第一章 聖女の弟は異世界に召喚される

 寝心地のいい上等なベッドの中で、朝桐陸あさぎりりくは目が覚めた。


 慣れた動きでベッドから抜け出すと、寝汗でびっしょりと湿った寝間着を忌々しそうに脱ぎ捨てる。着替えが納められている重厚な造りのチェストから適当に着替えを引っ張り出した。ついでに下着も変えることにする。

 脱いだものはベッドの上に脱ぎ捨てた寝間着の中に隠してぐるぐると巻いた。さてそれをどこに置こうかと部屋を見回して、顔を顰める。


 陸にあてがわれた部屋は日本ではありえないほど豪奢な造りをしていた。朝桐家のリビングよりも数倍広い部屋には、数えるほどしか家具がない。それは例えば、三人は余裕で寝られそうなベッドだったり、精緻な装飾が施されたサイドテーブルだったり、日本の一般家庭にはまず置き場がないであろう大きいソファーセット一式だったり。部屋の隅には折りたたまれた衝立が控え、最後に先ほど服を取り出した大きなチェストがあった。

 床には厚手の絨毯が敷き詰められ、床の硬さが全く感じられない。

 外光を取り入れる窓は人より大きく設計され、嵌め込まれたガラスには独特のゆがみがあった。いわゆる、アンティークガラスである。

 天井にぶら下がるのは大きなシャンデリアが二つ。夜になるとロウソクではない灯りで部屋を照らす。

 ヨーロッパにあるどこかの高級古城風ホテルのような雰囲気だが、それは少々違う。


 奇妙奇天烈な出来事を経てこの部屋に住むようになった陸は、頭を振ってやはりベッドの上に放り投げることにした。


 やたらと数の多いボタンに悪戦苦闘していると、これまた一般家庭ではありえないデザインのドアがノックされた。返事を待たずに開かれる。

 部屋に入ってきたのはゴテゴテした刺繍をあしらった白い制服を着た外国人たちだった。その数は四人。染髪でもしているのだろうか、全員が白っぽい髪色をしていた。

 陸がこの部屋で寝起きするようになってから毎朝の光景なのだが、何度見ても中世ヨーロッパを描いた映画のワンシーンのようだった。さらにその後ろからしかめ面の初老の男も登場した。着替えかけの陸を一瞥して、諦めたようなため息を吐く。

 また勝手に着替えたことを快く思っていないのだろう。


 最後のボタンに指をかけながら、いい加減慣れろよと陸も苦い顔をする。十五歳にもなって何故着替え一つで他人の手を借りなければならないのか全く理解できない。

 否、説明されたが理解しようと思わなかった。


 部屋に備え付けられたチェストに着替えが納められていることは早い段階から分かっていた。多少以前の服とは勝手が違うので戸惑うこともあったが、慣れてしまえば問題ない。

 何度かの攻防戦の後、折れたのは彼らの方だ。

 ただし時と場所と場合に応じた独自のルールがあるようで、あまりにもラフな格好は受け入れられず、たまに手直しが入ることがある。

 陸は嫌々ながら青いベストを身に着け、同じ色のコートを羽織った。

 誰も動かないのでこれでいいらしい。


 初老の男が右手で流れるように促す。

 部屋を出て大人しくついていくと、何十メートルと続くこれまた豪勢な造りの廊下を進んで大きな扉の前についた。扉の両側に立つ少年たちが扉を開ける。

 明るい部屋の中心には朝食の準備が整えられた大きなテーブルがあり、すでに一人が座っていた。


「おはよう、陸」


 白いドレスに身を包むのは、陸の姉・美祢みねである。

 彼女は相変わらず優しい微笑みを浮かべながら弟に着席するようもう一つの椅子を示し、そして両手を合わせた。


「「……いただきます」」


 二人分というには多すぎる料理の中から、食べたいものを選び取る。これでも最初の頃より皿の数を減らしてもらったのだが、周りに控える人間たちは勿体ないという言葉を知らないらしい。

 ここでは食事は一日二回のみ。だから少し量を多めに食べる。側用人に軽食を頼めば持ってきてくれるらしいが、陸には少々難易度が高かった。




 さて、朝桐美祢と陸の姉弟がこのような生活を送るようになったのはひと月ほど前のことである。


 いろいろあって父親に殴り殺されそうになったところまばゆい光に包まれた。次に目を開くと、何故か見覚えのない薄暗い石造りの部屋の中にいて、周りをぐるりとローブ姿の怪しい人影に囲まれていた。


「……な……に?」


 いったい何が起きたのか状況が飲み込めなくて美祢が固まっていると、ローブの一人が膝をつき感激しながら平伏した。


「……おぉ……よくぞ……よくぞご帰還なされました、聖女様!」


 その言葉に応じて他のローブたちも次々と頭を下げる。

 聖女。確かにそう呼ばれた。

 でも何が何だか分からない。

 戸惑う美祢をよそに、彼女を立たせようとしたローブたちがその腕の中の存在にようやく意識を向けた。見れば陸がぐったりとしている。その様子に美祢は一瞬血の気が引いたが、よくよく観察してみれば単に気を失っているだけだと分かって一安心した。


「その男は?」

「お子ですか?」


 ざわざわとローブたちが何かを囁き合う。どことなく侮蔑の声音も混ざっていることに気付いた美祢は守るようにさらに腕に力を入れた。


「この子は弟です」


 きっと睨みつけるとローブたちのざわめきが収まった。


「……どうぞ、こちらへ」


 自分とほぼ同じ背丈の弟を抱えて歩くことには難儀したが、どこの誰とも知れない連中が弟に何をするか分かったものではない。美祢は弟の体を抱え直すと、石畳の床をしっかり踏みしめた。玄関先で靴を脱いでいなくて本当に良かった。


 案内役が途中から甲冑姿の騎士たちになった時点で、美祢は自身の目が信じられなくなっていた。いや、すでにいろいろと信じられないことが起きているがさらに混乱した。

 騎士たちも歩きにくそうな女に手を貸そうとしたが、美祢は体を盾にした。頑なな様子の美祢に、騎士たちは顔を見合わせたがすぐにお辞儀をして引き下がった。

 そこでようやく、両腕で抱えているから歩きにくそうに見えるのだと気づいた美祢は、数年の看護師生活で学んだことを応用して脱力した陸の体を難なく背負った。多少重かったが何度か位置を調整すると落ち着いた。

 勤務時の活動量に関しては、高校の運動部並みに動き回っているのだ。だてに入院患者の世話をしているわけではない。

 看護師をしていて本当によかったと美祢は思った。


「……リンゲン卿がいらしたぞ」


 誰かの言葉に騎士たちが一斉に両脇に避けると、通路の向こうからひときわ目立つ騎士が従者を連れてやってきた。黒髪緑眼のその男が目の前に立てば見上げるほどに背が高く、恐らく家紋なのだろう、甲冑に彫り込まれたオオカミと鷲の意匠は細緻で見事なものだった。

 美祢の前で右手を胸に当て軽く会釈する。


「聖女様にご挨拶を。私は王室近衛隊隊長ルドルフ=クルト・リンゲンと申します」

「……人違いです。私はそんなものじゃありません」

「召喚の儀でご帰還なされたのであればあなたは聖女様です。……その者は?」

「私の弟です」

「聖女様が運ばれるのは大変でしょう。お手伝いします」

「やめて!」


 悲鳴のような鋭い拒絶に一瞬周囲が固まった。大声を出した本人でさえ驚いた。今までこんな声をあげたことがなかったのだ。


「……この子に、触らないでください。お願いですから」

「……失礼いたしました。我が国王陛下と宰相殿がお待ちですので、ご案内します」


 リンゲンは宙で止めた手を再び胸に当て、頭を下げた。


 不安に神経を尖らせながらも甲冑の一団に伴われて足を進めると、やがて国王の執務室だという部屋に通された。

 執務室で待ち構えていた国王と宰相は陸を背負う美祢に目を見開いたが、すぐに表情を取り繕うとソファーを勧めた。病院のシングルベッドほどの大きさのソファーに弟を横たわらせると、美祢は険しい表情で詰問した。


「私たちを、どうするつもりですか?」


 声を荒げかけた宰相を片手で制すると、国王を名乗る壮年の男が優雅に指を組む。夕焼け色の瞳を細めて軽く首を傾げると、ところどころ白銀が混じった特徴的な金髪が静かに肩から零れ落ちた。


「動揺するのも無理ないが、どうかまずは落ち着いてほしい。紅茶でもいかがだ?」


 差し出されたティーカップを前にして、激しく心臓が鼓動する美祢は無意識に弟の服を掴んだ。見知らぬ場所で見知らぬ人たちに囲まれる不安の中、馴染んだ感触は彼女に落ち着きを与えた。

 まず、いくつか確かめなければならないことがある。


「……えっと、ここはどこで、あなたたちは誰でしょうか? 私たちは何故ここにいるのでしょうか?」


 ひとつずつ言葉にしてみて、彼女はさらに奇妙に思った。

 目の前にいるのは明らかに同じ人種ではないのに、母語で話しかけていてもつつがなくコミュニケーションが取れている。相手がこちらの言葉に流暢である可能性も否定しきれないが明らかな違和感があった。


「それに、えっと、何故言葉が……?」

「ふむ、まずは自己紹介をしよう。私はクレイオス=アレクサンドル・アクララン。このアクララン王国の国王だ。これがパダレ・ダレス宰相。こんな怖い顔をして不機嫌が服を着て歩いているようだが有能だ」


 窘めるダレス宰相に、軽い冗談だと笑う。

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