怒濤


 ――束の間、意識を失っていた。

 よりにもよって全身に走る激痛が目覚めの合図となり、鷹音は思わず苦悶の表情を浮かべた。


「がっ、ぐぅ……‼」


 これが生身の身体であったのなら、恐らく全身の骨が砕け、内臓が破裂し、口から尋常ではない量の血を吐いていただろう。だが目に見える範囲に傷はなく、四肢も歪んではいない。軍服が多少薄汚れた程度で、まず間違いなく無傷と言っていい様子ではあった。

 しかし迸る痛みは生半可なものではない。

 立ち上がる事もななまらない状態で、必死に脳から痛みの情報を切り離す。

 鷹音の卓越した自己意識による感覚遮断のでも尚、思わず呻いてしまう程の痛みは残留し続けた。


「がふ……くそっ、冗談抜きに笑えない……」


 それでも何とか立ち上がり、ほぼ全壊の様相を呈する建物の外に出る。

 ――全く同時だった。

 瓦礫と粉塵の中から漸く現れた鷹音を待っていたかの如く、重質な疾駆の音が聞こえた。

 異形が迫る足音だ。視線を転じる。

 その時点で既に、恐らく機士のように幾つもの建造物を足場にして跳躍してきた『溘焉の担い手ラーヴァテイン』が、少年に狙いを定めて飛び掛かっていた。


「くっ‼」


 迫る超重量の漆黒。歪な鉤爪が振り下ろされる。

 瞬間、鷹音はこれまで以上に思考の密度を引き上げた。全神経を視覚に集中させる。あまりの思考加速に、瞬時に両目が充血する感覚すらあった。

 構わず太刀を振るった。

 鈍色の刀身と漆黒の鉤爪が激突した。

 飛び散る火花。生じた衝撃が周囲の瓦礫を吹き飛ばす。両者の得物は激突と同時、奇跡にも拮抗したかに思えたが――

 次の瞬間。

 ギャリィィンッ‼ と言う金属質の擦過音と共に、鷹音の太刀が上方へと弾かれた。


「ッ」


 激しく回転しながら黒獅子をも超えて高く舞い上がった己の相棒を、少年は即座に仰ぎ見た。

 暗雲を背にして捉えた青鉄・水脈は、主の手を離れても尚、淡い青の燐光を纏っている。微かな光条すら残しながら上方に飛んだそれを、黒獅子までもが目で追った。

 真紅の双眸から、鷹音の姿が消える。

 

 鷹音が強く地面を蹴る。逃走の為に飛び退くのではなく、自らの真上へと。

溘焉の担い手ラーヴァテイン』の頭上にまで跳び上がった少年に、僅かに見開かれた獅子の双眸が差し向けられた。最高到達点を過ぎ、自然落下に入っていた太刀の柄を危なげなくキャッチする。

 ――四足獣の身体的な特性上、いくら頭上を仰ぎ見ようとも、自らの頭で後頭部から首筋にかけてのラインが隠れる事はない。

 鷹音の視界には、確かに、神屍の急所の一つである首筋が無防備に晒されていた。


(……これならッ‼)


 両者の距離は近い。この位置関係ならば、相手が仰け反って前脚を振るうよりも、鷹音が刃を振り下ろす方が早いのは明らかだ。

中空に浮いた身体を強引に制御し、上半身と下半身の捻りを利用して身体を横に回転させる。さながら独楽やモーターのように高速で回る鷹音は、その回転力と自然落下の勢いをも上乗せして、露わになっている獅子の首筋へと全力の斬り下ろしを叩き込んだ。

 相手は微動だにしなかった。刃の直撃は確実だった。

 なのに。

 それなのに。


 ガギンッ、と。

 おおよそ生物を斬り付けたのならば生じるはずの無い異音、そして酷く硬質な感触が、刀を通じて鷹音に伝わってきた。


「ッ……⁉」


 さすがの少年も目を瞠り、思考を止めた。

 振り下ろされた青鉄・水脈の刀身と、漆黒の体毛が生え及んでいない獅子の首筋。その間に、歪な煌めきを発する〝何か〟が存在していた。

 それは剣。

 蛮鬼ダイダロスの棍棒をゆうに超える大きさを持つ、禍々しさの塊でしかない歪な黒の剣。

 柄尻の部分にはまるで鎖のようなものが付いており、宙に蛇行して浮遊するそれの付け根を辿れば、『溘焉の担い手ラーヴァテイン』の背部に繋がっているように見えた。

 幾度となく目にした歪なる凶器。

 それが、鷹音の全力を傾けた斬撃を、悠々と受け止めていた。


(これっ、は……この神屍の肉体の一部か! だがさっきまで影も形も存在しなかった。まさか形状変化する細胞の如く、背中から生えてきたとでも言うのか⁉)


 ズラリと扇のように並ぶ黒剣は総じて十本。内一本が鷹音の斬撃を防いでいる傍らで、残りの九本が一気呵成に蠢き出した。


「チッ‼」


 拮抗していた刃に一瞬だけ力を込め、それによる反動で空中にいながら大きく後ろへ飛び退く。直後、寸前まで鷹音の居た空間を、巨大な漆黒の剣が悉く斬り裂いた。

 不安定な体勢のまま地面に着地した鷹音は、だが間を置かずして降り注ぐ刃の軍勢に気付いた。

 黒獅子としては、恐らく尻尾を動かしているような感覚なのだろう。

 身体全体を蠢かせ、背中の中心から伸びる無数の剣が生えた鎖を器用に操り、巨大な凶器を標的へと殺到させる。

 広い視界を保ちながら、自らへ迫る全ての黒剣の軌道を捉えていた鷹音は、回避の間に合わない数本の刃に向けて、太刀を構えた。

 高速で宙を蛇行しながら降って来るそれらに、一撃一撃、正確に刀を打ち込む。

 蛮鬼ダイダロスの棍棒を受けた時のように、正面から刃をぶつけるような真似はしない。威力を拡散させる事に重点を置き、軌道を逸らすように全て横合いから斬撃を放った。

 ギャギギギギギギギイイィィンッ‼ と、耳をつんざく擦過音が鳴り響き、だがその音が示す通り、襲来した九本全ての黒剣を鷹音は凌ぎ切った。


(くっ……一撃ごとの攻撃が重すぎる! 刀を打ち込む角度を数センチでも間違えれば、問答無用で刃の餌食になるッ‼)


 余剰区域の穿孔付近で、『溘焉の担い手ラーヴァテイン』が鷹音の前に姿を現す直前、立ち込めていた土煙の奥から襲来した〝何か〟を迎撃しようとして、鷹音は気付けば宙へ吹き飛ばされていた。

 あの時に刀と激突したのは、この黒剣だったのだろう。こうして思い返せば、かなり手加減されていたように感じる。いくら真正面から正直に迎撃の刃を放ったとは言え、あれば間違いなく鷹音の全力の一振りだった。

 それを容易く弾き、更には鷹音自身をも吹き飛ばしたのだ。

 その威力と危険性は、彼にして身を震わせるほど。

 戦慄を覚えつつも機械太刀の柄を握り直した鷹音は、数瞬の間だけを置いて再び迫り来る黒剣の群れを鋭く見据えた。


「くそっ‼」


 馬鹿げた力に悪態をつきながら、それでも連続して硬質な音を響かせ、確実に黒剣の猛襲を凌ぐ鷹音。反撃の余裕はない。それでも迎撃だけに全神経を注いでいれば、問題なく対処出来る範疇ではあった。

 たった数秒、その中で両者の刃が激突した回数は数十に及んだ。

 絶え間なく繰り出される即死級の攻撃を捌きながら、けれど少しずつ頭の片隅に思考を巡らせる余裕が出てくる。


(……体表面の黒毛の強靭さは尋常ではない。『プライド潰し』の戦法に切り替えて急所を一撃で絶とうとも、まるで自動防御装置の如くあの黒剣が阻んでくる‼ ならまずはあの黒剣の対処が先か? 剣と背中を繋いでいるあの鎖のようなものを断ち切る事が出来れば重畳だが、そう簡単にいく訳もない。くそっ、せめてあと一つ閃光手榴弾があれば……‼)


 内心で歯噛みする。

 だがこの状況でないものねだりをしても、何ら意味は無い。

 頼れるものは己が身一つ。

 鷹音が改めて覚悟を定め、更に迎撃の精度を上げようとした瞬間。

 迫り来る巨大な凶器に向けて構えていた機械太刀の刀身を躱すようにして、一本の黒剣が鷹音のすぐ傍らを突き抜けた。


「ッッ⁉」


 右耳の一部を掠ったのか、僅かに痛みが走った。

 刹那、鷹音は動揺を浮かべる。迎撃の姿勢は完璧だった。にも関わらず……、

 考える暇など無かった。

 先刻よりも数段、速度と重さを増した黒剣の群れが、怒濤の如く鷹音へと襲い掛かって来たからだ。

 鷹音の口から小さく絶句の声が漏れる。

 降り注ぐ猛攻の奥に、獅子の貌が見えた。禍々しさと歪を同居させた悍ましき異形は、その口許に裂けるような笑みを浮かべていた。

 ――神屍はその本能に、嗜虐的な習性を備えている。

 鷹音が油断したその瞬間を見計らって、『溘焉の担い手ラーヴァテイン』は攻撃の密度を上げたのだろう。

 動揺を浮かべる鷹音の顔を嘲笑うかのように口許を歪めながら、しかし尚も余力を残していると思わせる佇まいで、黒き獅子の異形は次々と黒剣を放ち続けた。


「ほんッ、とうに……嫌と言うほど人間の琴線に触れて来る奴等だな‼」


 そう吐き捨て、鷹音もまた迎撃のレベルを引き上げて、今にも胴体を貫こうとしてきた一振りを周囲の黒剣数本諸共、大きく弾いた。

 瞬間、止むことの無かった猛攻に刹那の空隙が生じた。

 それを鷹音は見逃さない。

 最低限の予備動作でその場から後方へ飛び退く。

 見回さなくとも周辺の地形や建造物の配置を把握していた鷹音は、そのまま後ろ向きの状態で跳躍を重ね、瞬く間に『溘焉の担い手ラーヴァテイン』から距離を取った。

 当然、眼前から消えた標的を追って、即座に黒獅子が疾駆を始める。それも驚いたことに、背中と黒剣を繋ぐ鎖を伸長させて、振動翼機の類から放たれるミサイルの如く十の黒剣を殺到させながら。


「どこの生体兵器なんだあの神屍は……⁉」


 言いながら、くるりと身体の向きを翻す。半壊したビル群の屋上を敢えて高低差を付けて跳び回りながら、背後より迫る狂刃の群れを間一髪のところで弾き落としてゆく。

 幸い、両者の速度はほぼ変わらない。

 だが標的を追うだけの黒獅子に対して、鷹音は常に背後を警戒して迎撃を繰り返している。故にその差は少しずつ縮まっているように思えた。


(……ひらけた場所を逃げていてはいつまで経っても格好の的か)


 ならばと、通過しかけていたビルの側面を駆け、開け放たれた窓から建物内へと飛び込む。

 巨大ショッピングモールを丸ごと倒壊させた黒剣による波状攻撃を警戒して、屋内へ身を隠す事を避けていたが、ほんの数秒踏み入るだけならば問題は無い。

 とうに元の姿の名残すら失い、壁や床の基礎が剥き出しになっている場所を、真っ直ぐ走る。幸いフロアはそこまで広くなく、建物のワンフロアを横切るのに五秒も掛からなかった。

 半ば砕かれているガラスが一面に並んでいる壁から、迷いなく身を投げ出す。高さ七階分に相当する地点からの身投げだが、それに関して少年は焦りを見せない。

 直後、鷹音が飛び出した場所から生き物のように蠢く漆黒が伸びてきた。

 建物そのものを遮蔽物とする鷹音の思惑に反して、宙を蛇行して伸びる鎖、そしてその先に生えた黒剣は、空中にいる鷹音へと正確に襲来する。

 その理解不能で理不尽なまでの精密さに舌打ちを鳴らしながら、鷹音は迫る凶刃へと己が刃をぶつけた。

 生じた火花すら置き去りにして落下する少年が見据える先で、宿主の元へ帰ってゆく黒剣が、ついでのようにビルを破壊した。

 鳴り響く轟音や舞い上がる粉塵を背に、鷹音は手近な建物の屋上を目指して着地体勢を取り――、

 しかし。

 刹那の後に自らへ覆い被さった漆黒の影に、思わず瞠目した。


「なっ……⁉」


 瞬時に見上げる。

溘焉の担い手ラーヴァテイン』の巨体が、鷹音の頭上に存在していた。

 暗雲から辛うじて透かし見えた太陽を遮り、そうして生じた影すら己がものとするかのように、黒き獅子の異形は、堂々と、傲然と、鷹音を睥睨していた。

 先刻襲来した一振りの黒剣は――囮。

 そう気付いた時には遅かった。

 ズラリと並ぶ刃の軍勢が、その切っ先全てを鷹音に向ける。

 それは死の宣告であるかのように思えた。

 巨大な刃が射出されるまでのおおよそ三秒にも満たない時間が、この瞬間、鷹音には無限のそれに感じられた。

 空中で懸命に身を翻す。

 一瞬の時間を更に凝縮した刹那の中で、それでも鷹音は、本能的に己の急所を守ろうと刀を構えた。

 同時に、歪な黒き剣の群れが少年へと放たれる。

 迎撃は間に合わない。防御すらも怪しい。

 尋常でない痛みと衝撃を覚悟して身を硬直させた鷹音は――けれど。

 それでも閉じなかった視線の先で、不思議な光景を見た。

 不意に。

 今まさに鷹音の胴体を斬り裂こうとしていた漆黒の刃が、ピタリと止まったのだ。


「ッ――」


 驚愕と安堵、怪訝と疑心が同時に湧き上がった。

 強張らせていた身から緊張を解く。否、自然と解けた。

その巨体すら用いて鷹音を圧搾せんとしていた黒獅子は、何故か黒剣を自らの許へと引き寄せながら、鷹音が降り立とうとしていた建物とは別の地点に着地した。

唐突に不可解な行動を見せた神屍に怪訝の視線を向けながら、少年もまた手近な場所に降り立つ。

 ――歪なる剣を侍らせ佇む黒き獅子の異形は、何故か、鷹音から視線を外していた。寸前まで迫っていた黒剣の切っ先も、標的を変えるように不自然な動きを見せている。

 黒獅子の視線を追う。


「……あれは、」


 かつて住宅街だったと思しき廃墟の群れの中に、一つだけ抜きん出た高さを持つ建物があった。今の時代には殆ど姿を消してしまった、全面レンガ造りの巨大なマンションだ。橙色の外壁は大部分がくすんだ色を見せ、周囲の家々と同じく半壊した様相を呈している。

 その屋上に、明らかに経年劣化や風化による損傷が見られない物体オブジェクトが見えた。

 金属製の外郭から幾筋もの配線が生え、まるで地に根を生やす木のようなそれは、死廃領域の状況をリアルタイムで監理局に知らせる映像収集機器だ。

 高さはほんの二メートル程度で、天辺には三六〇°全方位を見渡す為の円形カメラが取り付けられている。

溘焉の担い手ラーヴァテイン』は何故か、それをじっと見据えていたのだ。

 死廃領域にあるまじき人工物に興味を示した訳でもあるまい。

だが何にせよこれは好機であると判じて、一歩を踏み出した瞬間、まるでその音に反応したかの如く、瞬時に黒獅子はこちらに向き直って咆哮を上げた。


(ッ、何なんだいったい……‼)


 凄まじい速度で、獅子の神屍が跳躍した。

 今度はその剛強な鉤爪で以て鷹音を引き裂かんと振り回してくる。黒剣に比べて幾許か速度が遅いそれを僅かな体重移動のみで躱した少年へと、今度こそ黒剣の猛威が再び襲来した。

 バックステップや後方宙返りを精一杯駆使し、次々と地面を抉り取る凶器の落雨をギリギリで躱す。

 躱し切れない攻撃は、例え不安定な体勢であっても何とか刀でいなす。

 いなしながら、視線だけを動かして獅子の貌を見やる。相変わらず余裕のある顔付きで、威嚇やそれに類する感情を感じさせない貌を浮かべていた。


 ――だからこそ。

 そこで鷹音は自ら、『油断』を作り出した。


 それまで完璧なタイミングでぶつけていた刃の迎撃を、ほんの一瞬、ベテランの戦闘者ですら完全には認識し得ない動きで、刀の挙動を鈍らせる。

 その〝囮〟に、

 やはり『溘焉の担い手ラーヴァテイン』は瞬時に喰い付いた。

 黒剣による攻撃の密度を上げながら、自らも跳躍する。もはや黒剣のみでは仕留めきれないと悟ったからだろうか。

 変わらず剣の群れによる猛攻を放ちながら、両の鉤爪を用いて直接的な攻撃を仕掛けてくる。

 ……襲来する攻撃が一つ一つならば、問題なく対処出来ただろう。

 しかし、鉤爪と黒剣ではその攻撃速度に僅かな差異が見られる。そうして奇しくも生じてしまっている『緩急』が、鷹音を苦しめる原因の一つを担っていた。

 だが構わない。振るわれる剛腕と、降り注ぐ黒剣の軍勢。その全てを客観的に見つめ、そしてその全てがきっちり自身の身体を狙い澄ましている事に苦笑した鷹音は、そこで。

 後方へ後退するのではなく、、己の身を倒した。

 直後。

 肩口や腕、脇腹、脹脛ふくらはぎ、頬すら掠めて、全ての攻撃が鷹音の傍らを過ぎ去ってゆく。地面に倒れ込むように身を傾ける鷹音を、しかし黒獅子は見逃さなかった。

 再び剛腕が振るわれる。先端に歪な煌めきを宿す鉤爪は、鷹音の身体を千々に引き裂かんとして襲い来る。

 未だ体勢を立て直せていない鷹音は、けれど決して自棄になる事無く、向かってくる凶器に対して己が刃を振るった。

 激突。衝撃が撒き散らされた。

 斜め下方から斬撃を受けた黒獅子の前脚は、刃との激突を起点として軌道を変え、鷹音の立っていた地点のほんの一メートル横のアスファルトを派手に抉る。

 砕かれた地面が岩塊となって撒き散らされる。それに巻き込まれた鷹音の身体が、横へグラリと傾いた。


 ――刹那。


 自らが見据えた〝一つの箇所〟が、他の何物にも邪魔されない空間の奥に垣間見えた。

 刃が届く。

 その確信があった。

 それに従って、素直に相棒である機械太刀を振るう。

 横合いに真っ直ぐ振り抜かれた刀身は――やがて、

 赤黒い血を纏って、鷹音の視界を一部、赤く汚した

 鈍色の光を宿す刀身が、偶然か否か、『溘焉の担い手ラーヴァテイン』の左目を斬り裂いたのだ。

 肉を断つ生々しい感触に続いて、暗赤色の血が飛散する。認識する時間が引き延ばされたかのような感覚が、少年を襲った。

 黒獅子の喉から微かな呻き声が発せられた。

 全くの偶然の結果として、初めて鷹音から傷を受けた獅子の異形は、まるで自らが裂傷を刻まれたことを受け入れられないかのように、束の間、固まった。

 左目から止めどなく流れ落ちる赤黒い血を、残った右目でじぃ、と見下ろしている。

 唐突に訪れた機だった。

 神屍の意識が外れている隙を見て、鷹音は迷わずその場から飛び退いた。

 暫し、考える時間が必要だ。

それはあの怪物を相手にしながら片手間に出来るような思索ではない。

 この瞬間だけ、逃げる事に全霊を注ぎ、これまでにない程の速度で家屋の屋根やビル群の屋上を駆ける。

 ほんの数秒後、背後の遠方で怒気を孕んだ濃密な威が膨れ上がったのを察したが、今は振り返る余裕すら見せず、少年は荒廃した世界を高速で疾走し続けた。

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