不完全な決着

 鷹音の脳裏に、ふと、一つの考えが浮かんだ。


 ――否。

 考えと言うよりかは、疑念や推論に近しいもの。

 今に至るまで繰り広げた決して長くはない戦闘に於いて得た情報の中から、幾つかが無意識にピックアップされる。その『ピース』を繋ぎ合わせる事で、必ず見えてくるものがあると、何故か鷹音は確信に近いものを感じた。

 脳に記憶された全ての神屍との戦闘データを片端から反芻し、けれどその悉くが使えないと判じて即座に破棄。この想定に合致する神屍に、これまで遭遇した事はない。

 予想の整合率が一段下がる。けれど思考は止めなかった。

 時間にすれば五秒にも満たない束の間。

 その中で、確かに見えたものはあった。

 現時点では不明瞭極まりない考察。想定。

 だがそれは間違いなく、この場を凌ぎ、あの異形の獅子をある意味で退ける事が出来る決定打になり得る可能性を持つ。


「っ、」


 やがて。

 脳が自然と導き出した〝打開策〟は、鷹音自身でさえ馬鹿げていると一蹴したくなるようなものだった。

 根拠はある。だがそれは限りなく薄い。

 もしもこの想定が外れていれば、全てが破綻する。

 

 ――瞬間、湧き上がった恐怖が鷹音の身を縛り付けた。

 それが決して埋められない決定的な隙を生む。

 注意深く捉えていた筈の黒剣が、数本、鷹音の視界から霞んだ。

 息を呑む。自身の失態を悟る。

 しかし全ては遅かった。

 頭と胴体を狙って放たれた二本の歪な剣を、全神経をかき集めて全力で見据え、辛うじて刀で弾く。

 身の毛もよだつ殺意の暴風と火花が撒き散らされ、直後。

 それらに紛れて肉薄していた三本目の黒剣が、肉を断つ音と共に鷹音の右肩へと突き刺さった。


「がッ……⁉」


 切っ先だけが皮膚を突き破った――そんな次元ではなかった。

 刃渡り二メートル越え、幅は数十センチにも及ぶ肉厚の剣が、少年の肩口を派手に貫いていた。

 当然、血は噴出しない。右腕が丸ごと千切れ落ちる事もない。

 ただ。

 全身を駆け巡る、灼熱の如き、気が狂ってしまう程の激痛が、現実の事象として筱川鷹音の身を喰らった。


「が……っ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」


 絶叫を上げる鷹音を弄ぶように、右肩を貫く巨大な剣が、まるで傷口を抉り広げるかのように蠢く。

 その都度、神経に直接医療刀メスを入れられているかのような痛みが生じ続ける。刹那の内に、数度、鷹音は気絶と覚醒を繰り返した。それでも尚、右手から太刀を取り落とさなかったのは、執念以外の何物でもないだろう。

 あまりの痛みに立つ事もままならず、両の脚から力が抜ける。

 だが空中で固定されている黒剣によって地に膝を着く事は叶わず、だらりと崩れ落ちる寸前の体勢になる。

 そうして、追い打ちを掛けるように。

 ゴウッ‼ と、直後に黒獅子が背部から生える鎖を操り、黒剣を大きく振るった。

 肩口を貫かれたままの鷹音は当然の如く宙へと放り出され、剣による拘束から解かれると同時、成す術なく吹き飛ばされる。

 体勢の制御など毛頭不可能。そのまま錐揉み状態で中空を舞った鷹音の身体は、やがて地面に激突し、何度もバウンドしながらコンクリートの上を転がった。

 右の肩口に走る灼熱の痛みや、全身を蝕む打撲傷のような鈍痛が、容赦なく彼の意識を冒してくる。

 奥歯を強く噛み締め、ガクガクと震える膝に鞭を打って何とか立ち上がる。

 感じる痛みは単なる情報に過ぎないのだと思い込むが、絶え間なく襲ってくる激痛が意識操作すらさせてくれない。

 よろめいた身体を、地面に太刀を突き刺して何とか支える。

 薄めく視界の先には全身を黒に染める巨大な獅子が、真紅の隻眼を炯々と輝かせてこちらを見据えている。片目を潰された事による怒りは、全くとして収まっていないように見える。

 あれでは恐らく、実際に鷹音を喰い殺すか、その姿を見失うまで諦めてはくれないだろう。

 何とも厄介な存在に好かれたものだなと、鷹音は笑えない冗談に無理やり笑ってから、僅かに視線を横へズラした。

 ――、

 それは。

 全くの偶然だった。

 吹き飛ばされ、着弾した場所のすぐ傍らに、〝それ〟があったのだ。

 金属の外装を持ち、地面からポツリと生えているだけの人工無機物――中継柱。

 神屍の巨躯を挟んだ反対側に存在していた筈だが、幸運にも、黒獅子によって鷹音の身体はこの位置に投げ飛ばされたのだろう。


「……、」


 痛みに霞む視界の中で、その物体オブジェクトを見る。

 唐突に眼前へと現れた『目的のもの』を、呆けた様子で眺めていたからではなく。

 いざ『その決断』を迫られる段階に立った瞬間――自身でも驚くほどに躊躇の類が消え去ってしまった為である。

 自然と、覚悟があった。

 その理由を考えようとして、けれどすぐに答えは出てきた。

 無意識に、苦笑を浮かべる。


「……紗夜の姿を、何度もこの目で見たから……なのかな」


 無謀と知りつつ、全てを跳ね除けて救いの為に動いた少女がいた。

 何かを考え、そうして余計な判断が自らの選択を捻じ曲げてしまうよりも早く、悉くを無視して己の意志を貫き続けた少女がいた。

 彼女の見せた一連の行動が全て偽りの行動理念に基づいたものだったとしても、結果として雪村紗夜という一人の少女は、多くの者を救おうとして行動した。

 事実、彼女に救われた者は大勢いるだろう。


「たかが恐怖心如きに自らの行動を縛られているようでは、彼女に合わせる顔が無い……。こんな時なのに、そんな馬鹿げたプライドが浮かび上がってくるんだよ」


 平手打ちを受けた際の頬の痛み、ろくでなしと罵られた際の心の痛みを思い返す。

 一度彼女を失望させた。

 筱川鷹音という少年にとって、第三者から向けられる期待など無用の代物だった。

 なのに紗夜の期待を裏切ってしまった事が、何故かずっと杭として心に残り続けている。


(いいや……紗夜だけじゃないか。きっと〝あの人〟に合わせる顔だって……)


 鷹音は言った。

 大切な相棒だった一人の女性が帰って来るまで、まともな人間であり続けたいと。

 愚かに無謀を押し通して、それで〝彼女〟と同じ目に遭ったとしたら、自分は誇り高き一人の剣士に合わせる顔が無いと。

 それは確かに本心だった。

 しかし、言い訳だと言う事も分かっていた。

 戦場に戻るのが怖くて、そうして免罪符として口にしただけの、逃げの言葉。

 よく言えたものだと、今更ながら苦笑した。

 今の自分を〝彼女〟が見たら、何と言うだろうか。

 笑ってくれるかも知れない。応援してくれるかも知れない。困ったような顔を浮かべるかも知れない。

 それでも、絶対に彼女は、

 湊波彩乃は、何があろうと引き留めはしないだろうと、そう思った。

 どんな状況であれ、後ろを振り返らず、いつでも笑って背中を押してくれる彼女であれば。

 だから。

 ――、

 そこで考えるのは辞めた。

 勝手に己が下してくれた決意と覚悟に、ただ従う。

 黒剣に貫かれた右肩には凄まじい激痛が残留し、もはや右腕はただぶら下がっているだけで僅かも動かせない。それでも少年は歯を食い縛り、空いていた左手をも柄に掛け、痛みを無視して強引に刀を構えた。

 彼の動きを察知した『溘焉の担い手ラーヴァテイン』が、しかし背部にズラリと並べた黒剣は動かさずに、その巨躯で以て圧殺すべく跳躍の姿勢に入る。

 鷹音はもう、それまでのように機敏かつ立体的な動きをする事など出来ない。

 全身に走る痛みを無理やり意識から切り離す余裕もない。

 その場に立っているのがやっと。いま襲い掛かって来られれば、恐らく回避は不可能だろう。

 けれど。

 もうこれ以上、動く必要はない。

 何故ならば。


「……おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ‼」


 雄叫びを上げ、鷹音は両手で握った太刀を思い切り振り回す。いつもの洗練さなど欠片も無い、ただ闇雲に振るっただけの無様な水平斬りだ。

 しかし、

 確実に、

 ガシャアアアァァンッ‼ と。

 青鉄・水脈の長大な刃は、地面に聳え立つ高さ三メートルの中継柱を破壊した。

 機士が常に頼りにしている、ホロウの励起システムを補完する役割を果たしている機器は、その瞬間、少年の一振りによって無残な程にスプラックと化した。

 金属製の外装や無数の配線が地面へと散らばる。

 ――途端。

 鷹音の身体に〝ラグ〟が生じた。

 自らの肉体がブレる。鷹音ですら感じた事の無い感覚だった。

 仮に、この地点から半径五キロ以内に他の機士が居たとすれば、鷹音と同様の感覚を味わっていた事だろう。機士が死廃領域に出撃する上で、不可欠である筈の機器を、鷹音は自ら破壊したのだ。

 当然。

 鷹音の全身から、黒灰の軍服や機械太刀、そして身体的な軽さと言ったあらゆる要素が消失した。

 ホロウを使う前まで身に着けていた、スポーツブランドのパーカーが露わになる。

 この瞬間。

 神殺しの最強機士である筱川鷹音は、何の力も持たない、只の人間でしかない一人の非力な少年へと成り下がった。


「っぐぅ……‼」


 身体に蓄積している疲労や、右の肩口に残留していた痛みが倍増した感覚があった。肉体が軋みを上げ、思わず地に膝をつく。

 本来であればまず間違いなく起きる事の無い、そして仮に起きたとすれば、恥も外聞も無く逃げ惑ってしまう状況。

 しかし鷹音は、余計にその場から動こうとせず、地に蹲ったまま、息を潜めて静謐を保った。


(頼む……これで予想が外れていれば、俺は死ぬ……‼)


 かつて数百の神屍を屠ってきた鷹音と言えど、生身の身体で神話の異形と対峙した経験などない。

 一メートルにも満たない足場があるだけの断崖絶壁を歩いている最中、頼りにしていた命綱を唐突に絶たれたかの如き底なしの怖気が全身を駆け巡る。

 心臓の鼓動が強まる。ドクン、ドクンと拍動を繰り返すだけの、外部には聞こえる訳もない音が、嫌なほど鮮明に少年の鼓膜を打ち付けて来る。

 鷹音の想定が正しければ、

 硬く口を閉ざし、更には掌で口許を押さえて呼吸すら止めた。只でさえ乱れていた息を強引に止めた事で、心臓が更に荒ぶる。

 瞬く間に軽度の酸素欠乏状態になり、視界に火花が散ると同時に急速に霞みがかってゆく。

 しかしここで意識を失う訳にはいかない。底なしの苦しさに耐えながら、目を見開き、事の行く末を見届ける。

 ――ほんの数メートル離れただけの近距離に佇む巨大な獅子は、鷹音へ向けて跳躍する寸前の体勢のまま固まり、破壊された中継柱の残骸をじぃと見下ろしていた。

 かと思えば、背部から生える無数の黒剣を蠢かせ、その場に転がるスプラックが粉々になるまで何度も突き刺した。その度にコンクリートの地面が砕かれ、抉られ、瓦礫と粉塵が散らばる。攻撃されているのは無機物だが、あまりの徹底ぶりに鷹音は微かに怖気を感じた。

 身体が酸素を求めて警鐘を鳴らしてくる。あまりの苦しみにのた打ち回りたいほどだ。 

 それでも尚、呼吸を止め続ける彼の眼前で、やがて黒獅子は破壊行動を止め、おもむろに周囲を見渡し始める。

 一度は鷹音の姿を捉えたにも関わらず、拍子抜けしてしまう程に素通りし、辺り一帯へと紅の隻眼が巡る。

 そう。

 まるで鷹音の存在が知覚出来ていないかのように。


「……、」

(恐ら、く……奴は何らかの原因でっ、目が見えていない……! かと、言って……特別嗅覚が優れていると、言う訳でも……だったら奴は、いった、い、何を頼りに此方の存在をっ、……知覚して、いたのか……!)


 全ては荒唐無稽なほどに雑然とした想定に過ぎなかった。

 だが事実、左目を喪っても奴の機敏な動きに何ら変化は見られなかった。加えてこの神屍と一定の距離まで近付いた際に必ず生じる原因不明な無線の接続障害。映像収集機器に接近した際に見せた、まるで鷹音の存在を見失ったかのような動き。

 それらの要素を全て繋ぎ合わせ、そうして戦闘面に於いて優れた計算能力を持つ鷹音の頭脳は、たった一つの結論を導き出したのだ。

 それは――、


「ッ」


 それは、全くの同時だった。

 いよいよ限界を迎えた鷹音の意識が消えて、ゆっくりとその身を傾け始めるのと。

 忙しなく周囲を見回していた『溘焉の担い手ラーヴァテイン』が、遂に何かを諦め、鷹音に背を向けるようにして身を翻したのは。

 漆黒の体毛を靡かせる獅子が、その場で強く地面を蹴り、周辺の建造物を足場にして驚くべき速度で遠ざかってゆく。

 巨大な漆黒の影が遠景の中へ完全に姿を消すまで、そう時間は掛からなかった。

 後に残ったのは微かに滞留し続ける灰色の粉塵と、先刻までの戦闘が嘘であったかの如き静謐。

 神屍の支配する領域の中で、全くの丸腰を見せる、何の力も持たない一人のちっぽけな少年が、無防備にその場へ倒れ伏した。

 最強の名を冠する神殺しの機士。

 その『外郭』を剥ぎ取られ、只の人間に成り下がった少年の頬へと、不意に一粒の雫が落ちてきた。

 そうして徐々に密度を増した幾つもの雫は、やがて雨となり。


 まるで降水のベールによって少年の姿を覆い隠すかの如く。

 さめざめと、粛々と、何かに駆り立てられるかのように、暫く彼の身体へと降り注ぎ続けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る