歪なる剣
ズン、と重い音が響いた。
全身を漆黒に染める獅子型の神屍が、その逞しい巨躯を悠然と蠢かせたが故の音であった。
これまで幾度となく夢に見てきたその姿。脳裏に焼き付いていた筈なのに、いざ眼前に見据えてみれば、より凶暴かつ禍々しい威容に自然と身体の芯が竦み上がる。
心許ない武装で
否応なしにかつての記憶が片端から引き摺り出される。
あの悍ましくも神々しい姿を前にして、際限なき恐怖が全身を侵食したあの瞬間。地に着けている筈の足が消失し、意識が半ばフラッシュアウトしたかの如き錯覚に見舞われた。その時の感覚は今なお鮮明に思い出せる。
恐怖だけではなく、怒りもまた。
自分でも不思議に思えた。自らの胸中を支配する感情が、恐怖だけではなかった事に。そしてその割合が、少なくとも同等程度であった事に。
だからこそ、なのだろうか。
逆立つ神経に反して、何故か心の最奥が冷たい水に没してゆくような感覚があった。
この感情の正体は掴めない。怖気とも怒りとも、その二つが綯い交ぜになったものとも違う、別種の〝何か〟だ。
ドクンドクン、と心臓の音がやけに鮮明なものとして鷹音の耳に伝わってくる。僅かに乱れていた呼吸は、既に平静な状態へと戻っていた。
揺らぎの無い双眸が相対する神屍のそれと交わる。神種型と呼ばれた黒き獅子の異形は、黒鋼壁に穿たれた巨大な穴の傍で佇んだまま、何故か微動だにしないままじっと鷹音を見据えていた。
鷹音もまた、対峙する相手の一挙一動を見逃さないよう、全神経を注いで注視している。
刃の如き鋭い瞳が、黒獅子の口許に生える髭を捉える。首周りを覆う禍々しい
白銀の直剣を握る彩乃の細腕。全身を漆黒で染めるその体躯の中で、それだけが美しい程に白く眩いて見えた。
――どうせなら、彼女の腕ごと呑み込んでくれていれば良かったのに。
そう思った事さえあった。そうすれば、信頼する相棒が神屍に喰われている姿をまざまざと見せつけられる事も、同じ光景を何年も夢に見続ける事もなかったのだから。
しかしそう思った直後に、鷹音はいつも己の頭を拳で殴っていた。
彼の中で僅かに残る、その記憶からは目を背けてはならないと言う一種の責務が、そうさせていた。
あの凄惨な光景から逃げる事は、大切な人を見捨てる行為に他ならない。
只でさえ自分はあの時、彼女を一度『見殺し』にしてしまっているのだ。
これ以上、どれほどの罪を重ねれば良いと言うのか。
引き出された追憶が、連なるように、この三年で積み重ねた凄まじい数の懊悩をも引き連れて来る。
本来であれば暴発しているであろうあらゆる感情を、奇しくも、その幾重にも積み重なった心因の苦渋が抑え込んでいるかのようであった。
冷静でいられている。
思い込みでも構わない。少なくとも、自覚している領域に於いては平静を保てているだろう。
――だが。
不運にも、その均衡を乱す者が現れた。
「オイ! 何だあいつは! 見た事の無い神屍だぞ⁉」
光希の声が響いた。
鷹音によって思い切り遠方に放り投げられたものの、体勢を立て直した後に戻ってきたのだ。彼の背後には栞を含めた数名の少女が控えていた。
だが皆一様に青褪めた表情を浮かべている。傲然と佇む獅子型の神屍に恐れを抱いているのだろう。
油断なく刀を構える鷹音の隣に立った光希は、大仰な動きで腰から機械直剣を抜き放った。
「不味いぞ、ここであいつを何とかしないと、街の人達に甚大な被害が出る! 何としても俺達が食い止めるんだ!」
声高に言う光希の姿に触発されてか、怯えて肩を震わせていた他の者達も、意を決したように彼の隣に並んで剣を抜いた。誰しもその瞳に、果敢な意志を宿しているように見える。
――それが愚行や蛮勇の類だと理解出来ないのは、彼等の実力の浅さ故か。
後から現れた光希達に、『溘焉の担い手』と呼ばれた漆黒の獅子は、けれど彼等に視線を移す事無く変わらず鷹音を見据えている。傍から見れば不可解に思える程、その神屍は全くとして動きを見せないでいた。
「光希! 未確認の神屍と遭遇した場合は、即座に監理局の判断を仰ぐのが通例よ! 私が無線で局に連絡を取るから、光希達は何とかあの神屍を食い止めてて頂戴! 光希がいるんだし、この人数なら何とかなるわ!」
そう言って栞が耳に装着した端末を起動させる。隣で光希が威勢の良い返事をした。
「よし、なら俺が先頭に立って突っ込む! 他の皆は安全を一番に考えて、隙を見つけたら攻撃してくれ!」
そう言って、彼は次に鷹音へと視線を向ける。
「筱川くん、ここは一緒に窮地を切り抜けよう! 皆で協力すれば、何とか奴を斃せる筈だ! 人類を神屍から守る機士の力、ここで見せてやろうじゃないか!」
決意に満ちた笑顔を浮かべて、彼は言った。そうして怯えも躊躇いも見せる事無く、真っ直ぐに剣を構えて突き進もうとして――
その肩を、鷹音が後ろから掴んで引き留めた。
「ッ……筱川くん?」
光希が怪訝な表情を浮かべる。肩に触れる手から、かなりの力が伝わってきたからだ。
彼の行動を制止させても尚、鷹音の視線は正面の神屍へと注がれていた。傍から見れば、光希達の存在など視界に入っていないかのように。
「
零れるように、少年が言葉を発する。
「〝あれ〟は、俺の相手だ」
「……何だって?」
「ちょっとッ!」
鷹音の物言いを聞き留めた栞が、横合いから割り込んできた。
「なに自分勝手なこと言ってるのよ! そうやって手柄を独り占めする気⁉ あんたみたいな奴が一人で戦ったって絶対に勝てっこないんだから、大人しく光希の後ろでサポートしなさいよ!」
そう言って激しい剣幕で詰め寄る彼女を、光希が何とか宥めていた。
そんな時でさえ鷹音の瞳が余所に逸れる事はない。その事に少しの苛立ちを覚えた栞が、更に声の圧を高めて続けた。
「あのねぇ! 知らないようだから教えてあげるけど、成り行きとは言え光希と一緒に戦えるのは凄く光栄な事なのよ⁉ 光希はもうそこらの新人機士とは違う。人種型の討伐経験だってあるの! そんな実力者だから機士になりたての人がいつも寄って来るけど、彼の足を引っ張らない為に、同行出来るのは一定以上の実力を備えた人だけ! つまり私達はいつも光希に付いて行こうと必死に頑張って、その結果ここにいるの! 偶然同じ場所に居合わせただけの奴に偉そうな顔されるのは我慢ならないのよ! それが分かったらちゃんと光希の言葉に従いなさいッ‼」
この状況にいながら、栞の意識は完全に鷹音へと向けられているようであった。
正面に佇む神屍の存在など忘れているかの如く、勝手気儘に喚き続けている。彼女だけがそうならば鷹音も最後まで無視していたが、あろうことに、彼女の後ろに並ぶ数名の少女機士達も同様に、こちらへ嫌悪の視線を差し向けている事を、鷹音は見なくとも察知していた。
そんな中で光希は戸惑い狼狽の様子を見せている。彼だけは辛うじて獅子の神屍から意識を逸らしていないようだが、それでも注意力は決定的に欠けているように思えた。
故に、鷹音は絶えず正面に向けていた意識を、ほんの僅かに外へ逸らした。
苛立ちに似た感情を抑え、低い声音で言う。
「二度は言わない。あれは俺の相手……俺が一人で対峙すべき神屍だ。君達が束になって掛かろうと敵うような相手じゃない事に、いい加減気付け。そして俺と君達が手を組んで戦ったとしても、一切の戦力向上にならない事にもだ。はっきり言わせてもらう――邪魔だから退いてくれ」
「ッ……何ですって⁉」
鷹音の言葉に、栞が激昂の様を見せる。歯を食い縛り、拳を握り込んで、光希の制止を振り解く勢いで更に一歩を踏み出す。
だが。
「あんたみたいな自分の実力も分かってない奴は、どうせ獣種型すら斃せないのよ! そうやって一人でカッコつけて、最後は惨めに負けて――」
ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ‼ と。
栞の言葉が、大音量で掻き消された。
鷹音の視界の端で、緊張感も無く立っていた光希や栞達が刹那の後に姿を消した。
何かが地面を抉り飛ばしたのだ。コンクリートの地が容易く砕け、さながら波状となって襲い掛かった。それに光希達は巻き込まれたのだろう。
瞬間、鷹音は〝黒い剣〟のようなものを見た。
抉られた地面から舞い上がる土煙の合間に、歪な形を成す巨大な剣を思わす物体が浮かんでいる。
全てが黒々と染まり、光すら吸い込みかねない禍々しき長剣の全容は、鷹音の身丈よりも大きく。
見ただけで根源的な恐怖を感じる程の悍ましさを孕んでいた。
その黒剣の柄は何かと繋がっており、まるで伸びた鎖に引き戻されるかの如く、土煙の向こう側へと消えて行った。
(……黒鋼壁の頑強な壁面を破壊したのも、恐らくあれか……)
鷹音は一目見ただけで、あの漆黒の剣のようなものが持つ力の絶大さに気付いた。そして同時に推察する。〝あれ〟が自分を目掛けて振るわれた場合、真っ向から迎撃出来るだけの技量があるのかどうか、と。
即座に答えは出た。鷹音は首を横に振った。
(あれは
未だ微かに残る土煙を信じて、視線だけを後方へと向ける。
先の急襲を受けた光希や栞達が、かなり離れた場所で地面に転がっていた。だが全く動けない訳ではなさそうだ。何人かが懸命に力を振り絞って立ち上がろうとしていた。
恐らく手加減が成されていたのだろう。にも関わらず、あの威力。
鷹音は改めて全身の緊張感を高めながら正面へと向き直る。やがて晴れた土煙の奥に、変わらず獅子型の神屍が悠然とその場に佇んでいた。
ふと。
「ッ?」
鷹音が視線を戻したタイミングで、黒獅子が動きを見せた。緩慢な動作で身体の向きを反転させ、何故か自らの開けた穿孔の方へ頭を向けたのだ。
そうして不可解な事に――ゆっくりと地を踏み締めながら、穴の外側……つまり死廃領域へと歩み始めた。
鷹音は目を瞠った。
まさか何かに恐れを抱いて逃げ帰る訳でもないだろう。その証拠に漆黒の獅子は何ら警戒する素振りも見せず、気儘な足取りで黒鋼壁の外へと歩いてゆく。
縦幅十メートルはゆうに超える穿孔を潜り、そうして遂に壁の外へ出てしまった黒獅子は、だがそこで僅かに後ろを振り返り、真紅の瞳を鷹音へと差し向けた。
――後に思い返しても、それは筱川鷹音が勝手に感じた妄想のようなものだったのかも知れない。
しかし少年はその時、自らへ注がれる異形の双眸に、確かな意志を感じたのだ。
〝ついて来い〟。
何故だかそう告げられているような気がして、鷹音は無意識に息を呑んだ。黒獅子が彼を振り向いていたのはほんの数秒で、すぐに正面へ向き直った後に何処かへ跳び去ってしまった。
驚くほど静かな跳躍だった。だからこそ、因縁の神屍が自身の眼前から姿を消した事に、鷹音は束の間、呆然としてしまった。
だが不意に飛び込んできた声が、鷹音の意識を強制的に引き戻した。
『……くん。鷹音くん、聞こえますか⁉ 無事なら応答を‼』
「ッ」
切迫した李夏の叫びに、ハッとする。停滞していた思考が巡り始め、思い出したように耳元の無線端末へと手を触れた。
「……大丈夫、ちゃんと聞こえている。俺は無事だから安心してほしい」
落ち着いた物腰でそう告げると、端末の向こう側から盛大に安堵の息が聞こえてきた。
『よ、良かったぁ……急に無線が繋がらなくなった上に壁上カメラも不具合を起こしたようで、そちらの状況がモニタリング出来なかったんです。一先ず、鷹音くんに何もなくて安心しました』
「……、」
確かに、あの神屍と対峙している間、無線で繋がったままの筈だった李夏は一言も言葉を発していなかった。それは完全に意識の外へ追いやっていた為、気にも留めていなかったが、機士や支機官の無線端末が突如として回線断絶を起こす等、滅多に無い。
不可解な事に怪訝な表情を浮かべる鷹音に、落ち着きを取り戻した李夏が訊ねた。
『それで鷹音くん、あの獅子型の神屍はどうなりました? こちらで確認出来る範囲に標的の姿は見られないのですけれど……』
「あぁ……」
生返事をして、そこから鷹音は何を言う事もなく黙り続けた。
脳裏に巡っているのは当然、黒き獅子の異形についてだ。チラリと視線を動かして奴が消えて行った穴を見やる。
ついて来い、と。
そう言われた気がした。そしてそれは恐らく、鷹音の思い込みなどではない。注がれた真紅の双眸に殺意に類する意思を感じる事は無かったが、ただそれだけは、確かに伝わってきた。
馬鹿げていると、自分でも思う。
神屍は自意識や知能と言った代物を持たない本能の殺戮者。そこに介在しているものなど、ひたすらの捕食と破壊に染まった苛烈な衝動のみ。
だが。
事実、鷹音ですら初めて見たのだ。絶対の対敵である人間を前にして、襲い掛かる事無く背を向けて去った神屍を。
思い返せば、三年前。鷹音の眼前で彩乃を喰らった時も、あの神屍は鷹音を見逃していた。もしもあの獅子型の異形が、他の神屍と同様に本能のまま捕食と殺戮を繰り返す存在だったのなら、もしかすれば鷹音もまた彩乃と同じ運命を辿っていたかも知れないのだから。
(ッ……違う、違うだろ。あいつは彩乃さんを喰らった。俺の目の前で、俺の事を嘲笑いながら)
抑えていた感情が僅かに顔を覗かせる。漏れ出る威が、少年の前髪を弄ぶように揺らした。
『……あの、鷹音くん?』
返答が無い事を不審に思った李夏が、伺いの声を発する。
胸中に生じた棘が言葉に乗らないよう気を付けて、鷹音は静かな物腰で応じた。
「あぁいや、華嶋さんが心配する事は何もないよ。……と、言いたいところだけど、途中から合流した機士達が数名、負傷してしまった。見たところそこまで酷い状態ではないようだが、念の為、救援部隊として何人かこちらに寄越してくれると助かる訳だけど」
『一条くん達ですね。確かに何らかの戦闘の跡が見られますけど……あの神屍は、無事に撃退したんですか?』
「あぁ」
声色の抑揚を全く変える事無く、鷹音は言った。
「だが生憎と討伐は叶わなかった。監理局に戻り次第、戦闘記録を報告させて貰うよ」
「……、」
何故か李夏は数瞬の沈黙を挟んだ。しかし直後に、変わらない声色で返答した。
『かしこまりました。手隙の機士に通達を出し、そちらへ向かって頂きます。……鷹音くんは如何致しますか? こちらとしては、一条くん達の安全が保障されるまで待機していて貰いたいのですが……』
「すまないけど」
即座に言葉を返す。
「俺はいい加減、この場を離れさせて貰うよ。正規の機士でもないのに、もう充分以上に働いたと思う訳だけど。それともまだ街中に神屍の残党が居たりするのかな? だったらせめてそちらに向かう事も出来るけど」
『……いいえ。その必要はありません。確かにこれ以上、鷹音くんに出張って貰うような事態は無いかも知れませんね』
「それは何より」
そこで暫し、沈黙が生じた。
李夏は鷹音の本意を悟り、鷹音もまた、自身の隠し事に李夏が気付いている事を理解しているが故の、そんな無意味な沈黙。
『そういえば』
ふと、前触れなく李夏が言った。
『先ほど無線で連絡が入りました。雪村さん、無事に監理局へ戻って来れたそうですよ。帰投後は念の為に、医務室でメディカルチェックを受けて頂く予定です』
「……そうか」
淡泊な中に少しだけ安堵の色を込めて、鷹音はそう返した。
紗夜の無事を願っていたのは確かだ。機士である以上、ホロウによって半ば死の要因すら遠ざけられているとは言えど、決して消えぬ痛みやそれに苛まれる事による苦しみがある事を鷹音は知っている。
機士の素質を持つが故の破綻した一面を持っているとは言え、彼女は何処までも真っ直ぐで、清廉な心根を持っている。少なくとも、雪村紗夜と言う少女を見据えた鷹音が眩しいと思ってしまうくらいには。
だからこそ、彼女にはこれからも機士で在り続けてほしいと何処かで願っていた。
頬を引っ叩かれた時の痛みを思い出す。
その際に彼女が目尻に浮かべた涙を思い出す。
自らの頬にそっと指先で触れる。思わず苦笑した。とうに痛みは引いているにも関わらず、未だその部分に紗夜の掌の熱が残っているような気がしたからだ。
その感覚が、何故か鷹音の内からささくれ立った棘を消し去ってゆく。
心は冷静だ。だがその更に内側に、闘争心を滾らせて。
そうして少年は、穏やかな声音で告げた。
「なら、何処かのタイミングで紗夜に伝えておいてくれないかな。次にまた君と会えたら、その時は必ず、君の姉の事について聞かせて欲しいとね」
それだけを告げて。
鷹音は猛然とした勢いで、その場から駆け出した。
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