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「それでは僭越ながら、この世界の地理について解説をいたします。ご面倒をおかけしますが、聖女様には弟君への通訳をお願いします」
リンゲンが残った彼の部下に目配せすると、護衛として美祢たちに付き添っていた騎士が一階部分に下り、腰にぶら下げた長剣を鞘ごと外した。地図を踏まずに各国を指し示す、指し棒代わりに使うためだ。中途半端な武士道の知識がある陸がそんな使い方をしていいのかと眉を寄せたが、踏んだり尻の下に敷いたりしない限りは、国王からの授かりものとはいえ問題ないのだと近衛隊の男たちは頷いた。
「我がアクララン王国をはじめ、この大陸には大小七つの国があります」
臨時の地理の講義が始まると、リンゲンの深みのある声が朗々と図書室中に広がった。
七つの国家を養う大陸に特別な名前はない。
周囲の大海を見回しても、目に見える範囲で他に大きな陸地がないため『大陸』だけで事足りてしまうからだ。大陸を取り囲む大海には小さな島国がいくつか存在するが、距離があるため滅多に交流はない。大海原のさらに向こう側にも別の大陸があるのかもしれないが、解明するには航行技術がまだ確立されておらず、未知の世界に向けて帆を広げた船乗りたちに無事に戻ってきたものもいなかった。
大陸は東西にやや広がった歪な菱形をしていた。特に大陸の北部の海岸線はガタガタと入り組んだ形をしていて、元の世界では『リアス式海岸』と呼ばれる形状をしている。南側には広い海岸線が続く場所もあった。大陸の近くにも所々小島が点在し、それぞれ治める国によって色分けされていた。
白い巨石で色分けされた大国以外で目立つのは、南から北に向かって大陸の三分の二ほどを貫く大山脈だ。大山脈は『切り裂き山脈』と呼ばれ、その名の通り大陸の東西を切り裂くように分断している。他にも小規模の山脈が点在するが、山越えできないほどに険しい山脈はこの切り裂き山脈以外にない。
その切り裂き山脈から東南の大地のほぼ全域を占めるのが、白い一枚の巨石で色分けされたアクララン王国だ。ぱっと見、大陸の四割近くを占めている。王都は広大な領域のやや西寄りにあり、その近くには神殿を頂く山、『ウリテルの寝台』も記されていた。
各国を走る水色の線は河川だ。これは青い岩石を薄く彫った溝に嵌め込んでいるという。さらに大陸の海岸線と各国の国境線は金の帯で区切られていた。
各国が七色に色分けされているのは、各国王家の紋章の基本色を表すためで、つまり各国のイメージカラーということらしい。
大陸の東の突端には赤い岩石で色分けされた海の民の小国・セン。センの周囲を取り囲む海にはゴマ粒を撒いたような小島がいくつもあった。リンゲンによれば、正確には八百十二の小島が点在し、人が住む島もあれば無人島もあるそうだ。
アクララン王国の北部には薄紫色の岩石で色分けされた、フック型の領土を治める二番目の大国・エルバがある。エルバは一年の多くを雪と氷に覆われており、狩猟で主に生活している。
そのエルバに巻き込まれる形で存在する深緑色の小国・ミティウェア。広葉樹の深い森が広がる秘境の国だ。古くは『森の人』とも呼ばれていた。高い木工技術と果樹栽培技術を誇り、高名な建築家を何人も輩出している芸術の国でもある。
ミティウェアの南には灰色の石で色付けされたベペルティ国は、大陸の中でも三番目に大きいが国土の大半を灰色の砂漠が占めるため比較的人口密度は低いらしい。宝石や魔法石の一大生産地で、彫金技術にも優れる。アクララン王国の近衛隊の鎧もベペルティ人技術者に装飾を依頼することが多く、距離はあるが割と身近な国らしい。
そしてさらに南、アクララン王国から陸路で向かうと最も遠い国、ケチャ・ラン国があり、石の色はオレンジだった。豊かな森や肥沃な農地がないケチャ・ランでは、他より医療と科学が進んでおり、なかでも造船業に力を入れている。国の大きさとしては、ミティウェアと同じくらいで、センより少し広い。
最後の一つはどこにあるのかと目を凝らすと、切り裂き山脈の中間、アクララン王国側に小さな黒い丸が見えた。この黒丸の位置がエティス。通称『魔術師村』とも呼ばれる、大陸の最小国だ。
以前、「エティスが本気で歯向かってくればアクララン王国は苦戦する」と聞いたのを覚えていた美祢は驚いた。
「え、あんなに小さいのですか?」
「エティスは優秀な魔術師を多く抱えている国です。国家の大小に意味はありません」
七つの国々は、それぞれに得意分野が異なるので、何の争いもない時には互いが互いに助け合って生きているのだが、ひとたび戦いの火種が生まれるとじわじわ延焼してしまいなかなか治まらない。
因みに、大陸の大国アクラランでは、自国だけで十分にやっていけるだけの高い食料自給率と産業力があるのだが、それはそれで争いの火種になるので、他国ともしっかり協力関係を結んでいた。互いが助け合うという精神は、千年前の英雄アクラランの意思でもあった。
地理的には大規模な戦争を起こしにくそうな形状をしていそうだが、そういうわけにもいかないらしい。
北方のエルバは一年の大半を雪と氷に閉ざされ、肥沃な大地を渇望していた。エルバの戦士たちはアクララン王国だけではなくミティウェアとも交戦しており、ミティウェアは軍事支援協力条約を締結したアクラランに支援を求めていた。
東のセンの国は実質的にも地理的にもアクララン王国の属国だが、東の海からは『混沌』と呼ばれ災いをもたらす悪いモノたちがやってくる。さらにケチャ共和国は南の海からアクララン王国にちょっかいを出してきていた。
「ここまでで、何かご質問は?」
「いえ。解説いただきありがとうございました」
三者三様に礼を交わすと、リンゲンが部屋まで送ると言い出した。
前後を近衛隊に挟まれながら、陸は姉をエスコートして進む。まだぎこちなさは残るものの、だいぶ慣れたらしい。
部屋の位置的に、美祢が最初に分かれることになった。また夕食の時間に会おうと弟に手を振り、扉を締める。
黒髪の騎士は、たいしたことなさそうには言っていたが。
一人きりになった彼女は深いため息を吐いた。
先ほど、リンゲンは各国の戦況に関して、軽い表現をしていたが、神殿で様々な情報を見聞きする美祢は、それぞれの状況が思わしくないのだと知っていた。
早く、『最初の責務』を果たさければと気がはやる。
しかし、何事も思い通りに事が運ぶわけではない。
最近、彼女が弟以外のことで気にしているのは、聖女としての自分の存在意義だった。
下の神殿に到着した翌日、大神官を名乗る太った老人から聖女についてのより詳しい説明があった。その時に「週に数回、お祈りの最中に神から神の啓示がある」と聞かされていたのだが、彼女にはまだその経験がない。
彼女が聖女として神殿に来てから日が浅いので、今のところはまだ誰も何も言ってこないのだが、天啓の有無を聞いてくる周囲の表情は当惑の色合いが強かった。
彼らが――否、この国全体が神の啓示を待っていることは美祢も身に染みて分かっていた。
昼間の薔薇園で、陸には『書簡』とざっくりした説明をしたが、正確には各地から送られてくるのは報告書の類だ。その内容は大半が不作や辺境地における戦況に関わるもので、聖女はこの内容をもとにウリテルに不毛の大地に緑を広げ、襲い掛かる災厄を跳ね返す術が授けられるこの災いと取り除く術を与えてほしいと願う。
アクララン王国では長年、三方向からの攻撃に対応しつつ、同時にエティスがこの混乱に乗じて攻め入ってこないように物資を支援することで押さえている状態が続いていた。しかもその上、国の南部では長らく不作が続いている。これ以上大国の穀倉地帯が荒れ果ててしまえば、いくら強国アクラランとはいえひとたまりもない。
そんな状況の大国を、聖女不在の二十数年間、その肩に全ての責任を背負って指揮してきたのが、現国王クレイオス=アレクサンドル・アクラランだった。彼の政治力と指導力に敬意を示すために、国民からは『賢秀王』のあだ名をつけられるほどに慕われていた。
聖女として祀り上げられた美祢がどう思おうと、極めて難しい状況にあるにも関わらず、国が大きく混乱しないよう努める彼は稀代の名君と言えなくもない。
しかもこのような状況にしてしまったのは、本来この世界に生れ落ちるはずだった聖女の魂とやらが別の世界に、日本で生まれてしまったためだと言われれば、決して美祢のせいではないはずなのに、まるで自分が責められているような気がして堪らなくなった。
『神殿で得た情報は口外してはならない』
神殿で繰り返し吹き込まれた制約を思い出して、重苦しい罪悪感に耐え忍ぶ。
美祢にはまだまだ大きな責務がある。
神からの啓示を授かることはその準備段階でしかない。
「……少し、歩き疲れちゃったかな」
肺の中を空っぽにするように、深く、深く息を吐きだすと、努めて自然に独り言を呟いた。
王宮にいる間も、神殿にいる間も、常に彼女は自分の言動に注意を払わなければならない。実は召喚の儀で呼び出されてからずっと、彼女は王家と神殿の監視下に置かれ続けている。
それは陸も同じだ。
彼ら姉弟は部屋のどこかから、ずっと見られ、記録を付けられている。
それは気付いたのではなく、直接そう告げられたからだ。
告げたのは、クレイオス=アレクサンドル・アクラランその人だった。
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