第三層

 薄暗い洞窟のなかでギンの意識は覚醒した。

 何か夢を見ていたような気もするが、詳細なことは何も思い出せない。

 同じような夢を、前にも何度か見たことがあるような気がする。

 しばらく記憶の糸を辿ってみたものの何も思い出せなかった。

 ぼんやり天井を眺めていると、全身を包み込む柔らかな温もりに再度、意識が微睡みに吞まれかけた。すると天井から滴り落ちてきた水滴が額を打ち、その冷たさで曖昧だった意識が覚醒し、弾かれたように飛び起きた。

 すると正面に座す一匹の魔獣の姿が視界に飛び込んできた。

 白い毛並みをした一匹の狼。第一層『迷いの森』で遭遇した壬生狼という名の魔獣である。

 慌てて左腰に手を伸ばすも指先は虚しく空を切った。驚愕に視線を向けるものの愛刀である『千怒』が何処にも見当たらない。匣の中で得物を失う己の間抜けさを激しく呪った。

 と、そこである違和感を覚えた。腰より上に何も纏っていない。それどころか、此処までの闘いで負った傷口に包帯が巻かれている。

「ギン?」

 不意に背後から呼ばれ頭を巡らせる。

 肩と髪にうすく雪が積もり唖然と立ち尽くすレイの姿があった。

「よかった‥‥‥、本当に。もうこのまま眼を覚まさないんじゃないかって‥‥‥」

 ここまで耐えてきたものが一気に溢れ出したのか、レイはそのまま嗚咽を洩らし続けた。

 それは他者より自身の利益を第一とするギンにとっておよそ理解の及ばぬ感情である。

 地下街において、優しさは最も不要な感情の一つだ。弱みや隙をみせれば食い物にされる。

 そうならない為に強く、狡猾に、非道でなくてはならない。

 涙や奇麗事だけで生きていけるほど地下街は甘くない。

 弱者は踏みにじられ、踏みにじる者こそが正義とされる地下街の気風が、ギンの人格形成に深く影響を及ぼしていた。その為、ギンにとって他者から向けられる優しさも全て自分を騙す目的で擦り寄ってくる詐欺師にしか映らぬ程度にはギンは捻くれていた。

 それでも極稀に、無条件で信じられる優しさがあることも知っている。

 サクラから注がれる愛情であり、レイが流す涙がそうであった。

 その感情は何よりも尊く、守るためなら命も惜しくはない。

 それ故に困惑した。

 あれほどまでに忌避していた相手から向けられる優しさが、何よりも守りたかったはずの存在を霞ませていくように思えたからだ。仮にどちらか一方を選択する必要を迫られた時、はたしてどちらを救い、どちらを切り捨てることができるのか、解らなかった。

 「ギン、まだどこか痛みますか?」

 呆然と立ち尽くしていると、怪訝に思ったレイから不安気に訊ねられる。

 どうやらテオとの戦いで負った怪我を慮ってのことだろう。けれども、どういう訳かあれ程の激戦の後にも関わらず傷の痛みはなく、ここまでの攻略で蓄積していた疲労は霧散していた。

 「いや、大丈夫だ。何ともない。それどころか前より調子がいい」

 「そうですか。なら良かったです」ホッと胸を撫でおろすレイ。

 そして改めて、此処は何処なのか? テオとの戦いはどうなったのか? について訊ねる。

 レイは頷き、あれから何が起きたのかを話し始めた。

 まず初めに、テオとの戦いから五日が過ぎていた。

 その間、ギンは意識を失い眠り続けていたらしい。

 何より耳を疑ったのは、テオとの戦闘の終盤に起きた奇妙な現象についてだ。

 「恐らくはアレは空間を操る彼の魔力と、我々の魔力が衝突したことで発生した次元の歪みです。それに巻き込まれたことで本来、各階層を隔てている時空が繋がり、我々はここ第三層へ飛ばされたのだと推測します」

 「鍵も無く扉を通らずにか?」

 「本来なら有り得ないことです。各階層を繋ぐ扉を介さずに、その先の階層へ進むなど。下手をすれば時空の歪みに巻き込まれ、虚空を彷徨っていたかもしれません。我々が無事に第三層へ転送されたのは不幸中の幸い、まさに奇跡と言ってもいいでしょう」

 難しいことはよく解らなかったが、とにかく無事に第三層へと進むことが出来たことは理解できた。が、まだ気になることはある。

 「アイツも、此処に飛ばされたのか?」

 それが、黒衣の聖騎士(テオ) を指していることをレイは鋭く察すると、小さく頭を振った。

 「私たちの他には誰も‥‥‥」

 「そうか」そう呟くギンの声音には深い懊悩が込められていた。

 あれ程の剣士が不運により命を散らせることを望まぬ剣士としての想いと、『権能』を奪い合う競争相手が消えたことを喜ぶ冷徹な冒険者としての相反する感情が渦巻いていた。以前までならば間違いなく敵の脱落を喜んでいた。だがあの戦いを経た後では、素直に喜べない自分がいることにギンは少なからず困惑していた。

 それも全て、彼女(レイ)の影響を受けてのことだと朧気に理解しながらも、それを素直に認めることができずにいた。誤魔化すように焚火の側で気持ちよさそうに伏せる壬生狼を指差し。

 「コイツは何なんだ? どこから湧いてきた?」

 「ああ、この子が倒れていた私たちを此処まで運んでくれたんですよ」

 「魔獣に助けられたのか?」信じられぬと、背後の狼へ視線を向ける。

 すると、クスリとレイが喉を鳴らし。

 「ギン、何か気付きませんか?」

 「ん?」

 「私たちは、以前にもこの子と会ったことがありますよ」 

 そう言われ改めて狼の観察を続け、たっぷり数秒を要し。

 「コイツ、第一層の‥‥‥⁉」

 「正解です。どうやら第一層からここまで旅をしてきたようですね」

 「旅って、魔獣が?」怪訝に眉根を寄せるギンに、レイが首肯を示す。

 「魔獣が階層を越えて出現する現象はこれまでにも数多く確認されています。ですが魔獣は出現する階層に適した能力値で排出されますから、本来なら他の魔獣から淘汰されてしまうのですが、極稀に成長を遂げる魔獣もいるようです」

 確かに、ギンの記憶では第一層で『隠し扉』まで案内してくれた壬生狼は、せいぜい中型犬程度の大きさしかなかった。だが、二人が見つめる先で伏せるその体躯は小柄なギンの倍近かくもある。加えてただ座しているだけにも関わらず、放つ気配は鍵を守る番人にも引けを取らぬものがあった。それでも第一層で別れてまだ一ヵ月も経っていないにも関わらずこの成長ぶりでは、初見で気付くことが出来ないのも当然のように思えた。

 「魔獣の成長は、人間よりずっと早いですからね」

 「でも、だからってな‥‥‥」唖然と立ち尽くしていると、おずおずとレイが口を開いた。

 「あの‥‥‥、ギン‥‥‥その‥‥‥」しどろもどろに言い淀む姿を怪訝に思いながらも言葉を急かすような真似はせず、彼女が落ち着きを取り戻すのを待ち続ける。

 「ありがとう‥‥‥、ございました」

 顔を俯けたレイの頬は仄かに朱に染まっていた。

 「あの時、次元の歪みに巻き込まれた私を助けるために飛び込んできてくれたこと、すごく嬉しかったです」

 「あー、その事か‥‥‥」

 真剣に感謝の言葉を述べるレイとは裏腹に、ギンのリアクションは実に素っ気なかった。

 実際、あの時、考えるより先に体が動いていた。

これまで非常に徹してきたつもりだったのに、どうしてあの時、何も考えずに動けたのか? その理由は我がことながらよく解らない。だからこそ身に覚えのない感謝を示されたギンの態度は、恥じらう事も、救ったことを誇るでもない微妙な反応になってしまった。レイから怪訝な眼差しを向けられていることに気付き、誤魔化すように視線を明後日の方角へと逸らした。

 「‥‥‥俺のほうこそ、感謝してる」

 耳を澄ませていなければ聞き漏らしてしまいそうな小さな声だった。

が、第一線で活動する冒険者であるレイの常人離れした聴力は、その声を聞き逃さなかった。

 「‥‥‥ギン。今‥‥‥何と‥‥‥?」

 「だから、その‥‥‥」レイの要求に言い淀み、声を詰まらせたギンは「あー、やっぱり今の無しだ!」と誤魔化すように頭を掻きながらソッポを向く。

 意図していなかったとは言え、その露骨な態度がかえって言葉の信憑性を高める結果となってしまった。その姿にレイが思わずといった風に喉を鳴らした。

 「どういたしまして」

 花が綻ぶような笑みを浮かべる彼女を横目に、ギンもまた口元を薄く綻ばせていた。

 テオとの戦いで完膚なきまでに敗北したギンの心は一度完全に折れてしまった。それは弱肉強食こそを真理と謳う地下街で生まれ育ったギンにとって、敗北とは即ち『死』であり、存在の否定を意味する。それ故に闘志を失い、半ば自棄になっていた所を叱咤され、再度戦う意志を取り戻し、結果的に痛み分けにまで持ち込むことが出来た。 

 もしあの時諦めていれば、自分たちは今ここにはいなかっただろう。

 ふと脳裏に、第一層でレイから言われた言葉が蘇った。

 『アナタは弱い』と。その時は額面通りに受け取り、殺し合う寸前まで関係を悪化させたが、今はその言葉の意味が解るような気がした。

 独りで強いことが強さの証明になるわけじゃない。

 大切だったのは、自分以外を信じられる強さなのだ。

 その強さが、勇気が自分にはなかった。

 これまでの価値観に新しい風を呼び込んだレイに対してサクラ同様、強い尊敬の念を覚える。

 互いに見つめ合い、同時に相好を崩すと洞窟内に和やかな雰囲気が流れた。その様子を少し離れたところで壬生狼が不思議そうに首を傾げながら見つめていた。



 雪と氷の世界。それが第三層の全容である。

 空は青さを失わず、見渡す限り雪に覆われた純白の山脈が続いている。

 匣の放つ光と街の各所に設置された簡易照明の人工的な灯りだけが唯一の光源だった地下街では、まず拝むことの出来ない光景だった。

 無数の生物が支配していた第一層。明けぬ夜のもと墓標のように迷宮がひしめく第二層とは異なり、第三層では、生命が生きることを根本的に拒絶するような、苛烈ゆえに美しい銀世界が拡がっていた。

 「気を付けてください。第三層では一定時間毎に階層全体が強烈な吹雪に覆われます。生身の人間では数分と保たずに凍死します。ですので、この階層を移動する際には随所に設けられた安全地帯。先程のような洞窟を中継しながら進まなくてはなりません」

 「了解だ。要は、階層そのものが罠ってことだろ?」

 生徒の回答に満足するように、鷹揚に頷くレイが更に説明を続ける。

 「加えて吹雪がある時とそうでない時では出現する魔獣が異なりますから注意してください」

 「深層に続く扉が何処にあるのか目星はついているのか?」

 第一層~二層と異なり、特徴がないことが特徴の第三層では、鍵の発見は想像以上の困難が予想される。鍵を守護する番人を見つけ、討伐しなくてはならないとなれば苦労も一入だろう。

 そんなギンの不安を吹き飛ばすかのように、自慢気に微笑むレイが雪山の連なる稜線の先を真っすぐに指差す。その先を眼で追うと、遠くにうっすらと鋭く尖る尖塔らしきものが見えた。

 「あれは城か?」

 本物の城など見たことはないが、幼い子供達にサクラが話して聞かせていた童話や御伽話に必ずと言っていいほど登場するので、それを聞いている内にギンもその特徴を知識としては知っていた。それ故、城に対するイメージが不鮮明で、城と口に出してはみたもののアレが本当に城なのか確信が持てない。その答え合わせにレイの反応を伺う。コクリと首肯が返って来たので思わず安堵の息が零れる。

 「それにしても遠いな」

 遠目からでは正確な距離が測れない。此処からだと半月、最悪一ヵ月はかかりそうな距離に思えた。魔獣と吹雪を回避しながらの移動を考えると更にもう少し時間を必要とするかもしれない。その事がより一層気分を暗くさせる。 

 その様子を見たレイが心配無用とばかりに微笑み。すぐ後ろに佇む巨狼へと踵を巡らせる。

 「この子があそこまで運んでくれます」

 名前がないと不便なので『ユキ』と命名された壬生狼は、軽装甲を身に纏っているとはいえ小柄なギンとレイの二人を背負い、走れるほどの体躯がある。それでも魔獣の背に跨り、雪山を横断するなど、冒険者の常識から考えると些か常軌を逸していた。 

 何より、操られていたとはいえユキの家族を殺めた張本人であるギンを背負ってくれるのか疑問ではある。だが、静かにコチラを見据えるユキの瞳からは一切の敵意が感じられない。

 ゆっくりとユキの方へ歩み寄り、鼻先に手が触れる距離で立ち止まった。

 「俺たちに力を貸してくれるのか?」

 ギンの問い掛けに、ユキは静かに瞼を閉じてみせた。それを了承と受け取り、ギンは新たに加わった仲間を歓迎するかのように不敵に微笑んでみせる。


 二人を乗せた壬生狼(ユキ)は、山道を凄まじい速さでほぼ一直線に疾走した。

 途中、何度か魔獣に襲われることもあったがその都度、背上から放たれる正確無比なレイの射撃によりその悉くを寄せ付けなかった。

 肩越しに振り向けば、どうだ見たか、と云わんばかりに不敵な笑みを浮かべるレイの姿があった。その姿を頼もしく思いながらも、彼女を侮っていたこれまでの自分の愚かしさに、思わず自虐気味な笑みが漏れる。

 その後も、魔獣の襲撃、強烈な吹雪に襲われながらも二人と一匹は、最低でも半月近くかかったはずの道のりをわずか三日で走破してしまった。前方に巨大な城が見えた。

 「これは‥‥‥」視界に飛び込んできた光景に、思わず感嘆の息が零れた。

 割れた雲の隙間から降り注ぐ陽光を燦然と反射する硝子板によって組み合わされた巨城。否、眼を凝らすとソレが硝子ではなく薄い氷板によって建造されていることが見て取れる。

その現実のものとは思えぬ荘厳な美しさに陶然と魅入ってしまう。

しばらくして我に返ると、二人はユキの背から飛び降りここまで運んでくれた仲間の腹を労うように撫でてから、氷城へと意識を戻した。

 城の周りには深い穴―――濠が拡がっていた。目算でも幅 二○○mはくだるまい。飛び越えて対岸へ渡ることはまず不可能。何より落下すれば助かりはしないだろう。城まで続く橋を渡らなければ城へたどり着けないように設計されていた。

 「よし、あの橋を壊すぞ」

 世間話でもするような軽さでギンが提案する。

 「えっと…‥‥、ギン?」

 頭痛を堪えるように額を抑え、レイから呆れ交じりの眼差しが向けられる。

 「何だよ? 俺、何かヘンな事言ったか?」

 「橋を壊してしまえば我々は還る手段を失いますよ?」

 「大丈夫だろう。橋を壊せば後からきた奴らの足止めになるし、俺たちにはそもそも帰りの心配をする必要がない。あの先にある深層へ続く扉を潜れば、もうこの階層に用はないからな」

 「‥‥‥理には適ってはいます。ですが私は反対です。もしそうだとしても、扉を守る番人が我々の手に負えなかった場合、撤退するにしても追いついてきた他の冒険者と協力することが出来なくなります。他にも‥‥‥」

 内心、しまったと己の発言を悔いた。

 第一層『迷いの森』から、レイは臆病なほどに慎重だった。その気質はテオを退けた今でも変わっていない。元々、テオとの戦いもギンが強行しただけでレイに戦う意志はなかった。それでも戦ったのは、『権能』を巡る競争相手を叩けるうちに叩いておいた方がいい、という確率論的な思考がそもそもの原因である。先の激戦を共に潜り抜け、今や戦友となった彼女だが、本質的に二人の間には大きな隔たりがある。

 話が長引きそうだと感じたギンは、「分かった」と話を遮り、両意見の折衷案を提案する。

 「なら城の中を調査した後に橋を壊す。これならどうだ?」

 「‥‥‥確かにそれなら、安全かもしれませんけど。我々二人で対応できない敵が現れた場合はどうしますか?」尚も警戒を続けるレイを安心させるため、敢えて不敵に笑って見せた。

 「心配ないだろ? 俺たち二人なら、どんな奴が相手でも必ず勝てるさ」

 我ながら驚いていた。今までのギンでは考えられない発言である。他者を信じる。それは地下街で育ったギンにとっては弱さの象徴だからだ。しかし、テオとの戦いを潜り抜けた今、自然とレイは信じるに値すると思い始めていた。そして、機知に富んだレイがその心意を見抜けぬはずがない。しかしこの場面においては彼女の明晰な頭脳が裏目に出てしまった。誤魔化すように顔を背けた彼女の頬は朱に染まっていた。

 「そ、そうですか‥‥‥。分かりました。そこまで言うなら仕方ありませんね」

 恥じらう彼女の様子に、きつく口元を引き締めながら笑いを堪える。その事に気付いたレイから非難の眼差しを向けられ、そこでついに堪え切れずに噴き出してしまう。

 その時だった。

 背後に控えていたユキが突如、低く唸る。

 異変を察知した二人も、すぐさま意識を切り替え、それぞれ得物を手に伸ばした

 しかし幾ら周囲を見渡しても眼に入るのは降り積もった雪だけ。

 「‥‥‥何もいませんね」敵影が見えないことを目視で確認したレイが僅かに気を緩める。

 「レイ、後ろだ!」振り向きざまにギンが叫んだ。

 「ッッッ⁉」

 瞠目するレイの眼前で降り積もった雪が内側から爆ぜる。二人と一匹の視界を刹那、白く染め上げ、中から飛び出してきたのは黒いローブを目深に被った敵影。手には緩やかな曲線を描く刃が握られている。突然の襲撃にレイの対応がわずかに遅れた。弓兵のレイは接近戦に弱い。

 「第一秘剣―――絶華!」

 横薙ぎの一閃が、襲撃者の胴を薙ぎ払った。

 その余りの手応えのなさに、眉間に懐疑の皺が寄る。

 それでも襲撃者の体は二つに別れ、雪の上に力なく転がっている。

 倒せたのかも曖昧なまま困惑していると、再度ユキが吼えた。

 振り向くと同時に二人は驚愕に鋭く息を呑んだ。 

 雪の中から次々に同じローブ、得物を身に纏う群れが現れたのだ。

 その事を認識すると同時に、ギンが鋭く叫ぶ。

 「城まで逃げるぞ! このままじゃ呑み込まれる!」

 返事を待たずギンは駆けた。その後をレイとユキが追走する。

 行く手を阻む大群を蹴散らしていく間にも、雪下からは絶え間なく兵隊の群が湧出してくる。

 一体一体の能力値は決して高くない。しかし、あまりにも数が多すぎる。このままでは物量差に呑み込まれる。少なくとも敵の進軍を一方向に限定することが出来れば十分に押し切れる。そう判断したが故に、二人と一匹は城へと続く橋を目指した。

 敵の包囲網を突破し橋に足を踏み入れかけた、その時―――。

 橋の中央に佇む人影を捉えた。

 波打つ黒髪に白磁のような肌。絵本の中から飛び出してきたような浮世離れした美貌ながら、素顔を晒すことを拒むかのように紅い仮面が目元を隠している。

 「アイツは⁉」

 見たのはほんの一瞬だったとはいえ、あれほど強烈な印象を植え付けられた存在を見間違えるはずがない。外界での数日前、匣内部での体感時間では数か月前。第七地下街・匣深層において、ギンの秘密基地を襲撃した『執行者』の一人である。

 一瞬にしてギンの中で、仮面の男が斬るべき敵として処理された。

 「第五秘剣―――瞬光!」

 後続を引き離し一瞬にして橋へと迫ったギンは、勢いそのままに右上段から渾身の突きを放つ。彼我の間合いをほとんど飛ぶように詰め、最後の踏切で大量の雪片を宙に巻き上げた。 

 すると、仮面の男の右手が静かに持ち上がり―――。

 刹那、雪中より生え伸びた無数の蔓が視界を隠した。

 『全注入』により威力、速度ともに加速されたギンの一撃を受け、蔓の壁は三々五々に千切れ飛んだ。だがそれも直に新しい蔓が生え伸びて修繕してしまう。更に足元から、無数の棘に覆われた蔓が生え伸び、ギンを襲い始めた。

 「くっ‥‥‥」襲ってくる蔓を避けながら、どうにか敵の攻撃圏内から逃れた所に、レイとユキが追い付いた。

 「ギン、大丈夫ですか⁉」

 「ああ、かすり傷だ。それよりも橋の向こうに仮面の男がいた」

 「あの時の執行者、まさか此処まで追ってくるなんて」

 「嗚呼、随分しつこいストーカーだな。何より敵に先行されてる。このクソッたれの壁を斬るからその隙に橋を渡って奴を追え!」

 「それじゃあ、ギンはどうするつもりですか⁉」

 「俺は、ちょっと野暮用がある。そら来たみたいだぞ」

 振り返ると、周囲を包囲する敵群が割れ、その奥から一人の少女が進み出てくる。

 王国騎士団を示す黒衣の制服に身を包み、右手には自らの背丈に迫る太刀が握られている。紅髪褐色と珍しい容姿をした少女―――アカツキは、その華奢な体には似合わぬ絶対零度の殺意を惜しげもなく滾らせていた。

 「ようやく見つけたぞ。―――貴様を、殺す!」

 射殺すように睨みつける少女の瞳は、ギンに向けられていた。

 「どうやら俺に用があるみたいだ。速攻で片付けるから先に行っててくれ」

 「…‥‥‥‥」

 短い逡巡の末に、レイは首を縦に振ってみせた。

 「必ず、戻ってきてくださいね」

 奇しくもその姿が別れ際のサクラと重なり僅かに瞠目する。

 「嗚呼。直に追いつくさ」

誤魔化すように苦笑し、橋の方へと身を翻すや、行く手を塞ぐ蔓を横薙ぎに薙ぎ払った。

 そこから先、二人に言葉は不要だった。レイは何も語らず小さく頷くと、そのまま蔓を飛び越え城の方へと駆けていく。その姿が新しく生え変わった蔓で見えなくなるまで見守り続けた。

 「待たせたな。望み通り一対一(サシ)で相手してやるよ」

 「‥‥‥この日をどれだけ待ち焦がれていたことか‥‥‥。国を裏切り、仲間を殺した貴様に復讐する、ただそれだけの為に‥‥‥私は今日まで、生きてきた‼」

 「前にも言ったと思うが、お前に恨まれる理由に心当たりがねぇ」

 不意に、少女の独言が止まった。

 緩慢な動きで俯けていた顔を上げたアカツキは、先刻より更に強く濃く暗く深い殺気を放ち、能面のような顔に憎悪ではなく黒い意志を浮かべて、敵を見据えていた。

 「――――殺す!」

 

 橋を渡りそのまま城の中へ足を踏み入れると同時に、レイは驚愕に凍り付いた。

 「こ、これは‥‥‥ッ‼」

 城の中は辺り一面血の海が広がっていた。その全てが魔獣のものだ。本来ならば鏡面の床や天井、壁が侵入者を惑わせる仕様だったのだろうが、今は機能しておらず、ただひたすらに生理的嫌悪感を呼び起こすだけだった。

 そして、最もレイの気を引いたのが死骸となっている魔獣の数だ。

 「まさか、此処は『伏魔殿(パンデモニウム)』⁉」

 屈指の難易度をほこる『伏魔殿』。それも権能を宿す匣ともなれば、その難易度は桁違いに跳ね上がる。もしギンと二人で足を踏み入れていたと思うと、背筋を冷汗が伝った。

 「行くしかありませんね」

 折れかける心を叱咤して、歩みを再開させる。

 大広間を通り幾重にも別れた通路を駆け抜ける。城の中は侵入者を惑わせるために複雑な造りになっていたが、進行に迷いはなかった。奇しくも魔獣の死骸と血が行き先を示していた。

 そして城を進むことしばらく、レイは最上階にある『扉』へとたどり着いた。

 「この先に、『権能』が眠っている‥‥‥」

 初代女王パンドラ以降、誰一人として手に入れることの叶わなかった権能まで、手を伸ばせば届く距離にいる。その事を自覚した途端、全身が震えた。

 深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせて扉の方へと歩み寄る。と、その時。

 扉の影から仮面の男が現れた。

 「そこを通してください」

 一向に戦闘姿勢を取ろうとしない仮面の男へ、破軍を構えつつ勧告を迫った。

 そう易々と退くわけがない事は承知しつつも、戦う意志のない者を問答無用で襲うことは、騎士道に反する。もしこれで相手が応じなければ、最悪、脚か腕を射貫き、身動きを取れなくする。その程度は冒険者にとってはかすり傷も当然であると、敵も心得ているだろう。

 しかし、仮面の男―――マクベスは、レイの制止の声を無視して、無造作に近づいてくる。

これ以上の接近を許すことは出来ない。そう判断したレイが足を射貫こうとしたその時、マクベスの足が不意に停まった、と思うと徐に片膝をつき拝跪する。

 「この時をお待ち申し上げておりました―――我らが王よ」

 「‥‥‥‥‥‥‥‥?」

 一度対面したことのある相手の顔は決して忘れない。しかし、眼下で跪く黒髪の青年は見覚えがなかった。仮面で素顔を隠しているとはいえ、あれほどの美丈夫、嫌でも記憶に残るだろう。ならば敵の攪乱戦術とみるべきか? 改めて周囲を警戒するも、伏兵が身を隠せるような遮蔽物はなく。敵の間合いの外からの会話であれば不意打ちにより後れをとることもない。

 それなのに、マクベスの声を聴くたびに、体の奥深くに眠っている何かが刺激される。こみ上げてくる漠然とした不安を振り払うように、矢を番えた弦を引く力を更に込める。

 「答えなさい! アナタは、一体何者なの‼」

 「それにはまず、御身にお返しすべきモノがございます」

 「私に、返すもの?」

 と、その時。腹部が燃えるような痛みに襲われる。

恐る恐る視線を下げると、体の内側から黒い魔粒子の残滓が立ち上る蔓が飛び出していた。

「心配ご無用。我が魔力が御身を傷つけることはありません」

「――――ッ⁉」

瞬間、全身を天啓にも似た衝撃が駆け巡った。

腹部を貫く蔓を通じて、頭の中に何かの映像が流れ込んでくる。

そのあまりの膨大な情報量に脳の処理能力が追いつけず、頭の中が激しい明滅を繰り返し、たまらずにその場に両膝から崩れ落ちた。

激しい頭痛に襲われ、きつく食い縛った歯の間から苦悶の呻きが漏れる。

 「‥‥‥ああ‥‥‥これは‥‥‥何?」

 頭の中で次々と蘇っては消えていく映像。

 否―――これは記憶だ。

 情報の渦に呑み込まれながら、レイの中で欠けていたパズルの欠片(ピース)が嵌まる音がした。

 途端、それまでバラバラだった記憶の断片が線と線で繋がっていく。

気付けば、頭痛は止まり、広間にはレイの漏らす荒い息遣いだけが反響していた。

「私は―――」

未だ混乱覚めやらぬ中、男から手が差し伸べられる。

「さぁ、参りましょう――――我らが王よ」

この手を掴んではいけない。

掴んでしまえば、もう二度と戻れなくなるという確かな予感があった。

『さぁ、その手を掴みなさい』

突如、耳元で嫣然とした響きを含む声が聞こえた。

その瞬間、レイ自身の意志とは無関係に右手が持ち上がり、差し出された手を掴んだ。

『そう、それでいい。君の役目はこれでお終り。あとは僕が引き継ごう』

レイの意識に幕が降ろされる間際、銀色の髪をした少年の後ろ姿を幻視した。

‥‥‥ギン‥‥‥ごめん‥‥‥。

その思念だけを残し、レイの意識は闇に沈んだ。

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