プロローグ

プロローグ

 朝桐陸あさぎりりくが覚えている両親との記憶は決していいものではない。

 もしも自分の記憶が映像データのように編集できるとしたら、彼らが出てくる場面だけ切り取って全て削除してしまいたい。そんな風にすら思っていた。


 毎日酒を飲んでは延々と仕事の愚痴を垂れ流す父親。

 派手に着飾っては毎日子どもをほったらかして遊びに行く母親。


 もしも優しく寄り添う九歳上の姉・美祢みねがいなければ、とっくの昔に陸は生き続けることを拒絶していたかもしれない。


 折あるごとに美祢は陸に対して、本当の父親の姿は実直で穏やかで自分の仕事に誇りを持っていて、母親も明るく社交的で家族想いの人なのだ、今は少し疲れているだけなのだと語ったが、そんな姿などさっぱり記憶にない陸にしてみれば別人の話ではないかと思われた。

 おぼろげな記憶を遡れば、陸がまだ小学校に通う前はもう少しまともな家族だったような気もする。しかし、父親が務めていた会社が事業と利益の拡大を急ぐあまり大きな不祥事を起こしてからは目に見えて色々なものが狂い始めた。もしかしたら本当はもっと前から綻びはあったのかもしれないが、幼い陸は気付かなかった。


 やがて陸は成長し、それに合わせて周囲の状況も少しずつ変わっていった。

 以前から外出の多かった母親は完全に家に寄り付かなくなり、仕事を変えざるをえなかった父親の心はさらにすさみ、それをごまかすかのように酒の量が増えた。

 陸の唯一の心の拠り所だった心優しい姉は、中学校を卒業すると看護科のある高校に進学して学業とアルバイトをなんとか両立しながら最短ルートで看護師を目指した。早く看護師になれば家族を支えられると考えた結果だった。


 父親の以前の仕事上転勤が多かったためか近所に頼れる親戚はおらず、誰かの助けが必要だった美祢と陸を支えてくれたのは朝桐家の向かいに住む「山野辺のおばあちゃん」と呼ばれる老人だけだった。一人暮らしの山野辺のおばあちゃんは美祢が学校やアルバイトから帰ってくる時間まで幼い弟の面倒を看てくれてはいたが、陸が小学校を卒業する年のある朝、布団の中で冷たくなっていた。


 どうにか行政の支援を頼れないか調べたこともあったが、そのためには家を手放さなければならないのだと知った父親が断固反対したので手詰まりになってしまった。「将来落ち着けるようになったら住めばいい」と父方の祖父が言い残した家なのに、こんなところで妨げになってしまうとは思わなかった。どうにかならないかと考えているうちに、美祢が学校を卒業して無事に国家試験にも受かり、看護師として働き始めた。

 美祢は二十歳、陸は十一歳になったばかりだった。


 さらに時は流れ、陸は十五歳になった。

 この時には父親は勤めていた会社を辞め、酒の量は以前とは比べ物にならないほどになっていた。一階の自室に閉じこもって酒を飲んでいる父親は暴れることもなく、ぶつぶつと不平不満を呟きながらちびちびとコップの中身を舐めるだけだ。酒がなくなるとこっそり家を抜け出しどこからか一升瓶を手に入れてきてはまた部屋に閉じこもった。

 何度か美祢がお酒を辞めてと頼んだことがあるが、激高しては物に当たり散らし、子どものように号泣しては部屋に閉じこもってしまう。どうしようもないほど心に傷を負っている父親の姿に心を痛めた美弥は、やがて週に一度父親に金を渡すようになっていた。


 陸は父親に金を渡す姉を、軽蔑しつつも嫌うことができないでいた。

 乞われるままに金を渡すから酒を買うのだ。

 酒が買えるから飲んでしまうのだ。

 飲んでしまうから暴れるのだ。

 可哀想だからと金を与え続けていても、何の解決にもならない。

 ならばどうすればいいのか、陸にはよく分からなかった。

 長い時間をかけて「他人は助けてくれない」と考えるようになっていた陸は、一つの答えをだした。

 見て見ぬふりをする。

 それが、彼自身を守るための答えだった。


 他の子より少しだけ賢く、他の子より自分の心に蓋をする術に長けていた陸は、姉の勤務状況を踏まえて生活するようになっていた。美祢が家に戻ってくる時間帯にはなるべく帰宅し、それ以外は家から逃げ出した。避難先は学校だったり、図書館だったり、夜の公園だったりしたのだが、自分まで姉の負担になるわけにいかないと悩みに悩んだ結果だった。


 そして運命の日が訪れた。


 突然、家族を捨てたはずの母親が現れたのだ。

 新しい夫と商売をしていたのだが、経営がうまくいかず大きな借金を抱えたから助けてほしいという。

 夜勤明けで疲れ切っていた美祢に絡みつき、素早く玄関扉を閉めた母親はねっとりと猫なで声を出した。


「美祢、あんた、看護師になったって? 病気の人助けて稼いでいるのでしょう? あたしも病気なのよ、金欠病なの。ねぇ、あたしも助けてよ。助けてくれるはずでしょう?

 ねぇ、知っていた? あんたの名前ね、医学の女神様からもらったのよ。急に『ミネルヴァって感じの名前を付けなきゃ』って思ったの。ウフフッ、さすがよね、あたし。娘が医学系に進むって先読みしていたのだわ!」


 気味の悪い笑い声をあげながら、今度は玄関先で硬直していた陸にも目を向ける。


「りくぅ~……あんたがあたしを助けてくれてもいいのよ? ちょっと見ない間にいい感じに育ったのね。今いくつ? 十四か十五だったかしら? あたしちょっとした伝手があるのよ。お母さんのお友達にちょっと可愛がってもらえばうんとお小遣いが稼げるわ。どぅお?」


 実の息子相手に信じられないことを提案してくる女に、陸は体中から血の気が引くのを感じた。姉の帰宅時間にあわせてここに戻ってくるのではなかったと激しく後悔する。

 いろいろな感情がマグマのように入り混じって体が動かない。それはきっと美祢も同じなのだろう、壁に背を預け、体を震わせていた。

 子どもたちが動けなくなっているのをいいことに、母親だった女は目の前の通勤バッグに手を突っ込んだ。はっとした美祢が抵抗するも思うように力が入らず、あっという間に財布を取り上げられてしまった。姉の悲鳴に体の硬直が解けた陸も、傍若無人に振舞う女を家から追い出そうと掴みかかった、その時――


 バタンッ!


 ――荒々しく扉が開く音がした。

 電気もつけずに薄暗い奥の部屋から真っ黒い影がゆらりと出てくる。

 いったいいつから風呂に入っていないのかと言いたくなるほど脂っぽく汚れた髪にくたびれたTシャツ。まともな食事もせずに部屋に引きこもっているから、半そでから飛び出た両腕からは細く骨が浮いている。年齢以上に肌は萎れ、まだらに白い毛が混じる髪の毛の間から覗く両眼には生気がない。


「……お父さん!」


 優しかった父の腕にぶら下がってブランコごっこをしたことがある美祢は、日の光がまぶしいところで見る父親の姿に声を失った。長く一緒に暮らしてきてその姿を何度も目の当たりにしてきたはずなのに、改めて認識するとただの幽鬼にしか見えない。


「ハッ……あんたも落ちぶれた者ね。またお酒でボロボロになって……そんな風に弱い人間だから他人に都合よく使われて、捨てられるのよ!」

「黙れ!」

「きゃっ!」


 ガシャン、と投げつけられたグラスが壁に当たって砕けた。

 かつては頼もしかった大きな体をぐらぐら揺らしながら、足元に転がってきた一升瓶を手に取った。


「俺のうちから、出ていけ!」


 元夫の怒号と血走った目に思わずひるんだ女は、美祢の財布を握りしめて慌てて玄関から飛び出した。小さな音を立てて玄関ドアが閉まってからも、揺らめく怒気で空気を歪めそうな父親は、体を壁にぶつけながら美祢たちに近づいてきた。歪んだ口元からは重苦しい響きを孕んだ言葉がこぼれ続ける。


「……何で、俺が……何で俺が……何で俺が……何で俺が何で俺が何で俺が何で俺が……」

「お父さん駄目! ガラス踏んじゃう!」

「俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺のせいじゃない、俺の……――ぅおおおおおおおお!!」


 獣の咆哮。

 そうとしか形容できない雄叫びを上げながら父親は手にした大きめの酒瓶を振り上げた。足の裏の痛みなど気にせず玄関先で怯える子どもたちに襲い掛かる。

 美祢は咄嗟に弟の頭を抱えて身を固めた。


「俺は、何も、悪くないんだぁあああああああああああ」


 そんな怒号とともに振り下ろされる大きめの酒瓶。

 酔いと怒りで正常な判断を失い、涙を流しながら顔を苦痛に歪める父親の顔。


 まるでスローモーション映像を再生しているかのように、全てがゆっくりと見えた。


 あまりにも非現実的な光景に、いっそ冷静になりながら陸は思ったのだ。




 ……姉貴だけは、殺さないで。




 そんな悪夢のような光景が、朝桐陸と両親との最後の記憶になった。

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