溘焉の担い手

『筱川くん、聞こえますか⁉』


 唐突に李夏の切迫した声を耳に聞いて、鷹音は少しだけ肩を震わせた。


「……急にどうしたの? 華嶋さんが呼んでくれた機士達ならさっき到着したよ。今はバリケードの修繕作業に当たって貰ってるから、連絡ならそっちに直接――」

『違います!』


 李夏は上ずった声音で鷹音の言葉を遮った。

 そしてよくよく聞いてみると、彼女の声に紛れてかなりの喧騒が聞こえてくる。何らかの事情によってオペレーションフロアが騒然としているのだと、無線越しに鷹音は察した。

 少しだけ、警戒の色を強める。間を置かずに李夏の言葉が続いた。


『今から二分ほど前に、死廃領域の映像収集機器が新たな神屍の姿を捉えました! 現在、かなりの速度で黒鋼壁に接近しているとの事です!』

「っ……まぁ、神屍の波がさっきので最後だとは思っていなかった訳だけど。先の大群の残党か? 正確な数を教えてくれ。可能であれば、連中が死廃領域にいる今の段階で殲滅を――」

『一体です!』


 端的な返答に、鷹音は軽く眉を潜めた。


「一体? ならそれほど焦る必要もないだろう。わざわざ俺に連絡して来ずとも、適当な機士に連絡して討伐に向かわせれば……何ならあの一条光希と言う少年に任せれば……」


 そこで。

 鷹音は無線の向こう側で李夏が恐るべき速度でキーボードを打っている事に気付いた。こちらの声が聞こえていないかのように、僅かな呼吸音のみを洩らしながら、何かの事象に対して深く集中しているのが分かった。


「……華嶋さん?」

『……いいえ、これは……でも確かに、この反応はあの時の……?』


 震える声が聞こえた。常に毅然と気丈を貫く彼女の、滅多に聞けない困惑の声だ。そこでようやく、鷹音の意識が更に一段強い警戒を纏う。


「華嶋さん、落ち着いて現況を教えてくれ。確認された神屍は何の種型タイプで、どの程度黒鋼壁に接近している?」


 鷹音が穏やかな口調で訊ねると、僅かな間を置いた後、幾許か冷静さを取り戻した声が返ってきた。


『その……申し訳ありませんが、標的の詳細な位置は現在、監理局側は捕捉出来ていません』

「何だって?」

『恐らく先に通達した、映像収集機器の故障が原因かと。運が悪い事に、接続が途絶している機器は全て、こちらが最後に神屍を観測した座標と黒鋼壁を繋ぐ直線上に存在しているものであるらしく、現状に於いて観測出来る映像だけでは標的の捕捉が不可能なのです』


 その説明を聞いた鷹音は怪訝な表情を浮かべかけ、だが即座に次の言葉を返した。


「だとしても、該当する神屍の平均的な移動速度や体力のデータ、そして観測地点からここまでの距離を概算すれば、ある程度の目測は立てられる筈だ。最後に捉えた映像から神屍の種型タイプは判別出来るだろう? それさえ教えてくれれば、俺の方で――」

『いいえ』


 そこで、何故か言葉を否定された。

 その意味が分からなくて鷹音は今度こそ顔を顰める。しかし彼が何かを言うより早く、李夏が即座に説明を連ねた。


『鷹音くんでもそれは不可能です。何故なら……

「ッ?」


 鷹音は思わず瞠目した。

 自身の知識にはない神屍。そんなものが存在するのかと鷹音は訝しみ、だが直後に有り得ない話ではないと判じた。

 現在に於いて世界中に散見される神屍の種は五〇近くに及んでいるが、それら全ての個体がある日突然、突発的に誕生した訳ではない事を鷹音は知っている。

 おおよそ半世紀近い歳月を掛けて、神屍は少しずつ、多くの種として派生し続けた。その過程で、新種の神屍に関する情報を死廃領域に出て収集するのも、機士としての任務とされている。

 鷹音は二年以上も前線から離れていた。その間に新たな神屍が監理局のデータベースに登録されていたとしても何ら不思議はないだろう。

 即座に身を翻し、光希達のいる黒鋼壁の穿孔へと引き返す。だが何よりもまず、その鷹音の知らない神屍に関する情報を得る事が先決であると判断した鷹音は、李夏にその旨を告げようとした。

 だが、鷹音が口を開くより早く、オペレーターの女性が言葉を発した。


『……いえ。それは本当の意味で正確な言い方ではないのかも知れません』

「? それはどういう意味かな」

『実のところ、観測された神屍については監理局でさえまともに情報を得る事が出来ていません。初めてその姿を現した〝あの日〟以降、この神屍が目撃される事例は一度として無かったので……』


 彼女の物言いに、鷹音は何故か、自身の背筋がぞわりと粟立つ感覚を味わった。

 小走り程度の速度で駆ける鷹音の視線が、光希達を捉える。皆一様に似通ったデザインの戦闘服に身を包む彼等は、黒鋼壁に空いた穴の近くに集まり、緊張感の無い様子で待機していた。

 走り寄って来る鷹音に光希が気付く。その爽やかな顔に微笑みを浮かべ、こちらに向けて手を振ろうとして、

 爆発が起きた。

 発生源は、彼等からほんの数メートル離れた地点。突如として黒鋼壁が爆音と衝撃を伴って粉砕され、瞬く間に朦々と土煙が舞い上がったのだ。


「ッ……⁉」


 驚きながらも、鷹音は走る速度を上げた。

 少女達の悲鳴が聞こえる。光希が彼女達に声を飛ばし、この場からよう指示を出しているのも聞こえた。

 土煙を割り裂くようにして数名の少女が必死に逃げ出してくる。その姿を捉えた鷹音の耳に、無線越しに李夏の声が入り込む。


『不味いです鷹音くん! あの場にいるのは一条くん達……彼等では絶対に――』

「分かってるッ‼」


 叫び、強く地を蹴った。

 ほぼ水平に跳躍した鷹音は、そのまま猛然と土煙の中へと侵入し、未だそこに残っていた光希と栞、そして他二名の少女を、先に蛮鬼ダイダロスの襲撃を受けた際と同じ要領で遠方へと投げ飛ばす。

 彼等は自分の身に何が起きたのか分からないまま飛ばされる事となった。

 複数人の叫び声を聞きながらその場に着地した鷹音は――刹那。

 自らへ迫る〝何か〟を本能で察知した。

 蛮鬼ダイダロスの持っていた棍棒とは比にならない威力の何かが、土煙の向こうから凄まじい速度で迫って来るのを感じる。思考の末に放つ迎撃では、決して間に合わない。

 故にそれは、半ば奇跡のようなものだった。

 鷹音の意識を離れ、彼の右腕が無意識に刀の柄へと伸びる。我に返った時には既に、掌が機械太刀のグリップを握り込んでいた。


「ッ‼‼」


 考えるだけ無駄だ。

 思考の悉くを捨て去り、放つ。

 抜刀と同時に大気を滑り、斬り裂いた刀身は――


 気付けば鷹音は、宙を舞っていた。


「――、」


 何が起きたのか分からない。唐突に全身を包んでいた浮遊感。数瞬前まで握っていた筈の青鉄・水脈が、手から離れて鷹音と同様に錐揉み状態で回転していた。

 黒鋼壁の壁上と、随分と暗さを孕んできた空一面の雲が、緩慢な速度の中で鷹音の視界に映り込む。

 音は無かった。遅れて右手に痺れが走り始める。刀を弾かれたのか? 何に?

 空白となった意識と巡り続ける思考の中で、しかし少年は即座に正常な状態へと引き戻し、吹き飛んでゆく己の身体を空中に居るままに制動させた。

 勢いをつけて上半身を捻り、体勢を立て直す。あのまま行けば頭から落下してしまうところだったが、身体の天地を反転させて地に足を向け、ズザザザッ、と地面を削りながら何とか着地した。

 鷹音の後を追うようにして刀も振って来る。規則性の無い動きで落ちてくるそれの柄を危なげなく掴んだ彼は、すぐさま前方へと意識を差し向けた。

 土煙は未だ朦々と舞い上がっている。周囲に転がる瓦礫は、もう一つ穿たれている孔付近に散乱するものよりもかなり大きい。

 それが何を意味するのか、鷹音は即座に判断を下して思わず歯噛みした。

 通信が繋がったままの無線越しに、李夏が切迫した声を伝えてくる。


『無事ですか鷹音くん! いったい何が起こったんですか⁉』


 問われても、彼が応えられる事など何もない。それでなくとも、今の鷹音の意識は最警戒モードに移行しており、鋭い双眸は土煙の向こうに佇んでいるであろう〝何か〟を油断なく見据えていた。

 静かな声音で、ゆっくりと口を開く。


「華嶋さん、さっきの話の続きを」

『えっ?』

「俺の知らない新種の神屍……監理局でも碌に調査出来ていないと言っていたけど、全く情報がない訳じゃないんだろう? 少しでもいい、有益なものじゃなくとも構わない。だからとにかく、現状で知り得ているコイツの情報を


 何故か。

 無意識に己の神経が逆立つ感覚があった。

 低く沈むような物言いに、無線越しに李夏が少しだけ息を呑む音が聞こえた。

 そして何処か、逡巡するような間があった。何かを言いかけて、すぐに口を閉ざす。そんな行為が二、三度繰り返された後、李夏は努めて落ち着かせた声音を発した。


『――その神屍が初めて目撃されたのは、今から三年前です。それ以降は一度として姿を現す事が無かった為、当時記録されていた映像収集機器から得たデータだけが唯一の手掛かりとなっています。故に監理局のターミナルには、その映像に残っていた大まかな形貌や大きさ程度しか情報が登録されていません』


「……種型タイプと個体名は? 例え新種であっても、類似する種から危険度や行動パターンを類推する事が出来る訳だけど」


 その問いに、暫く答えは無かった。

 眉を顰め、訝るような表情を浮かべた鷹音に、やがて李夏は告げた。


『その神屍は、「獣」でも「人」でも、ましてや「竜」でもありません』

「……何だと?」

『残された戦闘記録から推察される危険度があまりに高く、故に監理局は竜種型をも超える戦闘能力を持つ存在であると判断し、として当該の神屍を認定したのです』


 鷹音の視線の先で、少しずつ土煙が晴れてゆく。紗幕に覆われているかの如き濁った空気の向こう側に、音も無く蠢く何かが居た。

 巨大だ。

 三メートルの巨躯を有していた蛮鬼ダイダロスよりも遥かに大きい。

 その威容だけではない。それ相応の距離が空いているにも関わらず、鷹音は〝それ〟から発せられる濃密な圧に肌が粟立つ感覚を覚えていた。

 これまで出会ったどの神屍よりも濃く、そして体内の神経を冒してくるような威。

 ――それを鷹音は、かつて感じた事のある威であると、無意識に判じた。

 記憶が巡る。

 それを手助けするかのように、耳元で李夏の言葉が紡がれる。


『……真なる神の如き姿を成し、現存する全ての神屍とは一線を画す存在であるその神屍を、私達は「神種型」と呼んでいます』


 記憶が巡る。

 呼び起こされるのは、何処までも悲惨な光景だ。白く細い腕が、乱立する牙の隙間から覗いている。

 そんな時でさえ〝彼女〟の肌を美しいとさえ思った。

 そして直後に、全ては噛み砕かれた。


『その個体の他に同種の存在は確認されていない為、現状に於いて正式な個体名は登録されておらず、故に知られているのは、異名とも言うべき綽名だけです』


 記憶が巡る。

 大切な人が喰い潰されたと言うのに、その時、少年は一歩も動けなかった。

 ただ見ているだけだった。

 意識が霞み、音が遠退き、脚が震え、視界が赫く染まった。

 叫んだ。

 叫んだだけだった。

 その場から、一歩も動けなかった。


『その神屍の名は――「万物万象をベゼルグ・睥睨ネアする溘焉の担い手・ラーヴァテイン」』


 土煙が完全に晴れる。

 そうして現れた〝それ〟は、獅子のような威容を象っていた。

 漆黒の体躯に、真紅の双眸。

 口許には髭が生え、背中からは棘のような突起物が無数に並んでいる。

 記憶が巡る。

 記憶が巡る。

 記憶が巡る。

 記憶の中で、その神屍は少年を嘲笑うかのようにニヤリと嗤っていた。

 姿が――重なる。


『……三年前に鷹音くんと彩乃ちゃんが遭遇した、あの神屍です』


 直後。

 少年の中で、無音の絶叫が迸った。

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