読み上げるかのように、静かに、それでいながら聞く者の心を惹き付ける凄艶な声で語り掛けてくる。

 「以上が三年前に起こった真実。これを訊いてアナタは今何を想いますか?」

 「…‥‥‥‥」直に答えることは出来なかった。

三年前。全身血塗れで瀕死の重傷を負って倒れていたところを偶然にも通りかかった当時、冒険者だったサクラに救われ辛うじて一命をとりとめた。だが目を覚ますと、自分がどこの生まれで、どうしてあの場所に倒れていたのか、それより以前の記憶は何もなかった。

人の自我を形作るものが記憶だとすれば、記憶がないということは、魂を有さぬ抜け殻に等しい。

でもそこから少しずつ、サクラや孤児院の皆と暮らすうちに、人間としての自我に芽生え、今では自らの意思で魔力欠乏症に苦しむサクラを救いたいと思えるようになった。

それは紛れもなく、ギンが、人間としての成長を遂げた何よりの証左に他ならない。

 しかし、その認識が強くなればなるほどにギンはそれ以前の、サクラと出会うより以前の自分とは一体何者だったのかという疑問が強くなっていった。

今の自分は、本当の自分だと言えるのか? いつか本当の記憶が蘇り、今の自分がいなくなるのではないか? そんな漠然とした不安、恐怖が常に意識の片隅で蠢いていた。

 先程のレイの話は、それまでの認識を覆し、ギンという存在を根底から揺るがすには十分すぎた。‥‥‥そう、間違いなく衝撃は受けた。

だが、ギンは至極冷静に、脳裡に過る疑問を考えずにはいられなかった。

 そもそも何故、今更になって殺そうとするのか? その気があれば、三年前に片はついていたはずだ。それなのにレイは、ギンを殺さず生かすことを選んだ。明らかに矛盾している。

 それ以前に、そもそも何故レイはギンを守護者に選んだのか?

 聖別に三度も耐え抜き、常人を凌ぐ魔力保留量を備えたギンを、捨て駒として利用するため? 

 違う。頭の中に沸き起こる疑問を即座に否定する。

 ギンが知るレイと話を聴いた彼女に抱いた印象と、今の彼女とではあまりにも乖離している。 

 出会ってから此処まで全てが演技だったとしても違和感を覚えるほどに。

いっそ別人だと言われた方が、まだ信じられる。

 瞬間。脳裏にある可能性が過った。

 幾何かの間を置き、コチラを睥睨する金髪青眼の少女に向けて重く沈んだ声で切り出した。

 「お前は誰だ?」

 「フフッ、さっきも言ったとおり私は――――」

 「誤魔化すな。お前はレイじゃねぇ。もう一度訊く、お前は誰だ?」

 理由は無い。しかし確信はあった。

 「…‥‥‥‥‥」いらえはなかった。

 沈黙が肯定を意味しているのは明らか。ギンの放つ剣呑な雰囲気がさらに鋭く、棘を孕み始めていた。あと数秒。相手が沈黙を続けるつもりならこれ以上語り合う必要はない。千怒を握る力がさらに強くなり――――まるでそれを見越していたかのようなタイミングで、唐突に段上に佇むレイが、声高に笑い声を上げた。

 そして。ひとしきり笑い終えると、目尻に浮かぶ涙を指先で払い―――

 「さすがだな。君には驚かされてばかりだよ」

 ―――聞く者の魂を心胆から凍り付かせるような、冷厳な響きを含む声。

 「‥‥‥お前は、誰だ?」

 「判っていることを聴くものではないよ。仕方がない、答え合わせといこうじゃないか」

 相手が何者であるのかおおよその検討はついている。しかし同時にその事を信じたくなかった。悪い夢か冗談であってくれ。そう願いながらギンは、その名を告げた。

 「――――パンドラ」

 それまで纏っていた韜晦の衣を脱ぎ捨てるように、金髪青眼の佳人は妖艶に微笑んでみせる。

 「ねぇ、素敵だと思わない?」

 うっとり寝物語を謳うように呟きながら、階下へゆっくりと階段を下り始める。

 「行き別れた二人が巡り逢い、そして非業の死を遂げる。あぁ、何って素敵なんだろう」

 「‥‥‥レイは何処にいる」

 「そうだね、強いて言うなら僕があの子で、あの子が僕さ」

 「そんな冗談を聴いてるんじゃねぇ。いいから答えろ」

 歯牙にもかけないギンの物言いに、「そう焦るなよ」と肩をすくめてみせる。

 「肉体とは魂の入れ物にすぎない、って昔から言うだろ? それと同じさ。三年前、君を救うために僕の魂を受け入れたことでこの肉体には、僕と彼女、二つの魂が混在している。君たち聖別に耐え抜いた子供たちにも接触を図ったことは何度もあったんだけどね、やはり血の繋がりだけでは魂は定着し難い。そこで僕は、僕の細胞から作られたこの子(レイ)の肉体なら魂の定着が安定するのではないかと考えた。結果は上々。それなりに自我を保ち続けてはいたようだけど、結局はそれも無駄に終わったよ」

 「じゃあ、レイは今もまだそこにいるのか?」

 「この肉体はあの子のものだからね。魂の断片くらいは残っているよ」

 「どういうことだ?」

 先程の不穏な気配から一転。パンドラは手品の種を明かすように喜々とした表情で語る。 

 「言葉通りさ。彼女の魂に、僕の魂を上書きしたんだ。当然不要な魂は省かれる」

 それが何を意味するのかは明らかだった。

 記憶の消去。パンドラの魂がレイの魂を上書きする事で、それまでのレイの記憶、人格の全てが無に帰する。それは三年前のギン同様に魂を失った抜け殻と化すということだ。瞬間、今日まで共に戦い抜いた思い出が走馬灯のように脳裏に蘇った。

 長い階段を下り終えたパンドラは、瞠目したまま立ち尽くすギンのすぐ近くまで歩み寄るや、真紅の瞳を覗き込むように端正な顔を近づけてくる。

 「お前は、一体何がしたいんだ」

 ギンは右手に握った千怒の切っ先をパンドラの喉元へ突きつけた。

 抑えようのない殺意が宿る剣尖を前にしても尚、パンドラは愉しそうに微笑する。

 「全人類の救済。昔も、そして今も、それが僕の唯一の願いさ」

 「正気か?」無論、それは相手の精神性を疑っての問いではない。

 眼に映るもの全てを救うことなど出来ない。それは湖の水を人間の手で掬いきることが出来ないのと同じように、人の手で救える命には限りがある。もし仮に全てを救う手立てがあるのだとしたら、それはまさに神の御業と呼ぶに相応しい力なのだろう。 

 そして、それを成しうる可能性を秘めた力がこの長い階段の先に眠っている。その事を意識すると同時に、全身が総毛立った。パンドラはそんなギンの心の揺れを見逃さず、嫣然と微笑んでみせた。

 「その上で、君に問おう――――僕に協力してくれないか?」

 「何?」

 「悪い話ではないと思うよ。それなりの見返りも用意しよう。何がいい?」

 先程まで殺そうとしていたことなど忘れてしまったと云わんばかりに、親し気に話し掛けるパンドラに、ギンは怒りや怨みよりも、疑念の方が勝った。

 「‥‥‥お前が言う、人類の救済ってのは具体的にはどうするつもりだ?」

 「言葉通り。この世界に住まう全ての人間を救済するのさ。具体的な方法については、今更口にしなくても、さっきの話を聴いた後なら少しは想像しやすいんじゃないかな?」試すような眼差し。その答えを自分ではなく、ギンに言わせることを愉しむような諧謔的な気配が声音から感じられた。そして短い逡巡の末に、ギンは脳裡に過った可能性を口にする。

 「世界中の人間の記憶を消す、それがお前の云う全人類の救済か?」

 「その通りさ!」と、諸手を打って歓喜するパンドラが更に補足する。

 「僕の魔力領域内の人間の魂は必ず汚染される。皮肉なことに、その効果は二○○年にも及ぶ実験が証明している。かつて存在した『白い匣(研究所)』は、まさしく王国守護者を生み出し続けた。執行者と呼ばれる幼い子供たち。だけどその裏でどれだけの犠牲が生まれてきたかを、誰も気づくことも、知ることもない。そんな世界おかしいと思わないか?」

 「だから殺すのかよ?」

 冷厳とした問い掛けを、パンドラは「とんでもない!」と大仰な手ぶりで否定する。

 「言っただろう? これは救済なんだ。何も知らない人々に、ある日唐突に『君たちの平和は何百何千万という罪なき子供達の犠牲の上に成り立っています。それを知らなかったあなた方には死んでもらいます』なんって言ったところで、誰も納得しないよ? 勿論、そうすることも出来ないわけじゃないけど、それは僕の本懐とは異なる」

 「同じだ! 人を殺すのも、人の記憶を消すのも結局はそいつの魂を殺すってことだろが!」

 今にも掴みかからんばかりの剣幕で詰め寄るギンに、パンドラは鷹揚に頷いてみせる。

 「君の云う通り、誰かの記憶を奪うということはその人の魂を殺すことに他ならない」

 「だったら‥‥‥っ!」

 「だけどね、もう一度よく考えてみてほしい。この世界が本当に幸せだと言えるのかい?」

 「―――――ッ‼」息が詰まった。

 そして思い返し、唖然とする。三年前から今に至るまでギンの知る世界は、薄暗い地下街と殺伐とした匣の中だけ。そこに住まう者の大半が、いつ死ぬとも知れぬ恐怖に怯え、暗い表情をしながら俯き、暮らしていた。サクラですら普段は気丈に振舞っていたが独りになれば部屋で、声を押し殺しながら泣いている。それを知っているからこそギンはパンドラからの問いに対する答えを持ち合わせていなかった。

 押し黙るギンの姿に、パンドラがクツリと喉を鳴らす。 

 「少し質問を変えよう。君は記憶を失くしてからの三年間が不幸だったと言えるのかい?」

 もはや返す言葉はなく、ギンは絶句した。

 不幸だった――――訳がない。もちろん、幸福でもなかったが。

 家族だった者のほとんどが死に、残されたサクラも重い病に苦しんでいる。

サクラを―――家族を救うためなら何でもやった。盗みもやった。騙しもした。時には殺しさえした。生きるためだと、家族を守る為なのだと己に言い聞かせながら、この身と魂が穢れることも厭わずに。

そんな中でも、希望は、幸福はたしかにあった。

サクラとの出会い、血の繋がりのない兄弟姉妹。

 そして―――レイとの出会い。

 時間にすればほんの束の間。幸福な時間よりも辛い時間の方が長かった。

 それでも断言できる。ギンとして生きてきたこの三年間は決して不幸などではなかったと。

 「だから言ったろう? これは救済なんだ。人類全ての魂を『無』にすることで、この世界は新しく生まれ変わる。生憎と僕にはそれを成すだけの力と計画がある。

 かつてこの世界は神々によって統治されていた。だけど神々が地上から去った途端に、人間は争いを始めた。その理由が君に解るかい?」

 短い静寂。コチラの返答を待っていたパンドラは、何も答えられないと判るや薄く微笑し。

 「人間はね、自由のためになら争う生き物だからさ。これは他の生物には存在しない人間固有の本能ともいえる。それ故に人間は争い続ける。何年も、何十年も‥‥‥何百年も。

 二○○年前、僕は神の力を手に入れ、この世界を正しく導こうとした。だけど誰もついてこれなかった。それどころか全ての罪を僕に被せ、人体実験の道具にしたんだ。来る日も来る日も、体を切り刻まれ、痛みは消え、そのうち人間らしい感覚が何もなくなった頃に、僕は己の誤りに気付かされた。

 この世界を―――人類を正しい方向へ導くことなど初めから不可能だったんだって。

 だから計画を練った。僕が掲げる理想の世界へいくための術を永遠にも等しい時の中でそれを成すための準備をした。そして新しく受肉した今なら事を成せる。全ての魂を白く染め上げ、そこへ新しい記憶を植え付ける。もう二度と人々が争うことがないように」

 「‥‥‥そんな世界、偽物じゃないか!」

 「真実よりも、仮初の幸せの方がいい、それを誰よりも証明しているのは君じゃないか」

 「――――ッ!」

 「さぁ、語ることはもう何もない。その上でもう一度だけ問おう。僕に協力しないか?」

 差し伸べられるその手を前に、ギンは逡巡した。

 「‥‥‥何で、俺なんだ?」

 「そうだね、正直に言うと個人的な興味かな。この二○〇年間で初めて僕の精神干渉を受けつけず、三度も僕の血を呑んで尚、誰よりも正しく強くあろうとした君に、僕は人の持つ可能性を垣間見た。人の身でありながら最も神に近付いた存在、それが君だよ―――ギン」

 そう語るパンドラの姿は、可憐な乙女そのものだった。

 この手を掴むことが正しい、そう思えるほどにパンドラの声には人を引き寄せる強烈な磁力のような力が宿っている。差し伸べられた手を凝然と見つめ。

 「分かった」たったそれだけの言葉を口にするのに、たっぷり数秒を要した。

 その答えを了承と受け取ったパンドラの顏が恍惚と歪む。

 そして―――パンッ。乾いた音が響き渡った。

 「‥‥‥どういうことかな?」

 「見ての通りだ。俺はお前の誘いには乗らない」

 その答えに、パンドラは僅かに残念そうに肩をすくめてみせると。

 「ふむ‥‥‥。参考までに理由を聞いても?」と、小首を傾げながら訊ねてくる。

 「俺はアイツと―――レイと約束した。必ず守りぬくって」

 「ふーん、そうか残念」と、微笑から一転。

 「じゃあ、殺すね?」絶対零度の殺意が華奢な体から猛然と吹き荒れる。

 その圧倒的なまでの魔力量に吹き飛ばされまいと両脚で強く地面を踏みしめながら、ギンは驚愕に見舞われていた。迸る魔力が渦を巻き、術者本人であるパンドラを金色のヴェールが覆い尽くす。この魔力量は『全注入』による最大出力と同等か、それ以上だった。

ここまで共に戦ってきたレイはこれほどの魔力を有してはいなかった。無論、偽装していた可能性は否定できない。だが冒険者として研ぎ澄まされたギンの直感が、それが正しいものであると告げている。同時に、悟る。

 これがパンドラの魔力。

 そして権能所持者の力であると。

 渦巻く魔力が空高く昇り始める。釣られて空をふり仰ぐと其処には闇色に染まった空を明るく照らす無数の星々。否、第二層・テオとの一戦でレイがみせた極大の光剣『星架剣(サンダルフォン)』が見渡す限りいっぱいに広がっていた。

 その数―――無量大数。

 「ッッッ⁉」

 驚愕に息を呑み、凍り付くギンへ向けて、無数の刃が降下を開始する。

 踵を返し、脱兎の如く撤退を開始する。しかし全ての光剣を躱しきる逃げ場は何処にもなかった。ギンは冷静に己が敗北を―――死を悟った。

 その時だった。

 「『我が王道を示す光(カリブルヌス)』‼」

 迫りくる星架剣。その全てが地上まで残り数フィートという地点で突如停止する。

 「今のうちに早く逃げろ!」

 不意に聞こえた叫び。振り向くとそこには第二層で死闘を繰り広げた騎士テオが長剣を振り下ろした格好のまま、必死の形相でコチラを見据えていた。

 「何で、ここに?」その疑問に応えている暇は無いと、「いいからこっちへ、もう持たないぞ!」

 その言葉で我に返ったギンは、思考を巡らせるより先に地面を蹴った。直後、背後から凄まじい衝撃が駆け抜ける。テオによって堰き止められていた星架剣が、地上に降り注いだのだ。

 しかしテオによって生み出されたわずか数秒が、明暗を分けた。

 高々と舞い上がる粉塵を煙幕代わりに、ギンはそのままテオと共に各階層を繋ぐ『扉』の中へと勢いよく頭から飛び込んだ。直後、感じるのは暗闇と水の中に沈んでいくような感覚だけ。

 そしてようやく暗闇から淡い光が差し込む広間へと転がり出ると、其処には思いも寄らぬ待ち人が佇んでいた。それが誰か気付いたギンは驚きに目を丸くした。

 「何で、お前らが‥‥‥?」

 広間にいたのは、紅髪褐色の少女 アカツキと黒衣の聖騎士 テオ。それと壬生狼のユキの姿があった。皆一様にギンが現れるのを待っているようだった。

「こんな時に再戦でもしようってのか⁉」

 その疑問にテオが「違う」と頭を振る。

 「まぁ本当はそのつもりだったけど、どうやら事態は想像以上に切迫しているらしいからな。まぁ、後ろの彼女がどうするつもりかは分からないけどね」

 話題の矛先を向けられたアカツキが不機嫌さを隠そうともせず呟く。

 「マクベスが裏切った。今は貴様に構っている暇はない」

 「というわけだ。俺たちに戦う意志はない。分かったら武器を下ろしてくれ」

 テオに言われるまま、千怒の切っ先を下ろす。

 「それじゃあ、何が起きているのか説明してもらおうか?」

 「何で、お前らにそんなこと教える必要がある?」

 「おいおい、命の恩人に対する態度じゃないな。それとも君がさっきの事を貸しとは思わない恥知らずだと言うのなら、話は別だけどね」

 「チ‥‥‥ッ! 分かった」不承不承という風に、ギンは事のあらましを説明した。

 

 「王よ。僭越ながら申し上げます。あの者たちを逃がして本当によろしかったのですか?」

 「構わないよ。今更彼らに出来ることなんって何もないからね」

 「承知しました」マクベスは慇懃に頷き、「それともう一つ。その体であまり無茶をなさいますな。御身は受肉を遂げたばかり、未だ肉体と魂の結びつきが安定しておりません。そのような体でまたあのようなご無理をなされては、お体にも差し障りましょう」

 三年前から今日まで、執行者としてパンドラに仕えてきたマクベスの心からパンドラの身を案じる苦言に、クツリと微笑を浮かべ。

 「うん、確かにさっきのはやり過ぎたね。正直、まだこの体に魂が馴染まなくて加減が上手くできないんだ」

 未だ裡に眠るレイの魂が激しく抵抗する所為で、魔力出力が安定しない。二○○年にわたり貯え続けてきたパンドラの魔力を以てしても先刻と同じ芸当はそう何度もできるものではない。加えて魔力の燃費も悪く、こうして会話や歩くだけでも相当量の魔力を必要としていた。その事を腹心であるマクベスにも悟られぬように振る舞っていた。

 「僕はこれから権能を取り込む。その間、君にはここを守護してもらいたい」

 「御意。鼠一匹通しは致しません」無表情ながらもマクベスの声音には気合が宿っている。

 生物の記憶に干渉する稀有な魔力所持者。『白い匣』において、レイに自我を与えるためだけに生み出された人造人間。浮世離れした容姿とその稀有な魔力と引き換えに、人間としての大部分の機能を与えられず、短命を宿命づけられた哀れな存在。

無論、パンドラは哀れみからマクベスを従者にしたわけではない。稀有な魔力所持者であるが故に、三年前の事件直後に魂を汚染し自らの手駒に加え、魂がレイの体に定着するまでの三年間利用していただけに過ぎないのだ。

「ああ、信頼しているよ。マクベス」

「この命に代えましても」片膝をついて頭を垂れるマクベスに、パンドラは暗い笑みを浮かべながら、万神殿へと続く階段を上り始めた。


 深層で見聞きしたことをギンは出来る限りまとめた上で、余すことなく全て語った。 

 「もういいだろ」これ以上語ることは何もないと、深層へ続く扉へと向き直る。

 「いいや、駄目だね」不意に腕を掴まれる。

 「放せ」

 「駄目だ。君一人で行った所で状況は何も変わらない」

 「あ?」聞きようによっては挑発とも受け取れるテオの発言に、肩越しに振り返る。助けられた恩も関係ないと、剣呑な眼差しで睨みつける。しかしテオは腕を掴む手を緩めるどころか更に強く握り締めた。

 「一人で行っても死ぬだけだと言っている」

 「っざけんな。負けたクセに偉そうに説教かよ?」

 「ああ、確かに俺は負けた。だけどそれは君にじゃない。君たちに、負けたんだ」

 「―――ッ」

 「それに今の君が彼女に挑んだところで結果はさっきと同じさ。それは君が一番分かっているだろ?」

 ぐうの音も出なかった。テオの云う通りだ。

 「だからまずは落ちつくんだ。でないと勝てるものも勝てなくなる」

 「だけど、もう時間が‥‥‥!」

 「いいや時間ならまだあるさ」

 「なぜそう言い切れる?」

 「前に一度、彼女と闘ったことがある」

 彼女。それが誰を指しているかは明らかだった。

 その時、不意に以前レイから訊いた話が脳裡を過った。

 通常の匣と異なり、匣舟の中を流れる時間は外界とくらべ非常に緩やかだ。その為、外界の一年がこちらでは僅か十数分、もしくは数時間の可能性があるとレイは語っていた。その事に気付いたキッカケとなったのが、一○○年以上も前に滅びた国の騎士を名乗るテオである。

 もし、レイの推測が正しければ、テオはギンたちが生きていた時代より二○○年以上前に生きていた人間ということになる。それならば二○○年前にアーカディア王国を建国した初代女王であるパンドラと顔を会わせたことがあるのも頷ける。

 「当時、権能を有していた彼女の力は、まさに『神』そのものだった。俺たちが幾ら束になって挑んだところで彼女が俺たちを殺すと決めれば、その瞬間に俺たちは殺される。それ程までに権能の力は強大だ。

 だけどさっきの彼女からは以前のような圧を感じなかった。これは俺の推測だが、彼女は新しい身体に受肉したことで本来の実力が出せないのかもしれない。もしそうなら、チャンスはまだ残っている。彼女はこれから最奥にある権能を取り込みに行くだろう。だが強大な力を取り込むには、どんな力だろうとそれなりの時間が必要になる」

 「つまり、何が言いたい?」

 「叩くなら彼女が権能を取り込んだ直後。肉体と権能の融合することで生まれる隙を衝くしかない。当然、向こうも反撃してくるだろうが、権能と完全に融合を果たした後では手遅れになる。だからこれは相当分が悪い賭けだ。彼女は権能を有していなくともあれだけの魔力量を備えている。それに対抗するには俺の魔力では分が悪い。さっきは不意を衝いて防げたが、コチラの正体が露見した以上、同じ手は通じないだろう」

 「じゃあどうする? こうして手をこまねいている間にも権能を取り込まれるぞ」

 「大丈夫、策ならあるさ」と、鷹揚に頷いたテオが凝然とギンを見つめる。

 「‥‥‥俺か?」

 「彼女の魔力量に対抗するには、それに匹敵する魔力をぶつける他に術がない。君に彼女を止める事が出来れば彼女の計画を阻止出来る。後は君次第だ」

 お前に出来るのか? そう問い掛けてくるテオに、ギンは即答できなかった。

 だがそれは不可能だからではない。ギンにはパンドラの埒外の高魔力に対抗する秘策を確かに持っている。しかしその為には幾つかの条件。突破すべき難問がある。

 その最初の難問こそ、ギンにとって何より困難であるように思えた。

 しかし迷っているだけの時間はそう長くない。

 「クソが‥‥‥」呻くように呟く。

 徐に、ギンはテオとアカツキ、ユキへ体ごと向き直ると深々と頭を下げた。

 「頼む、俺に協力してくれ!」

 これには、亡国の聖騎士テオでさえ唖然と固まってしまう。

 敵として刃を交えたからこそ、テオとアカツキはギンという人間の人となりがどういうモノであるかを知っていた。だからこそギンの行動は歴戦の剣士である二人ですら理解するのに数秒を要した。そんな二人の心情など知らぬギンは、頭を下げながら更に言葉を続けた。

 「俺は弱い! ‥‥‥それでも俺は、アイツを‥‥‥レイを助けたい! だから頼む、俺に力を貸してくれ。勿論、虫のいい話だってことは解ってる。この戦いが終われば俺の事は煮るなり焼くなり好きにしてくれて構わない。だから‥‥‥今だけは力を、貸してくれ!」

 これまでの自分からは想像できぬ行為だとギン自身でさえ認めていた。そして自分をここまで変えてくれたレイを何としてでも救いたい。その為なら、一度ならず二度までも刃を交え、互いの命を奪い合った敵であろうと頭も下げる。其処に羞恥心も、虚栄心もない。

 ありのままの自分の、心からの嘆願であった。

 「悪いが断る」

 「―――ッ!」ハッキリとした拒絶に、思わず息が詰まった。

 「俺は騎士だ。この剣は天下万民を救うために振るうと誓った。ならば俺は、俺自身の騎士道に従い、敵を討つ。だから君に頼まれずとも俺は戦う」

 おずおずと顔を上げると悪戯が成功した子供のように笑うテオの姿があった。

 そして、残るもう一人へと二人の視線が集まり。

 無論、その視線に気づかぬアカツキではない。しかし彼女は腕を組み俯いたままコチラを見ようとしなかった。それも当然だ。如何なる理由があろうとも、仲間を殺されたことに対する怨みが薄れることはない。仇敵からの頼みなど、自分なら絶対に受け入れないだろう。

 「いいだろう、貴様の口車に乗ってやる」

 この思わぬ返事に、「本当にいいのか?」と思わず間抜けな声が漏れた。

 「勘違いするな。貴様を赦したわけじゃない。でもその前に私は執行者だ。王国に仇なす者を誅するそれが私の役目。故に敵を斬る。その為に協力するだけで、別に貴様等に協力するわけじゃない。その事を夢忘れるな!」

 後半を早口に言い切り、そっぽを向いた彼女の頬は僅かに朱に染まっていた。

 そんなアカツキの姿に、魔獣のユキが「クゥゥン?」と怪訝気に喉を鳴らすのだった。


「行くぞ」短く合図する。まず初めにギンが扉の中へ飛び込み、アカツキ、ユキ、最後にテオがその後に続いた。各階層を繋げる扉を通り抜け、三人と一匹が深層へ飛び出すのと同時に、激しい地鳴りに襲われた。

 揺れは二十秒近く続いた。やがて地鳴りが落ち着き、「今の揺れは?」肩越しにテオへと訊ねる。しかしテオは小さく頭を振るのみで今の揺れの原因は判らないようだった。

 残された時間はあとわずか。顔を険しいものとする一行が進行を再開させようとしたその時。深層最奥にある万神殿へと続く階段を塞ぐように佇む貴影を視界に捉えた。

 癖のある黒髪。赤い仮面で目元を隠しながらも、その下から覗く素顔だけで相当な美丈夫であることを伺わせる青年 マクベス。アカツキと同じ執行者であり、三年前の『白い匣(実験場)』よりパンドラに仕える騎士であり、一行の行く手を阻むために待ち構えていることは容易に想像がついた。それ故に、深層突入直前の作戦会議の際、同僚であるアカツキからマクベスに関する情報を求め返ってきたのは、要領を得ないものばかりであった。

曰く、生物干渉系の魔力を有する以外の情報は何一つ明かされていないという。

 対峙した限り、テオやアカツキ以上の手練れといった印象は受けない。

 にも拘らず迂闊に敵の間合いに飛び込んではならぬと、冒険者としての勘が警鐘を鳴らしていた。だがこうして睨み合って足止めを食えば食う程、敵の思うつぼだ。

 意を決し、強引に押し通ろうとしたその時。

 「彼の相手は俺が引き受けよう」徐にテオが進み出る。

 「‥‥‥いいのか?」

 「何だ心配してくれるのか?」

 この状況でも春風駘蕩とした調子を崩さぬ黒衣の騎士の姿に、ギンは頼もしさを覚え、不敵に微笑んでみせた。

 「頼む」

 「頼まれた」

 一度は敵として相対した男に頷きかけ、ギンは残るアカツキとユキへ向き直る。するとユキが身を低くし二人に背中へ乗るように促す。ギンは迷うことなく背に跨り、僅かに遅れてアカツキが後に続いた。二人の騎乗を確認したユキは身を起こしと猛然と石畳の上を駆けた。

 辺りの景色が飛ぶように後方へ流れていく。マクベスとの間合いをほとんど一瞬で詰め、隣を駆け抜けかけたその時、突如地面から無数の蔓が生え伸び行く手を遮った。さらにユキの肢に絡みついてくる。すかさず騎乗するギンとアカツキがそれぞれの得物で蔓を切り裂くも、新しく生え伸びる蔓の勢いが衰える様子はなかった。

 「『我が王道を示す光』‼」

 刹那。視界を埋め尽くす蔓がすべて、その半ばから断ち切られた。

 肩越しに振り返る。そこには長剣を振り下ろすテオの姿があった。

 「行け!」

 その声に後押しされるように、二人を乗せたユキが絡みつく蔓を振り払うように跳躍。階段へと飛び移る。そこへ、マクベスが黒い外套の袖から鋭い棘に覆われた蔓を鞭のようにしならせ、ユキ目掛け打ち降ろした。すかさず迎撃すべく構えたギンの視界の外から、勢いよく飛び込んできたテオが、マクベスの一撃を阻んだ。

 「ッッッ‼」これまで一切の感情を伺わせなかったマクベスの面貌が憤怒に染まる。

 「悪いが、ここから先は通行止めだ」

 「邪魔だ、そこを退け!」怒号振りまくマクベスを尻目に、ギンとアカツキを乗せたユキが地を蹴る。わずか数秒で鬩ぎ合う二人の姿は小さな点となり、やがてその姿は見えなくなった。


 一迅の風と化したユキは、永遠にも思える長階段を勢いよく駆け上がった。周囲の光景が生き物のように背後へ流れていく。当然ながら乗り心地は決してよいはと言えず、騎乗する二人は顔をしかめていた。速度そのものが暴力的なまでに叩きつけてきて二人を襲う。ギンの後ろへ乗ったアカツキは振り落とされまいとギンの腰に回す腕に力を込める。それを振り払うような真似はせずに、ギンはその抱擁を受け入れた。数時間前まで死闘を繰り広げていた相手と手を携えているこの状況の可笑しさに思わず口元が薄く綻ぶ。

 「アカツキ、ありがとう」

 「? ‥‥‥何か言ったか?」 

 「いや、何でもねぇよ」

 やがて、彼方に荘厳な意匠が施された万神殿が現れた。そのまま中へ入ると、内部は暗く、壁にかかる篝火が奥へ進む道標の役割を担っていた。そしてその奥。天井から落ちる一条の光を浴びながら二人に背を向け佇む人影があった。二人の到着に気付いたのか踵を巡らせ。

 「来たね」パンドラは莞爾と笑った。そこに焦りはない。ギンが現れようと現れまいとどちらでもいい、そんな余裕すら感じられる。だがそれも当然だろう。彼我の戦力差は明らか。加えて既に権能の一部を取り込んでいる。その事がパンドラに精神的な余裕を生んでいた。

 ユキの背から飛び降り、十数メートルほど離れ改めて対峙する。

 「お前を止めにきた」

 「ふふっ、それなら来るのが少し遅かったね。権能なら既に僕の中にある。君たちにできることは唯そこで指をくわえて見ていることくらいだよ」

 「嘘だな」小馬鹿にするように不敵に微笑んでみせる。

 「ふーん、どうしてそう思うんだい?」

 「理由なんかねぇよ。俺の勘だ」

 その答えに一瞬呆けた様子のパンドラが次の瞬間、ケタケタと呵々大笑する。

 「やっぱり君は面白いな。殺してしまうには余りにも惜しいよ」

 「だったら殺すな。その代わり俺がお前の計画をぶっ壊してやる」

 「それは無理な相談だね。君の命ひとつじゃとても釣り合わない」

 「そうかよ。だったら――――」

 瞬間。パンドラの背後―――暗闇の中から唐突にアカツキが姿を現した。

 「葬る!」

 神殿に踏み込むと同時にアカツキはユキの背から姿を眩ませ、周囲の闇の中に溶け込み隙を伺っていた。そして今、この瞬間、パンドラの意識がギンに向けられた一瞬の隙を衝き、背後からの奇襲を仕掛けた。暗殺を生業とする執行者。その首領を務めるアカツキの振るう一撃は敵の命を一撃で刈りとるためだけに訓練を積んだ者だけが体得しうる必殺の威力を秘めていた。 

 獲った!

 ギンの眼から見ても、それはまさに完璧な一撃だった。

 しかし、パンドラは一瞥すらくれず背後から迫る一撃を、右手で握る破軍を楯に換装することで難なく凌ぐ。激突の衝撃で数秒周囲一帯の闇が明るく照らし出される。渾身の一撃を防がれ驚愕に眼を剥いたアカツキが、刃を振り抜いた体勢のまま硬直していた。無論その隙を逃すパンドラではない。時間を早送りにしたような圧倒的速度を以て反転すると、刃型に変形した破軍をアカツキ目掛けて勢いよく振り下ろした。

 最早回避も間に合わぬ中、眼前にせまる刃を前にしてアカツキの顏に笑みが浮かんだ。

 それと同時に両者の間の地面から突如、無数の死霊兵が溢れ出す。アカツキの魔具『百血切』による死霊兵の創造である。これにはパンドラも瞠目し、わずかに動きが鈍った。死霊兵はパンドラの振るった一撃で体の半ばから胴を両断され灰となり辺りに四散したものの、術者であるアカツキまで刃が届かなかった。

 「よくやった!」

 パンドラの意識が外れた一瞬の隙を衝き、ギンは飛ぶように彼我の間合いを詰め千怒を振るう。『第一秘剣・絶華』。高魔力により切れ味を増した横薙ぎの一撃。視界の端でコチラの動きを捉えたのか、弾かれたように振り向き残るもう一方の手にも光剣を作り出し、咄嗟にガードする。しかしその勢いまでは防ぎきれずパンドラの体勢が大きく左へ傾いた。

 そこへ間髪入れずにアカツキが追撃を仕掛ける。

 「たわけ! 一撃で仕留めろ!」

 「そりゃお互い様だ!」遅れること一秒。技後硬直を抜けギンもその後に続く。

 ギンはアカツキと一緒に戦い、今更ながらその実力に驚かされる。

 第三層で闘った時にもその実力を認めてはいたが、それはあくまでも魔力込みの戦闘能力に対してである。だが、肩を並べながら刃を振るうアカツキの技量は十分ギンに引けを取らない。それどころか技発動直後に生まれるギンの隙を補うように自らも技を重ねていく。それにより二人の剣戟は止むことの無い嵐となってパンドラを追い詰めていた。

 「どうした、もうへばったか!」

 「ぬかせ! テンポ上げるぞ!」

 そこから先、二人の間に言葉は不要だった。

 目配せも無しに互いの動きが完璧に同期されていく。

 ギンの一撃が展開された楯を砕き、アカツキがそれを補い攻撃を重ねていく。時折振るわれるパンドラの一撃にも、二人は阿吽の呼吸で反応し、一方が防げばもう一方が攻勢に転じた。

 感覚は研ぎ澄まされ、意識は加速していく。

余計な思考が抜け落ち、剣と一つになったような奇妙な感覚を覚えた。

 パンドラからそれまでの余裕が消え、必死に守りを固めていた。守る必要のなくなった二人の剣戟はさらに加速していき、パンドラの反応がじわじわと遅れていく。

 そしてついに均衡が崩れた。

 楯の創造が間に合わなくなったパンドラの右肩を、ギンの放った突きが捉えた。

 「――――ッ⁉」驚愕に眼を剥き、パンドラはたまらず後退った。

 「逃がすな!」技直後、動きが遅れたギンより一歩先んじてアカツキが追撃を仕掛ける。

無造作に振るわれる一撃を躱し、懐深くに潜り込んだアカツキがトドメの一撃を振るう寸前、ギンは鋭く息を呑んだ。迫る刃を見据えるパンドラの瞳に異様な光輝が宿った。 

 「避けろ、アカツキ!」全細胞が告げる警鐘に従い、ギンは叫んだ。

 ギンの叫びを受け、アカツキも遅れて異変を察知し慌てて飛び退こうとする。

 しかし、僅かに間に合わない。

 「調子に乗り過ぎだよ」冷厳とした呟き。アカツキとパンドラ。両者の狭間、その足元に唐突に現れた星架剣が内側から爆ぜた。その衝撃はすさまじく天蓋は吹き飛び、地面には巨大なクレーターが生まれた。ほとんど自爆同然の奇襲に、ギンは面食らい壁面まで吹き飛ばされ、背中から激突した。

 土煙が濛々と舞い上がるなか、のそりと身を起こし周囲を見渡す。そして直に爆心地付近で刀を地面に突き刺した格好で佇むアカツキの姿を捉えた。前方にはこんもりと山積する大量の灰。回避は間に合わぬと悟り、死霊兵を土塁代わりにして直撃だけはどうにか免れたらしい。

しかし衝撃と熱波は防げなかったのだろう、アカツキの体は焼かれ、身に纏う装身具のほとんが吹き飛んでいた。沈みかける体を意志の力だけで支えながら、アカツキが吼える。

「今だ、やれ!」

その小さな体のどこにそれ程の意思力が秘められているのか。ギンは彼女の悲壮な決意を無駄にはするまいと、全身にひろがる魔力回路へ、全魔力と意識を集中させる。

その時、散乱する瓦礫を踏む音が聞こえた。振り向いた先には、星架剣の直撃を受けたにも関わらず、かすり傷ひとつなく平然と佇む佳人の姿があった。

その背後より、ここまで気配を押し殺していたユキが勢いよく飛び掛った。

しかしパンドラは一瞥することなく軽やかな身のこなしで躱すと、タタッ、と舞うような足運びで後退する。そこへアカツキが解き放った死霊兵が猛然と襲い掛かった。

「邪魔だよ」

鬱陶しそうに光剣を薙ぐ。それだけでパンドラに群がる死霊兵は灰となって四散する。

そこへ間髪入れずにユキが突っ込む。大きく開かれた口腔に小さな火花が散り、やがて人間の拳程度の球体が生まれた。それが圧縮された高密度の魔力であることをこの場に居合わせた誰もが理解した。ユキはそのまま、ほとんど零距離までパンドラへ接近したところで、高魔力圧縮弾を放った。

直撃に次ぐ爆風と衝撃。周囲一帯が一瞬にして砂塵に覆われ、視界を砂色に埋めつくした。

零距離で技を放ったユキの体は放物線を描き、真面な受身もとれず地面を数回バウンドしたところで止まった。体の至る場所から爆破による裂傷と、ここまでの闘いで負った傷口から血が零れていた。美しかった毛並みが紅く染まっていく。

それでも狼王としての矜持か、懸命に起き上がり、砂塵の舞う方角へと向き直る。

瞬間、無数の光矢が砂塵の中から飛来しユキを射貫いた。 

「魔獣如きが、烏滸がましい」

その周囲には薄い膜のように楯が展開し、ユキの攻撃を遮断していた。

全身至る場所を射貫かれたユキは、最後に悲壮な声で鳴くと、そのまま力なく倒れ伏した。遠目からでは無事なのか解らない。駆け寄り、ここまでの健闘を讃えてやりたかった。それでもギンは懸命にその誘惑に耐え、自分が成すべきことに意識を集中させた。

「何をするつもりかは知らないけど、させないよ!」 

ここまで戦闘に参加しないギンを不審に思ってか、パンドラの矛先がギンへと向けられる。

天高く右腕を突き上げ、それに呼応するように、パンドラの体から高濃度の魔粒子が迸り、ぐるりと黄金の群れが取り囲んだ。

レイが好んで使っていた光矢だけではない。剣がある。斧がある。槍がある。槌や杖、他にも雑多な武具。その全ての矛先が、冷厳たる殺意とともにギンへ向けられていた。

 「撃て!」号令一下。一斉射出された武具の嵐がギン目掛けて殺到した。

 「クソがっ‥‥‥‼」

 被弾は避けられぬと覚悟を決めたその時。

 突如、視界に飛び込んできたアカツキが、ギンを背中で庇うように立ちはだかり、飛来する黄金の嵐を、『百血切』で片端から叩き落していく。

しかしながら全弾防ぎきることは叶わず、守りをすり抜けた幾本もの武具が、身動きのとれぬギンの肩や脚を抉った。しかしそれも嵐を単身で食い止めるアカツキが負った傷と比べれば微々たる、かすり傷と口にするのも憚れるものだった。

 やがて黄金の嵐は止んだ。

 「‥‥‥これで、借りは‥‥‥返したぞ‥‥‥」

 そう言い残し、アカツキは糸の切れた人形の如く崩れ落ちる。

 「馬鹿が‥‥‥」

 借りなんかあるもんか。あるとすれば、それは俺の方だ。

 ここまで共に戦ってくれたアカツキとユキ、そしてマクベスの足止めを引き受けてくれたテオ。敵として出会い、命懸けの死闘を演じたにも関わらず、俺の無茶に手を貸してくれた。

 なればこそ、その思いに答えなくてはならない。

 「いくぞ、決着(ケリ)をつける!」

 次の瞬間。ギンを中心に轟然と吹き荒れる魔力が渦を巻き、大地を、大気を震わせた。

 「『終ノ秘剣―――天無神威(アマミカムイ)』」



 マクベスにとって、女王とは絶対の存在である。 

 それまで自分が何を成すために生まれてきたのか、その意味を理解することもなく、盲目的に命じられるまま他者の記憶を改竄してきた。そうすることが自分の役割だと、物心つく前からそう言われて育てられた為、そのことを疑問に思うことすらなかった。

 生まれてから一度も『白い匣』の外に出たことがないマクベスにとって、外界とは絵本や御伽話と同じ、頭のなかだけに存在する、触れられない存在に過ぎない。

 親を知らず、家族と呼べるもの、ましてや『愛』を知らずに育てられた。

それ故に、マクベスは外の世界と其処に住まう人々に強い憧れを抱くにようになった。

 子供が童話に登場する騎士やお姫様に憧れるように、マクベスは愛情に憧れを抱いた。

 名前も知らない大勢の他者の記憶を改変する最中に垣間見る、暖かな記憶、人間なら誰しもが持つ家族との繋がりを垣間見ていく内に、家族との絆、愛情への憧れは日に日に強まっていく。しかし生物の記憶を書き換える、という稀有な魔力を持って生まれたマクベスには人間としての最低限の権利、自由さえ与えられなかった。

自分には永遠に手の届かぬものだと、そう諦めかけていたその時、マクベスは出会った。

 大人たちに『聖別の間』と呼称する部屋へ連れられ、その中央に据えられた玉座に腰掛ける異形の存在。辛うじて生物としての原型を留めてはいたが、それが人間だと聞かされた時は、信じるまでに随分と時間がかかった。

 曰く、それは二○〇年前に王国を興した初代女王であり、権能を有するが故に、死ぬことも老いる事もなく、人間では決して到達できぬはずの『全知』を手にした存在だという。

 そこで大人たちは、マクベスの魔力を利用し、女王が貯えた記憶の解析を試みた。

 しかし、人の身でありながら『全知』を得ることは不可能だった。女王の記憶を解析して直に膨大な情報量で脳死寸前となり、生死の境を彷徨うこととなった。

 その際に女王の記憶の一部がマクベスの中に流れ込んだ。後に、それが女王による精神汚染であることが発覚するが、その時点でマクベスの意識は女王に対する深い忠誠心―――崇拝にも似た感情に支配されるようになっていた。

だが、その事を恨んだことは一度もない。なぜなら精神汚染が進むにつれ、女王の声はより鮮明になり、マクベスは自身が女王から愛されている、と錯覚を抱くようになっていたからだ。

それまで誰からも愛されることのなかったマクベスにとって頭の中に響く女王の声はまさに神からの啓示に等しかった。

 だが、女王の現身が誕生したことにより状況は一変した。

 それまで自分だけが女王の意思を理解し、寵愛を賜る存在だと信じて疑わなかったマクベスにとって、女王の現身の存在はとても容認できるものではなかった。付け加えるならこの時のマクベスは、自分が不要なものとして女王から見捨てられるのではないか、という強い猜疑心に苛まれていた。それはやがて女王の現身への憎悪へと変わり、女王からの寵愛を賜るために、女王の現身の抹殺を画策した。

 女王と、その現身が直接接触するように研究所職員たちを操ることは、記憶操作の魔力を持つマクベスにとってそう難しい事ではなかった。

その後も、女王の現身に長い軟禁生活を強き、女王の魂が現身に定着するまでの時を稼いだ。唯一、誤算があったとすれば、それは三度も聖別を生き抜き『白銀』という識別名を与えられた少年の存在だろう。

 マクベスの計画では、長い軟禁生活で現身として生まれた少女は女王の精神汚染により魂を犯され、その肉体はやがて女王が受肉する依り代となるはずだった。だが白銀と関わることで崩壊寸前だった少女の魂は寸前のところで耐え抜き、女王の精神干渉を撥ね除けた。

 このままでは女王の復活はおろか、女王からの寵愛を独占することすら儘ならない。

焦ったマクベスは、少女が心の拠り所としている白銀の殺害を画策した。

しかし、三度も聖別を耐え抜いた白銀の能力は、他の適合者を優に超え、最強の存在として畏れられていた。そこでマクベスは物理的な殺害を諦め、精神的苦痛による暗殺を計画した。

 そして何か月にも渡り、適合者、施設の研究員を含めた全員の記憶を書き換え、適合した子供たちに白銀を襲わせた。その結果、適合した子供たちの多くが死に絶え、白銀は生き残った。

だが、マクベスの目論見通り自責の念にかられた白銀は自ら死を望んだ。

 万事計画は順調に進んでいるかに思えた。

 しかし、そこでまたしても予期せぬ事が起きた。

 唯一、心の支えとしていた白銀を失った少女が、以前と変わらぬ強固な自我で女王の精神干渉を退けたのだ。それどころか白銀の記憶だけを消し去り、殺さないと言い放った。

当然、マクベスは難色を示したが、記憶を消すのも、殺してしまうのも大差はないと、考えを改め命じられるがまま白銀から、記憶の全てを消し去り、そして二度と少女と関わらないように地下街へと放逐した。更に万全を喫するために少女からも白銀に関する記憶および、『白い匣』での情報は全てを抹消した。そして女王の魂が、現身へと定着し受肉を終えるまでの間、少女を含む王侯貴族全員の記憶を書き換え、少女をアーカディア王家の末娘として宮廷に送り込み。そして自らは三年前の事件当時、『白い匣』に居合わせなかったアカツキを含む、数人の生き残りたちの中に紛れ、執行者として陰から女王の復活を待ち続けた。

 だが運命は皮肉にも、二人を引き合わせた。

 それどころか、かつて女王だけが手にした権能を手に入れるため、匣へ潜るという。無論、そんな事になれば少女の中に残る女王の残留思念は跡形もなく消え去り、これまでの苦労は水泡に帰する。それだけは絶対に阻止しなくてはならない。

 故にマクベスは決起した。全ては女王からの寵愛を一身に受けんがため。 

 そして遂に、マクベスの悲願は成就した。

 女王は受肉し、今この瞬間にも新たな権能を取り込まんとしている。

 全てが終われば女王から向けられる愛は、マクベス唯一人だけのものとなる。

 そうなるはずだったのだ――――。

 女王が白銀を見逃したあの瞬間、マクベスの中に抑えようのない暗く濃く深い憎悪が沸き起こった。何故、その関心を、愛情を、自分に向けてはくださらぬのかとマクベスは自問し続け、やがて答えに辿りついた。全ての元凶は、白銀にあるのだと。

 ならば殺そう。持てる全ての能力、知略、想念を以て、あの少年を殺さなくてはならない。

 

 「終わりだ。諦めろ」

 極寒の冷気を纏う聖剣を携え、黒衣の騎士が勧告する。

 既に、白銀とアカツキに防御網を突破され相当な時間が流れていた。時折、背後から聞こえる戦闘音が、この先での戦闘の凄まじさを物語っていた。だがそれはこちらも同じこと。

 マクベスと黒衣の騎士との戦力差は歴然だった。

 元々、アカツキや他の執行者と異なり直接戦闘を不得手とするマクベスだが、敵を足止めすることに関しては非凡な才能の持ち主であった。だが黒衣の騎士にマクベスの技は通じない。

 他人の記憶を操作する、それは特異な生物干渉系の魔力の一端に過ぎない。他の生命。たとえば草や花といった植物に対しては、急激な成長を促し、それを使役し武器とすることが出来る。殺傷能力は高くないが、無数の植物の蔓により敵の手足を絡め取るという戦法は、地味ながら、突破することが困難な能力であった。

 しかし、眼前の騎士は魔力により肥大化した無数の植物の攻撃を難なく、剣の一振りで薙ぎ払い、時には凍り付かせながらマクベスを圧倒した。

如何なる技や手練手管を以てしても、この騎士には届かない。

 「魔力と武装を解除しろ。殺しはしない」再度、騎士が降伏を促す。

 しかし、マクベスは決して首を縦に振ろうとはしなかった。

 それどころか仮面の奥から覗く双眸に、更に濃い殺意が渦を巻く。

 それを見た騎士は、やれやれと嘆息を洩らし、下げていた切っ先をわずかに持ち上げた。

 「悪いが、抵抗するなら容赦はしない。次で最期だ。武装と魔力を解除して投降しろ」

 呟く騎士の顏に、微かな迷いが生まれたことをマクベスは逃さなかった。

 執行者を示す黒い外套の内側から、一本の鉄製の小瓶を取り出し、指先で栓を弾き飛ばす。

 「それは⁉」

 この突然の奇行に、騎士は身構え、瓶の中身が何なのか問い質した。

 が、マクベスは騎士の問い掛けを無視し、凝然と瓶の中身を見詰め。

 「これで私も貴方の一部となる」

 瓶の中には、聖別で用いられていたものと同様、女王の血が入っていた。これを飲み適合することが出来れば、白銀やアカツキのように強力な魔力を手に入れられる。だが一方で、失敗した際の危険性は他の強化薬の比ではない。加えて『白い匣』の研究で、成人した肉体への適合率は一パーセント未満という結果が出ている。その為、マクベスはこれまで聖血を取り込むことを躊躇っていた。だが、この状況では他に有効な打開策はなかった。

 遅れて瓶の中身に気付いた騎士から制止の叫びが上がるも―――、その時には既に、瓶の中に聖血は一滴たりとも残されてはいなかった。

 「~~~~~~~~――――ッ!」

 全身が燃えるように熱い。体の内側を炎で焼かれているような壮絶な痛みに襲われ、身悶えし、苦悶の呻き声が漏れる。全身の穴という穴から血が噴き出した。喉の渇きに耐えきれず、喉に爪をたて皮が破れ出血することも構わずに掻き毟った。

 頭の中で赤と黒、白色の光が激しく明滅する。

薄れゆく意識の中、自身の肉体が聖血に適合しなかったことを悟った。

 「だから、どうしたというのだ‼」

全身を焼く痛みにも構わず、マクベスは天に向けて吼えた。

 残る想念の全てを以て、自らの肉体に聖血を強制的に適合させ始めた。生物干渉系の魔力保持者であるマクベスにしか成せぬ荒業である。無論、無事では済まないだろう。今、残っている全ての魔力が潰えれば死ぬと、意識の片隅で理解した。

 最早マクベスに残された感情は二つのみ。一つは敬愛する女王への忠誠心。そして残るもう一つは、女王の寵愛を簒奪しようとする、白銀への瞋恚がマクベスを衝き動かしていた。

 瞬間、奇跡は起きた。

 強制的に聖血に適合したことで、マクベスの魔力は従来の数十倍にまで膨れ上がった。足元から勢いよく伸びあがる無数の蔓が、マクベスの全身を呑み込み、巨大な龍を想起させる化け物となった。慌てて騎士が反撃を試みた時には、緑色の龍と化したマクベスは万神殿を目指し、暗い空へと飛翔を開始していた。

 


 『絶剣』。一から九まである型で構成され、初代王国執行部隊総隊長『白銀』により創始考案された我流剣術。魔力が発展した現代において純粋な武術、剣術は衰退の一途を辿っている。その主な理由として単純な身体能力だけでは、強力な魔力を前になす術がないためである。

 故に、現代の武術、剣術は魔力との親和性を高めることに意識が向けられてきた。その中で、白銀が考案した『絶剣』は、剣と魔の融合。その極地にたどりついた絶技である。

 そして、九つある絶剣はすべて終ノ秘剣へ至る布石に他ならない。

 魔力『全注入』により、可視化できるほどに濃度を増した魔力。それを緻密な魔力制御により布状にひろげ一枚の外套―――装身具へと形を変え、更にそれを羽織る。

 瞬間、それまで持て余していた魔力がギンを中心に爆発的に拡散し、神秘の帳に包まれた暗闇に銀色の閃光が迸った。その桁外れの魔力量により大気は震え、先刻の地鳴りを凌ぐ揺れが深層全体に波響する。

 やがて揺れは止み、迸る輝きに眼が慣れてきた頃、おずおずと顔を覆っていた腕を降ろし、パンドラは数秒ほど唖然とした表情から一転、恍惚とした笑みをその端正な顔に張り付けた。

 「それが君の奥の手というわけか?」

 「奥の手?」違うと、ギンは小さく頭を振ってみせ、「これが絶剣だ」と、静かに告げる。

 「超高密度の魔力を鎧として纏い、身体能力を向上させる。確かに恐ろしい技ではあるけれど相応のリスクもあるんだろう? 技の発動限界は以て数分、もしくは一分にも満たないかもしれない」

 コチラの心意を探るようなパンドラの問い掛けに、ギンは敢えて不敵に笑って見せた。

 「さぁな、そうかもしれないし、違うかもしれない」

 「じゃあ、これならどう?」

 右手に握られた破軍を高々と掲げると、先刻アカツキを襲った時を凌ぐ量の黄金の武具が宙空に出現した。加えて射線の先には、戦闘で傷つき身動きが取れないアカツキ、ユキが含まれている。パンドラは嫌味なほど冷静に、この状況でギンが仲間を見捨てられないことを読んでいる。故に、パンドラは余裕の笑みを崩さなかった。

 そして、パンドラ指揮の元、黄金の武具が斉射され―――。

 「『第一秘剣―――絶華』!」

 ―――横薙ぎの一閃が、全ての武具を薙ぎ払った。

 「ッッッ⁉」

 「おい――――」

彼我の間合いを一瞬で詰め、千怒の鋭利な剣尖をパンドラの喉元に突きつけながら、ギンは不敵な笑みを浮かべてみせる。

 「――――本気で闘え」

 静かだが空気を震わすギンのそのひと言でパンドラの驚愕に見開く双眸に、これまでと異なる光が宿った。それを確認してからギンは千怒の切っ先を下げ互いの間合いの外まで後退した。

 「そういう君はどうなんだい? どうしてさっき僕を殺さなかったの?」

 「あ?」何を馬鹿なことを聴いているのか、というような嘲笑を浮かべ、

「俺の方が強いからに決まってんだろうが」

 不敵に、傲慢に、ギンは嘯く。

 「なるほどね。だけどいいのかい? ここから先、君は僕に傷一つ負わせることができなくなるんだよ?」

 そう呟くパンドラの相貌から一切の感情が削げ落ち、零下の殺意が迸る。

 再度、パンドラの周囲に黄金が躍る。神の誕生を祝うかのように、背後を飾る後光さながらに、金色の光輝を放つ武具が展開する。更にその後方に万を超す星架剣がぐるりと浮かび上がった。先刻のように唯、武具を吹き飛ばすだけではその後に続く星架剣を防ぐことは出来ない。そして回避すれば後方で気を失っているアカツキとユキが巻き込まれる。

 ここまで共に戦った仲間を見捨てるという選択肢―――ギンにはなかった。

 冒険者として類稀な才能を持つ本来のギンであれば、この状況下で仲間を守る、という選択はしない。戦場では臆病者が生き残ると言われるように、ギンもまた己の能力の限界を正しく線引きすることで、これまで数々の修羅場を潜り抜けてきた。

 だが今、この瞬間だけは頭の中で鳴り響く冒険者としての冷静な声を無視することにした。

 我ながら何と愚かなのだろう。

以前の自分がこの状況を見れば、きっと呆れるに違いない。

 仲間を守りながら戦えば勝つことは不可能。故に、ギンは自分なら仲間を守ったうえでパンドラに勝つことが出来ると強く思い込むことにした。出来ない、という認識が本来であれば出来ていたはずのことを不可能にする。ならば全て出来ると思い込むことで自らが線引きした限界を超えて、不可能を、可能にすることは出来るはずだ。

 そのことをギンは、甘く、お人よし、しかし強い信念をもつ少女から学んだ。

 「それでも俺は逃げない‼」

 「‥‥‥そうか、それが君の答えなんだね」

 最早、二人の間にそれ以上の言葉は不要だった。

 静寂が続いた。一秒が永遠にも思えるような濃密な時の流れの中、真紅と青玉の双眸が絡み合う。そして別れを告げるように、夜空に広がる黄金の武具が斉射された。

 無数の星が地上へと降り注ぐ。その真下で一人の少年が流麗な舞を演じた。

 遠目から二人の闘いを見た者の眼には、そのように映っていることだろう。

 しかし地上目掛け殺到する星々―――否、様々な形をした光の武具は、大気を揺るがし、炸裂する閃光は夜空すら払わんばかりであった。これほどの大破壊がたったひとりの人間の手によってなされているなど一体誰が信じるだろうか。

 轟然と唸りを上げて迫り来る星の雨。その悉くをギンは千怒の一撃で薙ぎ払い、時折捌ききれなかった武具に総身を蹂躙されながらも、千怒を振るう手だけは一瞬たりとも休めなかった。止まればその瞬間に呑み込まれてしまう、という確信があったからだ。

 加えて、『終ノ秘剣』は、『全注入』により激増した魔力を緻密な魔力制御により身に纏うことで、限界を超えた膂力を強制的に引き出す代わりに肉体への負荷が増す。

 権能によりほぼ無制限に魔力を引き出せるパンドラと異なり、ギンの場合、持てる全ての魔力を注ぎ込んで初めて対等に渡り合える。その圧倒的なまでの戦力差を覆すためには相当な無茶をしなくてはならない。全身が細胞単位で傷付いていく。その痛みは既に激痛へと変わり、僅かでも気を緩めればその瞬間に、『天無神威』が解ける。そうなればギンだけでなく、後ろのアカツキとユキを含め、肉片ひとつ残らず蒸発するであろうことは容易に想像がついた。

 そしてパンドラが指摘した通り、『天無神威』を維持していられる時間には限りがある。

 『全注入』により増幅された魔力を以てしても三分にも満たない。

 その限られた時間の中でパンドラの元まで辿り着かなくてはならなかったが、その為の隙をパンドラは与えなかった。止むことの無い嵐となって降り注ぐ武具を防ぎながら、ギンは反撃の時が訪れるのを諦めず、一歩ずつ前へ進みつづけた。

 意識が移動に逸れた分だけ、敵の攻撃を被弾した。

 衝撃、激痛に耐えながら更に一歩距離を詰める。

 と、そこで嵐が止んだ。

 全弾打ち尽くしたのか?

 そう思い意識をパンドラの方へ向ける。

 すると、パンドラは腕をギンへ突き出した格好のまま、金縛りにでもあったかのように固まっていた。驚愕に見開かれた二つの瞳が、虚偽や罠、であることを否定している。

 「‥‥‥まだ、意識が残って⁉」

 その瞬間、ギンは全てを理解した。

 この一瞬を生み出したのが、誰であるのかを。

 パンドラの硬直は一秒にも満たぬものだった。

しかし、この瞬間、そこに生まれた僅かな時間は起死回生の一手へと繋がっている。 

 「行くぞ―――レイ!」

 猛然と、地を這う鳥の如くギンは駆けた。

 彼我の距離をほぼ一瞬にして詰めるや、勢いそのままに鋭い突きを放つ。

 しかし剣尖はパンドラまで残り数センチの所で、見えない壁に激突して制止した。

 「ぜぇやあああああああ――――‥‥‥ッ‼」

 裂帛の咆哮を上げ、ギンは残る魔力の全てを剣尖に込める。

 ビシッ。何処からともなく亀裂の奔る音がした。

 ようやく硬直の解けたパンドラが、薄い膜状に拡げた破軍越しに光剣を突く。

 同時に、千怒を阻む不可視の障壁が割れ―――

 ギンとパンドラ。二人の刃が火花を散らしながら錯綜した。

 そして。

 「‥‥‥ぐっ‥‥‥」

 胸を貫く光剣。腹の底からこみ上げてくる熱いものが口から零れた。

 「どういうつもりだい?」

 そう咎めるパンドラが、虚空を貫く千怒を見据えながら問い掛ける。

 ギンの放った一撃が、意図して狙いを逸らしたものだと見抜かれたのだ。

 ギンはパンドラの疑問に答えぬ代わりに、不敵に笑ってみせた。

 「ようやく、捕まえた」

 「――――?」怪訝に眉根を寄せるパンドラ。

 しかし次の瞬間、その艶美な相貌が驚愕に歪む。 

 「『全注入』」

 瞬間、ギンの裡側で膨れ上がった膨大な魔力が、胸を差し穿つ光剣を伝いパンドラへと流れ込んだ。

 「血迷ったの? 敵に魔力を注ぎ込むなんって、君は一体何がしたいんだ⁉」

 「俺はただ、信じてるだけだ」

 「信じる?」

 「アイツなら、必ず戻ってくるってな!」

 「まさか―――ッ⁉」

 そこでギンの思惑に気付いたパンドラが愕然と瞠目した次の瞬間、異変は起こった。

 


 白い部屋で独り、レイは何をするでもなく佇んでいた。

 壁や天井、床に至るまで白く。其処には窓や時計すらない。

 時間すら意識することはなく、ただ空虚な時間だけが流れていた。

 『――――――――』

 何処からともなく、声が聞こえてきた。

 しかし部屋の中を幾ら見渡しても、依然と部屋の中にはレイ以外誰もいない。

 『――――イ――――レイ――――戻――――って――――‥‥‥ッ!』

 空耳じゃない。何処からか声が聞こえる。

 すると先程まで何もなかった壁に、忽然と古い扉が現れた。

 どうやら声は、扉の向こう側から聞こえてくるらしい。

 怪訝に思い、レイは扉の方へと歩み寄る。それに伴い、声はより明瞭さを増していく。

レイの意識は導かれるように扉のドアノブへ手を伸ばした。

 「その先は地獄だよ?」

 不意に、背後から聞こえる声。振り返るとそこには、極上の絹を束ねたような美しい白金の髪をした少女が佇んでいた。白いドレスを身に纏い、コチラを見据える眼差しは、氷のように冷たかった。

 「このまま此処にいればいい。外に出れば、君はまた傷つく。それだけじゃない。君の行動が、君の大切な人を苦しめる。そのことを君は、三年前に身を以て思い知ったはずだよ?」

 少女の言葉を皮切りにして、レイの中で長い間眠っていた記憶が、治りきっていない瘡蓋を無理やり剥がされ出血するように、じわり、じわりと蘇ってくる。

 レイは愕然と扉の前に崩れ落ちた。

 どうして、忘れていたのだろうか?

 こんなにも大切なことを。

 欠片のひとつを失くし、永遠に完成しないパズルを前にした時のような喪失感。 

 三年前、大勢の仲間を殺め、悲嘆にくれる彼の願いを聞き入れることが出来なかった。

そして、その判断は誤りだった。

 もう二度と、彼に重荷を背負わせたくなかったから、彼を遠ざけたというのに。

 こうして再び巡り逢い、こんな遠い所まで来て、再び彼を傷つけた。

きっとものすごく怒ってる。だけど、それ以上に深く傷ついているに違いない。

 彼に謝りたかった。

 だけど、彼に会うのが怖い。

 「‥‥‥ごめんなさい‥‥‥ごめんなさい‥‥‥」

 自分が生まれてこなければ。

 彼に出会わなければ、こんな結末はなかったのに。

 辛い現実から目を背けるように、その場で小さく蹲る。

 「辛かっただろう。これまでずっと、君は一人でその重荷に苦しんできた。だけどもう大丈夫さ。君の痛みは、僕の痛み。そして僕の痛みもまた、君の痛みになる。そしたら君はもう一人じゃなくなる。僕がずっと傍にいるよ。だからこのまま僕と一緒にここにいよう」

 抑揚の効いたその声に、レイは俯けていた顔を持ち上げる。

 すぐ目の前で、蹲るレイに手を差し伸べる金髪青眼の佳人。

 この手を掴めば救われる。

 まるで見えない力に導かれるように、レイの右手がゆっくりと持ち上がった。

 差し伸べられた少女の手を掴もうとした。

 その時。

 突如、レイの体から銀色の輝きが迸った。

 『戻ってこい! レイ‼』

 「呼んでる?」

 持ち上げていた腕を降ろし、レイは声が聞こえてくる方向。扉の方へ肩越しに振り返った。

 「待て! 待つんだ!」

 猛然と吹き荒れる銀色の奔流に遮られた少女が、焦りの叫びをあげた。

 「君の居場所は向こうじゃない! ここだろ! 僕と一緒に残るんだ。そうすれば、誰も傷つかない、優しい世界が生まれる! だから――――」

 「違う」

 答えは速やかで、揺ぎなかった。

 「確かに。現実は辛くて、逃げだしたいことばっかりだけど。それでも、もがき苦しみながらも、強くあろうと、戦うことの大切さに気付かせてくれた人がいる」

 澎湃と両眼から涙を零しながら、レイは凜然と言い放った。

 「だから私も、前に進みたい!」

 「――――――ッ」

 少女は、何かを言おうと口を開きかけ、しかし諦めたように肩をすくめてみせた。

 そして、少し困ったような、だけど羨ましそうに眼を眇めながら。

 「悔しいな。君たちを見ていると、僕の人生すべて間違っていたように思えてくるよ」

 「大切なのは、どこで生きるかじゃない。どう生きるか。‥‥って、彼の受け売りだけど」

 そのひと言に、少女は瞠目し、やがて憑き物が晴れたような爽やかな笑みを浮かべた。

 そして。今度こそ少女に背を向け、扉のドアノブを掴む。

 


 「ギン?」

 これが夢か現実なのか、確認するようにレイは訊ねた。

 その何とも間抜けな質問に、思わず笑みが漏れる。

 「ああ、俺だよ。とりあえずコレ抜いてくれないか?」

 胸を貫く破軍を見遣る。

 「あ、直に!」

 「ああ! 待て、急には‥‥‥」

 混乱が抜けきらないレイは、ギンの忠告も空しく破軍を解除した。それと同時に、空を埋め尽くしていた無数の武具が解れ、霧散した魔粒子が深層の暗い空を金色に染め上げた。そんな幻想的な光景を見る余裕もなくギンは胸に空いた傷を抑えながら苦悶の唸り声を洩らす。

 「痛ッッッ!」

 「ごめんなさい!」

 「‥‥‥いや、大丈夫だ」と、顔面蒼白になりながらも、自身の無事を訴える。

 『天無神威』により、膂力、五感、自己修復力が強化されていたおかげで、貫かれた傷口からは既に出血は止まっていた。それでも痛みが和らぐわけじゃない。緊張の糸がとれ、その場に力なく座り込む。その姿を怪我のせいと誤解したレイの慌てぶりに再度、笑みが零れた。

 「おかえり、レイ」

 たっぷり数秒、唖然とした表情から一転、申し訳なさ半分、気恥ずかしさ半分といった具合で顔に紅葉を散らしながら、「ただいま」と小さく答える。

 短い沈黙。次いで、どちらからともなく笑いがこみ上げてきた。

 ここまでの事を思えばとても笑っていられる状況ではないと、お互いに理解していながら、こうして無事に再会できたことに張り詰めていた緊張の糸が切れたのだ。

 「なぁ、この後どうなるんだ?」

 通常の匣と異なり、匣舟から外界へ脱出する術はない。そして権能はパンドラによって、今はレイの肉体に宿っている。これで攻略完了とみなされ匣内部の生存者は外界へ強制転移されるのか、それとも脱出そのものが不可能なのか?

 「まさかこのまま脱出できないなんってことは‥‥‥」

 「あ、それなら大丈夫だと思います。推測ですけど私の肉体に権能が完全に馴染めば、外界へ通じる扉を開くことが出来るはずです」

 「確信はないのか?」

 「ええ、ですが何となく解るんです。これも権能の恩恵の一つなのかもしれません」

 「すげぇな。権能って‥‥‥」

 「この力があれば、武力による世界征服も可能でしょう」

 「だろうな」

 「ですが使い方を誤らなければ、この先何百年と続く世界の平和を築く力になりますよ」

 「大丈夫か?」

 「頑張ります、と以前の私なら答えていました。だけど正直、自信ありません」

 と、苦笑交じりに呟き、レイは真っすぐにコチラを見詰めながら。

 「だからこれは私の我儘。‥‥‥ギン、これからも私の側で、私を守ってくれませんか?」

 「嫌だね」

 ギンの即答に、レイの顏がみるみる悲痛に歪んでいく。

 その姿に笑いがこみ上げ。

 「自分より強い奴を守るなんって冗談じゃねぇ。だけど、お前のガキみたいな夢を手伝ってやる。‥‥‥勘違いするなよ! 仕方なくだぞ! 仕方なく! 本当は王国から支払われる莫大な報酬で悠々自適な暮らしをするつもりだったけど、それまでの間だけ手伝うってだけの話だ」

 誤魔化すようにソッポをむく。すると遅れてレイからクツクツと忍び笑い漏れ聞こえてくる。

 「判りました。では協力してください。私の夢の実現のために」

 そう言って、差し出されたレイの右手は固く握り締められていた。

 「期待していますよ、相棒」

 「ああ、任せろ」

 不敵に微笑み、差し出された拳に自らの拳を重ねた。その何とも言えない空気が気恥ずかしく、ギンは誤魔化すように更に軽く笑った。それに釣られるようにレイの口元が綻びかけた、直後、青玉の瞳が驚愕に見開く。なにを見ている? と思う間もなく勢いよく突き飛ばされた。

魔力を使い切り、疲労困憊だったせいで真面な受身をとることが出来なかった。「いきなり何のつもりだ⁉」顔を上げ、憮然とした叫び声をあげる寸前、ギンは凍り付いた。

 真紅の双眸が見据える先。レイの背中から腹部にかけて貫く、槍状に束ねられた鋭い蔓。レイの口から血反吐が零れた。レイの血反吐で紅く染まった蔓は、意思を持つ生き物のように蠢き傷口を広げようとしている。遅れて事態を理解したギンは、地中から飛び出す蔓をその半ばから断ち切ってみせた。本体から取り残された蔓は瞬く間に萎れ、やがて灰となった。

 体を支えていた蔓が消えたことでレイの体勢が崩れる。慌てて駆け寄りその体を抱きとめた。

 「おい、しっかりしろ!」

 懸命に呼びかけた。すると金色の睫毛は細かく震え、青玉の瞳がギンの姿を映した。

 「大丈夫、このくらい‥‥‥」と、気丈に振舞って見せる。

 その言葉通り権能をその身に宿しているレイの体は、たとえ心臓を抉られようとも無尽蔵の魔力が宿主を生き永らえさせるだろう。しかし体が不死身なのであって、その身が味わう苦痛は常人と何も変わらない。気丈に振舞ってはいるが、胸を貫く傷は相当に深い。しばらく一人で立っていられないだろう。

 「ギン、気を付けて。何か‥‥‥きます」

 そのひと言でギンの意識は現実に引き戻された。怜悧に輝く瞳が見据える先を、遅れて追いかける。そこには一匹の空飛ぶ大蛇がいた。否、大蛇ではない。ギンのホームグランドである第七層にある匣で稀に出現する魔獣『海の王(リヴァイアサン)』を彷彿とさせる巨大な龍が、暗く沈んだ空を、地上から生え伸びた無数の蔓に支えられながら泳いでいる。

 眼を眇め凝視する。大きく開かれた顎より上、額と思しき部分から何やら角のように突き出す貴影。黒く波打つ髪に、病的なまでに白い肌。その内側を奔る無数の蔓、ではなく青く浮き上がった毛細血管。素顔を隠していた仮面は被っていないが、ギンはそれが執行者の青年マクベスであることに気づいた

 「何で、アイツが‥‥‥ッ⁉」

 それは有り得ぬことだった。先刻、ギンたちの行く手を遮るマクベスの足止めを買って出たテオが、一対一の闘いで負ける可能性を、ギンはこの瞬間まで信じて疑わなかった。

 だが現実にマクベスは現れた。それが何を意味するのか解らない程、楽天家でもない。

冒険者としての勘が先程からひっきりなしに警鐘を鳴らしている。

 「あの魔力、おそらく女王の血を取り込んでいます」

「クソがッ! 魔力が残ってない時に‥‥‥!」

千怒を杖代わりに立ち上がり、悪態を洩らす。

 「無茶です! もう魔力が残っていないでしょう!」

 「だからって、このままじゃ二人まとめて殺されるだけだ!」

 おまけに後ろには、気を失っているアカツキとユキがいる。この場から逃げたとしても、仲間を見殺しにすることになる。そんな真似をするくらいなら独りココに残って敵を足止めしてみせる。無論、魔力が尽きたギンに聖血を取り込んだマクベスの進行を止める手立てはない。

 それでも毅然と、満身創痍の体を奮い立たせ千怒を構えた。

 「私に、策があります」

 弾かれたように振り返る。そして真っすぐにコチラを見つめる青玉の瞳がそこにはあった。

 悲愴な覚悟の宿る瞳。それと同じモノを第二層でも見ている。ならば迷う必要はない。

 「―――決まりだな。信じるぞ!」

 決然と頷くギンの隣にレイが並んだ。

 「手を貸してもらえますか」

 言われるまま、ギンは千怒を握る手とは逆の掌をレイへ差しだした。

レイは差し出された手を恭しく掴むと、ニコリと大輪の花が咲くような笑みを浮かべた。

 「私に残っている魔力をすべてギンに預けます。――――後は頼めますか?」

 「はっ、余裕だ、それくらい」

 そう嘯いて見せながらも自信はなかった。それでもレイが隣にいてくれると思うだけで、この世界に不可能なことなど何もないような気がする。

 そして。二人が見据える先。無数の蔓に覆われ巨大な龍と化したマクベスは、遥か高みからコチラを睥睨する。その瞳におよそ理性はなく。ただ瞋恚の宿る瞳が、親の仇のようにギンを見据えていた。冒険者として他人の悪意に人一倍敏感なギンは、その憎悪の矛先が自分に向けられていることを正確に理解していた。理由は判らないが、今は都合がいい。敵の憎悪の矛先がこっちに向けられている間は、後ろの二人に向くことはないだろう。だがここで撤退しようものなら、マクベスは容赦なくアカツキとユキを殺すだろう。

 「ギン! いきますよ!」

 須臾の間。固く繋ぎ合わされた掌を介して膨大な魔力がギンの中に流れ込んでくる。

 ギンはその全てを『全注入』で更に膨大な魔力へと変換していき、二人を中心に渦巻く魔力が暗く染まった深層の空を明るく、金と銀の二色に染め上げた。

 「貴様さえいなければ、あの方の寵愛は全て私一人だけのものだったはずなのに‼」

 鎌首をもたげ突進の構えを取るマクベスが、怨嗟の叫びをあげた。

 全身から青紫色の魔力が可視化できるほどに吹きあがる。そのあまりの豹変ぶりにギンは軽く目を瞠った。記憶にある仮面の青年本来の魔力とは、量と質があまりにも乖離している。短時間で、これだけの強化―――無理を重ねればその後に待つのは破滅しかない。

 そしてギンは、そんなマクベスの姿が、かつての自分自身と重なって見えた。

 誰の事も信じられず、傷つくことを恐れ、いたずらに遠ざけていた頃の自分。それが強さなのだと信じて疑わなかった。でもそれが強さの全てではないと、レイに気付かされた。

 マクベスが今、何に絶望し、あのような姿に成り果ててしまったのかは解らない。自分も一歩道を誤っていれば、同じようになっていたかもしれない。そう思うにつれマクベスへの既視感が募り。同時に一刻も早くその苦みから解放してやることが自分達に出来る唯一の救いであると、そう思った。

 「やるぞ、レイ!」鋭く叫び、ギンが千怒を高く掲げた。

 その思いにレイが力強く頷く。二人の全身を包み込む魔力が無数のリボン状に分かたれ、千怒を包み込むように収斂していく。更にそこへギンの『全注入』により膨れ上がった白銀の魔力が加わり、金と銀、二色のリボンが螺旋を描きながら融合していき一本の槍となった。

 「――――じゃあな」

 二○○年前から続く因縁。その全てに決着をつけるため―――ギンは金と銀、二色の輝きに彩られた槍を突き放った。それは彗星のように暗い空を真っすぐに飛翔し真正面からマクベスを呑み込んだ。槍はそのまま深層の空を埋め尽くす闇の中へと消え、やがて遥か彼方で弾けた。

超新星爆発さながら、無数の光が飛び散り空を優しい光で埋めつくす。

 魔力を使い果たし心身ともに疲弊しきったことで、二人は力無く崩れ落ちた。

 「‥‥‥終わったんだな」

 「ええ、ようやく‥‥‥」

 力のない返事だった。怪訝に思い、視線を向けると、眠るように瞼を閉じるレイの向こう側が透けて見えた。その半身は透明だった。何が起きているのか理解できず呆然と、その光景を見つめていると。

 「‥‥‥すみません、私の冒険はここでお終いです」

 「―――――何だよそれ」

 理由なら解っている。先程のギンを庇って胸を貫かれたからだ。いや‥‥‥、それ以前にレイの肉体は既に限界だった。ここまで続いた長く険しい戦い。パンドラによる精神汚染。そして権能が、器に罅を入れた。ここまで正気を保ち、共に戦い抜いたことが奇跡だったのだ。

 「一時的にパンドラの意識を抑えられてはいますが、いつまた自我を失ってもおかしくない状況なんです。だから、私はここに残ります。一緒に帰ることはできません」

 「そんなこと‥‥‥ッ!」

 その続きは声にならなかった。

 実際に、パンドラと相対したギンが誰よりも彼女の危険性を理解していた。

 レイの考えも理解できる。

 だが――――、それでも納得はできなかった。

 真紅の瞳から澎湃と涙が溢れた。

 涙なんって、弱さの象徴だと思っていた。

 だけどそうじゃない。人間だから、生きているから涙は流れるのだ。

 そんな当たり前のことに、レイが気付かせてくれた。

 「泣かないでください。別にこれが永遠の別れというわけではありませんよ?」

 「え?」

 「忘れたんですか? この匣舟は現実世界よりずっと遅い時間が流れているんです。だから、私がパンドラを抑えている間に、ギンが今よりもっと強く、それこそ彼女以上に強くなれば何の問題もないじゃないですか」

 最後に悪童の笑みを浮かべるレイに、しばし返す言葉を失う。

 「本気で言ってんのか?」

 「ええ、本気です」迷いなくレイが頷いてみせる。

 権能の力を手にしたパンドラはまさしく神と同等の力を有する現人神だ。そのパンドラを、ギンならば凌げるとレイは確信している。其処に不安や疑念を挟む余地なく、出来ると信じている。

 「ったく、何を急にアホなこと言いだしてんだよ」

 「アホって、ひどくないですか」

 拗ねたように頬を膨らませるその姿に、思わず笑みが零れる。

 「ああ、解ったよ。約束だ。いつか必ずお前を迎えにいく」

 「はい。待っています。何百年でも、何千年でも」

 「馬鹿、そんなに待たせるかよ」

 「フフッ、勿論そんなに待つつもりはありません。もっとギンと一緒にいたいですから。色々な国や、匣へ冒険に行って、その度にギンが無茶をして、それに私が巻き込まれて‥‥‥。もっとギンの事を知りたい。アナタに私のことを知ってほしい‥‥‥だから‥‥‥」

 そう呟くレイの声は震え、後半はほとんど何を言っているのか聞き取れなかった。

 それでも玲はきつく唇を噛み締め、努めて笑顔を浮かべてみせた。

 真っすぐにコチラを見詰めながら。

「―――大切なのは、どこで生きるかじゃない、どう生きるか。そうでしょ?」

 その言葉に胸が詰まった。必至に口端を噛み締め嗚咽を抑え込む。

 「ああ、そうだ。その通りだ」

 その答えにレイは嬉しそうに、満足そうに微笑む。

 やがて遠くから終わりを報せる鐘の音が鳴り響いた。

 「さようなら―――ギン」

 「ああ――――またな、レイ」

 パチン。軽やかにレイが指を鳴らす。途端、意識が白濁していき慣れ親しんだ浮遊感が全身を包み込んだ。レイの顏が、声が遠のいていく。腕を伸ばす。さっきまでそこにいたのに、指先には何の感触もなかった。

 やがて、意識が光に溶けていく。

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