その姿を見て、陸は幻でも見ているのかと思った。横を見れば美祢も目を見開いているので同じことを考えたのだろう。

 わざわざ多忙な宰相が立ち会って、これが語学の先生だと紹介された人物は、子どもの頃と変わらぬ懐かしい顔と声をし、子どもの頃とは異なる服装と仕草で挨拶をした。


「お初にお目にかかります。アクララン王国王室付き魔術師でヤン・ノベと申します。……何やら驚かれているようですが、何か?」


 怪訝そうに眉をあげる魔術師に、陸に小突かれた美祢はびくりと体を跳ねさせた。


「あっ、ごめんなさい。実はあなたがあまりにも私たちがお世話になったおばあさんにそっくりだったから驚いてしまいました。それに、お名前もよく似ていて。……私たちは『山野辺のおばあちゃん』と呼んでいた人なのですけれど」

「そうでございますか」


 ヤンは大して興味なさそうだった。

 まるで梅干しのようにしわくちゃな顔に焦げ茶色の瞳、縮れた白髪をお団子にして七宝焼きに似た飾りの簪を刺している。腰が曲がってお尻がぐっと突き出し、曲がった足で床をするように進む。幼い頃に世話になった山野辺のおばあちゃんはこの顔、この声で「美祢ちゃん、陸ちゃん」としわくちゃの手で招いておやつをくれたのだ。老婆の膝を借りて昼寝をし、庭に遊びに来る猫たちのために一緒に餌を用意した、そんな些細な記憶が走馬灯のように駆け巡る。

 体を支える杖の形状とちょっとした喋り方の素っ気なさだけが異なるが、そんな違いでもなければ勘違いしそうだ。

 切ないくらいの懐かしさに、鼻の奥がツンとした。


「このお方ですね、あたしの生徒というのは」


 小柄な老婆がすり足でやってくると、陸は無意識に腰を落とした。吐息にも近い小声で懐かしい名前を漏らすと、ヤンは困ったように頭を振った。


「どうやらあたしの名前は聞き取れたようですが、こちらは何を言っているのか分かりませんね。それなりに長く生きてきましたけれども、まったく聞いたことのない言語です。これは赤子を相手にするように言葉を教えなければならないでしょう。宰相殿、アミシュとカバネを呼んでも構いませんか? あの子たちにも手伝ってもらいたいのです」

「任せる。一日も早くリク殿には言葉を覚えてもらわねば」


 ダレス宰相は自分の仕事を終えると、機械仕掛けの人形のように完璧な礼をして退出した。


「さて、聖女様、さっそくですが講義を始めたく思いますので、少々おさがりください」


 言うなり老婆は杖を手放すと両手を合わせて口にあてがった。ふっと息を吹き込むと指の隙間からキラキラと粒子が飛び散り、二つの小さな人影を形成した。

 初めて目の当たりにした魔法に陸も美祢も興奮した。テレビ画面で憧れていたファンタジー要素が実現できる世界なのだとようやく実感が湧いてきた。


「これはアミシュとカバネ。炎の精霊の双子でございます」


 アミシュとカバネは双子と言われるだけあってよく似ていた。二人とも赤毛に灰色の瞳を持った少年で、見た目は十歳くらいのようだ。右目を隠しているのがアミシュで左目を隠しているのがカバネで、高齢のヤンでは礼儀作法まで指導するのは難しく喋り方にも古めかしさがあるので、彼らが相手をするという。

 今は中性的な少年の見た目をしているが少女の姿にもなれるよと実演までする二人の精霊たちに、陸は少年のままでいいと頼んだ。勉強どころではなくなってしまいそうだ。

 言葉だけでいいのにと陸が問うと、ヤンは首を横に振った。いつまで王宮にいるかは分からないが、こちらの世界の生活に慣れたと判断されれば社交界に引っ張り出される可能性があるのだ。否が応でも最低限のマナーは身につけておかなければ姉である美祢の評判にも影響しかねないという。


「慣れないでしょうが、王宮とはいろいろ七面倒臭いところなのですよ。さぁ、一日も早く教え込めと言われておりますので、厳しく参りますよ」


 厳しくすると言ったものの、突如部屋に現れた大きな黒板や魔法を駆使したヤンの指導は陸に全く苦痛を感じさせず、むしろ子どものように楽しめた。アミシュとカバネも熱さを感じない火花を散らしながらよく手伝った。

 よほどお互いの相性が良かったのだろう。時間が経つのも忘れて講義が行われた。あまりにも熱中しすぎて、控えめなノックの後に使用人が午後の食事をどうするか聞いてくるまでしっかり四時間は頭を突き合わせていたのだ。食事が用意されるまでの短い間にも講義は継続され、切り上げられたころには陸は簡単な自己紹介ができる程度に上達していた。


「どうだった?」

「……やばい。脳みそパンクしそう。でも楽しかった」

「良かったね。じゃぁこれからもヤン・ノベ先生にお願いしようか」

「あー……うん、そうする」


 久しぶりに見る陸の明るい顔に、美祢は胸を撫でおろした。ヤンに任せておけば問題なさそうだ。これで自分も心穏やかに聖女の義務を果たしに行ける。

 夕食後に様子を見に来たダレス宰相に日中の出来事を伝えると、『不機嫌が服着て歩いている』と言われる彼もさすがに綻んだ。そして翌日の午後からさっそく神殿に行けそうかと美祢に尋ねた。不安要素がなくなった彼女は静かに首肯した。


 陸は朝からヤンのアクララン語の講義に出席し、午後の早い時間に神殿に向かって旅立つ美祢を見送ってから、今度は礼儀作法の指導を受けた。アミシュが紳士の礼を、カバネが少女の姿になって淑女の礼をしてみせた。何を言っているのか聞き取れる単語の数はまだ少ないが、なるべく視覚で理解できるように配慮されていた。

 陸がいた世界とアクラランではアルファベットの形は異なるが、幸いにも数字はほぼ同じだった。その昔初めて召喚された聖女がもたらしたものだからだ。数字と覚えたばかりの短い単語を組み合わせて、より複雑な言葉の羅列を生み出していく。

 単語を一つ覚えるたび、自立への扉が少しずつ開いていくような心地がした。


 少しでも姉の負担を軽くしたいと思う陸が、並々ならぬ勉学への熱意を示す一方、それ察したヤンにも力が入った。二人の熱意に煽られて、双子の精霊たちのサポートにも磨きがかかった。


 梅干し顔の内側ではヤンも楽しんでいた。

 もう少し手がかかるものと思いきや、陸は想定外に優秀な生徒だったのだ。上等なスポンジが一瞬で水を吸い取るが如く、与えられた知識を次々と吸収していく。指導する側としては何度も驚嘆した。これはどうだ、あれはどうだと思いつく限りの手段を講じて陸のアクララン語能力を引き上げていった。


 早く仕上げて、まともな会話ができるようにしたい。陸の世界の言葉を教えてもらいたい。陸の世界の言葉で魔術は宿るのだろうか。気になることは山ほどある。

 身近な『言葉』に長らく魅了されている老婆の中で、新たな研究テーマが広がった。


 言葉は魔術だ。

 見えないそれは、人を癒し、傷付け、励まし、落ち込ませ、育み、殺す。

 それは戦いを巻き起こし、奇跡を呼び、神をも狂わせる。


 言葉を研究する魔術師ヤン・ノベには昔から重大な研究テーマがあった。


 アクララン王国建国の伝説だ。

 十歳の誕生日の夜に誤って迷い込んでしまった、祖国エティスの王城奥深くにある『開かずの倉庫』に保管されていた古い本と石板を見てから、金色の英雄の物語に心奪われてきた。アクララン王国初代国王の実態をより正確に捉えたいと文献や石板を読み漁った。古文書に記されたアクラランが訪れたとされる地を巡り、彼が見たであろう景色を眺めた。

 そして、麗しい英雄伝説に違和感を抱くようになった。


 目の前で目を輝かせて学びを請う少年は、その違和感を解消するカギになるかもしれない。

 そうなったらもう命さえ惜しくない。


 ヤンは陸と出会えた幸運を祖国の古の女神セレアに心の奥底で感謝した。

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