それは建国伝説を説明するために文官が来た日の夜のこと。


 目覚めない陸の隣で眠れずにいた美祢のもとに、深夜、壮年の高貴な男が訪ねてきた。

 余裕の感じられる微笑みを浮かべ、「少しいいかな」と有無を言わさず部屋に押し入った国王は一人だった。厳格な宰相も長身の近衛隊隊長も連れずにどうしたのかと訊けば、少し話をしに来たのだという。


「こんな時間にすまない。……起こしたかね?」

「いいえ、起きていましたので。……それで、お話とは一体何でしょう?」

「まぁそう急くな。それよりもそなたの弟の様子はどうだ?」

「お医者様によれば、状態は落ち着いているそうです」

「それは良かった」


 悠々と部屋を歩き回る国王に不信感を抱きながら、美祢は一定の距離を保ち続けた。

 二人きりではないが限りなくそれに近い状況で、こんな夜更けに、男が女の部屋に訪ねてくるとは実に好ましくない。


 美祢はクレイオス・アクラランの年齢を、人種の違いや威風堂々した振る舞いを踏まえて、彼女たちの父親と同じくらいの年代――大体四十代後半から五十代前半――を見込んでいた。しかし、時折見せる茶目っ気溢れる表情から、実はもう少し年を重ねているのかもしれない。

 それでも、厚い胸板やがっしりした太い腕からは衰えぬ力を感じることができ、仮にその腕の中に引き込まれたら美祢には抜け出すことなど不可能だと直感させた。


 突然の来訪をいぶかしむ美祢に、国王は彼女が何を心配しているのか気付いたらしい。ふっと息を溢した。


「そなたに疚しいことを何かしようと思って来たわけではない」


 勘違いだったのかと顔を背ける美祢の姿に国王は一瞬だけ仄暗く微笑すると、眠る陸に近づきその傍らに腰を落ち着けた。何をする気だと気を揉む美祢に軽く手を掲げ、そのまま陸の頬に手を添えた。


「姉弟と言っていたが、よく見るとそなたと似ていないな」


 少々不躾な意見に美祢はムッとするも、弟は母親似なのだと説明した。では美祢本人は父親似なのかと聞かれて、内心悩みつつも首肯した。

 確かに昔は目元と口元が父親そっくりだったが、二十歳を越えた頃から自分の顔立ちが変わってきているようだと感じていた。周囲が気付いても「あれ? なんだか雰囲気変わったかも?」と思う程度の些細な変化ではあったが。


「そうか、母親に似ているのか。ではさぞかし美しい人だったのだろう」

「まぁ、それなりに。……でも、この子は母親似と言われるのを嫌がります」

「そうなのか?」

「いろいろありましたので」

「それは残念だったな」


 月明かりで照らしながら陸の寝顔を観察すると、その額にかかる髪を指先で払う。あくまでも陸を丁寧に扱う国王に、美祢は徐々に緊張を解いた。

 国のトップの仕事などよく知らないが、激務であることには違いない。そんな中でも突然異世界に飛ばされた姉弟に気にして、こうして会いに来てくれたのだろう。第一印象は最悪だったが、質問には真摯に答えようとしてくれるし、それなりに生活の配慮もしてくれる。実はそんなに悪い人でもないのかもしれない。

 そう思い始めたのだ。


 彼女の雰囲気が和らいだのを察した国王は、陸の頭を撫でる手を止めずに建国伝説を聞いてどうだったかと問いかけた。


 正直なところ、伝説を聞いた感想を問われても困ってしまう。特にこの国の礎を築いた大切なお話だ、「よくありそうなお話だと思いました」とは口が裂けても言えない。

 美祢は国王の気分を害さないように言葉を選びながら、神が世界や生命を創造したり人を唆す悪の存在があったりという点に前の世界との共通点を感じつつ、素晴らしい英雄譚だと思うと述べた。

 次いで、前の世界ではどんな神を信仰していたか問われたので、素直に無神論者であることを伝えると、その回答は予期していなかったようで国王は目を丸くした。


「そなたは神を信じないのか?」

「私の国ではそれが一般的な考え方でした。年明けや何かの行事でお祀りすることはありましたけれど、神様を信じているか否かではなく、それが文化でしたから。もちろん、神様や宗教を信仰している国や人もありましたけれど」


 信じているわけではないのに神を祀るという風習は、生活のありとあらゆる場面に信仰心が深く根付いているこの世界では理解できないらしい。前の世界でもそのような話は聞いたことがある。ここでは「日本古来の宗教では八百万の神々があって多くのものに神が宿っていると考えられている」という話は黙っておくことにした。美祢はその考え方を受け入れているが、その宗教を信仰しているわけでもない。

 きっと余計に混乱させてしまう。


「では神を信じないというそなたは、何を信じ、心の拠り所としているのだ?」


 この質問に美祢は困惑した。改めて考えたこともない。

 何もない場所をじっと見つめながら考えてみる。


 何かに祈ったことはこれまでに何度もある。

 雑誌の占いコーナーの結果で一喜一憂し、こっそりラッキーアイテムを鞄に忍ばせた。

 数少ない友人に誘われて占い師の元を訪れたこともあった。

 季節のイベントでも可愛らしい願い事を書いて飾った。

 神社や寺に足を運べば、家族の健康と平安を願った。

 そして、拗れた家庭の中で、幼い弟に寄り添いながら何度も名もなき神様に助けを求めた。


 しかしそれは信仰ではない。

 では心の拠り所は何かと思考を巡らすと、その答えはあまりにも呆気なく思い浮かんだ。他にはどうかと観点を変えてみても、終着点は結局同じだった。


「……私は何かを信じているわけではありません。でも、『心の拠り所は何か』というなら、それは間違いなく、私の家族の存在です」


 私生活や仕事でどんなにしんどいと感じることがあっても、耐えてこられたのは家族が――陸がいたからだ。

 今も正気を疑いたくなるような状況に置かれていても、なんとしてでも陸を守るというたった一つの思いが彼女をこの場に立たせている。


「私は、陸を守るためなら何でもやるつもりです」

「ふむ、『何でも』か。……すごいな、そなたの家族愛は」


 その強い想いに国王は空を仰ぎ、短い沈黙の後、再び美祢に視線を合わせた。


「……それではその『何でも』というのをやってもらおう。弟にかけるその情けを、我が国にもかけてほしい」


 口調はそれまでと変わらないのに、底冷えしそうな冷気を孕む声に、華奢な体が震えた。穏やかな夕焼け色だと思っていたはずの双眸が、腹を空かせた猛獣のそれに見える。

 目的を果たすためなら手段を択ばず、冷徹な判断を下す国の指導者がそこにはいた。


「それは……『神に祈りを捧げる』という、お話でしょうか?」


 部屋の空気が急に変わったことに戸惑いつつ目では陸を案じる美祢を、国王は一笑する。


「そんなもので国が救えるなら、そなたのような清い娘たちを国中から集めて神殿に送り込んでいる。それでは駄目なのだ。この国を救うためにはそなたが必要なのだ、せい……いや、今はミネ殿と呼んだ方がいいのかな?」


 眠る陸の首筋に、大きな男の手がかかった。親指と人差し指で細い顎をグラグラと左右に揺らす。男が持つ色彩も相まって、まるで大きなライオンが死にかけの小動物をいたぶるようだ。美祢は心底ゾッとした。全身が氷水を浴びたように小刻みに震える。


「やめて……弟に何もしないで」

「あぁ、しないとも。そなたが大人しくしてくれていたら何もしない。そなたには、頼みたいことがあるのだ」

「私に、何を?」

「もちろん、聖女としてそなたには祈りを捧げてもらう。だがもう二つほど捧げて欲しいものがある。そなたの純潔と、心臓だ」


 美祢は絶句した。

 自分たちの都合だけで勝手に彼女たちを異世界に召喚した挙句、その処女を差し出し、さらに死ねという。


 眩暈を感じながらも文官の言葉を思い出す。確かに彼は聖女を『清らかな乙女』とも呼称していた。つまり召喚の儀で現れた瞬間から「美祢は処女である」と関係者全員が認識していたことになる。

 いや、この際だからそれは大した問題ではない。問題はもう一つの方だ。

 確かに文官から聖女の役割を聞かされて「ただ祈るだけなの?」と疑問はあった。しかしまさか心臓を捧げることまで求められるとは夢にも思っていなかった。


 陸の首筋を弄びながら、国王は続けた。


 通常、この世界で生まれた聖女たちは神に心臓を捧げるその時まで基本的に神殿で祈りの日々を過ごす。

 心臓を捧げる前日にはその御前に王位継承者たちが集められ、その中から次期国王を聖女が選び、その身をもって神ウリテルの加護を次期国王に与える。ウリテルの加護を受けた国王は次の国王が決まるまでは、人並みに疲れを感じるものの病気になることも死ぬこともない。

 純潔を失った聖女は次の国王の手によってその胸を開かれ、その心臓は人前に姿を現した神ウリテルと一体化する。

 そして聖女の生命力を得たウリテルの加護は強化され、全ての災厄が退けられる、というのだ。


 美祢は思った。

 神ウリテルとは邪神ではないのだろうか?

 しかし口を堅く結んだ。駄目だ、弟が人質に取られている。


「誠に残念ながらそなたに拒否権はない。聖女として祈りと処女と心臓を捧げることはこの千年の宿命だ。今までの聖女たちとは話が早く通じていたようだが……どうやらそなたは特別らしいな」


 戦禍や疫病で家族を失ったり、恵まれた家庭に生まれても不幸が重なって不遇の人生を歩んでいたり。これまでの聖女たちも様々な事情で孤独になりながらも、神々への信仰に光を見出した。そしてその信仰心を認められ、人々を救うことへの強い使命感を持ってその役割を果たしていった。

 強い信仰心を持つ者たちは、――無神論者には信じられないことだが――時に自分の命すらいとも簡単に神に捧げる。


 しかし、美祢に信仰する神がいないと知った国王は、どのように彼女を説得しようか内心焦ったようだ。だから彼女の心の拠り所弱点を確かめた。


「ミネ殿、安心してほしい。次の聖女になっても私がリク殿の生活を保障しよう。『聖女の弟』として相応しいように、爵位と適当な領地を与える。貴族にすれば生活に困ることはないだろう」


 わざと名前で呼ぶことで、立場ではなく個人に訴えかけてくる。

 なんと酷い牽制だ。

 必ずその約束を守るという保証もないのに。


 怒りのあまり、動悸が激しくなり、頭が破裂しそうになる。

 かすかな望みにかけて、美祢は少しだけ足掻いた。


「……私が、もし、……もし聖女でないとしたら?」

「それはありえない。そなたはこうして召喚されたし、私と会話をしている。他にもそなたが聖女である理由は挙げられるぞ。胸の骨に欠損があるだろう? それにそなたの誕生日は三番目の月の二十五日未明のはずだ。そなたの家庭にもいろいろあったと言っていたな? 家族がバラバラになっていたのではないか?」


 確かに幼い頃の美祢の肋骨には珍しい障害があった。胸骨体と呼ばれるあばら骨を中心で支える骨の発達が異常で、心臓のやや上側にぽっかり穴があったのだ。それに彼女の誕生日は三月二十五日。知らないはずの情報を見事に言い当てられて、望みは崩れ去った。


 表向きには、役目を終えた聖女は山を下りただの一平民として生活するとされている。

 これまでの話は、王家と聖女とごく一部の神官だけの秘密でなければならなかった。

 陸に伝えることも固く禁じられた。自分のたった一人の姉が国のために犠牲になるのだ、よほど国の事情に理解のある者であっても簡単には承服しないだろう。

 こっそり打ち明けることもできないと釘を刺された。

 美祢の心を縛るため、陸の首にかかる手に力が入った。


「今この瞬間も、起きている時も寝ている時もそなたらを我が『影』の目と耳が監視している。頼むから、妙なことを考えてくれるな。そなたは神殿で国の安寧だけを祈ればいい。それがこれからもこの国で生きる、リク殿のためだ」


 陸のため。

 短い言葉が、呪縛のように美祢の心を縛る。


「よく考えてほしい、ミネ殿」


 激情のあまり静かに泣き出してしまった美祢に、国王は感情のない眼差しを注いだ。


「……そなたの演技力に、期待する」

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