追憶
其処は暗く、底は無かった。
無限に広がる虚空。自分が生きているのか、それとも死んでいるのかもわからない。
自我は無く、思考もない。ただ無限の闇の中を揺蕩っていた。
そうしていると、不意に一条の光が奔った。
気が付くと、其処には世界が拡がっていた。
黒以外の色があった。肌を撫でる空気があった。ヒンヤリと感じる床の冷たさがあった。
その瞬間から、私は世界の虜になった。
生きていることが嬉しくて、頬をひと筋の涙が伝った。指先で掬いそっと舌を這わせる。味は無かった。温かさと冷たさの境界線。その事にすら私は感動し、涙する。
ほどなくして白衣を纏った人たちが現れた。
「気分はどうかな? ‥‥‥あぁ、まだ言葉は解らないのか」
「――――ここは何処ですか? 私は――――誰?」
不思議と言葉は理解できた。相手の驚く気配がする。
「君こそ我々が求め続けた完成体。君以上の存在はこの世界の何処にも存在しない。君は世界で唯一の神の複製体なんだ」
「神? それが私の名前なの?」その言葉に、白衣の人たちは困ったように黙り込む。
「‥‥‥いいや、君は神ではない。最もそれに近い存在ではあるけれど、君の魂は、君固有の物だ。だから君の名前は‥‥‥そうだな、零(レイ)、うん。それが良い。君は零だ」
「零? ‥‥‥変な名前」
それからの日々はただひたすら同じことの繰り返しだった。
朝起きる。ご飯を食べる。研究員の指示に従い実験を手伝う。またご飯を食べる。寝る。そしてまたその繰り返し。無味乾燥な退屈な時の流れの中にあっても、私の心は幸福に満ちていた。ただ生きていることが幸せだった。その過程で私は様々な知識を蓄えた。
「君は初代女王陛下の細胞から培養、複製されたクローン体だよ」
「私の他にも私がいるのですか?」素朴な疑問に、研究員たちは鷹揚に頷き。
「勿論さ。でも君以外の個体はどれも失敗してしまった。君だけが唯一成功した個体なんだ」
「‥‥‥会ってみたいです。私の基であるお母さまに私は会いたい」
研究員たちは初めこそ難色を示していたが、やがて責任者らしき男の鶴の一声で、面会の許可は下りた。私は何人もの研究員に連れられ母の元へ案内されることになった。
その途中、ぞろぞろと研究員とは装いから異なる数十人ちかい子供たちとすれ違った。
「‥‥‥あの子たちは?」
「ん? ああ、彼らはこれから『聖別』を受けるのさ」
「聖別?」聞き覚えのない言葉だった。
「簡単に言うと、聖母の血を取り込み、それに上手く適合する子供を探すんだ。まぁ十中八九は聖血の負荷に耐えきれずに死んでしまうが、死んだところで誰も悲しむ者のいない孤児ばかりを集めているから問題はないよ」
そう説明を口にする男は、眉一つ動かさず世間話でもするような軽い雰囲気で語っていた。
ゾワリ、背筋に馴染みのない奇妙な感覚が奔った。
「どうかしたかい?」
「いえ‥‥‥、何でもありません。それで博士。何故、そのような生産性の低い実験を繰り返すのですか?」
「ふふ、決まってるじゃないか。この国を守るためだよ」そう言ってから、博士は満足気に一旦言葉を切り、「零。君もいずれは知ることになるが、この国は腐っている。女王崩御以降、近隣諸外国に対する抑止力を失い、長きにわたる平穏がこの国を堕落させた。抱える『匣』の数でこそ未だ大陸最多の保有量を誇ってはいるが、その大半が国防のためでなく、王国貴族連中の保身のために使われている。このままではそう遠くない未来、この国は外側からの侵略ではなく、内側から腐り滅び去るだろう。だからこそ我々は求めている」
博士はニコリと、偽物の笑みを顔に張りつけ白く骨ばった手で私の髪を梳くように撫でる。
「この国を導く新たな存在をね。―――そして君が生まれた。建国の母であり、現人神となった初代女王パンドラの魂を鋳型に産み落とされた奇跡の生命体。かつて神は人を自らに似せて創られたという。それならば、今度は我々人間が、人を神に似せて創り出す番だ」
長々と語る博士の瞳がカッと見開かれ、此処ではない何処かを見つめている様だった。
「すいません、博士。至急ご報告があります」
不意に背後から、ひどく慌てた様子の研究員数名が駆け寄ってきた。
「どうかしたのかね? そんなに慌てて」
「そ、それが、例の少年が‥‥‥聖別を生き残りました」
「何? これで何度目だ?」
「三度目です」そう口にする研究員の声は歓喜に彩られていた。
足を止めた博士は、しばらく考え込むと、「解った。一度会おう」と口にした。
「すまない急用ができた。聖母との面談はまた後日にしよう」
博士はそれだけ告げると、他の研究員に私の身柄を預け、駆け寄ってきた研究員たち数名ともと来た道を引き返していく。その姿が見えなくなるのを確認すると。
「部屋には一人で戻れますから。付き添いはここまでで構いません」慇懃に、平静を装いつつ、私は付き添い役の研究員たちへ微笑みかける。
しかし研究員は無表情に頭を振り、早く部屋へ戻るようにと促された。
仕方ない、と――――私は密かに魔力を使った。
様々な実験を繰り返していくうちに、自分の中で何かが覚醒していくのが解った。
それが魔力、という知的生命体が持つ潜在能力の一種だと知ったのはつい最近のことだが、私はそれがどういう力なのか、誰からの説明を受けずに直感的に理解していた。
パンッ。という炸裂音が通路を照らしていた照明から鳴った。
それにより生まれる暗闇。突然の出来事に研究員たちが混乱する中、私はその間を縫うように走った。そのまま一度も壁にぶつかることもなく通路の最奥にある部屋へとたどり着いた。
其処は壁も床も、天上すらも白一色で統一されていた。
部屋の中央に設けられた玉座に、母は座っていた。
「嗚呼、貴方が私のお母さま」
初めて眼にする母は、私がこれまで見てきた人間に近い形をしてはいたが、人間らしい反応がない人形のような人だった。虚空の一点を瞬き一つせず凝視する瞳には、何の感情も宿っていない。口元は幾重にも縫われ言葉どころか、どうやって呼吸しているのかさえ解らなかった。
まさに異形。それでも私は喜々として母へ歩み寄り、白磁のような肌にそっと自身の手を重ねた。
母の体は氷のように冷たかった。
いっそ人形だと云われた方が信じられるほどに。
だけど私は、その冷たさの中に宿る温もりに涙した。
母は生きている、そう実感することができた。
その時だった。
私の中に『声』が流れ込んできたのは。
一瞬それが何処から発せられた声なのか分からず、怪訝気に辺りを見渡す。しかしそこにいるのは私と母だけだ。でも誰も声を発してはいない。ではどこから?
『―――ない――さない――赦さない――絶対に―――赦すものか―――‥‥‥ッ‼』
深く、暗い、底の無い憎悪に満ちたその声が母のものだと理解するのにたっぷりと数秒を要した。恐怖のあまり手を放せなかった。まるで全身が氷像と化したかのように身じろぎ一つ出来なくなる。そうしている間にも頭の中に流れ込んでくる声はより一層、明瞭さを増していき。
そして―――慟哭する私は、駆け寄ってきた数人の研究員たちにより母から引き離されていた。声は止んだ。頭の中に直接流れ込んできていた黒い激情も。何もかもが。
「やはり、原初体(オリジネーター)との接触は早すぎたようだ!」
「急げ! 高濃度の精神汚染を受けている!」
慌ただしく響く研究員たちの声を遠くで訊きながら、私の意識は暗転した。
あの日以来、高濃度の精神干渉により魂を汚染された私は外部との一切の接触を断たれ、独り部屋に隔離されていた。毎日決まった時間に行われる実験と食事を繰り返すだけの単調で無味乾燥な日々。そこに人間らしい暮らしはない。だが何より私の心を苦しめたのは、あの日聴いた声が、聞こえなくなった今も頭の奥にこびりついて離れないことだ。
あの瞬間、私は初代女王と精神―――魂が繋がったことで本来なら知りえない情報を得た。そこで見た記憶は、言葉では言い表せぬほどに凄絶なものだった。
権能の力で国を興し、争いの絶えなかった大陸に平和と秩序を取り戻した初代女王パンドラは、救済したはずの人々によって弑逆された。
元は小さな村や街、強大な武力をもつ侵略者に抗う術を持たない弱者を守るためにアーカディア王国は建国された。だが、平和を手にした人々が次に畏れたのは、権能を持つパンドラだった。度重なる内乱により国は荒れ、政治は混迷を極めた。それでもパンドラは王として振る舞い、誰よりも清廉潔白に正しくあろうとした。
その事が余計に、人々を恐怖させた。
それまで支えていた家臣たちでさえ、パンドラを畏れ、遠ざけるようになった。
そして事件は起きた。
パンドラを邪神とみなす宗教組織による大規模な反乱がおこったのだ。
当然、王国はこの鎮圧にあたり反抗勢力は十日と持たずに鎮圧された。そして捕まった宗教組織幹部、信者、及びその家族を含む関係者に至るまでその悉くが処刑された。後の治世を思えば当然の沙汰である。だが民衆はそうは思わなかった。逆らう者は赦さぬという強固な姿勢が、他の宗教組織の蜂起を起こす切っ掛けとなり、その責をすべて王であるパンドラ一人に負わせたのだ。そしてパンドラは第一級の戦争犯罪人として処刑された。
そして、其処から地獄は始まった。
諸外国に対するパンドラという絶対的な君主を失った王国は、秘密裏にある実験を開始していた。それが人工的な神の創造。権能による恩恵で、肉体的にも、精神的にも人間という枠から外れたパンドラの血肉を生身の人間に食べさせることで人為的な強化人間を生み出そうというものだ。
その結果、多くの被験者が死に、生き残った僅かな者たちは執行者となり国を陰から支えた。
度重なる実験で、十歳未満の子供のほうが負荷への耐久性が高いことが判明した。
加えて、特定の思想を持たない子供たちの洗脳、教育は容易く。身寄りのない孤児や土地を追われた異民族が実験体として選ばれたのも半ば必然のことであった。
パンドラの恨みはすさまじかった。
恩恵により死ぬことも、眠ることもなく永遠と身体を切り裂かれ、血を抜かれ、生き地獄を味わい続けたのだ。誰よりも一途に国を、そこに住まう人々の安寧と幸福を願っていたにも関わらず、その守るべき人々から裏切られ、モルモットとして解剖され続けたことでパンドラの心は死んだ。後に残ったのは王国への深い怨嗟のみ。
故にパンドラの血肉を喰らった者は全て、強力な肉体、魔力を手に入れるかわりに魂を汚染される。そしてパンドラに触れたことで複製体である零の魂は、パンドラと同期した。
それにより本人の意思に関係なく、魔力領域に踏み込んだ者の魂は汚染され、そのほとんどが精神を病み、やがては廃人と化す。
パンドラの複製体であるが故に、老いず、病まず、死ぬことのない零はいつしか『触れてはならぬ者』として扱われるようになった。
「よう、ずいぶん辛気臭い顔してるな」
そう言って現れたのは、雪のように白い髪をした小柄な少年だった。
「‥‥‥あなた、誰?」
あまりにも久しぶりに口を開いたせいで、真面に発声できるかという不安は杞憂に終わった。
「お前こそ誰だよ? 俺は大人たちからここに行けって言われたから来ただけだ」
私のことを知らないのか、少年は緊張感の欠片も感じられない厚顔不遜な物言いで応じてみせた。その態度にしばし唖然とさせられたが、直にもちまえの聡明さを取り戻すと、慌てて立ち上がりこれ以上接近しないように忠告する。
「だ、駄目! それ以上近づいたら‥‥‥」
「あ? お前何言って‥‥‥」不意に少年の動きが止まった。
魔力領域に踏み込んだことで精神を汚染されているのだ、と気付いた時には手遅れだった。
「‥‥‥また、‥‥‥私は‥‥‥」
危害を加える意図はなかったにせよ、相手を傷つけたという自責の念が零の心を苛んでいた。
しかし。
「あー‥‥‥、なるほどな。だから大人たちは俺を此処へ寄こしたのか」
ゆっくりと頭を上げた少年は、口元に不敵な笑みを浮かべてみせた。
「アナタ、平気なの?」
魂を汚染されながらも平然としている少年に、零は驚愕に双眸を見開いていた。
「余裕だ、このくらい」そう嘯く少年から嘘をついている気配は感じられない。
唖然と固まる零の姿に、少年は小さく嘆息し。
「それで? 俺はお前と何をすればいいんだ?」
「え?」そもそも少年がやってくることすら知らなかったのだ。真面な返答ができるはずもなく、もごもごと何の意味もなさない言葉を口籠ることしか出来なかった。
「‥‥‥ああ、もう解った。無理して喋らなくていいよ」冷ややかな声が返る。
零はひさしぶりに真面な会話を出来る相手がいなくなってしまうことに形容しがたい恐怖を覚え、無意識に少年に向けて手を伸ばしたまま固まってしまう。
少年から怪訝に見つめられても、喉の奥に異物がつまったように言葉は出てこなかった。
そんな零に、少年はやれやれと嘆息を零すと、そのままズカズカと歩み寄ってくる。
いなくならないでと願っていた相手の突然の接近に、零はおろおろと慌てる事しか出来ない。
すると少年はそのまま、零から二メートルほど離れた床面に腰を下ろした。
「お前も座れよ。喋りにくいだろ?」
「え?」
「何だ? お前、誰かと喋りたかったんじゃないのか?」
「‥‥‥いいの?」
「喋るの嫌いじゃないし。それに仕事よりお前と喋ってたほうが楽でいい」
少年にとって零との会話は暇つぶし程度でしかなかった。だが、魔力領域に触れた者の魂を無差別に汚染してしまう所為で、ここ数年誰かと真面な会話ができなかった零にとって誰かと話すということは、世界と繋がりを持てる唯一の術であり、何よりも求めていたものだった。
「まずはお互い自己紹介、って言いたいところだけど。生憎と名前がないんだ。仲間からは隊長だとか、シロって呼ばれてる。だからお前も好きに呼んでくれ」
「‥‥‥じゃあ、銀(ぎん)。そう呼んでいいかな?」
「銀‥‥‥か。まぁいいんじゃないか。それで? お前は何か名前とかあんの?」
「大人たちはみんな、零(レイ)って呼ぶ」
「ふぅん、零ね。じゃあ零、何話す? 別に何も話さなくても構わないんだけどさ」
意地悪でもなく、本心からどうでもいいという風に少年―――銀が呟く。
「えっと‥‥‥じゃあ、普段銀は何してるの?」
「まあ、大抵は仕事だな」
「仕事?」
「執行者だよ。聞いたことないか?」
「知ってる。だけど‥‥‥何してるのか知らない。私、外に出たことないから」
実際にはパンドラから流れ込んできた記憶で知識としては外界や執行者についての知識はある。だが零自らの実体験として外界は、未知の世界でしかなかった。
「へー、じゃあずっとここにいるのか?」驚き七割、呆れ三割といった塩梅に唸り。
「暇そうだな」
「暇?」
「生まれた時からこんな何もない部屋に閉じ込められてたら、俺だったら自殺してるね。うん、間違いなく」
「‥‥‥そうだね。出来たら、そうしたいかも」
死にたい。何度もそう願った。でもそれは外界に出てみたいという願いよりも、さらに尚困難であることを零は理解していた。現に過去に何度か自殺を試みたことがある。だがその度に、驚異的な生命力、回復力により失敗に終わった。
それら過去の昏い記憶が蘇り、自然と態度と声色が陰気な気配を帯びはじめる。
それにより生まれる気まずい空気に、銀は困ったように頭を掻きながら明後日の方を眺めている。空気を払拭すべく零は意識的に明るく振舞い、質問の方向性を変えてみた。
「銀は此処へくる前はどこで暮らしていたの? 家族や友達はいた?」
「まだ小さかったしよく覚えてない。此処に一緒に来た奴はみんな『聖別』で死んだから、友達もいないな。あ、でも今の仲間‥‥‥っていうか部下なんだけど、アイツ等の事は好きだぜ。家族って感じがしてさ。そうそう、その中に暁って奴がいてな。そいつが初めて会ったとき魔獣に殺されかけて泣いてたんだ。それをこの前言ったらさ――――」
その後も銀は自身の体験を冗談を交えながら饒舌に語ってくれた。
「いいなぁ‥‥‥」
「じゃあ一緒に行くか?」
「え?」
「いや‥‥‥、だって、零がずっとここに隔離されてるのは、誰も零に近づけないからなんだろ? だったら問題ないじゃないか。俺が一緒につれて行ってやるよ」
「本当に?」
「ああ、約束だ。‥‥‥まぁ、大人たちは絶対ダメだって言うだろうけど、そん時は一緒に暴れてやろうぜ。俺も手伝うんだ。そうしたら必ず許可おりるよ」くっくっ、と良い悪戯を思いついたと云わんばかりの笑みで、銀はそう語った。
そして。
徐に、右手が差し伸ばされる。
「これは?」相手の意図を図りかね思わず訊ねた。
「指切りって言うらしい。仲間の中に東国の生まれの奴がいてさ、ソイツからこの前教えてもらったんだけど。約束のおまじないらしい。二人で誓いを立てて破ったほうは針を千本呑み込まなきゃいけないらしいんだ」
「それは‥‥‥すごく痛そうだね」
「だろ? だから絶対に約束は守る。約束だ!」
「‥‥‥じゃあ、私も」
おずおずと指し伸ばされた銀の小指に、零も鉤状に折り曲げた右の小指を絡める。
◇
「彼を殺しなさい」
あの日以来、一度も姿を見せなかった博士が、開口一番に言い放ったひと言に零はしばらく言葉を失い、呆然と立ち尽くした。すると博士は口元に作り物のような笑みが浮かべ。
「大丈夫。何も心配することはないよ。元々、彼を含め執行者の子供たちは始末しなくてはならなかったからね。それが数年先か、少し早まったかの違いだよ。だから君が気に病む必要はないんだ」だから大丈夫だよ、と博士はそう付け加えた。
「で、ですが‥‥‥」ようやく口にした声は、動揺でか細く震えていた。それでも徐々に冷静さを取り戻すと、おずおずと質問する。
「どうして? 彼を‥‥‥銀を殺す必要なんって、なにも‥‥‥」
「必要ならあるさ。何せ彼は唯一、我々にですら制御できない異端分子(イレギュラー)だからね」
「異端分子?」
「子供たち―――、『パンドラの子供達』は、取り込んだ血肉を介してパンドラと繋がる。そうなることで『個』ではなく『群』の生命体へと生まれ変わるんだ」
怪訝な表情のレイに、博士はやれやれと出来の悪い生徒を前にした教師のように嘆息を零す。
「子供たちは手足に過ぎない。脳から出力された命令を忠実にこなす器官の一つだ。そして君はその内の脳にあたる。不思議に思ったことはないかい? どうして君だけがパンドラとの接触で精神を汚染され、それ以来、魔力領域に触れるもの全ての精神を汚染してしまうのか。その答えは単純明快。君はパンドラから『群』の統率者としての権利を――――要約すると権能の一部を引き継いだからに他ならないんだ」
「‥‥‥じゃあ、私を隔離していたのは」
「然り。君の肉体がパンドラの権能に馴染むのを待っていた。本当は魔力覚醒後に接触を促し、権能を覚醒させたかったのだけどね。まぁ順番こそ前後してしまったが我々の悲願はもうじき達成される。その最後の仕上げに彼を―――識別名『白銀』を君自ら処理してもらう」
「どうして銀だけ殺すの? 他の子たちは殺さないのに⁉」
悲鳴にも似た叫びが殺風景な部屋に反響する。だが博士は眉一つ動かさずに笑って答えた。
「言っただろう? 彼が異端分子だからだと。パンドラと同期した君なら、過去に何が起きていたのかは既に知っているだろう? だから概要は省くが、ここでの研究が開始されて既に一五〇年ちかい歳月が流れている。その中で多くの身寄りのない子供たちが聖別を受け、そのほとんどが強すぎる負荷に耐えきれずに死んでしまった。そんな中で『白銀(彼だけ)』は、そんな危険しかないような試練を三回も受け、耐え抜いている。これは君とはまた違って意味で異常なことだ。長らく子供達の統率を任せてきたが、君ひとりいれば十分だからね。彼はもう必要ないのさ。加えて女王の精神汚染にすら容易に耐えてみせた。つまり君からの命令すらも跳ね除けられるということだ。だから殺す。もう必要ないんだ」
声色こそ苦り切っていたが、そこには悔恨も慚愧の念も感じられない。まるで長年愛用し続けた陶器を新しい物と買い替えるから仕方なく捨ててしまう、という無念さだけがあった。
「本当に彼を殺すのですね? 必要なくなったから、邪魔になるから」
「ああ、残念だがね。こればかりは仕方がないよ。私も心が苦しい」わざとらしく胸を抑えるような演技まで付け加えていたが、レイにはそれが嘘であることが手に取るように分かった。もはやこれ以上の問答は意味をなさない。ならば取るべき選択肢は一つしかない。
「‥‥‥ならば、私が死にます」
「ん? どういう意味かな?」ここで初めて博士から、無関心以外の感情が返ってきたのをレイは見逃さなかった。ふわりと不敵に、だが意志の強さを感じさせる笑みで告げる。
「私の存在が彼を殺す理由になるなら、私が死ねば彼を殺す理由はなくなるはずです」
「止めた方がいい。残念だが、パンドラの現身である君に死ぬ術はない。その事は君自身が一番分かっているはずだよ?」
しかしレイは余裕の笑みを崩さぬまま、小さく頭を振った。
「いいえ、博士。私には出来なくても、それ以外の方法があるはずです」
それを聞いた博士が初めて驚愕に眼鏡の奥の双眸を驚愕に見開いた。
「まさか子供達に自分を殺すように命じるつもりか⁉ そんな事、出来る訳が‥‥‥」
「いいえ、出来ます。それは先程博士自身が言っていたじゃないですか。私は子供たちにとっての『脳』だと。ならば脳を殺すように手足を動かすことも可能のはず。生憎と、それを実現するだけの力ならありますから」
実際には出来ない。だがギンを守るために一世一代の虚言をついてみせる。
「先に言っておきますが、これは取引じゃありません。私は命令しています。彼を殺すな、と」凜然と、訊いた者の魂を揺さぶるほどの威厳が籠った声。
長い沈黙は、博士の突然の笑い声で終わりを迎えた。
「何が、可笑しいのですか?」
「すまない。素直に関心したのだよ。なるほど確かに君の云う通り、脳には及ばずとも聖血を取り込んだ子供達ならば君を殺すことも不可能ではない。だけどね、その対策を我々が講じなかったと、君は本気でそう思っているのかい?」
「―――ッ! 強がりは止めて下さい! そんなものある訳が‥‥‥」
「強がりを止めるのは君の方じゃないかね? 君が子供達を操れないことは知っている。もしそんなことが出来るのなら、君はとうの昔に此処から抜け出しているはずだろう?」
言葉に窮するレイに対し、博士は冷厳と教え子の問題点をあげつらった。
「君の命令だが却下する。理由は二つ。まず一つ目に、君の記憶や自我は我々が後付けで与えたものに過ぎないからだ」
「‥‥‥どういう意味?」
「考えれば当然のことだったのだがね。幾ら複製体を創ったところで、そこには器があるだけで器を動かす魂が介在しなければ意味がない。そこで我々は人の自我を植え付けるために、特定の魔力保持者の配合を繰り返すことで、その問題を解決するに至った。それが記憶操作の魔力所持者」自慢げにそう語った博士が、徐に振り返り、「入りたまえ」と入室を促す。直後、扉が開き一人の少年が姿を現した。歳は十歳前後か、幼い顔立ちながら作り物のように整った顔立ちをしている。
「この子が、記憶操作の魔力所持者にして君の、本当の生みの親だよ」
一瞬息が詰まった。博士が語る内容と、目の前の現実が上手く嚙み合わず呆然となる。
しかしそれも博士が語った次の言葉で、強制的に意識を現実へと引き戻された。
「そして二つ目だが‥‥‥、まぁ、非情に言い難いのだがね。白銀には既に抹殺指令が下っている。もう三日も前のことだ。経過報告は確認していないが、現役執行者五〇名余りに、襲われては如何に白銀と云えども助かりはしないだろうね」クツクツと嗜虐的な笑みを零す。
刹那。頭の中に、あの声が流れ込んできた。
『――――赦すな――――この男を――――この世界を―――赦すな――――』
加速度的に膨れ上がる憎悪に、理性が呑み込まれていくのが解る。
――――あぁ‥‥‥、もうどうでもいい。結局、自由になることなんて出来ないんだ‥‥‥。
そんなものを望むことさえ許されない‥‥‥。だったらもう、受け入れてしまった方が楽だ。
このまま、聞こえてくる声に従い、目の前にいる男を殺してしまえばきっと気持ちいい。
そうだ。そうしよう。それがいい。‥‥‥それで終わりにしよう‥‥‥。
視界の片隅で、美麗なる金髪の乙女が妖しく微笑んでいた。
そのまま何も語らず、手が差し伸べられた。無意識に体が動く。何もない虚空に手を伸ばす、という奇怪な言動に博士や傍らの少年から怪訝な眼差しが注がれるが、それすらレイの意識には届かなかった。
『さぁ、おいで。僕が導いてあげよう』
魂に直接語り掛けられるような、甘く、妖艶な声色。
終わりを求めて、差し伸べられた手を掴む――――寸前。
突如、部屋中にけたたましい警報音が鳴り響いた。
それを見計らったかのようなタイミングで入り口が横へ滑った。
「よぉ、博士。探したぜ」
開いた扉の先に紅く濡れた少年が佇んでいた。それが銀だと認識するのにたっぷりと数秒を要した。直に誰か解らないほどに、銀は汚れていた。雪のように白かった髪は血で紅く染まり、元々の髪色を探すのが困難な程であった。
銀が一歩、また一歩と、部屋に足を踏み入れる度に髪先から滴り落ちた血が、白い板張りの床面を紅く濡らしていく。そして目を凝らしてみると銀の体の至る場所に致命傷と見紛うほどの傷痕が奔っていた。もはや満身創痍。出血多量でいつ倒れてもおかしくない状態でありながら、ゆっくりと部屋の中央へ近づいてくる。
「‥‥‥何故、君がここにいる⁉」
「おかしなことを訊くな? 俺に用があるみたいだったから、わざわざ来てやったんだぜ?」
そう呟く銀は、能面のような顔に憎悪ではなく黒い意志を浮かべて、敵を見据えている。
「待ってくれ。落ち着いて話をしようじゃないか」顔を引き攣らせながら、博士はどうにかそれだけを口にする。そんな博士の姿に、ピタリと銀の歩みが止まった。
「話し? 一体何を? アンタがアイツ等に命令して俺を殺させようとしたことか?」
「‥‥‥ッ! そ、それには色々と訳があってだね」
「確かに理由って大事だよな。理由さえあればどんなにヒデェことでも出来ちまう。殺されかければ、殺していい理由が見つかれば、仲間だって殺せちまう。なぁ、博士、教えてくれよ? どうしてアイツ等は死ななくちゃならなかったんだ? 何で俺は、アイツらを殺さないといけなかった?」
「ち、違う…‥、私は‥‥‥」
博士が言葉の続きを語るより先に、博士の左腕が宙を舞った。傷口から勢いよく噴き出す鮮血が白かった床を更に紅く染めていく。遅れて痛みを理解した博士の口から泡沫交じりの悲鳴が迸った。傷口を残るもう一方の手で押さえながら懸命に止血を試みているが、今のところ何の成果も挙げられていないことは明らかだった。
蹲る博士を、底冷えするような眼差しで睥睨する銀が、更に問い掛けを重ねる。
「ちゃんと質問に答えろよ。もう一度訊く、アイツ等は何で死ななくちゃならなかった?」
「‥‥‥わ、悪かった。だからもう‥‥‥」
今度は右耳が飛んだ。獣の如く泣き叫ぶ博士。銀は血に濡れた刃を博士の喉元に突きつけ。
「ちゃんと答えろ。―――質問、俺は何でアイツらを殺さなくちゃならなかった?」
「ふ、うぅ、む、ああ‥‥‥、ゆ、赦して‥‥‥」
「許して? ‥‥‥そうだな。それならまず、あの世でアイツらに詫びてこい」
「そんな、待っ――――」その声が最期まで続くことはなかった。
首を失くした博士は、糸の切れた人形のように前のめりに倒れ。それきり動かなくなった。
次いで、銀がその場に崩れ落ちる。慌てて駆け寄り銀の体を抱きかかえた。
「悪いな、約束守れそうにねぇや」今にも掻き消えてしまいそうなか細い声だった。
「そんなこと言わないで! 直に治療を‥‥‥、誰か! 誰か来て!」
悲痛な叫び声に対し、いらえはなかった。
「無駄だ。此処に来るまでに、他の研究者たちはみんな殺してきた。他の執行者も、多分、ほとんど生きてない。‥‥‥皆、俺が殺しちまった‥‥‥」
悲愴な顔で呟く銀の瞳から澎湃と涙が溢れた。
「‥‥‥レイ、友達との約束一つ守れない俺が、こんなこと頼めた義理でもないのは解ってる‥‥‥。だけど、頼む。俺を‥‥‥殺してくれないか‥‥‥?」
「え?」
「辛いんだ。もう、生きているのが‥‥‥。だから、頼むよ」
その願いに対する答えを、零は持ち合わせていなかった。
そうしている間にも、傷口からは止めどなく血が零れていた。最早、零が手を下さずとも銀の命が尽きる事は明らかだった。「頼む」その言葉を最後に、銀は眠るように瞼を閉じた。
重く、動かなくなった銀を抱きかかえたまま、零は悲嘆に暮れていた。
不思議と涙は流れなかった。いや、涙を流す資格すら自分にはないように思えた。
銀が仲間を手にかけた理由など一つしかない。
私だ。私を守るために、銀は仲間を―――家族を殺めた。
それに引き換え、自分はどうだ?
最早、死ぬことが唯一の救いだった銀の願いを私は拒絶した。
自らの手を汚したくないという、甘さが、大切な人を傷つけた。
その事を意識すればするほどに、胸の奥を鋭利な刃物で抉られているような鋭い痛みに襲われた。もうどうしたらいいか解らなかった。徐々に熱を失いつつある銀の体をきつく抱きしめる。縋るように。助けを求めるように。
「――――ッ⁉」
銀の胸に額を押し当てると、まだ微かに心臓の鼓動を感じられた。
驚愕、次いで歓喜。急いで治療すればまだ助けられる。
でもそれは銀が望まぬことだ。彼にとって生きる事は最早地獄でしかない。
救うべきか、このまま見殺しにするべきか、永遠にも思える時間を逡巡に費やした。
その時だった。
「王よ、ご命令を」
それまで傍観者を決め込んでいた、博士が連れてきた少年から徐に声を掛けられた。
「王?」
「如何にも。貴方こそが我らの王。貴方に仕え、死ぬことが俺の存在意義」
その瞬間、天啓にも似た閃きが零の脳裏を駆け巡った。
「‥‥‥いいでしょう。ならば私に従いなさい」
「仰せのままに」
チラリ、と腕の中で眠る少年を見つめる。
「アナタが背負った地獄は、私が引き継ぎます」
願いにはそれに相応しい対価を伴う。
そして、この日、この瞬間。運命は流転した。
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