そして医師たちの見込み通り、五日後に陸は目覚めた。

 ベッドの上の異変に気づいた姉は急いで城の使用人たちに医師への報告ととにかく消化に良い食べ物を頼み、ぼんやりする頭を抱えつつも「何これ……夢? それとも死んだ?」と聞いてくる弟に付き添った。

 陸が目覚めたら駆け付けられるように待機していた医師たちも部屋に現れ、仰々しい言葉を並べ立てながら問診を済ませると、問題ないと太鼓判を押した。

 嵐のように慌ただしい人の出入りが落ち着くと、美祢はようやく何とも奇妙な顔をしている弟に気付いた。


「どうしたの?」

「……いろいろ聞きたいことあるけど、とりあえず姉貴、外国語得意だったっけ?」


 何を言っているのだろうと首を傾げてから、絶句した。


「……陸は、分からないの?」

「悪いかよ」


 馬鹿にされたとでも思ったのか。気まずそうに顔を顰める弟に慌てて両手を振る。そして自分の状況を説明すると今度は陸の方が目を見開いた。


 陸はこの国の言葉が分からない。


 その事実を国王に報告しなければと使用人たちに国王への謁見が出来るか尋ねると、半日ほど待たされてから宰相の命を受けた文官が部屋に訪ねてきた。三日後に国王謁見の時間を設けるという。


「その間に気付かれたことがあればどんな些細なことでも構いません、ご教示ください」


 その手にある黒革の手帳にはすでにびっしりと何かが書き込まれている。少なくとも部屋にいる間の言動は記録されている可能性は高かった。その手法は極めてアナログだが、彼ら姉弟は極めて厳重な監視下に置かれているのだと思い知らされた。

 現時点ではとりあえず陸が言葉に困っていること以外に報告できそうなことはなく、文官はそのことを書き留めると頭を下げて退出した。


 考えなければならない事柄は多々あるが、今の美祢にとっての最優先事項は陸の体力回復とメンタルケアだ。五日以上も眠っていたため、トイレに行くにも人の手が必要な程度には体に影響が出ていたのだ。

 年頃の男の子にとってはトイレまでの移動介助すら恥ずかしいかもしれないが、プロの看護師として頼ってほしいと美祢が伝えると陸は逡巡してから頷いた。そして特に衛生面に関して日本とは勝手が違いすぎる環境を思い知ってからは、ためらいながらも姉にちゃんと頼るようになった。


 たったの三日間で体が動かせるようになったのはさすが育ち盛りといったところか。

 今まで極力部屋への入室を控えてもらっていた使用人たちの手を借りながら謁見のために身ぎれいにすると、陸は着慣れない服装に実に嫌そうな恰好をした。

 紺色の厚手の生地を金色の刺繍が彩り、袖や襟には繊細なレースがあしらわれている。用意された同系色のキュロットはぴったりしすぎていて嫌だと突っぱねたのだが、これが礼儀だからと無理やり履かされてしまった。ジレの前身頃をなるべく引っ張って股間のふくらみを隠そうと努力していたのだが断念するしかなかった。


「仕方ないわよ、こちらの習慣なのだもの」


 そう慰める美祢も、自身の恰好に何とも言えない心地がしていた。よく「女の子はお姫様のようなドレスに憧れる」などというが、これは少々やり過ぎだ。

 アニメーション世界のお姫さまに憧れる幼い少女だったら狂喜乱舞するかもしれないが、二十四歳を迎えたばかりの彼女に薄いピンク色のレースが幾重にもあしらわれたドレスはあまりにも乙女チック過ぎる。いくら使用人たちが口々に褒め称えても、普段からナース服かシンプルな無地の洋服しか着ないので恥ずかしいものは恥ずかしい。髪や耳元を彩る宝飾品も分不相応で動作がぎこちなくなってしまう。

 元の世界では最低限の化粧だけで済ませていたのに、こちらでは軽く一時間ほどかけて念入りにいろいろ塗り込まれ、見覚えがあるのに別人のような自分の顔が鏡に映っていた。


「姉貴も顔真っ赤じゃん」

「……もう何も言わないで」


 二人は視線を逸らし、王室近衛隊の警護を受けながら国王が待つ謁見の間に向かった。


 この謁見について結論から述べると、アクララン王国側には大きな収穫があり、朝桐姉弟はせいぜい国王からの非公式の謝罪を得ただけだった。


 何せ数少ない召喚の儀で二人同時に現れたのは過去に例がない。しかも過去の聖女たちは言葉に不自由したという記録もない。さらに神の奉仕者は『聖女』のみと決まっている。

 言葉を並べれば並べるほど、『男の陸』はお呼びではなかったと強化してしまうのだが、その場の誰もがその点には触れなかった。聖女を求めるアクララン王国としては美祢だけ現れてくれればよかったのだが、偶然にも彼女の腕の中に陸がいたのでワンセットで移動してしまったのだ。それは双方にとって、不運な事故だった。

 美祢は陸だけでも元の世界に戻すように要求したが、残念ながら現時点では聖女を『元の世界に戻す術』というものは確立されていなかった。『召喚の儀』は聖女の魂を座標にしているためそのまま応用するわけにはいかない。


 例えるなら、聖女の魂は小さいが強力な磁石でそれに向かって別の磁石を付けた糸を投げて引っ張り上げるのが『召喚の儀』で、何の目印もない空間のなか引っ張り上げた聖女の魂を正確無比に元の場所に戻そうとするのが『元の世界に戻す術』だ。少しでも間違えれば、五体満足どころか命の保証もない。

 難易度が桁違いだ。


「……誠に申し訳なく思う」


 国王はわざわざ席を立って膝をついて深い謝辞を述べた。

 今回は非公式の謝罪になるが折を見て国家として正式に謝罪するという国王たちに、美祢と陸はそこまでしなくていいと辞したが、国家としての道理を通させてほしいと言われてしまえばそのような習慣に疎い彼らは黙って受け入れるしかなかった。千年の歴史を誇る国の矜持もあるだろうし、あまりにも無下にしてしまえば自分たちの生活に影響が出るかもしれない。


 美祢が国王たちの言葉を適宜通訳していると、新しい事実も判明した。陸は国王たちの言葉は全く分からないのだが、美祢が言っていることは分かる。つまり美祢が発言している時には、アクララン王国の者にはその国の言葉で、陸には日本語に聞こえるのだ。

 ダレス宰相は素早く書き留めると、興味深そうに呟いた。


「聖女様は祈る時に記された願いを読み上げるのですが、『言葉』あるいは『声』によって国の安泰をもたらしているのかもしれません」


 しかし聖女としての務めを期待されている美祢がいつまでも陸の傍についていてやるわけにもいかない。すでにアクララン王国では二十年以上彼女の出現を待ち望んでいたのだ。本来であればすぐにでも神殿に向かい務めを果たしてほしいところだったが、眠ったままの陸と離れることを強く拒んだ美祢の心情を尊重してわずかな時間を与えたに過ぎない。


 すでに国境の地域では不作が続き、他国との小競り合いも多い。さらに時間をおけば外部から『混沌』とも呼ばれる悪魔たちが国内に流れ込んできてしまうだろう。


 アクララン王国のある大陸では他にも大小合わせて七つの国がある。その中でも大陸のほとんどを占有する大国アクラランだが、実は他国に比べて魔術師が少ない。初代国王が武勇の者であったことが知らず知らずのうちに魔法軽視の空気を醸成していたらしい。しかしそれでもこの国を大国たらしめたのは、ひとえに千年前の英雄の活躍によるものだ。混沌が大陸から一掃されたため周囲の国々もアクララン王国に表立って歯向かうことはなかったのだが、それも今は昔で、長い時間をかけて再び混沌が広がり始めたのだ。

 今では年中行事のように国のどこかで戦争をしている。広い国土と人口の多さ、技術力の高さから圧倒的な軍事力を誇っているが、例えば、別名『魔術師村』とも呼ばれる山間の小国エティスなどが本気で国潰しにかかれば、剣と盾、大弓や槍をもってしても苦戦を強いられるに違いない。今のところエティスとは食料などの物資支援を通じて良好な関係にあるが、かの国がいつ『魔が差すか』分からないのだ。


 その他諸々の事情は、文官を通じて既に美祢にも説明されていた。


「しかしこれ以上は時間が……」

「陛下、少々よろしいでしょうか?」


 難しい顔を崩さない宰相が、提案したのは現時点で考えられる、より現実的な解決方法だった。


 まず、陸にアクララン語の教師をつけること。

 さらに彼がある程度言葉を覚えるまでは聖女としての仕事もなるべく神官たちと分散し、可能な限り姉弟が面会できるようにする。王宮から神殿のある山までは馬車で半日近くかかるので毎日の面会は無理だが、週に一日二日であればなんとか調整できるらしい。

 それは格別の配慮であったが、国王は顔を緩めると承諾した。


「そなたが安心して聖女としての責務を果たせるように努めることは国家としての義務だ。これくらいなら構わない」


 美祢は陸にこれらの条件を確認してみた。

 陸も納得した。幸いなことに彼は勉強がさほど嫌いではない。二つ目の条件についてはそれほど重要に思っていなかったが、それで姉が安心するならいいと考えた。

 陸は美祢の言葉の端々に彼女が日本に帰りたがっているのを感じていたが、彼はそうではない。現時点で――恐らくこれからも――元の世界に戻る術がないのであれば、一刻も早くこの国での生活に馴染めるよう努力した方がいい。むしろ父親と暮らす重く息苦しい生活を考えたら今の状況は天と地にさえ思えた。


「陸の先生にはどのような方を?」

「元はエティス出身の魔術師ですが、我が国の王室付き魔術師として仕えている者です」


 その人物はアクララン王国の魔術師となる前は、大陸の七カ国を旅しており各国の語学に長けているらしい。その者なら、陸の指導者としてふさわしいのではないかというのだ。

 果たして本人が語学に優れているからといって教育者としても優秀かは少々疑問ではあるが、様々な文化や風習に知見があることは魅力的に思われる。

 陸の気持ちは固まった。


「一度会ってみたいです。機会を設けてください」


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