第3話 【オルゴル 12年】
「――うーん」
ふと目が覚める。
どうやらカウンターにうつ伏せのまま寝てしまったらしく、長時間変な姿勢を保っていたせいか腰が痛い。
段々と夢見心地だった意識がハッキリするにつれ、二度寝をさせまいと強烈な頭痛が少女を襲う。
「痛ってててて……」
どれだけハイペースに飲み続けた所で、普段は目が覚めるとベッドの上にいる。だからこそ、この耐え難い頭痛を伴って襲い掛かる二日酔いは、彼女にとって暫くぶりの体験だった。
「ったく、どうせなら次の日まで寝てなさいよ、私」
瞼は固く瞑りつつ、これ以上刺激せぬよう注意を払いながら顔を起こす。
目に浮かぶはいつもの光景、よほどの事がない限りは毎日通い詰めているBAR・Poporloのそれだった。
「うっ――」
何の前兆もなく畳みかけてきた吐き気。
無様に胃の中身を地面に戻すような行為を、そこら辺の路上や見知らぬ場所で行わなかったのは幸いだろう。更に言うと自室で無かった点も喜んでよい。
こんな場面を見知らぬ通行人にでも見られたら最後。昨日のあの男の忠告じゃないが、良くて折檻、下手したら宗教裁判ものである。
僅かな安堵感を抱きつつも、少女は重ねて寄せてくる胃の不快感に成すすべなく、ただ勢いに任せて嘔吐し続けた。
「ごほっ、ごほっ……あー、最悪」
繰り返すうちにようやく戻す中身が無くなったか、ポケットの中にあるハンカチで口を拭きながら、
「マスター……水ー……」
弱弱しい声で助けを求める。
口の中は唾液と吐しゃ物と胃液でぐしゃぐしゃ。テーブルに残っているのも酒だけで、一刻も早く舌に残る不快感を払わなければ精神に支障が出てしまうだろう。
この時ばかりはか弱い乙女の声を発しながら、店主の姿を探すがどこにもない。
客がいる間はトイレにすら立たない彼だ、そもそも店の中に独りぼっちというのは彼女も体験した事なく、
「どこにいるのよぉ……マスタぁー」
「ん……」
赤子が親を探すような情けない声。
とてもこの世界でも屈指の実力者と呼ばれる聖女が発して良いモノでは無かったが、ここに来てようやく聞き覚えのある返事が返ってきた。
「おっと、私のした事が店内で寝てしまうとは……うっ」
「ぷっ。マスターも? いっつも渋くてナイスミドルな貴方が、そんな情けない姿晒すところなんて初めて見たわ」
「……少なくとも私は人前で吐き散らかすような醜態は演じておりませぬぞ」
カウンターの裏側に倒れこむ様に寄りかかっていたマスターが、作業台に手をつきながらゆっくりと立ち上がる。
どうやら重症度で言えばシャルロッテのそれに勝るとも劣らないらしく、俯きながら頭を押さえている所まで変わらない。朦朧とした意識の中でカウンター越しに店の床を見るが、『それ』を見るや否や表情は更に歪む。
マスターはため息をつくと戸棚から適当なガラスコップを二つ手に取り、カウンターにある流し台に備え付けられた蛇口から水を入れる。
「――幾らあと少し経てばすっかり綺麗になるとはいえ、自分の店でここまで吐き散らかされるのはオーナーとしても見ていて気持ちの良いモノではありませぬな」
「以後気を付けまーす」
少女はコップを受け取り軽く「ありがと」と礼を述べるや否や、豪快に顔を天井まで向けて飲み干し、
「もう一杯」
「畏まりました。それにしてもまだ12時回ってないのですか」
「お互い、中途半端な時間に起きちゃったみたいね」
「……私の方は起こさないでそっとして欲しかったものですな。老体に夜更かしは堪えます」
「死なばもろともよ」
マスターはシャルロッテの水をコップに注ぐ傍ら、ふと店の奥に掛けられた時計を見るが、時刻はまだ10時ちょっと過ぎたところ。
今日が昨日になるまで、あと1時間強――
こんな苦しみをあとそれだけの時間耐えなくてはならないのなら、いっそアイスピックで喉元でも貫こうか真剣に検討する二人だったが、
「なんだったんだろうね、さっきの男」
シャルロッテは微かに脳裏に残る、スーツ姿の男の記憶を呼び起こす。
基本、この店に他の客は来ない。
故に二人とも午後すぎには酒盛りを始め、夜8時を過ぎる頃には酔いつぶれて意識を失う――次に意識が戻る頃には別々のベッドの上で、気づけばこの酒場に立ち寄る。
これを来る日も来る日も繰り返すのが、シャルロッテとマスターの『日課』だった訳だが、
「この辺りでは見られない服装をしておりましたな。スーツなど、王都の高級文官くらいしか身につけない筈ですぞ」
「旅人……な訳ないよね」
「それに――明確にゴブリンが城外にいる事を示唆しておりましたな」
この街には組織された衛兵がいる。
その防御や監視の目は城内に留まらず、住人が街の外に出るにあたって通行頻度の高い街の外周近辺にも及ぶ。その中でゴブリン――しかも上位種の一つ目巨人『サイクロプス』が率いる大群が、今この時も刻一刻とこの街に気づいている人間など壁内にはいない筈だった。
「私も、貴方に教えてもらうまで気づかなかったですからな」
「ふん、あの時は笑えたわ。いきなり『臨時休業』とか掲げて自分の目で見に行っては死体になって草原に転がっているんだからね。聖職者様の忠告にはきちんと耳を傾けるものよ」
「この目で見なければ納得できない性分でしてな」
流石に二人ともこれ以上酒盛りする気分とはならず、黙々と水を腹の中に納めるだけだったが、
「――明日も来るかな、アイツ」
聞きたい事が山ほどある。
それはシャルロッテにしろマスターにしろ同じ。
いずれにせよ今二人にできる事は、精々残りの1時間を寝て過ごす位しか選択肢が残されていなかったが、
「すいませーん、誰かいませんか?」
ふと、バーの扉をドンドンと叩く音。
ドアベルが小さくチリンチリンと心地よい音色を出す中、
「誰、こんな時間に」
「……分からない」
ふと訪れた本日二人目の訪問者――既にこの世界始まって初めての出来事ではなくなる。
誰も立ち寄らない筈の店にここまで短期間に人が足を止めるとなると、それはもう『日課』とは呼べなくなっており、
「どうする?」
「当店は午後19:00から深夜25:00までが営業時間ゆえ、断る道理はないのですが――」
シャルロッテの問いにマスターはカウンターに有ったアイスピックを手元に手繰りよせ、
「開いていますぞ」
マスターの声が扉の向こうへと届くと同時に、シャルロッテも懐に納めた短刀に自分の右手を添える。
「失礼いたします!」
ハキハキとした声と共に扉に入ってくる人影。
そこにあったのは両手に木箱を抱えた青年で、
「うっぷ……なんだコレ……」
店に足を踏み入れた瞬間、恐らくは店内に立ち込める悪臭と地獄絵図に眉を顰める。
両手が塞がって鼻を摘まむ指すらないのが気の毒にさえ思えてきたが、彼は健気に床に散らばったシャルロッテの『作品』を避けつつ木箱をカウンターの上に置くと、
「えーと、店主の方でしょうか。今日の配達分です」
「配達? こんな時間に?」
そんな予定は聞いてないとばかりに顔をしかめるマスター。
一方のシャルロッテは店の奥の方へと顔を向け、間違っても青年の方へ振り向かまいと必死だった。
いずれにせよ『日課』から大きくかけ離れた出来事――この時はまだ世界からかけ離れているのが自分たちの方で有るとは知る由もなかったが、
「えーと、発注書上では4/1の午前10:00に『オルゴル』5本、『スケルットンシチー』6本とありますが……」
青年に告げられた、決して来るはずのなかった日付。
二人が世界の異常に気付いたのは、扉の向こうに照り付ける日光を視認出来てからだった。
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