始章

 神と人が共存していた時代より千年。

 『匣』と呼ばれる一辺一○○mにも及ぶ巨大立方体には、数え切れぬほど大量の魔具と遺物が溢れ、現実とは異なる世界が広がっていた。

 御伽話や神話の中だけに登場した竜種や巨人種、はては精霊に到るまで現実世界には存在しない生態系が拡がり、一国の王ですら眼が眩むような莫大な富が眠っている。

 それに伴い、大陸各地で国が興り、匣を所有する総数が国力を図る指標となった。

 国々は数多の騎士を匣へ派遣して富を、力を得るようになり、やがて一獲千金を夢見て、危険な異世界に挑まんとする者―――後に『冒険者』と呼ばれる者たちが現れ始めた。

 国家に仕える騎士とは異なり、冒険者は何のしがらみもなく自由に冒険に挑み、そこで得た財宝や魔具が国益を潤し、国の力は増していく。

 ―――世はまさに冒険者全盛の時代である。



 「換金を頼みたい」

 不愛想に、今日の収穫分の遺物をカウンターに置いた。

 使い古された麻袋いっぱいに詰め込まれた遺物の量に、万屋『ベッキー・アースティン』女店主のベラは咥えかけていた煙草を取りこぼした。次いで呆れ交じりの溜息を零すと。 

 「ちょっと坊や、これだけの遺物を集めるのに一体どれだけ潜ったんだい?」

 「教えても構わないがどの程度知りたいんだ? 内容次第で情報料をもらうぜ。それより買うのか買わないのかどっちなんだ? 買わないんなら別の店に持っていく」

 伊達に無法者が多く住まう地下街の一角に店を構えているだけありベラはその程度の脅しには眉一つ動かさない。それでもギンは淡々と決断を迫った。そもそもギンにしてみれば脅しているつもりがない。言葉通り、断られれば他の店に持って行くつもりだった。

 「ったく、相変わらず可愛げのない坊やだね。そこに座ってちょいと待ってな」

 カウンターの傍に置かれたスツールに腰を降ろし、店内の陳列棚に置かれた品々に視線を巡らせた。冒険者用の武具や防具、回復薬やその他雑品、駆け出し冒険者からベテラン冒険者に至るまで幅広い客層を相手にする街一番の店を自称するだけあり豊富な品揃えである。だがギンは見るだけで近づこうともしない。興味はあるが、買うだけの経済的余裕がないからだ。

 しばらくすると店の奥に引っ込んでいたベラが戻ってきた。カウンターの上に分厚く膨らんだ茶封筒が置かれた。それを手に取り中身を確認する。想定よりやや少ない気がしたが、料金交渉はしなかった。ベラを信用しているからではなく、もし低く見積もられた場合、これからは別の店に換金しに行くだけと割り切っていた。そのことをベラもこれまでの短くない付き合いから理解していた。

 封筒に入っていた紙幣を全額、カウンターの上に拡げる。

 「これで水と食料、あと余った分で回復液(ポーション)をたのむ」

 よく言えば景気よく、悪く言えば雑な金遣いに、ベラが本日二度目の嘆息を洩らす。

 「別にウチとしては遺物も入るし、商品も売れるから構わないけど、その金遣いの荒さはどうにかならないのかい?」

 「別に無駄なものを買ってるわけじゃないぞ。全部必要なものだ」

 「まー、そうだけどね‥‥‥」困ったように項を掻きながら遺物の入っていた袋に注文された品を詰め込んでいく。大きく膨らんだ袋とは別に、回復液の入った小瓶が入った箱を別に差し出された。明らかに注文した量より多い。怪訝に眉根を寄せるギンに、ベラが相好を崩す。

 「いつも贔屓にしてもらってるからね。回復液の分はサービスしとくよ」

 「‥‥‥悪いけど、これは受け取れない」

 弱肉強食である地下街において、たとえ気心の知れた相手であろうと貸しを作る行為は後々、精神的なシコリを生む。一方的な善意の受け売りであろうと金銭、物品に限らず、受け取ったという事実が無意識に相手へ精神的優位性を譲ることになるからだ。そうやって気付いた時には隷属し、使い捨ての駒にされることは此処では珍しくない。無論、ベラにそのような他意はなかったが、他者からの善意を素直に受け取ることが出来ない程度には、ギンは捻くれていた。

 居心地の悪い沈黙が店内に立ち込める。

 「ったく」短く呆れの言葉を口にしたベラは、せっかくの行為を無下にされたことに対し憮然とした態度を隠そうともせず、カウンター越しにこっちへ来いと手招きする。これ以上相手の機嫌を損なう行為は、今後の活動にも悪い影響が及ぶかもしれない。不承不承といった風に近づき、徐に伸びたベラの手がギンの頭を滅茶苦茶に搔きまわした。

 その場から逃げようとするギンの機先を制するように、柔らかな声が届く。 

 「もう少し肩の力を抜きなよ」

 「出来るわけないだろ」拗ねたように呟くと、クツリと苦笑が漏れる気配が伝わってくる。

 「坊や。確かにアンタは強い。その歳で単独での深層攻略が可能な冒険者はそうはいないだろう。だけどね時々に心配になるんだよ。坊やのその力が、いつか坊や自身を殺すことになるんじゃないかってね」

 「強かったら死ぬとか訳わかんねぇ」

 「どんな名刀も使い続ければ、いつかは摩耗して壊れちまう。だから見つけるんだ。刃を収める鞘。そんな相手をね」

 ベラの言い分は全く持って要領を得ぬものではあるが、それがギンの事を慮ってのものであることには違いなく、それ故にギンは反駁することなく聞き手に徹した。

 「辛かったら頼っていいんだ。それは弱さなんかじゃないんだよ?」

 「‥‥‥‥‥‥‥‥」返す言葉はなかった。

 いや、返す言葉を持ち合わせていないという方が正確だろうか。

 別にベラに対して敵意や悪感情を懐いているわけではない。

 それでも、他者からの善意に対して一歩引いてしまう。

それはギンが今日まで生き延びた要訣ではあるが、同時に弱さでもある。

返す言葉もなく立ち尽くすギンの姿に、再度ベラが苦笑を洩らす。

 「さ、とっととこれ持って帰んな。あの子も心配してんだろ?」

 最期は強引に押し切られ、麻袋と回復液が入った箱を抱いて店を後にした。

 

 帰路の途中、ギンは先程のやり取りを頭の中で反芻する。

 ギンには何故、ベラが自分のことを気にかけてくれるのか解らなかった。

だが、あの笑顔や態度に嘘の気配は感じられない。

他人の嘘や悪意には人一倍敏感だからこそ、先程のベラの態度に戸惑うのだ。

自然と歩みは止まり、ギンは頭上――地下街の天蓋から突き出した匣をふり仰いだ。

 王国第七地下街は元々匣へ侵入するために建造された冒険者の拠点の一つだ。

匣は各頂点部分から伸びる光線『扉』を潜り、中へと侵入する。その際、侵入した扉の位置如何により匣の攻略難易度が大きく変化する。侵入と同時に各階層を守護する『番人』と呼ばれる強力な魔獣と遭遇して全滅した、という話は冒険者にとって珍しくない。

それ故に新しく発見された匣への侵入は、念入りな準備と下調べが必用になる。

そして、頭上から突き出す頂点部分から伸びる扉が、現時点における最も安全な入り口だと言われていた。第七地下街が創られて数百年余り。遺物の大半が狩り尽くされた現在では、ゲリラ的な伏魔殿化を除き、有力な冒険者が寄り付かぬ過疎地と成り果てているが現状だった。

 ギンは、その話を聞いて以来、この街とそこに住まう者たちを嫌悪している。

 何の生産性もなく、ただ生きるためだけに生きている奴らは見ているだけで吐き気がする。

そんな生き方は、生きているとは言わない。何の自由もなく、求めようともしない奴らは生きながらにして死んでいるのと何も変わらないからだ。

未だ其処から抜け出せず、唯一人の家族を救ってやることも出来ない自分自身こそ最も唾棄すべき負け犬であった。

その事を認めているからこそ、胸の裡に燻る苛立ちは日に日に募っていく。

 凝然と見つめる天蓋の向こう側。

 其処には本物の空が広がり、空気は澄み切っている。

何のしがらみも、束縛もない無限の自由がある。

そんな事を夢想している間だけ、この息苦しさ、苛立ちを忘れられるような気がした。



ギンは第七地下街南東にある廃墟に暮らしている。元は冒険者ギルドの拠点だったらしく中は十分に広い。数か月前までは二十人近い身寄りのない子供たちの根城となっていたが皆、匣に潜ったきり帰ってこなかった。

地下街では珍しくもない話だ。弱い者から死ぬ、ただそれだけのこと。

伽藍とした建物の通路を歩き、二階の最奥にある古びた木製の扉をノックもせずに開く。

部屋の中はカビの生えたベッドが一つと書棚、書斎が置かれた簡素な内装である。そして寝台の上で身を起こし、本を読んでいた一人の少女―――サクラと眼があった。

 「おかえりなさい」 

 ニコリ、と花が綻ぶような優しい笑み。十代後半、もしくは二十代前半と思しき栗色髪の少女の肌は病的なまでに白く、本を持つ腕も二年前と比べ随分と細くなっている。

 本を閉じ、ベッドから降りようとした所で、サクラはバランスを崩し転倒してしまう。

 「おい、何やってんだ」慌てて駆け寄り、体を支える。

 「‥‥‥ごめん、ありがとう」誤魔化すように笑うと、改めて寝台の上に横たわった。

 寝台の脇に置かれたスツールに腰を降ろし、袋の中から仕入れてきた水と薬を取り出す。

 「一人で飲めるか?」

 「だめみたい。だから口移しで飲ませてくれる?」

 「フンッ、それだけ減らず口が叩けるうちは大丈夫そうだな」

 そうは言いつつも、サクラ一人では薬を飲むのも覚束ない。ギンは取り出した粉薬を折り曲げた包装紙にくるみ、小さく開けるサクラの口へゆっくりと傾ける。次いで皮袋に入った水を口に当てる。サクラの細い喉がゆっくりと浮き沈みを繰り返す。

 薬を飲み終えたサクラは小さく咳き込み、「ありがとう」と呟き、しばらくすると静かに寝息を立て始めた。そんな衰弱しきったサクラの手を両掌でそっと包み込む。少し強く握れば砕けてしまいそうな程に細い。二年前まで冒険者として活動していたとはとても信じられなかった。

 『魔力欠乏症』。それがサクラの体を犯す病名である。

 決して珍しい病ではない。サクラ以外にも同じ病に罹患している者は多い。

 老人や幼子、生まれつき魔力保有量の少ない者などが掛かりやすい。

 その原因こそ天蓋より突き出す匣にある。

 古の時代に神々が残した匣内部は、芳醇な魔素に満ちており、その基となる魔素は地上にある森や大地、はては人類を含む生命から漏れる微量の魔力を糧にしている。だが陽の光も届かぬ地下街からでは得られる魔力量が不足する。その為、足りない分の魔力を地下に住まう人々から吸い上げていた。

 そうなれば魔力量が不足した者はその負荷に耐えきれず、やがて魔力が枯渇し、衰弱していく。そして人口が減ればその皺寄せは他の者に回ってくる。其処から先は火を見るより明らか。

 近頃では中堅の冒険者ですら魔力欠乏症に陥っている。サクラもその一人だ。一年ほど前から度々体調を崩すようになり、半年前に倒れて以来、自力で起き上がる事すら儘ならない有様である。

 サクラを救うには地下から地上へと連れ出し、最先端の医療を受けさせるしかない。

 しかし地下に住まう住民は、一部を除き地上へ出ることを固く禁じられている。

 主な理由として、地下街に閉じ込められた住民たち。その祖先はかつて王国との争いに敗れ、捕らえられた捕虜や犯罪者であったという。彼らは労役の代わりに、未開拓領域である匣の調査を義務付けられたのだ。そこで得た遺物や魔具は、王国側に徴収され、国を潤した。

 それから数百年が経った現在でも、その悪習だけが残り、地下街の住民は不当な労働―――冒険へ駆り出されていた。

 そんなごみ溜めのような場所から抜け出すには、一定量の魔具と遺物を王国に献上し、冒険者としての実力を認められた者だけが、国から発行される地上権および戸籍が与えられる。

 そのためにギンは、同業者たちから忌避されるほどに無茶な冒険を繰り返していた。複数人で安全に稼ぐより、独りで利益を独占した方が効率的だからだ。当然単独での冒険のリスクは相当に高い。だがそれを可能にするだけの実力をギンは有していた。

『白銀の狂犬』という二つ名も、他の冒険者がつけた皮肉、蔑称である。

 それでも頑なに単独での冒険を繰り返すギンの戦いぶりは、苛烈で、自ら傷つくことを望んでいるかのようですらあった。

 三年前、貧民街の路地裏で倒れている所を、偶然通りかかったサクラに拾われた。発見当時全身は血にまみれ、その大半が怪我による出血ではなく返り血だったという。

目を覚ましてからも強いショックのせいか、それ以前の記憶、自身の名前を含め家族、親や友人、故郷に至るまで何も思い出せなかった。

『ギン』という名前も本当の名前を思い出すまでの間、仮り名としてサクラが命名したものだ。雪のように白い髪をしているから、という何の捻りもない安直な理由だが、実のところギンという名前は存外気に入っている。

 サクラは子供達に冒険者としての心得え、戦い方、最低限度の教養など幅広く教育した。

 捨て猫でも拾ってくるように路頭に迷っている浮浪児を拾っては保護するサクラの元には、気付けば三十人を超える子供たちが集まり。その存在は他の一級冒険者の耳に入るまでに膨れ上がっていた。力は非力ながらも数を活かした人海戦術と巧みな連携により効率よく遺物を回収することで生活は安定した。だがそのことを快く思わない連中も一定数存在した。

匣内部での襲撃、誘拐と悪質な手段に出る者が後を絶たなかったのだ。

だが、それも少しすれば解決した。

 自らの名前や家族のことは何も思い出せなかったが、戦い方だけは体が覚えていた。

 ちょっかいをかけてきた輩には相応の報いを与えた。

 悪戯程度ならば相応の痛みを、悪戯で済まない時はその身をもって償ってもらう。

 噂はたちまち冒険者の間を駆け巡り、しばらくすると手出しする者は現れなくなった。

 充実した日々が続いた。

このままずっと家族みんなで幸せに暮らしていけると誰もが信じて疑わなかった。

しかし、二年前。魔力の徴収量が激増してから全てが一変した。

 元々、魔力量が少なかった多くの子供達が次々に魔力欠乏症に罹患したのだ。そうなればこれまでと同じ稼ぎは得られなくなる。焦った一部の者が忠告を無視して匣に潜り、帰ってこなかった。魔力欠乏症の治療費は高額で、とてもギン一人では全員分を賄いきれなかった。

三ヵ月を過ぎた頃には、三十人余りいた人数は半分に減り、さらに三か月を過ぎた頃には十人を下回っていた。丁度その頃、それまでの心労がたたったのかサクラまで病に倒れ、その数週間後には、ギンとサクラを残し皆が死んだ。真面な治療を受けることも出来ずに藻掻き苦しみ死んでいった。当時の記憶は今でも鮮明に思い出せる。

 サクラは子供たちを守ってやれなかったことを今でも悔いている。

 何一つサクラに罪はない。それでも家族を守ってやれなかったという事実が彼女を苦しめていた。毎夜、声を押し殺しながら泣いていることは知っている。

 だからこそ、これ以上サクラに重荷を背負わせるわけにはいかない。

 この残酷な世界で、正しくあろうとした彼女は幸せにならなくてはならない。

それだけが空っぽだったギンを救ってくれた恩人に対する、せめてもの返礼なのだから。



匣内部を流れる時間は外界と異なり、内部での数日が外界での数時間に相当する。

 匣へ入って十日。より高値で売れる遺物を求めて匣最深部を探索していた。

 比較的安全な第一層、第二層の遺物はほとんど狩り尽くされ、それ以上を求めるとなれば危険が増す第三層より更に下層へ潜る必要があるからだ。当然、出現する魔獣や罠のレベルは跳ね上がり、深層での探索を一週間以上続けられる冒険者はベテランを含めてもほとんどいない。いや、唯の自殺行為と咎められるだろう。実際、匣内部での死亡率は三層以降の割合が過半数を占めている。それでも長期間の探索をする者は、よほどの馬鹿か、変態、もしくは進退窮まり後のない者だけだ。 

 そして、ギンは限りなく後者よりの立場にある。


 全高二〇mを超す巨躯に、圧倒的な再生能力と八つの首を持つ魔獣『八岐大蛇』。深層の沼地に生息する番人に次ぐ難敵である。竜種特有の堅固な鱗が全身を隈なく覆い。太く、鋭利に生えそろった牙は岩をも噛み砕く咬合力を持つ。その八岐大蛇が支配する沼地の最奥に眠る遺物を求め、これまでに数多くの冒険者が挑んでは散っていった。

まさに怪物。匣最下層に相応しい脅威である。

 「―――――――ッッッ‼」八つの口腔から放たれた咆哮が空気を震わせ、八つの内三つの首が眼前の獲物へ襲い掛かった。重量と硬度頼りの体当たりが一撃必殺の威力を持つ。

 が、ギンはその全てを跳躍して躱すと、伸びきった大蛇の頸部に飛び移る。そのまま胴を目掛けて疾ける。その途中堅固な鱗に覆われた外皮を切り刻んでいく。並みの刀では八岐大蛇に傷一つつけられまい。だがギンの持つ刀『千怒』は、深層に眠る魔具のなかでも魔剣に属し、その威力は持ち主の膂力、魔力量に大きく依存する。遵って八岐大蛇を斬っていくギンの力量がそのまま形となって表れていた。

 八岐大蛇にしてみれば、自身より数段小柄で非力な人間一人を相手に、一方的に蹂躙されていくことに激しい戸惑い、焦りを懐いていた。残る五つの頭部が迫りくる脅威を迎撃せんと、怒声を振りまき襲い掛かるも、ギンの敏捷さがそれを上回った。

 既に通り過ぎた後の虚空に噛みつく。そして気付いた時には懐深くまで侵入を許していた。

 あらゆる傷に対し、生物の理から大きく逸脱した再生能力を持つ八岐大蛇に斬撃による攻撃はほとんど意味を成さない。斬られると同時に傷口が再生を始めていくからだ。

しかし八岐大蛇の再生能力の真価を発揮するのは単一、もしくは複数個所の傷に対してだけである。一度に大量の傷、たとえば同一箇所への連続攻撃が及んだ場合はその限りではない。

一撃で仕留められるなら、百でも千でも斬り続ける。

止むことの無い嵐と化し、凄烈な連撃を八岐大蛇に見舞う。傷口から噴き出す鮮血に美しかった髪は汚れ、たちまち頭からバケツ一杯の血糊を浴びたような有様となる。それでも振るう刃が止むことはない。敵の命を刈りとるまでこの手は緩まりはしない。

やがて、魔獣の心臓部である魔石に刃が届いた。劈くような断末魔を上げて、八岐大蛇の巨躯が大量の灰となって四散した。後に残ったのは沼地の泥と返り血で汚れ、息を荒くする獣ののみ。

 「クセェ‥‥‥」肌や服についた血臭に、顔をしかめた。

 匣へ足を踏み入れて十日。その間、真面に休息を取っていない。当然ながら体も洗えていない。もうしばらくは潜っていられるが、血の匂いだけはどうしようもない。風呂に入らなくとも死ぬわけではないが、悪臭を気にして集中力を欠いて怪我しては元も子もない。

休息も兼ねて沐浴すべく近くに流れる川を探すことにした。幸いにもこの匣は、水棲系の魔獣が多い。それに伴い川や湖、沼が多く点在している為、沐浴する場所を探すのに大した苦労はなかった。探すことしばらく。近くから大量の水が流れる音が聞こえてきた。警戒だけは緩めず、そろそろと音のする方へと近づいていく。

 藪の中を抜けると其処には大きな川が流れていた。水も深層にしては透き通っており、底までハッキリと見通せる。魔獣の姿が見えないことを確認して足を踏み出しかけたその時、バシャ、と水飛沫が上がった。反射的に刀を構える。

 注意深く見つめる先に現れたのは魔獣ではなく人間。しかも少女だった。

 一糸まとわぬその姿は、古の時代に存在した女神を想起させる美しさである。濡れて背に張り付く白金の髪は極上の絹を思わせ、すらりと長い手足、だが出るところはしっかりと出ている。胸のふくらみと腰の丸みは高名な彫像のようですらあった。雫の伝う凛とした横顔が、芸術的な肢体、佇まいをより一層際立たせていた。

 魂を奪われる、そう表現できるほどにギンは彼女に見惚れていた。

 すると、コチラの視線に気付いたのか肩越しに少女が振り返った。

 神秘的な輝きを宿す青玉色の瞳と視線が交錯した。

 そして―――少女の小ぶりな唇が薄く綻ぶ。

 「ようやく、見つけた」

 鈴を転がすような玲瓏な声音。一度耳にすれば決して忘れようのないその声は、前にも何処かで訊いたことがあるように思えた。これほどの美貌を持つ少女など地下街、冒険者を含めて眼にしたことはない。見れば決して忘れはしないだろう。

それなら何故、こんなにも胸がざわつく? 郷愁にも似た感覚に襲われるのは何故だ?

 「あの、大丈夫ですか?」

 自らの裸体を隠しもせずに振り返った少女が、訝しむように訊ねる。

 「どうして泣いているの?」

 「ッッッ⁉」

 慌てて目元に触れると指先が濡れていた。それが涙だと気づくのに数秒を要した。

 家族同然の子供たちが死んでいく時でさえ泣くことができなかったというのに。

 涙は弱さの象徴。自分は強いからこそ涙が流れないのだと思っていた。それなのに何故、今更になって流れるのかギン自身にも理解できなかった。

 驚愕に震え、沈黙するギンを慮って白金髪の少女が楚々と歩み寄る。

 「それ以上、近づくな!」反射的にギンは刀を突きつけ叫んでいた。

 「お前は誰だ? ここで何してる⁉」

 我ながら何と間抜けな質問だろうか、と口にしてから気が付いた。

 匣の中、それも深層にいる理由など考えるまでもない。そして一糸まとわぬ姿で沐浴している理由も、おそらくは自分と同様。普段なら決してこのような間抜けな質問、もとい匣で出会った見ず知らずの相手に話し掛けたりしなかったはずだ。未だ冷静になれていないらしい。

 そんな葛藤を知ってか知らずか、少女は返答の変わりにちょいちょいと岸辺を指差す。

 視線を向けると川岸に少女の衣類と思しきモノが置かれていた。どうやら答える前に着替えていいか? ということらしい。取り敢えず、敵意は感じないので着替えを許可する。コチラとしても裸の相手と面と向かって真面な会話が出来る自信がなかった。

 待つこと数分。質素ながらも最上級の衣装に身を包んだ少女と改めて対峙する。

 「私の名前はレイ。ある人物を探して、三日前からここに潜っています」

 三日。それは冒険者の力量を示す指標のひとつ。深層に三日以上潜り続けることの出来る者は、相当な実力者と見なされる。仮に眼前の少女―――レイが言葉通りに潜り続けているとすれば警戒しなくてはならない。

 「ここまで来れる奴はそう多くない。もし潜ったきり戻ってこない家族か、友達を探しに来たとかなら、残念だけど魔獣どもが骨も残さず喰らい尽くしてるだろうから諦めろ」

 「違います。探していたのはアナタです」

 更に警戒心が募る。刹那の隙が生死を別つ冒険者としての反射か、楚々と刀に指が伸びた。

 少女の身なりから推察するに相当高い身分の人間。少なくとも地下街の住人でない。

第七地下街に現存する匣。その安全ルートこそ地下街に設けられた扉を通るのが無難とされているが、地上からでも侵入することは可能だ。当然、遭遇する魔獣、罠の難易度は跳ね上がる為、よほどの理由がない限りは地下から侵入すべきと真面な冒険者な判断するはずだ。

 眼前の少女に懐疑の眼差しを向けながら、ギンが下した決断は―――― 

 踵を返しての、その場からの逃走だった。

 「あ」背後からレイの唖然とした声が聞こえた。

 それには構わず、大きく跳躍してそのまま小川の周囲を取り囲む森の中へ消えていった。

 

 獣のような俊敏さで森を駆け抜けたギンは、チラリ、と肩越しに後ろを振り返る。

其処に少女の姿はなかった。

 匣内部では往々にして予測不能な出来事が起きる。だがそこで求められる能力は危機回避能力。とどのつまり理解できない物事とは関わらない。それが生き残る第一原則である。

 その点、先程の少女は十分に理解の及ばぬ異常(イレギュラー)だと言えた。

 脳内を埋め尽くす記憶を払い落とし、ギンはその足で峻険な谷を越え、水棲系の大型魔獣が多く徘徊する沼地を抜けて目的の場所へと向かった。深層の天蓋にも届こうかという巨木。その根の近くにぽっかりと空いた洞。中は人一人が入るには十分な広さがある。

迷うことなく中へ入ると、ギンは今日まで収集してきた魔具や遺物を、木の根の隙間に空いた穴の中に放り込んだ。

穴の中には今日まで貯え続けた魔具や遺物が山積していた。

 半年前に見つけて以来、ここを秘密基地として活用している。

 匣内部で採取した遺物は、匣から出てすぐに匣を管理している役人に徴収され、その何割かが冒険者に支払われる。当然ながら手元には僅かな金しか残らないという理不尽極まりないシステムだが、匣を管理する役人に逆らえば、重い罰則が課せられるうえ、最悪、余所の未開拓領域調査に強制参加させられる畏れがあった。そうなれば、地上権を手に入れることも地下街で最低限度の生活すら営めなくなる。そして、ギンが地下で暮らせないということは、重病で寝込んでいるサクラを見殺しにするも同然の行為であり、ギンはその事を正しく理解していた。

 だが、どんなルールにも抜け道が存在する。その一つが、ベラのような業者に一時的に遺物を預け徴収を誤魔化すのだが、不正を働く者が後を絶たず、その度に血で血を洗う殺し合いに発展する為、大抵の者はまず業者を頼ろうとしない。加えて業者に依頼するほど稼げる冒険者が地下街にほとんどいないというのも理由の一つであった。

その中でもギンは稀有な存在である。安定して金を稼ぎ地下で暮らす者の中では十分以上に稼いでいた。だが所詮は、地下街に於いての話しである。

重度の魔力欠乏症に苦しむサクラの治療には莫大な治療費、薬代が必要になる。

金は幾ら稼いでも足りない。それに幾ら治療が成功しようとも地下にいる限り、魔力を吸われ続け、いずれまた同じことを繰り返す。だからこそ地上権を手に入れ、地下から抜け出さなくてはならない。その為にも金が必要だった。

 自由が欲しければ不自由にならなくてはならない。

それがこの三年、ギンが身を以て味わった世界の摂理である。

 だが、その苦労もあと少し。

ここにある遺物を全て換金すれば、サクラの治療費を含め一人分の地上権を買うには十分だ。

サクラはきっと、ギンも一緒に行かなければ地上には行かないと駄々をこねるだろう。しかし自分一人だけなら如何様にも生きていける自信はある。あと数年も冒険者稼業を続けていればひとり分の地上権を手に入れることはそう難しくない。

何より、記憶を失くし、自分が何者なのか忘れていた所を救われ、『ギン』という名を貰い、人としての生き方を教えてくれたサクラだけは何としても守らなくてはならなかった。

 それは、ギン自らが考え選択した自由に他ならない。

 「わぁ、すごい量!」

 「―――――ッ⁉」

 思案に耽っていたせいで気付くのが致命的に遅れた。

 弾かれたように振り返ると、そこには先程水辺で出会った金髪青眼の少女レイが、肩越しに洞の中に溜まった遺物を覗き見ていた。

 「どうして、ここが解った?」

 「え?」

 キョトンとするレイの態度に、ギンは焦りと苛立ちが入り混じった声で再度訊ねた。

 「どんな手を使って、ここを見つけたのかって聞いてるんだ!」。

 この場所を見られたからには生きて帰すわけにはいかない。だがまずは、彼女がどうやってこの場所を見つけたのか、その理由を知る必要がある。今日までこの場所が他の冒険者に見つからなかったのは周辺に生息する魔獣の危険度に対し、得られる遺物が少ないからだ。ギンがこの場所を見つけたのも単なる偶然で、適当に探して見つかるような場所ではない。

 「普通にアナタの後を追ってきましたよ?」何でもないことのようにレイは告げた。

 有り得ない。ギンの知る限り、ギンの全力走行についてこれる者は地下の冒険者の中には一人もいない。地下街からではなく、地上から匣に侵入してきている以上、相当な手練れであることは間違いない。もしくは地上には彼女以上の手練れが他にもいるというのか?

 もしそうなのだとすれば‥‥‥。

 そう考えるだけで全身が総毛立つ。

 武者震い、というものを初めて体験した瞬間だった。

 「お前、一体何者だ?」

 先刻とは意味が異なる問い掛けに対し、レイが柔らかく相好を崩した。

 「改めまして、私はレイ。この国の王族アーカディア王家の末子です」

 「王族、だと⁉」

 俄かには信じられない。だが嘘をついている風にも見えない。

 この国を統べる支配者。自分はその一人だとレイは言う。

 「信じられないな。王族の人間が何故こんなところに? いや、そもそも何故王族が俺みたいな浮浪児を捜す必要がある?」

 「それは――――」

 レイが口を開きかけたその時。

 衝撃が奔った。

 洞の中―――大樹全体が震え出す。

正確には秘密基地である洞内部の壁面。木の根が意志を持った原生生物の如く蠢いていた。

 この突然の怪現象にギンとレイの二人は全くの同時に反応した。

蠢く木の根の一部が、二人目掛けて伸びあがったのだ。

 「一旦、ここから撤退を!」 

 「解ってるよ!」

 その指示にギンは露骨に舌打ちしつつも、洞から外に飛び出した。

 瞬間、視界の端で妖しく光るモノを捉え、ほとんど条件反射で手にした刀を振るった。

 が、返ってくるのは金属同士がぶつかる音と衝撃のみ。

 宙で鍔競り合う恰好のまま、ギンは襲撃者の姿を視界に捉えた。

 襤褸同然の外套を目深に被り素顔は窺い知れない。だが骨格と刀を伝って感じる重みから襲撃者は女、もしくは子供、またはその両方ではないかと考えた。

 返す刀で襲撃者の得物を受け流す。密着した体に生まれた空隙を衝くように鋭く相手の横っ腹を蹴りつけた。手応えはない。それどころか襲撃者は蹴られた反動を利用して後方へ大きく飛び退いてみせる。遅れてギンも十メートルほどの離れた地面に着地する。

あらためて襲撃者と対峙した。

 ザッと下生えを踏む音が背後から鳴り、肩越しに振り返ればそこには、もう一つ新しい貴影が佇んでいた。同じく古ぼけた外套で素顔は伺い知れないが外套越しからでも相当な長身痩躯であることが見て取れる。外套の裾から伸びる蔓がわずかな衣擦れを立てながら内側へ引っ込んでいく。恐らく木の根を操り襲ってきたのは、二人目の魔力だろう。

 前後への警戒を続けながら得物を構える。

その時、白塗りの鞘を手にした刺客が優美で張りのある声を口にした。

 「先程の剣術、よもや本当に生き永らえていようとはな」

 続けて素顔を隠していたフードが吹いた風にさらわれる。現れたのは褐色の肌、燃えるように紅い瞳と腰まで届く艶のある長髪。端正な美貌を湛える少女であった。

 「会いたかったぞ―――白銀」

 「あ?」

 コチラを知っているような口ぶりだが、生憎と見覚えはない。

 「さきほどの剣技と身のこなし、見間違うはずがない」

 「誰だお前? お前らみたいな物騒な連中、俺は知らねぇぞ? 人違いじゃないのか?」

 「ふざけているのか?」

 「ふざけてんのはどっちだ。前にどこかで会ったことあるのか?」

 ギンにとっては単なる疑問に過ぎなかったが、眼前の少女は違った。

 「私の顔を忘れたと言うのか⁉ 何だ、それは‥‥‥。ならば貴様は自らが殺めた同胞のことすら覚えていないというのか⁉」

 「だから言ってんだろうが! お前の事なんか知らねぇってよ!」

 短い沈黙の後、褐色赤髪の少女はその髪色と同じ紅い瞳に昏い憎悪を滾らせる。

 「ならばこれ以上は何も語るまい。貴様の犯した罪はその命を以て贖うがいい」

 ―――来る。

 瞬間、少女の姿が掻き消え―――十メートルもの間合いを一息で詰めて斬りかかった。

 数合切り結んだ所で、ギンは眼前の少女を排除すべき敵として認識する。

 「第一秘剣――――‥‥」と、相手の斬撃に合わせ反撃を試みかけた寸前。

横合いから無数の蔓と光矢が、ギンと黒肌紅髪の少女を引き離した。

両者同時に飛び退き、矢が飛来してきた方角に視線を這わせる。

其処には、燦然と輝く光の弓矢を構えたレイの姿がある。

「マクベス! 邪魔をするな、ようやく奴を見つけたのだ‼」

 一方、攻撃を遮られた少女は憮然ともう一人の刺客を非難した。

 すると、これまで沈黙していた刺客から抑揚の効いた柔らかい男の声が発せられた。

 「落ち着け、我々の目的はここで殺し合いをすることではない」

 「だが‥‥‥ッ‼」

 一切の感情を伺わせない冷静な言葉に、褐色の少女が言葉を詰まらせる。

 「不許可だ。我々の役目は終わりだ。撤退する」

 「く‥‥‥っ‼」

 「逃がすかよ!」

 横薙ぎの一閃は、しかし褐色の少女によって阻まれた。だがその剣風までは防ぎきれず、未だ素顔を隠す刺客のフードが捲れた。現れたのは毛先がくるりとウェーブした黒髪に、雪のように白い肌、そして何より特徴的な赤い仮面で素顔を隠している。だが仮面越しからでも男の浮世離れした精悍な顔つきが見て取れた。

 マクベス。そう呼ばれた青年が徐に右手を突き出す。途端、その袖口から無数の蔓が生え伸び、ギンと少女の間に分厚い緑の壁を築き、物理的に遮断した。

 「忠告だ。貴様はあの方に相応しくない」

 「あぁ⁉ テメェらさっきから何をわけ判んねぇことをベラベラと―――」

 「直に解る。だがその前に貴様の大切なものを頂く。我らの役目は貴様の足止めに過ぎない」

仮面の男はそれ以上何も語らず、踵を巡らすと地中から這い出てきた無数の蔓にその姿を覆い隠した。そして褐色赤髪の少女の足元からも無数の蔓が生え伸び。

 「忘れるな! いつの日か貴様の命、必ずやもらい受ける!」

「だから、テメェは誰なんだ⁉」

「アカツキ。それが貴様を殺す者の名だ」

 やがて蔓が枯れ果て、謎の襲撃者二人は忽然と姿を消した。

 後に残るのは半壊した秘密基地と辺り一帯に飛散した遺物と魔具だけだった。

 それらを回収するより先に、マクベスの言葉が意味するところを悟り、猛然と地を蹴りその場を後にした。


 

 現実世界と匣内部の時間は異なる。深層から第一層にある出口を通り現実世界へ帰還するまで、現実世界では一時間と経っていないだろう。しかし目の前に広がる光景に鋭く息を吞んだ。

 「何だよ、これ‥‥‥」

 美しさとは無縁の地下街。それでもギンにとっては故郷と呼べる唯一の地。だが眼下に広がる景色はギンの知るそれとは乖離していた。

 街の至るとこから立ち上る黒煙は、半密閉状態の地下の天蓋により逃げ場を失い空気がひどく汚れている。魔力により強化された聴覚が住民たちの悲鳴や、逃げ惑う雑踏を拾っていく。

 早鐘のように心臓が脈打つ。ギンははやる気持ちを抑え街道を駆けていく。

 火の手は未だに街のあちこちから上がっている。崩落した建物もあった。

 ギンはしばらく地震の可能性を疑い、直にそれを否定した。

 路傍に倒れ伏した住民。その背中を縦に切り裂く傷口は鋭利な刃物によるものだ。

 自然災害ではない。何者かの悪意による仕業。そしてこれ程大規模な暴力行為―――否、虐殺を行える者は地下街には存在しない。真っ先に思い浮かんだのは、アーカディア王国だった。

 丁度その時、馴染みの万屋『ベッキー・アースティン』の前を通りかかり、入り口のところに倒れるベラの姿をみつけ慌てて駆け寄った。

 「おい、しっかりしろ!」肩を掴んで揺すると、伏せていた睫毛が小さく震えた。 

 「坊や?」

 「大丈夫か? これは一体、何があったんだ?」

 「さぁね、王国の連中が突然襲ってきたんだ。街の連中も応戦したんだけど、敵の数が多くてね。皆やられちまったよ」

 ベラの言葉を裏付けるように辺りには血を流して倒れる者が無数に存在する。住民の約八割が冒険者と言われる地下の住民たちは、皆が程度の差はあれ相応の実力を持つ。その住民たちを相手に一方的な虐殺行為に及んだからには敵は相当な手練れだったのだろう。辺りに住民以外の遺体が無いのがその証拠だ。

 「私のことはいいから、早くサクラのところへ行ってやりな」

 「すまない、直に戻る」ベラの体をそっと地面に降ろしてから、その場を後にする。

 やがて住処である屋敷が見えてくる。そのまま飛び込むような勢いで中へ入ったところで、黒を基調とした軍服に身を包む王国兵と、地面に倒れたサクラが視界に飛び込んできた。

 突如現れたギンに王国兵数名が一瞬、ギョッと眼を見開き、直に腰に佩く得物を音高く抜き放った。―――が、その時にはすでにギンは刀を振り終えていた。相手が敵かそうでないかなどギンにとっては些末事に過ぎなかった。

 一瞬にして中央広場を兵士たちの血と臓物、脂で汚し、その先に倒れるサクラの元へ駆け寄った。全身に隈なく視線を巡らせ目立った外傷がないことを確認してから、口元に耳をよせ呼気を確かめた。幸いにもサクラの体に大きな怪我はなく、命にも別状はなかった。

 すぐさまサクラのやせ細った体を抱えて寝室へと運び、寝台の上にそっと降ろす。

 そこへ寝室へと続く廊下からレイが駆け込んでくる。

 「よかった、無事――」とレイが言い切るより早く、喉元に千怒の剣尖を突きつける。

 「説明しろ。お前は何か知っているはずだ」

 ここまで抑えてきた疑問、焦り、苛立ちが決壊した。

 ギンの放つ尋常ならざる威圧感に気圧されながらも、レイは毅然とした態度を崩さない。

 「話は表の敵をすべて片付けてからです」

 レイの言葉を受け、おずおずと切っ先を下ろす。

 「逃げるなよ。逃げたら真っ先にお前から殺すぞ」

 「ええ、約束します」

そう告げるとレイは、部屋を飛び出していった。

 


 火災の鎮火および住民たちを襲っていた王国兵が撤退したのはそれから四日も後のことだった。むしろ四日で済んだことに驚かされる。それもレイの的確な陣頭指揮のおかげであろう。

 が、だからといって今回の襲撃に関してレイに対する溜飲が下がる訳ではない。

 屋敷。元はバルコニーと思しき場所にて二人は顔を合わせていた。

 「話せ。奴らが何者で、虐殺なんって馬鹿げたことをしでかした⁉」

 詰問調のギンの問い掛けに対して、レイは持ち前の優雅さをわずかにも損なわない。

 「それにはまず、順を追って説明しなくてはなりません」

 沈黙の扱い方をレイは心得ていた。ギンの気持ちが落ち着くまで口を開こうとせず、かといって目を逸らすこともない。あくまでも愚直に、真摯にギンと向き合っていた。そうしてギンの意識がレイに対する敵愾心、警戒心が僅かに緩むと同時に口を開いた。

 「三か月前、嬢王陛下が予言されたのです」

 レイの話によると現在アーカディア王国頂点に位置する存在である嬢王は未来視の魔力を持つという。これまでにも数多くの預言が成され、唯の一度も外れたことはなかった。但しその預言が指す未来がいつ起きるのかは術者である嬢王本人ですら特定が不可能らしい。

 「『破滅が近づいている。邪悪な女神が目覚め、この世界に未曽有の災禍を齎すであろう。これを防ぐには手負いの銀狼を随え、災禍に臨むべし』それが嬢王の予言です。そして嬢王は、その災禍を防いだ者に次期王位継承権を譲る、と」

 話についていけず途方にくれるギンに、すかさずレイの補足が付け加えられる。

 「嬢王が言う破滅とは、おそらく『匣舟』のことでしょう」

 『匣舟』。その名くらい如何に世知に疎いギンですら聞いたことがある。サクラが浮浪児に度々読み聞かせていた英雄譚や御伽話、神話の中に登場してきた。何でも匣舟の最深部には古の神々の御業『権能』が眠っているという。その力を手にした者のなかで最も有名なのがアーカディア王国初代女王にして建国の母と謳われるパンドラである。

 が、どうやって御伽話の中に登場する代物が破滅と結びつくのだろうか?

 「匣舟は実在します。数十年周期でアーカディア王国でも観測が確認されていますから間違いありません。過去には匣舟による被害で滅びた国があるともいわれています」

 「ちょっと待て、匣舟って言っても、それは唯の匣だろ? どうやったら国が滅びる?」

 「匣舟は他の匣とは一線を画す存在です。その最大の理由は三つ、ひとつは権能を宿していること。これは初代女王パンドラの逸話と王家に眠る文献から間違いないと思われます。

 そして二つ目、匣舟に一度侵入すれば完全攻略するまで脱出することは出来ません」

 「――――ッ⁉」

 一流の冒険者は冒険をしない、という言葉が生まれるほどに臆病さは冒険者にとって重要な資質の一つである。死んでいった冒険者の多くが、自らの力量を見誤り、身の丈に合わぬ層へ足を踏み入れ命を落としている。そうならない為にも侵入する際は念入りな準備と調査が必用となる。その為には、何度も匣への侵入と脱出を繰り返さなくてはならない。もしそれが不可能だというなら、未知が広がる匣への侵入は単なる自殺行為へと成り果てるだろう。

 「最後に三つ目、匣舟はこうしている今も大陸中を移動し続けています」

 「移動しているだと? 匣がか?」

 「ええ。冒険者なら解ると思いますが、匣へ侵入する際、入り口となる光の中へ入っていくと思いますが、光に吞まれていく途中引き返すことは出来ますか?」

 そんな事気にしたこともない。が、言われてみれば匣への出入りの際に生じる力に抗うことは出来ないように思える。とそこでギンはレイの言わんとする所を察し、続きを補足する。

 「つまり滅びた国っていうのも、移動し続ける匣が放つ光に街や住民たちが呑み込まれたってことか?」

 「ご推察の通り、匣舟が放つ光は如何なる兵器や魔力を以てしても防ぐことが出来ません。もし仮に光に呑み込まれれば其処は脱出不可能な匣の中。当然、権能を宿す匣の攻略難易度は地上に点在する匣のそれとは一線を画すものでしょうから攻略することも困難。でなければ数千年もの間、誰にも攻略されていないわけがありません」

 仮に都市部や人口密集地に匣舟が現れた場合、その被害者数は自然災害のそれを軽く凌駕するであろうことは想像に難くない。加えてそこに存在する建造物や自然環境すら破壊してしまう、まさに災禍そのものである。

 「匣舟がどれだけ危険なのかは分かった。だがそれと今回の襲撃がどう関係している」

 「先ほども申し上げたように、嬢王は災禍を防いだ者、つまり匣舟を攻略した者を次の王にすると我々に宣言なされた。そして『手負いの銀狼を随え、臨むべし』の銀狼が、おそらくあなたの事だからです」

 「何でそうなる? この髪のせいか? ハッ、だとしたらとんだお笑い草だな。そんな理由で俺や、この街の連中は住む家を焼かれ、家族を殺されたのか?」

 「それについては理由があります。そもそも私がこの地へ赴いたのもそれが理由ですから。

三か月前、若手冒険者『空の剣』のうち三名が死亡、残る二名が重傷を負いながらも無事生還を果たしたという報せが、王国最大の冒険者組合『蒼ノ月』の元に届きました。生き残った二名の内一人は内部で意識を失い内部情報は何も得られませんでしたが、残るもう一人からは有力な情報が得られました。出現する魔獣の脅威度から、地形、能力、そして最も注目されたのが『空の剣』を救ったという銀髪紅瞳の少年。―――それはアナタですね、ギン?」

 否定はしなかった。記憶は朧気だが確かに数か月前、土龍と魔獣の群に襲われていた若い冒険者を救ったような覚えがある。だがそんな事、冒険者稼業をしていれば良く目の当たりにする日常のひとつだ。その為、ギンには何故レイが注目したのかが判らなかった。

 沈黙を肯定と受け取ったのか口端を綻ばせ。 

 「知っていますか? 伏魔殿化した第七地下街に存在する匣の攻略難易度は『S』。しかもそれをたった独りで攻略した貴方の存在がどれだけ異質で、特異な存在なのかを。そこへ先の嬢王の預言が加われば、アナタが件の『手負いの銀狼』だと疑われても不思議ではないでしょう?」

 後にレイから訊いた話によると、地上にある他の匣には攻略難易度がS、A、B、Cの四段階に別れているという。当然、三年前より目覚めて今日までこの地の匣しか知らなかったギンに攻略難易度など無用の長物に過ぎなかった。そしてその点が周囲とギンの匣に対する脅威度の差異を生み出す要因となっていた。

 「そして、私がその情報を掴んだという情報を他の王位継承者たちも掴んだのでしょう。アナタやこの街を襲った連中『執行者』と呼ばれる王国直下の秘密警察、平たくいえば暗殺者ということになります。彼らが動員されていたことからも、裏で王侯貴族が糸を引いているのは間違いないでしょう」

 「ずいぶん、ふざけた理由だな」

 予想の斜め上をゆく馬鹿馬鹿しさに思わず乾いた笑みが零れた。が、それも故郷を焼いた者たちに対する瞋恚へと変わるのにそう時間は掛からなかった。そしてソレはこの場に居合わせる王族/仇であるレイへと向けられた。剥き出しの刃のように鋭い殺意に対し、レイは眉一つ動かさず凜然と受け止めていた。そのことが余計にギンを苛立たせた。

 「誠に遺憾ながら、それが現実です」

 「何、他人事みたいな顏してやがんだ?」

 「ここで私を斬ったところで何も変わりはしません。言ったでしょう、アナタが件の獣だと疑われている以上、私が死ぬか貴方が死なない限り、また同じことが起こるでしょう。それ程までに次期国王という肩書の持つ魔力は強力です。少なくとも無辜の民がいくら犠牲になろうとも気にならないほどには――――」

 凜然とした姿勢を崩さず、的確に事実を述べるレイにギンは返す言葉が見つからず、ただ千怒の柄を掴む手を震わせることだけしか出来なかった。

 「最後にこれだけは教えろ。お前は何のために戦うんだ?」

 「初代女王が目指した理想の国、その実現のため私は剣を握ると誓いました」

 そう答えるレイの瞳に虚偽や虚栄心はわずかにも感じられない。

 「腐敗堕落しきった王族、貴族による統治で、今やこの国の在り方は初代女王が目指した理想とはあまりにもかけ離れてしまった。各地に眠る匣から得られる富の多くが、この街やアナタがた冒険者が命懸けで手に入れた遺物や魔具により支えられています。年々増加する、魔力欠乏症により命を落とす貧困層の人々の実情には目もくれず自らの保身、私腹を肥やすことしか考えていない。仮に国を支える冒険者や地下街を喪えばこの国は一年と経たずに滅びの道を歩むことになります。それも他国からの侵略ではなく、内戦という最悪の形での滅亡です。

 それを防ぐためには誰かが立ち上がり、声を張り上げねばなりません。かつて初代女王が夢見たように、この国をあるべき姿へと導かなくてはならない。その為には力がいる。力無き正義に意味などありませんから」

 「フン、そんな歯の浮くような奇麗事なら誰だって言える。俺が聞きたいのはそんなことじゃねぇ。お前が戦う理由、命を賭ける理由を聞いてんだ。もう一度訊くぜ? 何のために戦う?」

「私は王の妾の子です。それ故に私は他の王族、貴族から疎まれています。正当な血筋ではない私が王家に名を連ねることが彼らには我慢ならないのでしょうね。それと―――」

レイは悪童の笑みを浮かべ。

「こう見えて結構負けず嫌いなんです。下賤の生まれだから王宮の隅で目立たぬようジッと大人しくしているつもりはありません。むしろ私を認めようとしない連中の度肝を抜いてやりたい」と、嘯くレイの相貌には不敵な笑みが浮かんでいる。

 弱肉強食がすべての地下街において相手の嘘や虚勢を見抜けない者は長く生き残れない。その点においてギンは非凡な才能、野生の獣めいた直感で相手の嘘を見抜くことが出来る。そしてレイの発言を受け、その言葉に嘘偽りがないとギンは判断した。

 なるほど単身で深層へ潜るだけの度胸も、実力もある。唯の王女様ではないらしい。

 「いいぜ、お前の誘いに乗ってやるよ」

獰猛に口端を歪め嘯く。

「だけど幾つか条件がある」

「私に可能なことでしたら何なりと」

 「まず、家族の保護と安全の約束。それと地上への移住権、魔力欠乏症の治療を受けさせろ」

 「その程度お安い御用です。他には?」

 「今回、街を襲った連中には必ず相応の報いを受けてもらう。その手伝いだ」

 「それは構いませんが、具体的にはどの程度の助力が欲しいのですか?」

 「首謀者と実行犯、その他関係者をピックアップしておけ。その後は全部俺一人で殺る」

 淡々と水汲みにでも言ってくるような気楽さで、報復宣言をするギンに、しばしレイは返す言葉を失した。だが直に持ち前の聡明さを取り戻すと、不敵な笑みを取り戻す。

 「いいでしょう。アナタの条件を吞みます」短く締めくくると、徐に右手が差し出された。

 「勘違いするな。俺たちは仲間じゃねぇ。たまたま目的が一致しただけだ」

 「いいえ、これは仲間としての握手ではなく、戦友の握手です」

 悪戯っぽく笑うレイ。どうやら一杯食わされたらしい。見かけによらず意外と狡猾な奴なのかもしれないな、そんな風に思いながらギンは差し出された右手を握り返した。



「サクラ、少し話がある」

 返事を待たずに中へ入ると、ベッドの脇に倒れているサクラの姿が視界に飛び込んできた。

 「サクラ―――ッ!」弾かれたように駆け寄り抱え起こす。

 すると睫毛が細かく震え、翡翠の瞳がギンの姿を捉えた。

 「‥‥‥ごめん、ちょっと立ち眩みがね」

 そう口にするサクラの手には、古ぼけた一枚の羊皮紙が握り締められていた。まだこの場所で大勢の孤児たちと生活していた時に、皆で金を出し合い購入した羊皮紙にサクラへの感謝を込めて手紙を書いたことがある。勿論、学のない浮浪児が文字を知っているはずもない。それでも皆、めいめい感謝の言葉を書き綴った。サクラの手から覗く紙に書かれていることは時間が経った今でも意味不明だ。それでもサクラがこの手紙を大切にしていることは、ギンをはじめ子供たち全員が知っていた。

 「ホント、駄目だな。私お姉さんなのにギンに迷惑ばかりかけて‥‥‥」

 顔面蒼白、見るからに辛そうな様子のサクラは、それでも笑みを浮かべ自ら起き上がろうとする。だが直にバランスを崩しギンにもたれかかってくる。

 「迷惑なんかじゃねぇよ‥‥‥、馬鹿」

 元を辿れば冒険者だったサクラが魔力欠乏症に陥ったのは、同じ病に苦しむ子供たちの薬代を稼ぐために無理な攻略が祟ったからだ。自分一人の身だけ心配していれば、こんなことにはならなかっただろうに。そして、サクラ一人にその重荷を背負わせた原因の一つが、自分だということもギンは理解していた。

 硝子細工に触れるように優しく抱え上げベッドまで運ぶ。軽かった。体はやせ細り、掴んだ腕越しに伝わる脈も小さい。恐らく、サクラに残された時間はそう長くはないだろう。

 ベッドの脇で立ったまま固まるギンを、サクラは怪訝そうに見つめていた。

 そして、フッと相好を崩し。

 「ギン―――あなたは、あなたの好きなように生きなさい」

 胸の奥底で渦巻く迷いを見透かすようなひと言に、ギンは瞠目した。

 「‥‥‥サクラ、俺‥‥‥」

 俯き、肩を震わせるギンの拳をサクラの手が優しく包み込む。

 「この先アナタがどんな選択をして、世界中から憎まれようとも―――私はアナタのことを愛しているわ」

 おずおずと顔を持ち上げ見つめたその先で、サクラはいつもの様に優しく微笑んでいた。

 「大切なのは、何処で生きるかじゃない、どう生きるかよ」

 「―――――ッ‼」

 そのひと言が、ギンの中に渦巻いていた迷いを吹き飛ばした。

 レイの提案に、僅かにせよ恐怖を感じていた。だがそれは死ぬことに対する恐怖ではない。

 それは自由が奪われることへの恐怖。提案を受け入れなければ大切な人が殺されるかもしれない。同時に提案を受け入れれば、その瞬間、それは自らが望んだ選択ではなくなってしまう。

自ら決めた道に従って、戦って死ぬのは構わない。

けれど別の誰かが敷いた道で戦って死ぬことだけは、死んでも御免だ。

 だからこそ、サクラの言葉は胸に深く刺さった。

 ならばレイの提案を受け入れたとしても、サクラを救いたいという思いが本物ならば、それは自分自身で選び抜いた選択―――自由に他ならない。

 「ありがとう、サクラ。これで俺は、俺のままでいられる」

 「でも、その変わり一つ約束して」

 「約束?」

 「必ず、帰ってきなさい。でなきゃ絶対許さないからね」

 最後に、悪戯っぽく微笑んでみせる。

 その姿が可笑しくて、思わずクツリと笑みが零れた。

 「ああ、約束するよ。俺は必ず生きて帰ってくる」

 


 出発当日。広場には大勢の見物人が詰めかけていた。皆、王女と共に地上へと向かう少年をひと目見ようと集まったのだ。地下出身で地上への移住権を手に入れた者は実に五十年ぶりのことらしい。それ程までに珍しく、同時に地下の人々にとっての憧れ、夢である。そして、羨望の眼差しが向けられるその先で短身痩躯の少年が家族と知人に別れの挨拶を交わしていた。

 「しっかりやんなよ、坊や」明朗快活なベラに肩を叩かれる。

 その隣には、二枚の車輪が付いた椅子に腰掛けるサクラの姿があった。

 「気を付けて」

 「サクラも体に気を付けろよ」

 気丈に振舞ってはいるが不安を隠しきれていないサクラに、力強く頷いて見せる。

次いでギンは、ベラの方へと向き直り。

 「それじゃ、サクラのこと頼む」

 「任せときな。その分しっかりと後で請求するからね」

 そんな冗談なのか本気なのか解らない台詞に、思わず笑みが零れる。

 「請求は俺じゃなくて、あっちにしろよ」

 そう言いながら指し示す先では大勢の野次馬に囲まれながらも超然と佇む金髪青眼の少女があった。質素ながら最高級の白を基調としたワンピース、その上から薄い甲冑型の魔装備に身を包むその姿は、神話や御伽話に登場する女神を彷彿とさせる装いだった。滝のように流れる艶のある髪は、極上の絹を思わせ、透き通った瞳は宝石を埋め込んでいるようですらある。

 地下の住民とは異なり、肌や服には汚れ一つない。レイがニコリと微笑んで見せる。その姿を目の当たりにした者は皆一様に、陶然とその姿に魅入っている。

 無理もない。ギンですら初めてレイを見た時は、その美貌に魅入り固まってしまったほどだ。

 しかし、レイは地下の住民たちの反応を気にした様子もなく、楚々とギンの傍ら、サクラの眼前へと進み出る。そして徐に眼前で膝を折り、頭を垂れた。それが騎士の礼であることは誰の目にも明らかだった。人々は驚愕した。自分たちとは天と地ほどの隔たりのある王族が、平民に対し膝を折り、礼節を尽くす行為に驚きを隠せなかったのだ。

 「アナタがサクラさんですね?」

 「は、はい、王女殿下!」面食らいながらも、サクラはどうにかそれだけを口にした。

 「ずっとアナタに会ってみたいと思っていました。それと私はアナタに謝らなくてはなりません。アナタの家族を危険に巻き込むことを。そして病に苦しむアナタを人質同然に扱ったことを、この場を借りて謝罪させていただきたい」 

 「そ、そんな滅相もございません!」

 「それでは、これまでの非礼を許していただけると?」

 「‥‥‥はい。それに決めたのは私ではなくこの子です。ならこれ以上私が横からとやかく口を挟む資格はありませんから」 

 尚も言葉を重ねようとしたレイだったが、最後には「判りました」と頷くに留めた。

 「想像通り、いや思っていた以上のお方です」

 恭しく頭を下げてから、立ち上がったレイが改めてギンの方へ向き直った。

 「それでは参りましょう」

 「最後に一つ確認だ。サクラの治療費と地上権は、俺たちが此処を発ってすぐに与えられるってことで間違いはないな?」

 「はい。既に医療部隊を待機させていますので、数日中に治療は可能です」

 「それが聞ければ十分だ」

 踵を返し階段へと足を向けた所で、サクラに呼び止められた。

 「気を付けてね、ギン」

 「ああ、行ってくる」

 別れの言葉は短かった。踵を巡らせ地上へ続く階段を駆け上る。

 普段、地下から見上げていた長階段は実際に上ってみると五分と掛からなかった。小さかった光が徐々に視界を埋め尽くし、やがて世界が白く染まった。これまでに見たことのない光量に眼を眇め、手で顔を覆う。だが次第に光にも慣れ、おずおずと眼を開けると―――。

 其処には、天井がなかった。

 地下の湿った空気とは違い頬を撫でる風は心地よかった。

 仰ぎ見たその先で燦然と輝く光球。以前、サクラから訊いたことがある。

 「あれが‥‥‥、太陽か?」

 初めて目の当たりにする地上は、想像していた何倍も壮大だった。

 「どうですか初めての地上は?」

 「‥‥‥凄いな。これが世界‥‥‥これが‥‥‥自由なんだな‥‥‥」

 眼を閉じ、肌で感じる風。陽の温もり、澄んだ匂い。

 薄暗く行き場のない地下とは異なり、今この瞬間、ギンは何物にも縛られない自由を感じていた。その事が爽快で、自然と顔には笑みが浮かびあがる。

 「さて、感動に打ちひしがれているところ申し訳ありませんが。私たちはこのまま、『匣舟』へと向かいます。これより先、後戻りはできません。覚悟はいいですか?」

 挑発とも受け取れるレイの言葉に、ギンは不敵に嘯いてみせる。

 「それはこっちの台詞だ。足手まといになるようなら見捨てるからな」 

 「望むところです」

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