第一層


 鬱蒼と生い茂った森。地鳴りのような大雨。異様までの高温と湿度、一定時間で視界を塞ぐ濃霧。森のいたる場所を深層相当の大型魔獣が徘徊していた。

まさに其処は『魔獣の楽園』と呼ぶにふさわしい世界だった。

 しかし、此処はまだ全四層構造からなる匣舟の玄関口―――第一層に過ぎない。

 名を『迷いの森』と言う。

その名が示す通り、侵入を試みて今日で七日目。攻略は難航していた。

 「グルルルルルル~~~‥‥‥」

 低い唸り声を上げる自身の背丈ほどの大きさの猪型の魔獣『猪八戒』と対峙していた。

 下顎から天を衝くように伸びる二本の牙。生中な攻撃ではかすり傷一つ付かぬ堅固な毛皮。

 それでもギンに焦りはなかった。手に握られる掴無しの抜身の刃―――銘を『千怒』という。

 魔力の発展とともに、媒介となる武具が現れるのは自然な成り行きだった。工匠により創られる人工魔具。その他にも匣で遺物として眠るものも存在し、その多くが人工魔具を凌ぐ性能を備えていた。そして『千怒』もまた深層にて発見された魔具の一つである。その切れ味は武骨な見た目からは想像できぬほどに凄まじく三日三晩魔獣を斬っても刃こぼれ一つしない。

 瞬間、大気を震わす唸りとともに、猪八戒が猛然と地を駆ける。

 暴力的なまでの体重を運動エネルギーへと変換しながら大猪が迫る。直撃すれば致命傷は避けられない。それでもギンは微動だにせず、迫り来る大猪を冷静に見据えていた。しかし残り数メートルを切ったところで、大猪の片目を一条の光矢が射貫いた。血飛沫が舞い、突然の痛みと平衡感覚の狂いから、大猪の軌道が大きく逸れた。

 「第一秘剣―――『絶華』‼」

 横薙ぎの一閃が、すれ違いざまに大猪の胴を切り裂く。一撃にして必殺。大量の血を零しながら近くの大木に激突した大猪はしばらく痙攣した後、物言わぬ肉塊と化した。

 「さすがですね!」

 シュタッ、と軽やかに隣に降り立つレイ。その手には炯々と輝く光の弓が握られている。いや正確には弓柄から伸びる光が弓を形作っていた。体内に流れる魔力を操り武器とする魔具。レイは『破軍』と呼称している。

 「ギン、どうかしましたか?」

 「いや、何でもない」頭を振り、倒れ伏す猪へと歩み寄る。

 猪八戒の額に埋まった魔石を抜き取る。途端、魔石を除く大猪の体が灰となって四散した。

 「チッ、また外れか」

 掌の魔石は幾ら待っても、何の変化も示さなかった。

 「焦りは禁物ですよ。また探しましょう」

 「でもこれだけ探して見つからないとなると、『鍵』はもっと奥にあるってことか?」

 『鍵』は、多層構造をした匣内部における各層の門を繋ぐ通行証の役割を果たす。鍵がなければ、次の層へ行くことが出来ない為、冒険者は各層に隠された鍵を見つけなくてはならない。そして全ての鍵は各層に配置された『番人』と呼ばれる魔獣に守られている。

しかし、鍵は未だに見つかっていなかった。

 ここまでギンとレイは、慎重に探査を進めてきた。

 その理由は、通常の匣とは異なり外界へ脱出することができないからだ。

 本来なら侵入と脱出を繰り返し、万全の体勢で攻略に臨むのが一般的な方法だが、匣舟ではそれができない。深手を負っても脱出して治療すら不可能なため、十分な安全を確保しなくてはならない。加えて慣れない匣で食料や飲み水、寝床を確保することも容易ではない。

匣舟では昼と夜で出現する魔獣が異なるため、それに対応した寝床が必要となる。

食料に関しても、木の実や山草の中にランダムで毒性のものが含まれている為、満足な量の食料を手に入れることにも難儀していた。

 なにより、匣舟は広い。

 匣の中にひろがる異世界にはある程度の制限が設けられている。それは目に見えない壁であったり、飛び越えることの出来ない崖。はたまた足を踏み入れた瞬間に脱出不能の濁流もある。だが匣舟にはソレがなかった。この事に関してレイは、通常の匣が地下街の人々から集めた魔力を動力源にしているのに対して、匣舟は『権能』がその役割を果たしているからだろうと推察した。数万人規模の魔力量を賄い、さらにはそれを上回る権能とはいったいどれほどの力なのか、想像することすら憚られる。

 「だけど、これ以上こんな所をウロウロしても永遠に鍵は見つからない気がするんだよな。ある程度は無茶を―――冒険をしなくちゃ、この匣は攻略できないぞ」

 「そうですね。あまり気は進みませんが‥‥‥」

 「なら直にでも行くぞ」

 「ですが、危険な時は直ぐに撤退します」

 「‥‥‥ああ、それで構わない」

 不承不承に首肯する。

 ここまで攻略が遅れている原因の一つは、レイにあった。

 慎重すぎるのだ。

 確かに脱出不可能の匣である以上、十分以上に警戒する必要性は理解できる。

 臆病さは冒険者にとって必要な素質だ。

しかし同時に、臆病が過ぎれば好機を逃すことも往々にして起こりうる。

死と隣り合わせの貧民街を生き抜いてきたギンにとって、レイのそれは単なる覚悟の弱さが原因のように思えてしまう。

 ここまで探索をする傍ら、レイの実力は大分掴めてきた。

 弓の腕前に関して相当な使い手であることに疑いはない。だがそれ以外は、とりわけ突出した点は見当たらない。強いて上げるなら、初めて会った時に、気配を悟らせなかった隠密性と機動力くらいだろうか。

 いざ強敵を前にした時、背中を預けて戦えるかと問われれば迷わずに首を横に振るだろう。

 侵入直前、レイは自らを仲間ではなく戦友だと言っていたが、ギンにしてみれば、レイはサクラの治療費と地上権を賄ってくれる護衛対象でしかない。

 最悪の時は、見捨てる必要があるかもしれない。

 そんな事を頭の片隅で考えながら、走り出す白金色の髪を追いかけた。


 しばらく森を進むと、辺りは一面濃い霧に覆われ始めた。

 「ギン、これ以上は」

 「いずれは通る道だ。なら早いか遅いかの違いだけだろ」

 レイの忠告を遮り、頑なに進行を急ぐ。この一週間、遅々として進まぬ攻略にストレスを感じていたギンは、レイの忠告が唯の弱気としか思えなくなり始めていた。強引にも思えた行動だったがレイ自身も思う所があってか渋々とギンの後を追走してくる。

 その時、風に乗って血の匂いが漂ってくる。

 「とまれ!」

 「どうかしましたか?」

 「血の匂いだ」

 それはギンの知る匂いの中で最も慣れ親しんだものだった。

 地下街において、流血沙汰の喧嘩、さらには殺し合いが起きることは珍しくない。ギン自身もその手のトラブルに巻き込まれたことは一度や二度ではすまない。そこで培われた血の匂いに対する嗅覚は、地面や大気に残留する僅かな匂いの残滓すら嗅ぎ分けることが出来た。

 ギンを先頭に足音を殺し慎重に歩を進めることしばらく、霧の奥で匂いの正体は見つかった。

 「これは‥‥‥」唖然とレイが呟いた。

 隣に立ち並んだギンは、眼前で沈黙する白い大蛇から目が離せなかった。

 それは蛇と言うには余りにも巨大すぎた。数日前にギンが仕留めた八岐大蛇と比較しても、その十倍近い体躯がある。だが何よりも注目すべきなのが大蛇の偉容ではなく、その体に無数に刻まれた傷痕に対してである。刃物による切り傷。しかしその数が尋常じゃない。

まるで武器を携えた数百人規模の軍団から一方的に嬲り殺されたような有様である。

 「俺たちより先に此処にきた奴がいたってわけだ」

 確信に満ちた声音。大蛇の切り傷は明らかに人の手によるものだ。辺りには大蛇の体から流れたモノであろう血がいたる所に飛散し、地面を赤黒く染めていた。枝葉についた血痕に鼻を近づける。ツン、と鼻の奥を突き抜けるような刺激臭。おそらく強い毒性がある。しかしその中にこれと異なる匂いは一つもなかった。それは先にここを通った何者かが、一滴の血も流さずに大蛇を仕留めたことを示唆していた。

 「ギン、これを見てください」

 レイが指さす場所。既に炭化が始まる大蛇の額部分には、円錐型の窪みが残されていた。

 「これって‥‥‥」

 「ああ、どうやらコイツを仕留めた奴が持って行ったみたいだな」

 匂う毒の強さからして、この大蛇が番人であることは間違いない。

 「チッ、先を越されたな」

 「焦りは禁物ですよ。今日のところはここまでにしましょう。私達の他にもこの地に足を踏みいれた冒険者がいた。それが解っただけでも十分な収穫です」

 何を暢気なことを言っているのか。

 既に他の者に後れをとっておきながら、焦った様子のないレイに対し更に苛立ちが募った。

 「駄目だ。コイツを仕留めた奴を追う」

 「危険すぎます!」 

 「今ならまだ追いつけるはずだ」

 ギンは大蛇の傷口から滴る血に触れ、濡れた指先をレイの眼前に突きつけた。

 「まだ血が乾ききっていない。コイツを斃した奴はまだそう遠くに行ってないってことだ。だったら、ソイツを探し出して、鍵をぶん取った方が早い」

 理性的且つ野蛮な作戦を提示するギンに、レイが唖然と凍り付いた。

 無法都市たる地下街で育ったギンにとっては至極当然の発想だった。

 強者が弱者から奪う。それは地下にとっての常識であり、地上で育ったレイにとって非常識であった。両者の育った環境から生まれた意識の違いは、同時に二人の闘いに対するコンセプトの違いを如実に表していた。

 「いえ‥‥‥、いえそれはダメです!」

 いやいやと頭を振り、レイが詰め寄る。 

 「私は、この国の救うために此処へ来たのです! その守るべき者を殺めるなどあってはならない。ましてや暴力によって奪い取るなど言語道断です!」

 元々、感情を爆発させるタイプではないのだろう。声を荒げるレイの肩は小さく震えていた。

だが、その程度で地下街を生き抜いてきたギンを黙らせることは出来なかった。

 「ひとつ、勘違いしてるぞ」

 「え?」

 「協力はする。でもそれは、この匣の攻略に関してだけだ。お前がどんな理想や信念を掲げてこの戦いに臨んでいるのかなんて俺には関係ない。俺の目的はたった一つ。アンタを勝たせて、無事に帰還する、ただそれだけだ。その為なら俺は人も殺すし、奪いもする」

 「そんなもの冒険者ではない。それでは唯の―――人殺しではないですか!」

 「人殺しか」フッとギンの口元に乾いた笑みが浮かんだ。

 「その通りさ。俺は人殺しだよ。これまで何人もそうやって殺してきた」

 「ッッッ‼」

 「なぁ想像できるか? 一欠けらのチーズを巡って大人たちが殺し合う姿を。腹を空かせたガキが道端で塵みたいに死んでいく姿を」

 「そ、それは‥‥‥」顔面蒼白になりながら、レイが言葉を詰まらせた。

 「判るわけねぇよな? お前みたいに理想や信念の為じゃなく、唯生きるためだけに戦う奴の気持ちなんって解るわけがねぇ!」吐き捨てるように告げ、踵を返す。

 すると背中越しにレイが叫んだ。

 「確かに私には、アナタたちの気持ちを理解できないのかもしれない。ですが、それではアナタは永遠にそこから抜け出せない!」

 「――――ッ‼」 

 その言葉はギンの胸を容赦なく抉った。

 同時に理解する。何故、自分がこうもレイに対し苛立っていたのかを。

 一方は、他者の幸福を望んでいる。

 もう一方は、自らの手が届く幸福を望んでいる。

 まさに水と油。水火の仲。

二人が望む願いは絶望的なまでに乖離している。初めから理解など出来るはずもない。

見ず知らずの他人の幸福を願う正義など偽善で、傲慢でしかないのだから。

 そのまま無言の睨み合いが続いた。

 互いに見てきたモノが違う。感じてきたモノも、何もかもが――――。

 その時だった。

 濃霧に紛れ、レイの背後から音もなくしのび寄る影を視界に捉えたのは。

 「避けろ!」その叫びより早く異変を察知したレイが、振り向きざまに光の矢を射た。

 霧を割くその一矢が影を捉え―――しかし、虚しく空を切った。

 「「――――ッ⁉」」

 驚愕に固まる二人を嘲笑うかのように、霧の奥。矢が貫いた影がレイ目掛けて押し寄せた。

空を震わせる羽音。それが蟲の大群と気付くのにコンマ数秒を要した。冷静さを取り戻したレイが、左手で握る弓柄から放たれる光を弓から楯へ瞬時に換装する。全身を隈なく覆った光楯が、押し寄せる蟲の大群を完全に遮断してのける。

刹那。霧の奥から長槍が鋭く突き出された。楯により視界が遮られたレイは、接近する槍に気付かない。そこまでの流れを見越した完璧な奇襲。しかし更にその先を見抜いていたギンが、槍とレイの間へ割って入った。

 「舐めんな!」

 槍の刺突を刀で弾く。

 火花が飛び散り、辺りを一瞬明るく染め上げた。

 そして霧の奥から驚愕の漏れる気配。ギンはすかさず反撃に転じた。霧の奥。槍の持ち主めがけ猛然と距離を詰める。すぐに霧の奥に槍使いの姿を捉えた。流れるような剣技に戦局はコチラの優勢に傾いていた。

 「死ね」

 トドメの一撃が振るわれる寸前、視界の端で何かが光るのが見えた。ほとんど意識せぬまま体を反らす。髪先数本を巻き込みながら一条の光矢が霧の奥へ消えていく。

 その矢は、レイの『破軍』によるものだった。

 「馬鹿が、何処狙って‥‥‥」誤射を疑い、振り返ったギンの視界に飛び込んできたのは、二本目の矢を番えコチラに狙いを定めるレイの姿であった。

 「は?」思わず間抜けな声が漏れる、「おい、こんな時に何の冗談だ?」

 気でも狂ったか?

 しかし、その可能性を即座に頭の中から排除した。

 コチラを見据える青玉の瞳からは、感情、生気が抜け落ち、虚ろな眼をしていた。

 一体何が起きている?

 と、その疑問に応えるように、霧の奥から甲高い笑い声が聞こえてきた。

 レイへの警戒は緩めぬまま、肩越しに背後へ振り返る。

 ヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべながら、身の丈を超える長槍を携えた若い男が霧の奥から現れる。肩と胸を覆う機動性重視の皮鎧。剣山のように尖った緑がかった髪。目元を隠すゴーグルという派手な装い。先程の奇襲から鑑みて、男が相当の手練れ―――否、くせ者であることは明らかだった。

 「アイツに何をした」

 射殺すように男を睨みつけながら訊ねる。

 「おー怖ッ、そんなに睨まんといてや」

 「三秒だけ待ってやる。それまでに答えろ」

 「人質がどうなってもええんか?」

 「三―――‥‥」槍使いの警告を無視して、ギンは秒読みを開始する。


 ‥‥‥本気かい、この小僧(ガキ)?

 槍使い―――ディックスは、眼前の少年が放つ濃厚な殺気が脅しではないと直感的に悟った。

 数時間前。森の奥から響く戦闘音に引き寄せられ、向かった先で番人と思しき魔獣の死骸とそれを討伐したと思しき二人の若い冒険者を見つけた。ともに十代の少年少女。

その内の一人、少女の方は質素ながらも最上級の武装に身をかため、残る少年にいたっては掴無しの刃だけという貧相な恰好だった。

 貴族、もしくは資産家の娘が、貧民層の若い冒険者を用心棒代わりに連れてきたのだろう。二人の武装、身に纏う雰囲気からディックスはそう推察した。そして、熟練の冒険者でも手を焼く番人をたった二人で仕留められたのも、少女の纏う高性能な武装のおかげで、少女の純粋な実力ではないとディックスは判断した。

 自らを熟練冒険者と自負するディックスは、これまでにも似たような状況と遭遇したことがある。武装は一級品、使い手は二流の若手冒険者。知識、経験共に不足している若手冒険者たちは、しばし武装の性能による成果を、自身の実力と錯覚する。そういった若手冒険者は、ディックスのような『冒険者狩り』を生業とする者たちにとって格好の獲物になった。

 霧の影響により仲間とはぐれ、体力、気力ともに限界は近く。加えて、ディックスの魔力『悪夢語り』では大型魔獣や番人を仕留めることが出来ない。それ故に、ここ数日は不安と焦燥感ばかりを募らせていた。その矢先に舞い込んできた好機。番人を狩り、鍵を手に入れた直後の若手冒険者。本来ならば時間をかけて実力を精査しなくてはならない。だがそれをするだけの精神的余裕と時間がディックスには残されていなかった。

 魔力『悪夢語り』は対象の精神に干渉し、意識を奪い、肉体を意のままに操る。森に生息する蟲を使って二人を襲わせた。その隙にディックスは、緻密な魔力制御により少女の意識を乗っ取ることに成功した。あとは残る少年と同士討ちさせるだけでいい。

 ‥‥‥そのはずだった。

 「失敗(ミス)したな、まさか君が本命だったとは」

 数合撃ち合っただけで判る。

 危険だったのは、少女の方ではなく、少年の方であったと。

 「‥‥‥二―――」秒読みは続く。

 大抵の若手冒険者は、仲間を人質にされると途端に冷静な判断が出来なくなる。自分には仲間を救うことが出来ると英雄願望的思想に支配されるからだ。そこで生まれる物理的、精神的な隙が、刹那を巡る戦闘においては致命傷となる。そこへ精神的受圧をかけるべく選択を迫ってみたが少年に迷いはなかった。それどころか反対に、少年の方から選択を迫られている。

 人質を殺そうと殺すまいと、少年はディックスの命を獲りにくるだろう。

 追い込んでいたはずが、いつの間にか逃げ場のない袋小路に追い込まれている。

 「クソがっ!」頭の中で悪態をつきながらもディックスは、現状を打破する起死回生の一手を模索する。だが意識が思考に偏ったことで生まれた僅かな、隙とすら呼べぬ隙を衝くように、少年が秒読みより先に動いた。

 左下段からの逆袈裟斬りに、ディックスはほとんど無意識に反応し、これを防いだ。

 「まだ三秒経ってないやろ⁉」背筋に冷たい汗が流れた。

 「知るかボケ。お前がアイツを殺すより先に、俺がお前を殺してやる」

 零下の殺意を振りまき、少年の刀が翻った。

 「終わりだ、クソ野郎」

 「残念―――――時間切れや」

 

 トドメは刺す寸前。槍使い(ディックス)の口元に不敵な笑みが浮かび上がった。

視界の端で、霧の向こう側から飛び掛ってくる一匹の獣の姿を捉えた。

 攻撃を中断し、そのまま大きく飛び退る。

 「形勢逆転やな」

 そう呟く槍使い、の周りを囲うように無数の魔獣―――銀色の美しい毛並みに覆われた狼が立ち並んでいた。そして、隣には光弓を携える金髪碧眼の少女が布陣する。

 「‥‥‥なぁ、ひとつここは取引といかへんか?」

 「取引だと?」問いに、槍使いは「そうや」と首肯した。

 「僕が欲しいんは鍵や。せやから大人しゅう鍵を渡してくれれば、君のお仲間にかけた僕の魔力を解除したる」

 「もし断ったらどうなる?」

 「殺す、と言いたいところやけど。殺せば僕は君に殺されるやろうから殺しはせんよ。せやけど、君たちにはしばらく僕に協力してもらう。具体的には、この階層の攻略までや」

 最初にコチラに不利な条件を提示することで、交渉を有利に進めるつもりなのだろう。

しかし、ギンは初めから槍使いを生きて帰すつもりはなかった。相手が敵か味方に関わらず出会った相手はすべて殺す。権能を求める競争相手は一人でも少ない方がいい。

 「さぁ、君の答えを聞かせて貰おうか?」

 精神的優位性を保つために必死―――なフリをしながら、槍使いは言う。

 「それで? 時間稼ぎはもういいのか?」

 「――――ッ‼」狙いを看破されてか、ここで初めて槍使いに動揺が奔った。

 こういう『冒険者狩り』を得意とする輩が交渉を持ち掛けてきた場合、大抵が二者択一に見せかけ、巧妙に本命の策を隠そうとする。この場合は魔力の領域展開が完了する時間を稼いでいるであろうことは、交渉を持ち掛けられた瞬間から判っていた。

 弱肉強食の地下街で生き残るには、腕っぷしの強さだけでは足りない。狡猾さ。騙し、騙されての化かし合いもまた、冒険者にとって大切な素質の一つだ。故にギンは何者も信じない。敵の口車に乗せられ命を落とした者は、ギンの知る限りでも枚挙に遑がない。

 「言っただろ? お前がアイツを殺すより先に、お前を殺すってな」

 

 「『全注入(フルチャージ)』」

 それが少年の唱えた魔力発動の起句だった。

 「‥‥‥馬鹿なッ!」愕然とディックスは呻いた。

 少年から陽炎の如く立ち昇る閃光。それは可視化できるほどに濃密な魔力の揺らぎであった。

 ギンの固有魔力『全注入』―――は、自身の魔力を媒介にして魔力を増幅させる。

 古の時代、神々が地上にもたらした恩恵である『魔力』は、人間をはじめ多くの知的生命体に備わった潜在能力の一つとなった。筋力や体力のように、魔力もまた強いほどに汎用性が高まり。その中でも『全注入』により激増したギンの魔力量は常識の埒外のものであった。

およそ人ひとりが内包できる魔力量の限界を超えている。それ故にディックスは驚愕し、改めて己の失態を呪った。自らが敵に回した少年こそ最も警戒を払い、『触れてはならない存在(アンタッチャブル)』だったのだと。

最早、交渉も、策も、何の意味も成さない。

ディックスの頭の中を埋め尽くしたのは、如何にしてこの場から逃げ延びるか、ただそれだけだった。しかし、そう易々と逃がしてくれるほど敵も甘くはない。

極限の集中により意識だけが加速していき、外と内側を流れる時間の感覚を狂わせ始めていく。そうした中、少年の手に握られた掴無しの刃へ、魔力そのものが意思を持つ生物のように帯状に変化し収斂されていく。

その瞬間、ディックスは敵の狙いに気付いた。

「壬生狼ども僕を守れ!」早々に回避を諦め、ディックスは『悪夢語り』で操る魔獣数匹を楯代わりに、その裏側へと身を隠した。

 「第七秘剣―――『白(はく)狼(ろう)』」

 霞の構えからの鋭い刺突。獲物に喰らいつく獣の如く、一条の閃光が枷から解き放たれた。

 初めに楯代わりに展開した壬生狼前衛数匹が蒸発した。その光景を加速された意識で捉えたディックスは大きく身を捩り致命傷を逃れた。極太の光はそのまま木々を消し飛ばし、地面に巨大な傷痕を刻みつけた。 

 ―――何や、この出鱈目な破壊力は⁉

 避けるのがあとコンマ数秒遅れていれば終わっていた。

 全身から冷たい汗が吹き出し、この場からの離脱を試みようとしたその時。

 ディックスはある違和感に気付いた。

 おずおずと視線を左腕の方へと向ける。するとそこには本来あるべきはずの腕がなかった。

 理解するのに数秒を要した。そして理解した瞬間にディックスは苦悶の呻き声を洩らした。

 「‥‥‥僕の、腕が‥‥‥クソッ‥‥‥クソガァァァァァァッ‼」

 幸いにも、消失した傷口は炭化していたことで血は一滴も流れていない。出血多量で死ぬことはないが、強すぎる痛みのせいで現状を正しく認識できない。頭の中で弾けるスパークが意識を混濁とさせ、ディックスは錯乱していた。

 「終わりだな」

 死刑執行を告げる死神のごとく、コチラに近付いてくる銀髪紅瞳の少年。

 「クソッ! 誰か、誰でもええ! 僕を守れ!」

 命乞いを恥とは思わない。大量出血により真面な回避行動はおろか、この場からの離脱も叶わない以上、ディックスに残された選択肢は限りなくゼロに等しい。故に、ディックスは思考を巡らせ、その結果として先刻の光を免れていた金髪碧眼の少女が、ディックスを背に庇うように少年との間に割って入った。

 「そうだ! 僕を守れ! ‥‥‥アイツを殺せ!」

 「邪魔だ、どけ―――レイ」

 「無駄や! 僕が魔力を解かへん限り彼女は僕の従順な僕(しもべ)のままや!」

 「お前は―――黙ってろ」射殺すような少年の眼差しに、気圧され小さく後退る。

 少年はそれを確認すると、改めて少女と対峙した。

 と、そこでディックスはある違和感を覚えた。

 固有魔力『悪夢語り』は、対象の精神を支配し操ることができる。無論、幾つかの制約、発動条件や操っていられる時間に限りはあるが、その諸条件を満たしてさえしまえば『悪夢語り』を破る術はない。だが、ディックスが命令して既に十秒が過ぎている。にも拘らず少女は一向に光弓に番えた矢を射ろうとしなかった。

 「‥‥‥ッ! 何しとんのや⁉ 早くソイツを殺せ!」

 魔力の出力を更に上げる。虚ろな目をしていた少女の体にビクリと痙攣が奔った。少年の一撃で消し炭となった魔獣たちに回していた余剰分の魔力を全て少女一人に注ぎ込む。それでも少女は矢を射ろうとしない。眼を見開き、必死に抗っている。

 ―――馬鹿な‥‥ッ⁉ 『悪夢語り』に自力で抗うやなんて⁉。

 ―――この娘、魔力に対する耐性が尋常やない!

 そして。

 「うわあああああああああ――――‥‥‥ッ!」

 沈黙を破り、少女の口から咆哮が迸り。

 少女は踵を巡らせるや、弓に番えていた矢をディックスに向けて射た。

 脚を穿たれ、燃えるような痛みがディックスを襲った。

 最早自力での離脱はかなわない。絶望がディックスの意識を満たしていく。

 そこへ追い打ちをかけるように少年が近づいてきた。

 「頼む、殺さんでくれ。殺すつもりはなかった、信じてくれ」

 恥も外聞もなく、命乞いを続けるディックスを少年はつまらなさそうに見下ろし。

 「後ろを見ろ」

 「え?」少年の目的は解らなかったが、命令に逆らい少年の不興をかうことを恐れディックスはおずおずと肩越しに振り返った。次いでディックスを支配する絶望は絶頂に達した。

 霧の晴れた森の中から、鋭い牙を覗かせ怒りに全身の毛を逆立てる壬生狼の群が現れた。

 「お前を殺すのは俺じゃない」

 あとは好きにしろ、とだけ言い残して少年は踵を返した。

 「ま、待ってくれ! 話し合おう! 僕は役に立つ! 今ここで俺を殺すことと、活かして得られる利益が解らなんようじゃ、この先を生き残ることなんって――――」それがディックスの最後の言葉になった。直後、魔獣の咆哮が轟き、次いで甲高い悲鳴が上がった。

 


 「‥‥‥すみませんでした」

 「気にするなお前は何も悪くない、って言ってほしい訳じゃないんだろ?」

 いらえはない。しかし、沈黙は肯定を意味していた。

 「俺はお前を勝たせる。だけどそれは、お前が死ななければの話だ。もし俺かお前の命どちらか一つを選ぶ必要を迫られれば。その時、俺は迷わずお前を見捨てるからな」

 長い沈黙が続いた。その間にギンは次に彼女が口にする言葉で、レイの器を見定めようとしていた。彼女は言った。己は人々を救いたい、その為に戦うのだと。だがギンにとってそのような台詞は、現実を知らぬ子供のたわごとに過ぎなかった。

 そして、沈黙の末にレイが口を開いた。

 「それでも私は逃げません」

 「口では何とでも言えるさ」嘲るように呟く。

 窮地に立った時にこそ、その者の本性は浮き彫りになる。どんなに立派なお題目を口にしようと、いざ死地を前にした時、あっさりと掌を返す。これまで何度も似たような場面を見てきた。そして今回もそうなるのだろうと思った。しかし、レイは頑として首を横に振る。そこに先程まで悄然と俯いていた少女の姿はなかった。

 「優しいんですね」

 一瞬それが、自分に対する言葉だとは気付けなかった。

 弱肉強食の地下において、優しさなど不要な感情だった。

弱みを見せた奴から死んでいく。サクラもそうだ。自分の事だけを考えていればよかったのに、弱い奴まで救おうとした結果、今度は自分が死にかけている。この世は所詮、力が全てだ。優しなど非常になり切れない弱さを、体(てい)のいい言葉で誤魔化す自己欺瞞に過ぎない。

 それなのに何故、レイの言葉を無視できないのか?

 苦虫を噛み潰したような後味の悪さ。押し黙っているとレイは更に言葉を続けた。

 「あの時、アナタは私を見捨てることも出来た。いいえ、アナタは目的のために私を見捨てるべきだった。だけどそうしなかったのは、私にまだ期待してくれていたからなんでしょう?」

 「期待? 俺が、お前に?」 

 そんな訳があるか、そう一笑に付す。

 しかしレイは、「いいえ」と毅然と言い切り小さく頭を振った。 

 「アナタは信じたのです。私が正気を取り戻すと」

 今度こそ二の句が告げなかった。

 そこへ畳みかけるようにレイは言葉を重ねた。

 「少し違いますね。アナタは信じたんじゃない。信じてみたかったのではないですか?」

 「ふざけるな! そんな訳ねぇだろ!」

 ムキになり声を荒げる。だがその態度はレイの言う事を認めているも同然であり、それをこの機知に富んだ王女が見逃すはずがなかった。

 「ありがとう。アナタをパートナーに選んで良かった。今、心からそう思います」

 「それは違う!」と、叫びかけ寸前の所で堪えた。

 「‥‥‥ッ」

 「ギン?」

 突然立ち上がり動こうとしないギンを怪訝な様子でレイが見上げた。

 実際、ギンはレイを助けようとして助けた訳じゃない。あの状況では無事にレイを救える可能性は低かった。槍使いの魔力が解らない以上、相手の指示に従っていれば状況はより一層悪化していた可能性がある。だからこそ、レイの救出を早々に諦め、槍使いを殺すことを最優先にした。その結果としてレイは助かっただけで、感謝される謂われはない。

当然、その事を知らないレイの眼にはギンが敵の隙を衝いて救ってくれた命の恩人として映っていることだろう。だからこそギンには我慢ならなかった。自分の意思を誤解された挙句に、感謝されるなどプライドが許さなかった。それと同時に、この事は口に出してはダメだということにも気づいていた。それを言えばレイの不信をかい、最悪、王女暗殺未遂の容疑を掛けられ、サクラの身に危険が及ぶかもしれない。

故に何の反駁も出来ず、ただ口を閉ざしていることしか出来なかった。

 そんな葛藤を知らないレイが、いよいよ不審に思い声を掛けようとしたその時。

 背後の草藪から葉擦れの音がした。

 振り返ると藪の中から白い毛並みの狼が現れた。先程、槍使いに操られていた内の一匹。同族を殺された敵討ちにでもやってきたのか。何にせよ襲ってくるなら容赦するつもりはない。

しかし狼は、直に踵を巡らせると再び森の中へ消えてしまった。

 「もしかして、付いてこいってことなんでしょうか?」

 「さぁな、罠かもしれないぞ」と言いつつ、ギンはその可能性がないことを狼の気配から察していた。

二人は顔を見合わせ、狼の後に続いた。それを確認した狼は歩みを再開させる。

 辺りには霧が立ち込めていた。一度はギンの魔力によって払われた霧だが、それもしばらくすると元通りになっていた。先行する狼を見失わないように歩調を早めながら追いかける。それから十数分が過ぎた頃、狼が足を止めた。 

 其処には巨大な樹の根に半ば呑み込まれた古い扉があった。何故こんな所に扉があるのか? 怪訝に思うギンとは対照的に、レイはこの扉が何か知っている様子だった。

 「おい、この扉は何なんだ?」

 「おそらく、隠し扉です」扉に視線を向けたままレイが答えた。 

 「隠し扉?」初めて耳にする言葉に首を捻っていると。

 「本来、各階層を渡るためにはその階層を守護する番人を倒し、所持する鍵を手に入れなくてはなりません。ですが、極稀に鍵を必要としない扉が存在すると聞いたことがあります」

 匣は一般的に逆三角形構造をしている。第一層から深層まで続き。各階層間を繋ぐ専用の扉を通らなくてはならない。その際、扉の鍵が必要になる。これがなければ階層間の往来が出来ず、外界への脱出が不可能になる。しかし、問題なのが『鍵』の入手法にある。

鍵を守護する番人は高い知能を有し、強力な魔力を備えている為、討伐は困難を極める。

故に、第二層以降出現する冒険者は皆、番人を倒して鍵を手に入れた猛者であることの証左でもあるのだ。

 しかし、『隠し扉』なる裏道が存在するとなればそれまでの常識は大きく覆る。

 「‥‥‥行ってみましょう」

 「は?」思わず、間抜けな声が漏れた。

 匣には魔獣の他にも様々な罠が仕掛けてある。その中には、足を踏み入れた瞬間に別空間へ強制転移され、『伏魔殿』のような危険な空間に閉じ込められる恐れがある。その為、冒険者は初めて侵入する土地に関しては十分な調査を踏むのが一般的とされる。

 だが匣舟に今までの常識は通用しない。出現する魔獣のレベルから推察しても、これまで潜ってきた匣よりも難易度が高く設定してある。それが『権能』が宿っている為かは今のところ判然としないが、だからこそ警戒しなくてはならない。それは耳にタコが出来るほどレイが言っていたことだ。それをここにきてアッサリと覆す彼女の言動を怪しむな、という方が無理な話だった。

 「解るんです」

 「どういう意味だ?」

 「私もこの狼と同様、敵の魔力に操られました。だからこそ理解できる。操られている時、私の中にあったのは悔しさだけでした。其処には自分自身の意思も、尊厳も、誇りすらも奪われ、唯の人形に成り下がった己の無力さだけがあった。それはこの狼や他の狼たちも同じはず。だからこそ、あの呪縛から解放してくれたアナタに感謝しているのだと思います」

 レイに同調するように狼は、凝然とコチラを見据えていた。

 「ギン―――アナタは私の事を信じないと言った。仲間ではないと。でも私はこう思います。アナタは私の命の恩人であり、心の底から信頼することの出来る相棒だと。だから私はアナタを信じます。アナタの行いによって生まれた奇跡を信じます。だからこの扉は大丈夫です」

 何一つ理解できなかった。

 一度、命を救われたから信じる?

 違う。俺はただ自分のために行動しただけだ。

 その結果生まれた奇跡を信じるなど、馬鹿を通り越して呆れる他になかった。 

 同時に、他者を信じられる強さ、レイにはあって自分にはない『強さ』だけは認めなくてはならない。誰も信じることの出来ない世界で生き抜いてきたギンにとって、レイの在り方は、あまりにも眩しすぎた。

 返す言葉もなく呆然と立ち竦むギンに、レイは薄く微笑み、そっと扉に手を伸ばした。

 扉の中は蜃気楼のように揺れる光に満ちていた。レイと顔を見合わせ、二人同時に足を踏み入れる。途端、視界が白く染まり始めた。肩越しに振り返り、ここまで連れて来てくれた狼を見やる。真っすぐにコチラを見据える狼の姿がゆっくりと光に呑み込まれていく。

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