神に挑みし最強


 東京エリア全域を囲う形で黒鋼壁が建造されたのは、今から二〇年以上も昔の事だ。


 以降、限られた土地の中であろうと人間社会は少しずつ発展を続けてきたものの、死廃領域と呼ばれる壁外の世界は、当時のまま姿を変える事無く、まるで時間が止まってしまったかのような姿を成していた。

 存在する建造物は悉く破壊されている。当時は数十階の高さを有していたであろう高層ビルも殆どが半ばから折れ、無残な様相を呈している。道端には所々雑草が生え、幾つかの家屋には根が張っている。

 文明が崩壊してしまった後の終末世界。

 かつては確かに人類が生きていて、しかし今は異形の神々によって支配されている荒廃領域。


 凄惨な世界を久々に自身の目で見た鷹音は、こんな時であるのにほんの少しの懐かしさを感じながら、家屋やビルの上を足場に恐るべき速度で移動していた。

 死廃領域に於ける三次元的な立体移動は、建てられているもの全てが整然としている街中の時とは決定的に勝手が異なる。建造物の悉くが半壊してしまっている以上、跳躍の瞬間に起点とする足場が突発的に崩れ、それによって地面に落下してしまう可能性が少なからずあるからだ。

 常に次の足場とする建物の状態を見極め、それに応じて跳躍の方向を決める必要がある。

 しかし鷹音は、二年以上のブランクがあるにも関わらず、街中の時と遜色ない速度で空を疾駆していた。見える範囲には獣種型一体すらいないものの、迂闊にこちらの姿を発見され、不必要に神屍の群れを引き連れてしまう可能性を無くす為に一定以上の速度で駆けているのである。

 既に黒鋼壁の穿孔から数キロは離れてしまっているだろう。地面の隆起に伴いレールが歪に変形してしまっている線路や、かつては大型のショッピングモールだったものと思しき建物が見える。

 広々とした平面に駐車場が展開されている屋上へ着地した鷹音は、地上数十メートルの高さから死廃領域を見渡した。


「……何年経っても、きっとこの景色は変わらないな」


 暗雲が立ち込めつつある空の下。

 生命が根絶し、荒廃を極めた世界。

 だがそこに広がる光景は、普段鷹音が生きている街のそれとは全く違うように思えた。何処までも広大で、行き止まりが無い無窮の如き世界。これこそが、かつての自分が生きていた場所であると再認識した鷹音は、改めて、一抹の懐かしさを胸の裡に感じた。

 不意に柔らかな風が吹き、鷹音の髪を揺らした。絶対の壁が隔てていようとも、そこに吹く風は普段の日常の中で感じているものと何ら変わらない。

 気紛れに後ろを振り返る。かなり離れた場所に地平線の如く、黒鋼壁の姿を捉える事が出来る。

 あそこに見える壁の内側は相応に安全が保障された人類の領土。そして今の自分が立っている場所は、人類の捕食者たる神屍が跋扈する異形の領域。

 その感覚はさながら、単身で海原の沖合に流された時と同じようなものなのだろう。得体の知れない孤独感と僅かな恐怖が、少年の胸中に細波さざなみを作り出した。

 それは当然、年単位で前線を離れていた事による弊害なのだろう。このような感覚を持つ事など、機士としての資格を持ち、初めて支配領域に踏み入ったばかりの頃以来なのではないだろうか。 

 束の間、鷹音は己の胸中からありとあらゆる感情を消し去り、心の平静を取り戻そうとした。

 しかしそれは叶わなかった。


 有りっ丈の破壊を伴い、少年の立っていた屋上の一角が突如として崩落したからだ。

 刹那の間に駐車場の全面へと亀裂が巡り、その中で鷹音の周囲だけが不自然に砕かれた。


「ッ‼」


 一瞬だけ、少年の身体を浮遊感が包む。

 直下から何らかの衝撃によって突き上げられたかの如き一帯は、無残に破壊されて無骨な瓦礫と化し、そのまま下の階層へと落下していった。恐らくかつては立体駐車場だったと思われるフロアが、数瞬、鷹音の視界に映る。

 だが少年が瓦礫と共に落下する事は無かった。

 瞬時に己へ状況判断を下し、自然落下しつつある瓦礫を足場として即座に上方へと跳躍。亀裂が入りつつも未だ原型を成している屋上の中心部へと一足で飛び退いた。

 崩壊の渦中から離れ、その有様を客観的に見た鷹音は、そこで漸く――、


「あれは……、」


 舞い上がる灰色の粉塵に紛れて、先刻も視界に捉えた歪な黒剣を垣間見た。

 根源的な悍ましさを孕んだその巨大な剣は、またも何かに引き戻されるかのように姿を消す。

 その直後、大きく穿たれた穴から巨大な影が飛び上がり、鷹音から相応の距離を空けて屋上のへりへと着地した。

 漂う粉塵の中、炯々と輝く真紅の双眸がこちらを見据えているのが分かった。

 餓狼種や猛鬼種とは根底から異なる威、そして見た者に極大の恐怖を植え付ける圧倒的な神々しさ。

 李夏から言われた言葉を脳裏に思い出す。


 おおよそ全ての神屍の頂点に君臨するであろう神種型、その一角。

 巨大な獅子の姿を象る異形――万物万象をベゼルグ・睥睨ネアする溘焉の担い手・ラーヴァテイン

 三年前に会敵し、鷹音の眼前で彩乃の身体を無残にも喰い潰した忌敵。


 それを目の前にして、けれど少年は、先程のように我を失うような真似はしなかった。

 沸々と沸き立ちかけた心裡を、静かに息を吐く事によって統制する。


「……は俺の事を、覚えていないかも知れないけど」


 自分でも驚くほど穏やかな声で言いながら、筱川鷹音はゆっくりと腰に佩いた得物へと手を伸ばす。

 かつて、あの異形を前にした時は、指一本動かせなかった。右手に握っていた筈の刀はただの飾りに成り果て、無様に震える事しか出来なかった。

 しかし今は違う。

 三年の時を経て、寧ろ少年はあの頃よりも弱くなっている。

 にも関わらず、不思議と恐怖は無かった。あるいはそれは、彼我の実力差を正確に測る『眼』が衰えてしまっただけなのかも知れない。

 それでも良い。

 ここで怖気に委縮する事なく、刃を抜き放つ事が出来るのならば。


「俺はこの三年間、一度として忘れた事はなかったよ。大切なあの人が喰われ、そのかたきを討つ気なんて微塵も湧かなかった訳だけど、それでもこうしてが再び俺の前に姿を現したのなら、せめて、決別の切っ掛けにでもさせて貰う」


 機士は何があろうと死なない。

 故に、鷹音の中に死ぬ意思など毛頭ない。

 ただ。

 ただ、もしもこの神屍に一矢でも報いる事が出来たのなら。

 少しだけ、自分は前に進めるような気がする。

 三年と言う短くも長い年月を共に過ごしてきた多大な後悔や未練、そして自身への憤り。

 それらと決別出来る道が目の前にあるのなら、それを選ぶ事もまた、〝あの人〟に対する贖罪になり得るのだろうから。


「だから」


 黒灰の軍服がはためく。周囲に立ち込めていた粉塵がようやく晴れ、両者が互いの姿をしっかりと視認出来るようになった。

 刀を抜く。

 鈍色に煌めく武骨な太刀の刀身が、持ち主の意を反映してか、淡い青の光を纏う。

 そして少年の瞳もまた、それ以上なく、鋭い光を宿して見えた。


「俺の自己満足な我が儘の末に――



     ※


 少年の口から言葉が吐かれた直後、場に変化があった。

 既に廃墟と化した大型ショッピングモールの屋上の一角。吹き荒ぶ風の音だけが聞こえていたその場は、次の瞬間にはもう、破壊の渦中と化していた。

 鷹音の宣告を合図としたかの如く、『溘焉に担い手ラーヴァテイン』が突如として鷹音に飛び掛かった。人種型を超える巨躯でありながら、獣種型を上回る速度に少年は戦慄し、だが刹那の後には確実な回避行動に入っていた。

 振り下ろされる巨大で鋭利な爪。轟音を伴い迫ったそれを、鷹音は上半身の動きのみで躱す。

 その身体捌きはどこまでも正確で、常人であれば天文学的偶然性の末にしか成し得ない数センチ単位の回避だったが――、

 しかし直後、空振りに終わった剛爪の直撃を受けたコンクリートの平面が、さながら砂の城が突き崩れるかの如く、容易に破壊されたのだ。

 凄まじい轟音と再び巻き上がる灰色の粉塵。当然、鷹音はその場に立ち続ける事が出来なくなった。


(くそっ! ……初動から考えるに、全力からは程遠い戯れのような一撃だった筈。なのにこの威力か! この神屍を相手取る上で、脆い建物を戦場にするのはこちらの首を絞める事にしかならない‼)


 先程と同じように、落下しつつある瓦礫を足場にして、未だ崩落していない安全地帯へと大きく飛び退く。しかし、まるでその動きを想定していたかのように、立ち込める粉塵を引き裂いて黒なる獅子が次なる攻撃を仕掛けてきた。


「ッ‼⁉⁇」


 距離を取って思考を切り替えようとして――だが既に、漆黒の鋭爪が眼前へと迫っていた。

 身体に染み付いた反射的な本能が咄嗟に少年の上半身を後ろへ倒す。だが今度は完全に躱し切る事が出来ず、鷹音の右頬に縦の裂傷を刻んだ。

 激烈な凶器が過ぎ去った瞬間、鷹音は限界まで身体を倒した状態から強引に後方へと跳躍する。

 だが結局は先程の光景の焼き直し。

 連続的にバックステップで退避する鷹音を追うように、何度も黒獅子が襲い掛かってくる。ズドン! ズドン! と『溘焉の担い手ラーヴァテイン』が少年の身を圧搾せんとその前脚を振り下ろすたび、屋上一帯に振動が走り、一面に生じた亀裂は凄まじい速度で深まってゆく。

 戦闘が始まってものの数秒で、既にショッピングモールの屋上は半壊状態と成り果てていた。


(こういった市街地で戦闘を繰り広げる場合、屋内の空間は神屍から自身の身を隠す上で有効に働くのが通例……だがコイツの場合、不用意に身を隠すのは愚策! もし迂闊に階下へ退避しようものなら、即座に〝あれ〟で襲われる‼)


 鷹音の中には常に一つの懸念があった。

 それを危惧しているからこそ、仮に隙を見つけたとしても直情的に突っ込む事を躊躇してしまっているのだが――、


(いや違うッ!)


 鷹音は瞬時に考えを改めた。

 こうして生半な距離レンジを取った状態で戦う方が、よっぽど危険だ。いつ来るか分からない隙を突いて重い一撃を叩き込む事よりも、速度に徹して相手を攪乱させる事が先決。それが常套。

 遠い過去に一人の仲間から教えられた言葉を思い出しながら、一層強く跳躍して僅かに空隙を作り出した鷹音は、右手一本で握っていた機械太刀を両手で持ち直し、身体に引き寄せるような姿勢で構えた。

 その時点で、既に黒獅子は刀の間合いへと踏み入っていた。時間にすればコンマ数秒。

 刹那の世界で、それでも自らに振り下ろされる漆黒の凶器を見据えていた鷹音は。

鋭爪の先端が自身の頭部を捉えるその寸前で、刀を振るう事はせず、ただ軸足を起点にして身体の位置を半歩ほどズラした。

 ガガガガガガガアアアァァンッ‼ と。

 直前まで鷹音の半身が存在した箇所、残像すら残るその場所に轟音を破壊が降り注いだ。

 当然、厄災の如き猛威を受けた地面は呆気なく砕かれる。しかし鷹音は間一髪という言葉すら生温いミリ単位の世界に於ける回避を成したお陰で、全くの無事であった。

 涼しい顔をしつつも背筋に冷や汗が浮かんでいた。だが構っていられない。

 崩落する足場が瓦礫と化して落下するより早く、その場から飛び上がり、同じように階下へ落ちかけている黒獅子の体毛を掴む。柔らかく靡いて見えたその黒毛は、しかし針の如き硬質な感触を鷹音に伝えてきた。たったそれだけで、この神屍を斬り付けた際の結果を思い知らされるようだった。


(ッ……怯むな‼)


 左手で体毛を掴んだまま、構わず至近より刃を叩き付ける。

 ――だが、やはり。

 全身を覆う黒毛がさながら鎧を成しているかのように、打ち込まれた斬撃の威力を全て吸収する感覚があった。

 量産型の剣で蛮鬼ダイダロスの逞しい躯を斬り付けた時とはまるで異なる。あれは辛うじて、鋼の塊へ斬り掛かったのだという一種の錯覚があった。。どれだけ全力で斬り掛かろうとも、威力の悉くが吸収、無力化されてしまうのだと言う自覚さえあった。


(なん、っ……⁉)


 歯噛みする。その間にも足場を失った獅子の巨躯は自然落下を始めていた。

 鷹音は即座に思考を巡らせ、漆黒の体躯へと再び刃を打ち込む。その瞬間、体毛を掴んでいた左手を解放し、斬撃の際に生じた衝撃を利用して上方へと飛び退いた。

 離れ行く視界の中で、黒獅子の巨体が成す術なく階下へと落下していった。超重量の物体が幾層も地面を破壊する音を聞きながら、間一髪のところで、鷹音は安全地帯へと戻って来た。

 既に屋上の全域は崩落しかけている。

 故に、この場に於けるこれ以上の戦闘は不可能であると断じ、鷹音は残り少ない足場を利用して屋上のへりにまで退避した。


「……笑えない冗談だ」


 苦い笑みを浮かべながら言う。


「ブラッド・ギアの性能が当該の神屍よりも下回っていた場合、急所となる極小の脆弱点を突かないと斃せないのは常識な訳だけど。でも謹製装備エクストラ・ギア鉄一門クロガネシリーズなんだぞ……? あの竜種型でさえ、急所以外の部位であっても少なからずダメージを与えられた筈だ。なのにあの神屍は……」


 半ば呆然としつつも、鷹音の頭は猛烈な速度で思考を巡らせていた。脳内に記憶してある数百に及ぶ神屍との戦闘データから、現状に類似するパターンを選出。それを頼りに類推と仮定をひたすらに繰り返し、あの黒き異形の獅子を屠る為の最適解を見つけ出す。

 が、


(……いいや、そんな簡単に刃を突き立てられるとも思ってなかっただろう!)


 検索不可能。

 事実上、鷹音が握っているこの機械太刀、青鉄・水脈もまた、彼を最強たらしめていた比類なき強力な武装だ。それであってもあの強靭な黒毛を僅かも突き破る事が出来なかった。

 搦め手や小細工でどうにかなる問題では無い。

 それを鷹音は先刻のひと太刀で思い知らされていた。

 少しだけ、心が揺らぐ。しかし直後に首を横に振ってマイナスな心因を脳内から吐き出した。

 頭を切り替え、周囲を見渡す。

 いま自分が立っている大型ショッピングモールの残骸を含めて、辺りには中層ビル群や大小さまざまな建造物が点在している。鷹音の得意とする三次元的な高速戦闘を行う上でこれ以上ない好条件のエリアだ。

 それを最大限に利用し、自らに有利な戦闘状況を組み上げる。

 しかし直後に思考の一切が遮られた。


 ゴガアアアアアアアァァァンッッッ‼ と。

 突如として、鷹音の立っていた屋上の一帯が何かによって突き崩されたのだ。


 否。

 屋上の平面だけではない。。一辺二〇〇メートルはあるショッピングモールの構造そのものが、唐突に、悉く、嘘であるかのように破壊されたのだ。


「ッ⁉ これ、はっ……‼」


 大型重機を数十台単位で用意したとしても全て解体するのに数週間は要するであろう巨大な建物が、その全身に一瞬で亀裂を走らせ、次の瞬間には莫大な轟音と共に瓦解し始める。

 幾重にも連なる階層であれ基盤となる頑強な支柱であれ、全くとして関係なかった。さながら建物を支える基礎に満遍なくダイナマイトを仕掛け、それらを同時に爆破した時のような、見た者が思わず呆けて固まってしまう光景。

 そのど真ん中に立っていた鷹音は、さすがに焦燥に駆られた表情を浮かべた。

 逃げ場はない。退避は叶わない。

 辛うじて浮遊している大小様々なコンクリート片を足場にして、苦し紛れの跳躍を図る。

 身を投げた方向には空があった。

 地上十数メートルの高さから躊躇いも無く躍り出た鷹音は、だが次の瞬間、絶え間なく響き続ける崩落音に紛れて一際大きな破壊の轟音が生じるのを耳に聞いた。

 即座に背後を振り返る。

 地上へと一直線に降り注ぐ瓦礫や、対して朦々と空へと舞い上がる莫大な粉塵を引き裂くようにして、異形の獅子が鷹音を目掛けて襲い掛かってきたのだ。

 真紅の双眸が悍ましさを孕んで輝く。人の身をゆうに超える漆黒の巨躯は、さながら中空に浮かぶ影の如く、瞬く間に少年のちっぽけな躰へと覆い被さった。

 視界全てが黒に染まる。

 鷹音がいるのは空中。咄嗟に大きな回避行動を取れるほど、融通の利く領域ではない。


(しまっ――‼)


 刀の柄を両手で握り、体前に構える。引き延ばされた視界の先で、再び『溘焉の担い手ラーヴァテイン』が大きく前脚を振り被っている姿が映った。

 だが見ただけだった。

 直後、凄まじい衝撃が彼の身体を襲った。

 身体の急所を覆うように構えていた刀など何の意味も為さなかった。激痛よりもまず意識が霞んだ。脳が潰れる錯覚さえあった。

 神種型の攻撃を真正面から受けてしまった鷹音は、地上十数メートルの高さにいた状態から、そうして砲弾の如く吹き飛ばされる。


 数十メートル離れた場所に立つ半壊した家屋へとその砲弾が着弾したのは、まさしく刹那の出来事だった。



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