最強機士、軍服を纏いて


 抱き上げた状態の紗夜を、ゆっくりと地面に下ろす。

 身体のラインが浮き彫りになる新人向けの戦闘服を着た少女は、未だダメージから回復出来ていないのか、閉じた瞼に苦し気な色を浮かべていた。


「……大丈夫か、紗夜。さっきも言ったが、今の君はただ〝痛い〟と言う情報のみを知覚している状態だ。身体に何ら損傷は無い。その感覚を何とか無視する事が出来れば、意識も鮮明になる筈だ」


 言いながら、鷹音は自分が無理難題を強いている事を理解していた。

 自らの感じている痛みを感覚野が誤認している只の情報と割り切り、それを意識外に追いやる芸当は、ベテランの機士でさえある程度の訓練を積まねば出来ないものだ。

 鷹音でさえ、数年のブランクがあるが故に左腕の痛みを完全に無視する事は出来ず、今も腕神経に走る断続的な鈍痛を思えているくらいだ。

 今日付けで正式に機士となったばかりの紗夜に、そんな芸当を行えと言う方が無理な話だ。

 案の定、紗夜は未だ全身のダメージに苦しんでいるかのように四肢を震わせている。化物の膂力を全て投じた一撃をもろに喰らったのだ。そう簡単に回復出来るレベルの傷害ではないと鷹音も分かっていた。

 鷹音が支えながらも、少女は何度も立ち上がろうと脚に力を込めているのが見て取れる。

 だが叶わない。身体に走る激痛が彼女の動きを阻害し、両の脚で立つ事すら許さなかった。

 そんな姿を見て、鷹音は柄にも無く沈痛な面持ちを貌に浮かべ、彼女の肩にそっと手を触れた。


「紗夜、悪いが潮時だ。最後まで君の意思を尊重するつもりだったが、こうなっては正直なところ足手纏いにしかならない。華嶋さんに言って手の空いた機士を派遣してもらうから、肩を借りるなりして監理局に帰還するんだ。そこで身体の手当てを――」

「……、」


 言葉は遮られた。

 四つん這いになりながら、無様な姿を見せながらそれでも立ち上がろうとする少女の口が、何かを発して動いていたから。

 怪訝な表情を浮かべた鷹音は少女に顔を近付け、何を呟いているのかを聞き取ろうとする。訥々と零れる声は、まるで悪夢を見て魘されているかのようであった。


「ぜったい、に……残り、ます……足手まと……なんか、なりま……ん、から……だから私、も、……筱川さんと一緒に、たたっ、かいます……!」


 少しずつ明瞭になりつつある言葉は、彼女がほんの僅かながらダメージから回復し始めている事を如実に示していた。恐らく鷹音に言われた通りに痛みの情報を脳から切り離そうと努めているのだろう。

 本来、一朝一夕で出来るものではない。その点は流石の鷹音も感嘆する。

 だがその程度だ。

 彼女をこれ以上この場に留め置いておく理由にはならない。

 戦場に残ると言う言葉だけを捉えるのであれば、事態が収束するまでこの路地で身を潜めていればいいだろう。しかし彼女はそれを望んでいない。何が出来ると言う訳でもないのに、何かを成そうとして戦場の只中に身を投じ続けていたいと願っている。


「……、」


 そんなものは無意味だと、彼は思わず口にしかけた。

 冷たい言葉で傷付け、強引にでも彼女をこの場から退避させる手もあるだろう。

 事実、鷹音は監理局で紗夜から出撃を嘆願された際には、彼女の意思を半ば折る為に敢えて突き放すような物言いをした。

 ……それが祟って今のような状況になっているのだが、と言う考えを鷹音はひとまず思考の外に追いやる。

 今また同じように冷徹と辛辣を突き付けても、恐らく紗夜は退かない。それだけは彼にも分かっていた。

 浅い小刻みな呼吸から、徐々にゆっくりとした深い呼吸に移行しつつ、蹲ったままの少女は地面に視線を落としたまま言葉を続けた。


「……支機官の人達、は……まだ、逃げ出せてない……んですよね……?」

「……あぁ」

「ならっ……皆さんがちゃんと無事でいられる、よう……私が何とかして守ってみせ、ます……」

「紗夜」


 自分の意志のみをただ連ねる少女に、鷹音は少しだけ語気を強めて言った。


「君の志が正義的なものである事は理解している。だからその意志そのものを否定するつもりはない。でも今の状態で何が出来ると思う? 支機官達を守ると言ったが、今の君と彼等が走って逃げるだけだとしても足を引っ張るのは君の方だ。彼等を守ると言う意志が本当にあるのなら、少なくとも君の取るべき行動は〝彼等を守る〟ではない訳だけど」

「っ」

「……有り体に言えば、君はもう充分過ぎる程に頑張った。君のお陰で助かった者達がいる。それは俺だけでなく、華嶋さんや射葉さんも分かっているよ。だからもう無理を続けなくていい。大人しく監理局に――」

「嫌だ!!」


 唐突に。

 紗夜は叫んだ。鷹音の言葉を断つ形で、地面に崩れ落ちたまま、地面に顔を落としたまま、短い叫び声を上げた。

 思わず鷹音は声を詰まらせ瞠目する。訝るような視線が小柄な少女へと注がれる。


「こんなとこで……こんなとこで逃げ帰ったら、何の為に機士になったか分かんなくなる……目の前の万難を吹き飛ばして、苦しんでる人達を助けるのが機士の役目なんでしょ? だったらその役目を私にも背負わせてよ……そうしなきゃ私、ここに居る意味が……ううん、そもそも何の為にお姉ちゃんの後を追ってここに来たのかさえ……」


 少しずつ、少女の声は強く震えたものに変わってゆく。


「……力が無いのは分かってるよ……例え万全の状態だったとしても、足手纏いにしかならない事も分かってたよ。けど、それでも! そうやって何かを心に決めてなきゃどうにかなっちゃいそうなの!! お姉ちゃんのかたきを取るまでどれくらいの時間が掛かるのか……それを想像しただけで非力な自分が嫌になるのッ!! だからせめて今の自分に出来る事を見つけて、それを命懸けでやるしかないんだよッッ!!」


 吐き出される言葉の全てを、鷹音は理解出来なかった。

 否。

 寸前で、思考を遮った。

 〝お姉ちゃん〟と言うのが誰かは当然分からない。

 紗夜も恐らく、鷹音にではなくただ自身の心裡の激情のまま吐き出しているだけなのだろう。

 けれど。


「……筱川さんなら分かるでしょ」


 問いがあった。

 弱い声は確かに少年へと向けられたものだ。

 唐突な台詞に鷹音は眉を顰める。言葉は続いた。


「筱川さんだって……大きな理不尽に立ち向かえない自分が嫌だったんでしょ? 何年間も同じ過去を引き摺り続けて、ずっと燻ったままで……! 自分の気持ちをどうにかしようと頑張って、それでもどうにもならなかったからになっちゃったんでしょ⁉ 本当は今でもずっと心にモヤモヤを抱えてるくせにッ!!」


 ガバッ、と。

 そこでようやく紗夜は俯けていた顔を上げた。

 少女の目尻には珠の涙が湛えられている。目は見開かれ、顔は歪んで。鷹音の中にある雪村紗夜と言う少女の、何処か幼さを纏った貌とはかけ離れているように思えた。

 そんな彼女の顔を見て、鷹音は表情のままに困惑した。

 少女が涙を浮かべる理由を彼は理解出来ない。

 少女がどうしてこれほどに、胸中の激情を吐露しているのか、彼は理解出来ない。

 それでも、


「…………てよ……」


 直後に少女の口から発せられた言葉は、筱川鷹音の心を大きく揺さぶった。


「だったら私も戦わせてよ! !! ⁉ なら、その近道をする手助けくらいしてくれたっていいじゃないッ!!」


 瞠目。

 硬直。

 呼吸停止。

 放たれた言葉に鷹音がそう言った反応を示す。

 だが続く言葉は無かった。

 理由は単純だった。

 二人が身を潜めていた路地の両壁面が、爆音と衝撃を伴って前触れなく破壊されたからだ。

 幅四メートルにも及ばない細い空間が、両側を挟む建造物の壁面が唐突に崩れた事によって派手に埋もれ始める。左右の壁が衝撃によって瓦礫と化し、中空を舞った末にその全てが鷹音や紗夜を目掛けて降って来る。

 咄嗟の判断だった。

 鷹音は瞬時に事態の把握に努め、何よりもまず傍らの紗夜へと躊躇なく覆い被さった。間を置かずして怒濤の如く瓦礫の崩落が降りかかる。

 反して紗夜はその光景を見つめたまま呆然と固まるばかり。

 細腕に抱き締められ、少年の身体から柔らかな温もりが伝わってくる。その優しい感触は、こんな時であるにも関わらず、紗夜の心に僅かな安寧をもたらした。



     ※



 気を失っていたのは、ほんの数秒だったろう。

 震える瞼を開いた紗夜は、周囲に絶え間なく轟音が響き渡っているのを朧げな意識の中で知覚した。

 幾つもの建造物が次々に破壊されてゆく。獲物を仕留められず、見つけれらず、その事に業を煮やした蛮鬼ダイダロスが再び衝動的な壊滅行為に及んでいるのだろう。

 先程の路地の崩落はそれが原因なのだろうが、幸いにも紗夜達の存在に蛮鬼ダイダロスが気付いた訳ではなさそうである。

 破壊による轟音や地を振動させる足音が少しずつ離れてゆく事に、紗夜は仰向けに横たわったまま小さく安堵の息を吐いた。

 だがすぐさま我に返る。

 紗夜の身体へ覆い被さる形で、鷹音もまた倒れていたからだ。そして彼の背には幾つもの瓦礫が圧し掛かっている。崩落の瞬間、鷹音が紗夜を庇ってくれたのだと言う事はすぐに分かった。


「しっ、筱川さん……!!」


 未だ身体に走る痛みを堪え、驚きと共に紗夜が何とか上体を起こせば、重なり合っていた鷹音の身体は僅かに横へズレて彼の背中に乗っていた石塊もゴロリと転がる。

 見たところ、少年の身体に外傷は無い。だがそんなものは彼の無事を証明する要素にはならない。

 餓狼種に牙を突き立てられ、猛鬼種に強烈な殴打を振るわれた紗夜は、それをもう嫌という程に理解している。

 路地の左右に建つ建物は一階部分が半壊し、壁が崩れた事によって内部を見通せるほどだ。並の人間であればまず間違いなく瓦礫に圧搾されて死んでいるが、機士であるが故に二人の身体には欠損すらない。

 少女の傍らで地に伏せる鷹音が、僅かな呻き声を漏らした。


「だ、大丈夫⁉ ごめんなさい、ごめんなさい! 何でっ⁉ 私を庇ったりなんかしたからこんな……ッ!!」


 半ば錯乱する中で紗夜は鷹音の背中に触れた。

 既にかなり薄汚れてしまった戦闘服が、一定の間隔で上下しているのを感じる。

 少女に降り掛かる岩塊を全て受けた彼は、辛うじて意識を飛ばす事無く、全身に走る激痛を脳から切り離す事に専念していた。気を抜けば即座に乱れてしまう呼吸を無理やり一定のリズムに落とし込む。

 ――この感覚は久々だった。

 かつて死よりも辛い激痛の中で、それでも神代の異形を屠るべく刃を振るった事があった。

 自らを蝕む痛みに構わず只ひたすらに神屍を撃滅する自分達を、周囲の者が狂人の集団とさえ称した事もあった。

 少なくとも全盛期の鷹音にとって自らの感じる痛みとは神経を、そして精神を刺激する謂わば麻薬のようなものであった。

 すっかり忘れていた感覚。

 茫洋と送る燻った日々の中では決して得られない感覚。

 それが、ようやく少年の奥深くから、心の底に沈め切って久しいある種の高揚感のようなものを引き上げる。

 少年の身に纏う空気が音も無く変質してゆく。

 だが当然、その事に傍らの紗夜は気付けない。先程からずっと蹲ったままの彼を案じるように不安げな視線を送っていた。


「っ……、」


 そんな彼女を横目で見上げて、鷹音は微かな笑みを浮かべた。

 別段それは彼女を安心させる為のものではない。脳内で機械的に行っていた『除去処理』が、ある程度完了したが故の笑みだ。

 鮮明な思考が戻る。

 長く深い息を吐きながら上半身を起こした鷹音は、瞳を震わせてこちらを見る紗夜を一瞥した後、僅かな沈黙を挟んでから口を開いた。


「……聞きたい事は色々あるけど、それは後回しだ」


 そうして立ち上がる。

 思っていた以上に鷹音の足取りがしっかりしている事に驚いた紗夜だが、すぐ後に聞こえてきた悲鳴が彼女を瞠目させる。

 ビル群を破壊する轟音は先程から絶え間なく続いていた。そして又も、蛮鬼ダイダロスが激情を当たり散らした先の建物内部に支機官が身を潜めていたのだろう。

 先刻の光景を思い出し、紗夜は再び突発的に駆け出そうとした。

 だが鷹音がその動きを阻止する。腕を掴んで引き留めた少年へと紗夜が振り向き、強引に振り払ってまでも支機官の許へ向かおうとした紗夜は……

 そこで初めて、変質した鷹音の空気を感じ取った。

 長い前髪に隠れた少年の表情は紗夜の目線からは見て取れない。けれど瞼を覆うように垂れる毛先が、何処か怖気を誘うように揺れるのを彼女は確かに見止めた。

 得体の知れない悪寒が背筋を駆け巡る。肩を震わせる程ではないが、それでも確実に心の裡をざわつかせる悪寒だった。

 轟音が響く。

 悲鳴が連なる。

 その中で鷹音はゆらりと立ち上がりながら、現況に反する穏やかな声を発した。


「けど絶対に聞かせてくれ、君の事を……君の知っている、俺の知らない事を」


 紗夜は知っていた。

 鷹音が、〝その女性〟の名前を聞いた時にどんな反応をするのか。

 あの時、監理局のワンフロアで少年の引退を引き留める為の牽制として李夏がその名を出した途端、筱川鷹音の雰囲気が一変したのを紗夜は感じていた。

 だから、だろうか。

 少年の発する声が、纏う空気が。

 一段低いものに変じても、その時の紗夜は僅かな驚きしか見せなかった。

 蛮鬼ダイダロスの足音が徐々に接近してくる。派手な破砕音も伴っている。再びこの場所が暴威による瓦礫の波に呑み込まれるのは時間の問題だろう。

 その事を悟った紗夜が歯噛みと同時に視線を通りの方へ向け、強引にでも駆け出そうとして――


 ふと。

 鷹音の身に生じた変化に、思わず足と目を止めざるを得なかった。


 それは全くの偶然。

 鷹音の帯びる雰囲気がそれまでとは一線を画すものに変質した、その直後。

 身に纏う戦闘服や腰に提げるブラッド・ギアが突如として光の粒子を放ち始める。

 既存のデータを上書きするかの如く、それまで着込んでいた貧弱な装備を一新するかの如く。筱川鷹音と言う少年が身に帯びる武装の全てが、前触れなく形を変え始めたのだ。

 着用者の動きを阻害しない事を最優先に設計された新人向けの質素な戦闘服、スポーツウェアを思わす服の上に新たな布地が出現する。黒に近い灰色のそれはかつて西洋の騎士団が使用していた軍服を思わせる意匠であり、瞬く間に鷹音の全身を覆う。

 翻る裾を抑え込むようにして腰にベルトを兼ねた剣帯が現れ、細身の機械直剣が消失するのと入れ替わりに、やがて一振りの武骨な刀が姿を成す。一般的な刀よりも刃渡りが長いその太刀は黒の鞘に納められ、何処か異質の威を醸しているように思えた。

 変容したその姿に紗夜が息を呑む。

 少年の名を呼ぼうとして――だが、強制的に口を噤まざるを得なかった。

 彼女の背筋に怖気が走る。それは濃密な畏怖だ。短い記憶の中にある柔和な穏やかさを持つ筱川鷹音のイメージが、途端に崩れ去る。

 伸ばしかけた手を震わせながら引き戻す。

 その仕草を一瞥した鷹音は、何を言う事もなく視線を正面に戻し、ゆっくりと腰の武装へと手を伸ばした。


 当代最強と謳われた神殺しの少年。

 武骨な機械太刀を携え、黒灰の軍服を纏い、単騎で数百に及ぶ神話の異形を屠り続けた伝説の機士。


 その双眸は既に、刃の如き鋭利なものへと変じていた。

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