美祢が神殿に向かったその日から陸には別室があてがわれ、そしてその部屋で初めて迎える早朝、彼の叫び声が部屋中に響いた。

 実は本来この世界では、いわゆる貴族階級にある者たちはすべからく使用人たちに着替えを手伝わせる。陸はそれを知らずにいたものだから、いきなり寝間着のパジャマを開かれていろいろと焦ったのだ。怒りを抱えたままヤン・ノベの講義に出席し、絵で説明しようとしたのだが老婆は何やら憐みの表情を浮かべたので、彼は説明努力をやめることにした。




 それから数日後、ついに陸は朝の着替え戦争に勝利し、冒頭の場面に繋がる。


 しっかり腹を満たして食後の紅茶を飲みながら一息ついていると、向かい側に座る美祢が身を乗り出してきた。数日前に彼女が神殿から戻ってきたときには何か急いでいるようで、軽く挨拶を交わすくらいしかできなかった。

 こうしてゆっくり顔を見合わせるのは約二週間ぶりだ。


 朝食を食べている間にいろいろと落ち着きを取り戻した陸は、久しぶりに見る姉の顔をまじまじと観察した。

 柔らかい朝日に照らされているからだろうか、白いドレスがレフ板の効果を果たしているのだろうか。はたまたこの世界の高すぎるメイクスキルのおかげだろうか。ぼんやりと記憶に残る姉の姿よりも、明らかに綺麗になっていたのだ。

 これが実姉でなければ、冗談ではなく一目惚れしていたかもしれない。


 薄情な話だが、彼は元の世界で生活していた時の姉の顔を実はよく覚えていなかった。

 向かい合って座ることはあったが、なんとなく視線を合わせるのが気まずくて手元の小さな機械ばかり見ていたのだ。どこにいそうな顔をしていたと思うのだが、どこがどのようだったかまではうまく表現できない。とにかく平凡な顔立ちだったはずだ。

 その代わりに、後姿はよく覚えていた。肩幅の狭い華奢な背中だった。


 それが今ではどうだろうか。

 体の華奢さはそのままに、今の美祢の姿は目を引く美しさに溢れていた。肩の少し下まで伸びた黒髪は一部が細かく編み込まれて白銀の繊細なバレッタで留められ、真珠の粉でも振りかけたのかと思うほど肌の光沢はいい。ドレスや手袋は刺繍やレースが多めだが白で統一されており、唯一の色味であるほんのり色づいた頬と濃い桜色の唇を引き立たせた。

 それこそ「これから結婚式です」と言われてもおかしくないほどの輝きを全身から放っている。


 しかし、「綺麗だ」と誉め言葉を一つ口にするのは、十五歳の陸には到底できないことだった。


「ヤン先生の講義はどうかしら?」

「ん、まぁ、普通?」

「あはは、普通って何よ。……勉強は楽しい?」

「まぁまぁ」


 陸の素っ気ない返事でも、彼女は満足そうに微笑んだ。

 今日と明日は講義がない。せっかく姉が戻ってくるのだから水入らずの時間が過ごせるようにとのヤン・ノベの配慮だった。


「……姉貴は?」

「え?」

「姉貴は、どうなの? 神殿で、こう、『ナムナム』とか言っているわけ?」


 たまらず美祢が噴き出した。何がそこまでツボに入ったのか、指で涙を拭うほどに体を揺らす。それにつられて陸もふっと息を溢すと久々に声をあげて笑った。

 やがて落ち着くと、美祢は文句を言いつつも、神殿の様子やそこでの生活を語り始めた。


 神に仕える聖女として美祢が過ごす神殿は、王宮から馬車で半日ほどの距離にある山の上にある。天気が良い日には王宮の高いところから見えるので、陸も何度か目にしたことがある。山の周囲は鬱蒼とした広大な森が生い茂り、一度迷ったらまず出てくることは不可能だ。実際にその光景を目にした美祢曰く『富士の樹海』のような場所なのだという。


 頂上に神殿を頂く山には、古代の英雄アクラランが神ウリテルのために大地を削って作りだしたという伝承が伝わっており、『ウリテルの寝台』と呼ばれていた。寝台と言われるだけあってきれいなテーブル状の山の上に行くには、山肌を削って作られたジグザグの階段を延々四時間以上かけて上るしかない。

 山の上には石造りの飾り気のない神殿が一つだけ。

 水を汲むための井戸すらないため、水も含め全ての食料や日用品は、魔法によって山の上まで運ばれた。

 同じように人間も魔法で頂上まで転送できそうなものだが、ただの人だった聖女を俗世のしがらみから解き放ち、神に仕えるために身を清めるためには険しい山肌を一歩ずつ上らなければならないそうで、一歩ずつ地道に進まなければならない。

 つまり禊である。


 聖女の生活に関わる者たちは神官と呼ばれる。

 美祢とともに山の上の神殿に住み彼女の身の回りの世話を担当しているのは、三人の女神官たちだ。全員全身の色素が薄く、いわゆるアルビノである。

 アクララン王国ではアルビノは神の使いとされ、特に女の子が生まれると女神官として大切に育てられてきた。男の子も『下の神殿』に集められ、神官として聖女に仕えていた。

 下の神殿とは男の神官たちが奉仕するための場所であり、ウリテルの寝台の麓にある。主に神殿に関わる政治的な面を仕切り、同時にウリテルを詣でる参拝者たちの世話をする。下の神殿に仕えるためには必ずしもアルビノである必要はなく、分け隔てなくウリテルへの奉仕を望む者たちに開かれている、とされる。


 そんな環境での美祢の生活は、意外にも多忙だった。

 毎朝決まった時間に起きて祭壇で一晩清められた水で体を拭くことから一日が始まる。一日の大半の時間は、神ウリテルに国の平安を願いその偉大な力を崇めることに捧げられた。その他にも、全国から送られてくる書簡を確認し、さらには神殿を磨き清めることも彼女の大切な仕事だった。


「聖女様っていうのもいろいろ忙しいみたいだな」

「もう本当よ。文官さんたちからは『祈るのがお仕事です』って言われていたから、まさかあんなに忙しいとは思わなかったわ! ……看護師一年生だったときを思い出しちゃった」


 聖女としての生活とはまた別に、看護師なりたての日々も相当大変だった。

 看護の仕事や周囲の環境に慣れるまでは毎日先輩から叱られ、時には患者から理不尽な要求もされ、何度辞めたいと思ったか分からない。しかも、彼女が勤めていた病院では給与水準はそれなりに良かったのに、何故かスタッフの入れ替わりが激しくて常に人手不足の状態で、それも少なからず負担だった。

 そんな職場だというのに、今度は自分が突然『行方不明』になったものだから、他のスタッフへの罪悪感はなかなかぬぐい切れなかった。不可抗力だとはいえ申し訳ない。


 心の中で何度目かの謝罪をした後、美祢はふと窓の外を見やって、気分転換のために弟を散歩に誘うことにした。


「ずっと部屋の中で講義なのでしょう?」

「マナー講座もあるよ。この間はエスコートの仕方を教えてもらった」

「そうなの? じゃぁ私もエスコートしてくださる?」

「え?! 無理!」

「だってこっちの習慣だもの。さっ、早く」


 嫌々ながらも陸は教わった通りに姉の隣に立ち、曲げた腕を差し出す。するりと白い手袋が乗せられ、二人は使用人たちに勧められた薔薇園に向かって歩き出した。


「なかなか上手じゃない」

「るっさい」


 ぶっきらぼうに照れる弟を美祢は眩しそうに見つめた。

 他には何を習ったのかと聞いてみれば、陸は少し悩んだ後、言葉やマナー講座の他にも通貨のことも勉強しているのだとその内容を語った。

 最初は実際に果物やパンを使って物の名前を学び、次に売り物屋に扮したアミシュとカバネを相手にしたロールプレイングを交えながら、一般的な金銭感覚を身に着け、一人でも町で買い物ができるように訓練をしているらしい。

 何やら面白そうだ。

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