7.「なんで、空、飛べるんですか」


 錆びついたドアノブに掴みかかり、乱暴に開け放つ。鉄の軋む音が悲鳴のように鳴り響き、リンネの視界に広がったのは真っ暗闇で何もない空間、うら寂れた廃アパートの屋上だった。彼女の胸に、安寧が押し寄せる。


 フラフラと、幽霊のような足取りでリンネは歩みを進めた。夜空へ吸い込まれるように足を動かし、鉄柵にしなだれかかった。リンネの視界に街の景色が広がる。闇夜のさ中、有象無象に瞬く都会の光は、星一つ見えない夜空よりもよっぽど眩しかった。


 憑りつかれたように彼女は身体を動かしていた。鉄柵をグッと両掌で握りしめて、屈伸運動の要領でピョンと飛び上がる。両腕をまっすぐにのばしたまま足をねじり動かし、鉄柵をまたいだ彼女はトンと向こう側へと降り立った。彼女が履いている革靴と同じくらいの縦幅しか持たない縁の上、等間隔のひだを重ねる紺のスカートがヒラヒラと舞い、後ろ手で鉄柵を掴んでいる彼女はぼうっと空を見上げた。


 下を向いたら、決心が揺らいでしまう気がする。だから、リンネはソレをしなかった。やめる理由を思いつく前に、行動に移さなくては、そう思った彼女は、ゆっくりと瞼を閉じた。


 ゆっくりとゆっくりと、鉄柵を握る力を緩めていく。

 ゆっくりとゆっくりと、重心を前のめりにずらしていく。

 夜の秋風が、彼女の前髪をさらう。


 リンネは、心の中でさようならと呟いた。誰に対してでもなく、そう言った。彼女の身体が、深淵の空にフワリ落ちゆく。


 力学を失ったリンネの全身が物理法則に則って、グンッと地上に引っ張られた。ゾワリ、全身の毛穴という毛穴が逆立つような感覚、彼女の身体が体温という概念を失う。リンネの脳裏に、過去の記憶がまるで走馬灯のように駆け巡って――、なんて、映画やドラマの世界の話だ。想起される思い出など何一つない。ああ、私、死ぬんだな。ホントに、死んじゃうんだな。彼女が考えていたのはそれくらいだった。やがて、彼女のカラダを構成する六十兆以上の細胞が終焉を悟る。永劫続く冬眠の準備段階に入る。


 悟りはじめたその刹那、「やっぱりまだだったわ」と、彼女の脳が、六十兆以上の細胞全てにタンマをかけた。


 ぞんざいに結果論だけを綴ると、彼女は死ななかった。



 空に投げ出されたリンネの身体を、夜空舞う天狗が抱きとめた。

 彼女の背中に左腕を回した天狗が、今度は「ほっ」という掛け声と共に右腕を彼女のふくらはぎに潜り込ませる。そのままグリンと彼女の身体を半回転に移動させ、リンネはゆりかごに収まる赤子のような恰好になった。俗的に称するならば、お姫様抱っこである。


 リンネの脳は事態の急変に追いついていなかった。彼女は、丸々と見開いた眼で、暗がりに塗れる天狗の顔を見上げるくらいしかやりようがなかった。彼が纏う着流しに彼女の半身が接着しており、古めかしい匂いがリンネの鼻孔をツンと刺激する。相変わらず彼女の頭上には幾多の疑問符が舞を舞っているが、取り急ぎ彼女は思いついた言葉をてばなしで放った。


「なんで、空、飛べるんですか」


 リンネはおよそ驚愕に満ちた表情を顔面いっぱいに広げていたが、しかし声を掛けられた天狗も茫然とした表情で、その目はどこか虚ろだった。彼にリンネの声は届いていないようだった。月明かりが夜空舞う二人を淡く照らし、天狗は死人のように声をこぼした。


「そうか、そういう、コトだったのか」


 天狗の目は虚空を見据えていた。彼の意識は自身の頭の中にしかないようだった。為す術をもたないリンネはそんな彼の顔をジッと見つめるくらいしかやりようがなく、やがて天狗の視線が遠慮がちに移ろい、彼らの視線が交錯する。


「リンネ、キミが僕を救ってくれた理由が、ようやくわかった」



 乾いた音が二つ、タンッと静寂のさ中に響いて。深淵広がる廃アパートの屋上に不格好なシルエットがゆらめく。フワリ下降したのは藍色の着流しを纏った天狗であり、彼はリンネの全身二点を支えていた両腕をゆっくりと傾けていく。せり上がるすべり台の要領で、彼女の足先もまた地面に着地した。直立の恰好になった二人は鼻先三十センチメートルの距離で相対しており、そのまま天狗はリンネの両肩を無骨な両掌でガシリ掴み、彼女の身体がビクリ震える。いつもの阿呆面はどこへやら、天狗は真剣な表情でリンネの顔をまっすぐに見つめていた。


「リンネよ、これから僕がする話を、どうか最後まで聞いて欲しい」


 リンネの身体は凝り固まっていた。水分量の少ない夜風が彼女の水晶体を乾かし、彼女は瞬きの仕方をどうにも思い出せなくなっていた。天狗が口を開く。一音一音をしっかりと、あまりにもゆったりと彼は言葉を連ねていった。


「キミは、自分に存在価値がないと感じているな。だから自殺して、自分の命を絶ってしまおうと、そういう結論に行き着いたのだろう。だがそれは大きな間違いだ。キミには生きるべき理由が、ちゃんと存在する」

「何故、そんなコトが言えるのですか。ほとんど初対面のアナタが、私の何を知っているというのですか」


 リンネがわずかばかり顔をしかめた。非難めいた目つきで、非難めいた声を返す。しかし天狗は、怯む様子を一切見せない。


「キミが死を決意した理由、クラスメートからのいじめが辛かったからではないだろう。君が苦しんでいる本当の理由は、自らがいじめる側に回ってしまい、その罪の重さに気づき、葛藤に耐えられなくなったから。違うか?」


 リンネの表情が一変した。彼女の表情筋を包み隠す一切のペルソナが剥がれ落ちた。驚きと、困惑と、恐怖と。感情の入り混じった蒼が顔いっぱいに広がっていく。自分の意志とは裏腹に、リンネは「どうして、それを」と力なくこぼしていた。天狗の目つきは、顔つきは、相変わらず容赦がなかった。


「今年の、春頃からかな。僕は君のコトを遠くからずっと見ていた。学校の帰り道、君が涙をすすりながら孤独に歩いている姿も、人気ない裏通りで親友と教師の逢瀬を尾行している姿も、通夜の会場から蒼白の表情で飛び出してく姿も、全て見ていた」


 天狗が言葉を切り、口を結ぶ。そのまま彼は、しばらくリンネの顔をただ眺める。リンネはというと、何かを言いたげな表情を浮かべて、口を開き、すぐに閉じる。無為な反復運動が二、三度往復されたところで、重力のない音が空気中の酸素に引っかかった。リンネが発したギリギリのノイズが、天狗の耳にようやく届く。


「なんで、私なんかを」


 天狗が再び口を開き、暗がりのさ中、その声はやけにハッキリと空間に残響した。


「前世のキミと、約束したからだ」

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