12.「彼の遺書②」


 彼女は僕の目を見つめていた。僕もまた、彼女の瞳をぼうっと眺めていた。やがて彼女はさしていた傘を閉じやり、上着を脱いで僕の身体を包み始めた。よいしょっ、と声をこぼしながら僕の全身を持ち上げた。赤子を抱くような恰好で僕は彼女に抱えられ、幾多の疑問符が僕の脳裏をよぎる。どういうコトだろう、どうしてこの人は僕を。しかし、柔らかい体温に包まれた僕の自意識に安寧が注ぎ込まれ、目を閉じた僕は一瞬で寝入ってしまった。


 目が覚めると、見知らぬ家屋の中に僕はいた。どうやら彼女の家に連れてこられたらしい。彼女は僕の全身をタオルで拭いてくれたようだ。暖かい牛乳の入った丸皿が僕の眼前に置かれる。空腹という感覚を失っていた僕だが、目の前に馳走が用意されれば舌を伸ばすエネルギーくらいは残されていたらしい。僕はありついた。例の彼女は僕の近くにしゃがみこんでおり、満足気な表情で僕を眺めている。馳走を平らげた僕の全身に血流が巡り、僕は久方ぶりに思考のやり方を思い出す。どうして僕のコトを助けた? 僕はハッキリとそう言い、彼女が驚いた顔を見せた。ノライヌが人語を宣ったのだ、彼女が驚くのは自明の理であった。このまま恐怖に満ちた顔で僕を追い出すだろうか。だがそれでもいい、僕はやさぐれていた。しかし次の彼女の行動は、僕が想像していたどれにも当てはまらなかった。ポカンと口を開けていた彼女が、やがてニンマリと頬をたゆませ、小さな口を開く。そうね、あなたを助けた理由は、あなたの瞳に、過去の私が出会っていた気がしたから。そんなコトを言った。私の名前はリンネと言うの。あなたのコトはなんて呼べばいいかしら? そんなコトも言った。


 僕はリンネの家に居座った。三食屋根つきの生活を手に入れた。彼女が僕を追い出す気配はなかった。僕は彼女に対して何もしなかった。何も与えなかった。それでも彼女は僕に何も要求しなかった。そのコトが不思議で仕方がなかった。力を失った僕を飼い置く利点など、彼女には一つもないというのに。彼女はよく、僕に話しかけた。今日は寒いね、今日は何を食べたい? ねぇ、たまには散歩でもしようか。野良犬に扮した僕は彼女に対して人語を使って声を返したが、彼女がその事実を疑問視するコトは一度もなかった。彼女は寝る前に、決まって僕の頭を柔らかく撫でた。


 死の縁から現世に舞い戻った僕は、たゆたうような時間をリンネと過ごし、徐々に神通力を取り戻していった。ある日、彼女の前でつむじ風を披露して見せると、彼女は手品を初めて見る子供のようにはしゃいだ。今でこそ僕はノライヌの為りをしているが、本来は物ノ怪の姿をしている。そう告げると彼女はいたずらっぽく笑った。あなたはもしかして、人間に化けるコトもできるのかしら。お安い御用だ。僕がそう返すと、彼女はじゃあ、と一枚の画用紙を取り出し、一人の人物を描いた。藍色の着流しをだぶつかせ、丸眼鏡を鼻頭で保ち、無精ひげを生やしている胡散臭い男性。この人の姿に化けて欲しいと彼女は僕にねだった。彼女が僕に何かを要求したのはコレが初めてであり、最後だった。僕は彼女の描いた人間の姿に変身して、背の低い彼女の顔を見下ろした。彼女はポカンと口を開き、幼子のような表情でしばらく僕の顔を見つめていた。やがて彼女の頬に涙が伝い、フラリ、全身から力が抜け落ちるように彼女は僕の身体にしなだれかかる。彼女は僕の胸に顔をうずめ嗚咽を洩らしながら、あの時は、私を助けてくれてありがとう、そう言った。その言葉の意味を、彼女が泣いた理由を、その時の僕はよくわかっていなかった。


 人間の姿になった僕とリンネは、しばしば外の世界に出かけた。信号が赤の時に横断歩道を渡ってはいけない。買い物をするときはお金を支払わなければならない。女性と二人で歩く時、男性は車道側に身を置くのがマナーである。人間社会における最低限のルールを、彼女は懇切丁寧に僕に教え込んでいった。面倒で不条理な決まり事が実に多いな、そんなコトを思いながらも僕は彼女の言葉に従順に従った。僕が初めてコンビニで一人で買い物をして帰ってきたとき、えらいえらいと彼女は背伸びしながら僕の頭をなでた。


 リンネは小食で食事を抜くことも多かったのだが、背油豚骨醤油ラーメンに目がなかった。家の近くにあるお気に入りのラーメン屋に二人でよく足を運び、その時ばかりはごちそうさまと、ペロリ平らげたあとに見せる彼女の顔はどこか得意気だった。彼女はよく歌を歌っていた。僕が知る類の人語ではなく、不思議そうな顔の僕に気づいた彼女は、洋楽だから、と一枚のCDを僕に手渡す。シンディローパーっていうの、とっても素敵な歌声の女性歌手よ、まるで我が子をほめたたえるように、やはり彼女は柔らかく笑っていた。


 うだるように熱い夏が来て、僕たちはもっぱらリンネの家の中で時を過ごしていた。彼女が外出を提案するコトは少なくなり、口数が減っているような気がした。彼女が寝室で横になる機会が増え、一日中寝て過ごしている日もあった。大丈夫だから、ニコリと笑う彼女の顔つきは、しかし無理やり笑っているようにも見えた。


 リンネと出会って、二度目の秋がきた。彼女は毎日のほとんどを寝て過ごしていた。ただ眠っているだけの彼女の姿を、僕は近くでジッと見つめていた。彼女が時折目を覚まし、少しだけ僕と会話し、また目を瞑る。そんな日々が続いた。ある時、彼女は珍しく寝室から起き出しており、居間にいた。平気なのか? 僕がそう聞くと、彼女は僕ではなく、何もない虚空を見つめながら言った。さっき、死神さんに会ったの。私の命は、あと二十四時間だって。僕は彼女の言っている意味を理解できていなかったが、彼女が真剣だというコトだけはわかり、直感もあった。彼女はもうすぐこの世界からいなくなってしまうのだろうと。僕と彼女は言葉を重ね合った。彼女と過ごした一年という時を、一つ一つ丁寧に、もう一度二人で歩むように。

 僕はずっと疑問に思っていたコトを、今ひとたび口に出してみた。何故キミは、僕を救ってくれたのだ。僕はキミに何も与えてないのに、何故キミは僕を傍に置いていたのだ。僕に存在価値など、ひとかけらもないというのに。彼女が言葉を返す。それは、あなたの視線から見た世界での話よ。私の見る世界では、あなたの存在が必要なの。細い目つきのリンネが髪を揺らし、その表情が僕の瞳におぼろげに映る。遠い昔、前世のあなたが、前世の私を救ってくれた。愛を与えてくれた。でも、前世の私はあなたに何もしなかった。あの雨の日、あなたの瞳を見た時に、それを思い出したから。今度は私があなたを救う番、あなたに愛を与えるのが、今世の私の役目だから。彼女の言葉に、僕はなんて答えたらいいのかわからなかった。阿呆面を晒す僕を尻目に、彼女はなおも言葉を連ねる。来世の私とあなたは、必ずまた出会う。来世の私を、どうか見つけて欲しい。その時は、今度は、あなたが、私を――


 唐突に、リンネが口を閉じ、眼を瞑り、パタンと倒れる。そのまま彼女が目を覚ますコトはなかった。


 しばらく僕は、ソファに横たわったリンネの横顔をただ見つめていた。乱れた髪を整え、彼女の白い肌をそっと撫でる。彼女の体にはまだ体温が宿っており、とても死んでいるとは思えない。しかし彼女の心臓は一つも脈打つコトなく、彼女の口からは一切の呼吸音が聞こえない。彼女の身体が生命活動を停止している事実は瞭然だった。僕は彼女の身体を抱え上げ、外へ出て、都会の空を浮遊した。野山を見つけ、降り立ち、彼女の身体を埋葬した。しばらくその場で呆けていた。あらゆる思考が巡る。彼女と僕は前世で出会っていたという、前世の僕が彼女を救ったコトがあるのだという、それが、リンネが僕を救った理由なのだと。


 これからどうしようかな。漠然とそんなコトを考えた。この一年間、僕の人生はリンネに与えられていた。彼女の用意した料理を食し、彼女が向かう先に僕も同行する。彼女の問いかけに対して返答し、彼女が笑う。僕の一切の行動が彼女の意志によって定められていた。であるなら、彼女の最後の言葉が脳内に反芻される。来世の私とあなたは、必ずまた出会う。来世の私を、どうか見つけて欲しい。ゴロリ野山に横たわっていた僕は身体を起こし、再び都会の空に塗れる。リンネとの約束を果たすコトが、今の僕が生きる理由なのではないか。そんな決意を秘めながら。


 人間が使う時間軸でいうところの十年以上もの間、僕は街という街をさまよい歩いた。来世のリンネを探して回った。しかし彼女は一向に見つからない。そもそも、生まれ変わったあとの人間をどうやって探せばいいのだろうか。皆目見当がつかなかったが、僕がやれるコトはとにかく歩くコトだけだった。住みたい街ランキングナンバー1の街、東京都内から今日もあらゆる人が行楽に訪れております。ふいに見かけたテレビ放送で見知らぬ人間がそんなコトを言っていた。人が多く集まる場所ならば、リンネに出会う確率も高くなるのではないか、そんな理由から、僕は吉祥寺に居を構えるコトにした。駅前のアーケード街へ、南口沿いの商店街へ、井の頭恩賜公園へ、僕は毎日、飽くるコトなく足を運んだ。だがリンネは見つからない。やはり彼女の言った言葉は全て世迷言だったのではないか。前世の僕が彼女と出会っていた事実などないし、来世の彼女と僕が出会うコトもない。全てはリンネの妄想で、僕が行っているコトはただの徒労なのではないか。そんな考えさえ脳裏によぎり、でも僕はリンネを探すコトをやめなかった。何故なら、彼女の最後の言葉だけが、僕の人生の標だったから。決意新たにして歩く僕の横を、一人の黒髪おかっぱ少女が横切る。電流が全身を駆け巡るような感覚、とでも称すればよいのかな。とにかく僕はハッとなり後ろを振り向く。僕の様子に気づいたのか彼女も足を止め、身体を半回転させながら僕の顔に目をやり、僕たちの視線が交錯した。

 リンネだ。やや幼いものの、少女は死んだリンネとそっくりの顔をしていた。何故だかわからないが、僕は彼女がリンネの生まれ変わりなのだと直感していた。僕は言葉を失い、茫然とした表情でしばらく彼女を見ていた。彼女もまた、訝し気な表情でじぃっと僕を見つめていたが、やがて顔を背け、再び前を向き、足早にその場を去っていった。僕は彼女の背中を見つめながら、しかに何をするコトもなかった。彼女に声をかけなかった。僕は死んだリンネとの約束通り、来世の彼女を見つけた。だがその後、僕はどうすればいいのだ? 前世のリンネはそれを僕に教えるコトなく、この世を去った。


 僕はリンネの姿を遠くから眺めた。毎日毎日、飽くるコトなく。彼女は吉祥寺の私立学校に通う高校生だった。学校でいじめを受けているようだ。前世のリンネと違い、彼女はあまり笑わなかった。不機嫌そうな仏頂面で、背を縮こませながら、気配を消すように日々を過ごしていた。そんな彼女が行動を起こす。彼女をいじめていた女生徒への復讐のために奔走する。自分がやった罪に対してもがき苦しむ。その様を、僕は遠くからただ眺めているだけだった。やがて彼女は、誰もいない廃アパートの屋上で一人時を過ごすようになる。たぶん、彼女はあそこから飛び降りる気なのだな。ずっと彼女を見てきた僕がそう想像するのは難くなかった。僕は彼女を救うべきなのだろうか、かつてのリンネが、僕にしてくれたように。だが何のために? 僕は葛藤した。明確に脳が混乱していた。この期に及んで僕は前世のリンネの言葉を本当の意味で理解できていなかった。悩んで悩んで、唸り続け、とある邂逅が巨大な疑問符に終止符を打つ。僕の目の前に死神が現れて、僕の死を宣告したのだ。


 僕の人生とは、何だったのだろうな。天狗だから、人生と宣うのもおかしいか。前世のリンネに与えられた愛をどこにも消化せぬまま、僕は死ぬ。あと二十四時間、正確に言うと、もう二十二時間くらいか、今更、今世の彼女をどうこうするコトはできない。僕には、彼女を救うコトはもうできない。もう少し早く行動していれば、何かが変わったのかもしれない。僕は後悔しているのか? どうして? 今世のリンネを救うコトの意味は? 前世のリンネが僕にしてくれたコトの意味は? 全ての答えは、僕の死と共に暗黒に消え去る。ありていに言うと、実につまらない人生だったな。暇つぶしの足しにもならん。やはり書き残すべきではなかったのかもしれない。この遺書はあとで燃やしてしまおう。今世よ、さらば。



 追伸



 遺書に追伸を記すのも如何とは思うが、僕は今それなりに混乱している。とりあえず事実だけを綴っておこう。先ほど僕に死を宣告した死神がこんなコトを言い出した。すいません、天狗さんの寿命、間違えちゃいました。あなたが死ぬの、明日じゃなくて来年の明日です。いや~、死神だって、たまには過ちを犯すんですよ。あなた達には今まで散々尽くしていたんだから、今回くらいは勘弁してくださいよ。てへぺろっ。


 どうしたものか、一年もあれば、僕は今世のリンネを救えるかもしれない。前世のリンネが僕にしてくれたように、僕は彼女に愛を与えるコトができるかもしれない。しかしそうする理由が未だに見つからない。

 いや、待てよ。そもそも理由などいるのか? 僕は先ほど、死を目の前にして明らかに後悔していた。後悔しないために行動する、それだけで立派な理由になりえるのではないか?


 ええい、考えるのが面倒だ。今世の彼女を救うコト、今世の彼女を愛するコト、残るわずかな僕の人生、それをするコトが僕の生きる意味だ。そう決めた。そうと決めたからには、遺書など書いている場合ではないな。

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