第4話 そして
あのとき階段から落ちたわたしは意識不明状態となっていただけで、数時間後には病院で意識を取り戻した。動かなくなったわたしを見てパニックになった継母が、隣家に助けを求め、その隣人が救急車を呼んでくれたらしい。
そして翌日、病室のテレビでこの事件を知ったとき、わたしは心底驚いた。あの公園での出来事は単なる夢ではなかったのだ。
「寧々」という名前を聞いたとき、病的なほど痩せこけているのに妙に活気があふれている、アンバランスな彼女を思い出した。そのアンバランスさがとても不気味だった。彼女は自分とわたしはすでに死んでいると言っていたが、実際にはわたしのほうは幽体離脱状態だったということだろうか。本当のところはわからない。
彼女は、寧々は結果的に成仏したのだろうか。両親に復讐して、彼女の恨みは晴らせたはずだけれど。
わたしはリビングを出て、自室にもどった。壁には真新しい中学校のブレザーが掛けてある。
わたしの新しい生活がはじまる。
わたしは退院したのち、父方の遠い親戚に養女に迎えられることになった。
毬絵叔母さんの夫である
やっていけるだろうか。ここで。
ピンクに統一されたふかふかのベッドにころんとうずくまり、わたしは幾度となく巡る期待と不安の渦に呑まれる。
もう理不尽に殴られることはないのだ。殴られることで諦めていた普通の暮らしがやっと手に入った。夢のようだ。
でも。
もうお父さんとは暮らせない。お父さんはあの女を選ぶのだろう。それがたまらずに寂しく、また憎い。わたしは裏切られたのだ。
この新しい家でもわたしが期待通りの娘ではなかったら、また裏切られるんじゃないだろうか。そんな考えが頭を離れない。伯父さんや叔母さんの優しさを、まっすぐに受け止められない。
だけど、あのままあの家にいたらわたしはどうなっていただろう。
継母は癇性な女で、一度火がつくと止められない。何かと父の連れ子であるわたしを些細な理由で罵倒し、殴る。彼女にとって大事なのは三年前に生まれた実子である弟だけなのだ。
……あのままあの家にいたらわたしは完全に心折れてしまうか、殺されるかしていたと思う。
「ここで、新しく頑張るしかないんだ」
わたしはそうつぶやくと、タオルケットに包まった。遠くで蝉の声がする。蝉しぐれ。この蝉しぐれを子守唄に、ちょっと眠ろう。
蝉の声がする。気がつくとわたしは公園にいた。空高く昇る太陽が容赦なく地面を照りつける、昼の公園。子どもたちが砂場で遊んでいる。母親たちが木陰でおしゃべりしたり、スマホをいじっていたりする。
あれ? ここ、夢の中?
わたしはよく分からないまま公園の奥へと入っていく。公園の隅にブランコがある。そこだけ木陰になっているためか、妙に薄暗い。ブランコに誰か立って乗っている。中学生ぐらいの女の子だ。手足が針金のように細い。彼女は静かにこちらに細い首を回すと、深い闇の底のような目を向けた。寧々だった。
そのただならぬ雰囲気にわたしは怯む。と、寧々が言った。
「ずるいよ」
反射的にわたしは駆けだしていた。
ここからはやく離れなきゃ。そう感じた。しかし公園の入り口で足がもつれて無様に転んでしまった。顔を上げるといつのまにか、いくつもの、大きく背の高いヒマワリがわたしをとり囲んでいた。いや、それはヒマワリではなかった。寧々の顔だった。いくつもの寧々が、わたしを見下ろし、口々にしゃがれた声で言う。
「ずるいよ」
「ずるいよずるいよ」
「ずるい」
「ずるいよお」
そして何本もの寧々は、次々に、わたしに食らいついてきた。夢の中なのに、脳天を突き刺すような痛みが走った。わたしは声にならない声をあげ、必死に抗議する。
「ずるいって、何がよお……、だって、しょうがないじゃない」
体中の肉を抉られ、引き裂かれ、頭を持っていかれそうになったところで目が覚めた。
わたしはふかふかのピンクのベッドの上で、ぐっしょりと汗をかいていた。
(夢……)
ほっとして、涙が溢れてきた。まだ心臓は早鐘を打っている。
(やっぱり、わたしの中に、自分だけ助かってしまったという寧々への後ろめたさがあるんだ)
わたしは顔を洗おうとベッドから起き上がって、ふと、新しい中学校のブレザーがなくなっていることに気がついた。あるのは空のハンガーのみ。おやと思っていると、
「ふうん。こんなの着るんだ。いいなあ」
背後からしゃがれた声がした。
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