第5話 二人の少女
「あんた、死んでなかったんだね、いーなー、おかねもち」
頭のてっぺんからつま先へ、一気に血の気が引いた。
寧々。どうして。
そう思っても、わたしは振り返ることができない。
できない。
恐怖が体を支配し、少しも動かない。
だけど、ちょうど目線の先、ハンガーの近くに置いたスタンドミラーに、真新しいブレザーを手にした彼女が映っていた。鏡越しに目が合う。
「ひっ」
生きた人間を二人食らった彼女は、最早妖怪のような相貌になっていた。
鏡の中で、寧々が口を大きく開いた。そして地獄の底から絞り出したかのような唸り声をあげた。
「ずるいよおおおおおおおおお」
その口から壊れた蛇口みたいに血が溢れだす。
わたしは逃げることはおろか、鏡の中の彼女から目をそらすことさえできなかった。体が石みたいに硬直していた。
鏡の中で寧々がわたしの肩に飛びついた。ずしりとした彼女の重みと背中を伝う液体の感触に体中の神経が波打った。寧々の体はとても冷たいのに、流れている血はあたたかいと感じるのはなぜだろう。
鏡の中。わたしとわたしの背中にしがみつく寧々の姿。わたしの肩越しに顔を出した寧々がちょうどわたしの顔と並ぶ。ちょっと前まで同じだったのに。同じ運命をたどるはずだった二人なのに。それが今は。
「なんであんただけ、しあわせに、なってんの」
わたしの耳元で、低く濁った寧々の声が怒りに震える。それでいて泣いているようにも聞こえた。その血を流す口をわたしの肩にあてた。食われる。もうだめだ。
今になってやっとわかった。
寧々だって本当は復讐なんてしたくなかったのだ。こうならざるを得なかったのだ。彼女はもっと生きたかったのだ。当然だ。成仏なんてできるはずはない。
だけど、覚悟を決めたわたしをよそに、寧々は一向に動かなかった。わたしの肩に食らいついたまま、じっと鏡の中でこちらを見ている。
「寧々……?」
ようやく声が出た。
「寧々、ごめん」
とっさにそれしか言えなかった。他に何を彼女に言っていいのか分からない。
すると鏡の中の寧々はゆっくりと顔をあげた。夜の公園で出会ったときよりもさらに凄まじい形相に変わっていた彼女の顔から人間らしい表情は読みとれない。だけどさっきまであった、刺すような殺伐とした雰囲気はなくなっているような気がした。そして、
「ズルイよ」
拗ねたような声で彼女はそう言うと、そのまま消えた。
わたしはしばし呆然としたけれど、毬絵叔母さんの声で我に返った。
「陽子ちゃん、どうかした? ノックしたんだけど……あ、いただきもののクッキー、食べない?」
「叔母さん……あ、いただきます」
体中の力が抜けて、今にもくずおれそうだったけれど、なんとか持ちこたえた。馬鹿みたいに機械的に答える。
「あら、陽子ちゃん。肩、どうしたの」
「えっ」
言われてとっさに肩を見た。右肩には、血が滲んだ歯型がくっきりとあった。それを見て不意に我に返ったわたしは振り返って部屋を見回した。
そこはいつものわたしの部屋だった。クリーム色のカーテンに、新しい机と本棚。ピンクで統一されたふかふかのベッド。きちんとハンガーに掛けられた真新しい制服。
大量に流れた寧々の血も消え失せて、彼女の姿はどこにもなかった。
秋。
わたしは新しい中学校に転入した。一昨年新設された綺麗な中学校だ。
伯父さんと叔母さんの勧めでカウンセリングに通い、一方で文芸部に入り、何人かの友達もできた。
わたしの境遇を知ると憐れむ人もいる。虐待を受けていた過去。それを見て見ぬふりした実父。養女なんて、家で気を使っちゃって大変そう、などと陰口をたたく隣人もいる。だけどわたしは全くそう思っていない。
たしかに環境が変わったからと言ってすべてがうまくいくわけはない。今でも虐待をうけた悪夢にうなされ、平和な暮らしを完全に受け入れられない。
けれど、わたしは今こうして生きている。
あのとき階段から落ちて死んでいたら、きっと無念さだけが残り、寧々のようになっていたかもしれないというのに。
寧々のことを思うと、今でも胸が重く締めつけられ、苦しくなる。
彼女は一体、今どこにいるのか。
寧々の遺体は結局見つかっていない。
彼女のあの赤い血は、彼女の「生きたかった」という叫びにちがいない。その無念さの中で彼女は彷徨いつづけるのだろうか。
「ズルイよ」
あのときの、寧々の拗ねたような声が、わたしは未だに忘れられない。
(了)
ここまで読んで下さり、ありがとうございます!
二人の少女 ふさふさしっぽ @69903
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