重なりし姿


 紗夜の行動理念は、歪な繋がりの下に形成されていた。


 一番に掲げる目標は、最愛の姉の心を奪った神屍に、その罪を思い知らせる事。

 だが今の非力な自分ではその目標を成し遂げられない事を、彼女は確かに理解していた。

 当然、葛藤が生じる。

 そしてその葛藤が、〝何かを成さねば〟と言う一種の強迫観念を引き起こし、雪村紗夜の心を偽りの使命感で縛っていた。

 植え付けられた虚構の意思。

 とどのつまりそれこそが、

 無謀と知りながらもホロウを使って第二特区へ向かった行動も。決して諦めず、その場で自分に出来る事を最大限やろうと決意する判断も。鷹音の制止を振り切り、神屍に襲われかけている母娘を助けに向かった蛮勇も。

 全ては彼女の胸中に揺蕩う〝救い〟と言う偽りの行動理念から来るもの。

 故に。

 紗夜は誰かを救うと言う行為に対して度々過敏な反応を見せる。

 




 建物の三階から派手に硝子窓を割って外へ飛び出した紗夜は、そこで二度目の悲鳴を聞いた。

 身体が自然落下に入るまでの僅かな時間、叫び声の聞こえた方へと瞬時に顔を向ける。一〇〇メートル程離れた地点に、下層部分が無残に破壊されたビルを見て取る事が出来た。そしてそのすぐ近くで、岩石の棍棒を持った神屍と支機官二名の姿を見つける。

 二人の男は地面に座り込んだ状態から必死に後退るばかりで、走って逃げようとしない。腰が抜けたのか、若しくは足に怪我を負ってしまったのだろう。

 紗夜の身体が地面へと落ちる。慣れない着地の感覚に、両の脚に僅かな痛みが走るのを感じながらコンクリートの地を不格好に転がる。

 蛮鬼ダイダロスは紗夜に背を向ける形で佇んでおり、彼女には気付いていない。硬い地面に身体を打ち付けた鈍痛に顔を顰めるが、構わず紗夜は立ち上がって再び走り出した。

 視線の先で、神屍がその右手に握る棍棒をゆっくりと振り上げる。

 支機官の男達は恐慌に陥ったかの如く叫び声を上げた。

 並の人間であればどれだけ早く駆けようと十秒以上は要する距離を、その半分の時間で詰める。腰から直剣を抜き放ち、蛮鬼ダイダロスの強靭な筋肉が隆起する背中へ猛然と斬り掛かった。

 ――――。

 不思議と音は無かった。

 衝撃の尽くが吸い込まれるような感覚が紗夜の手に伝わり、右上段から袈裟懸けに振るわれた刃は薄皮一枚すら裂く事無く静止する。

 先刻に鷹音が斬り付けた際は、鋼の如き感触が刃を通じて返って来たが、紗夜の感じた手応えはそれとは決定的に異なっていた。

 それは何故か。

 鷹音と紗夜は全く同じ機械直剣を使用している。

 だが鷹音は武装によるハンデを埋める形で、おおよそ並の機士が再現するには不可能なレベルの斬り込みを行っていた。斬撃の角度や速度、刃が標的に接した際の力の込め具合、瞬時に筋肉の繊維を見極めた上でその脆弱点をピタリとなぞる正確さ。かつての戦闘感を半ば失っているとは言え、それは最早神業とも言うべき一振りだった。

 その一斬による危険性を本能で以て察知した蛮鬼ダイダロスが、鷹音の斬撃を肉体で受け止める直前、その分厚い筋肉の鎧へと瞬時に力を込めたのだ。

 それによって隆々とした筋肉は更に硬質化し、鷹音の鋭い一振りを弾く結果をもたらした。

 けれど。

 紗夜の斬り込みは、一切弾かれる事なく静止した。

 それはつまり、彼女の攻撃を蛮鬼ダイダロスは危険視する必要のない些末なものとして捉えたと言う事だ。


「っ……」


 紗夜は息を呑む。

 餓狼種を斬り付けた時も刃が通らず苦戦したが、これはその比ではなかった。

 果てない無力感が全身を駆け巡る。自らの冒した無謀を思い知る。

 刃を振り下ろした姿勢のまま固まる紗夜の眼前で、鬼の持つ真紅のひとみがゆっくりと此方へ向けられた。

 右眼は先ほど、鷹音によって斬り裂かれた為に視界を失っている。それでも半分……左眼のみに見据えられただけで、紗夜の全身に悪寒や恐怖や焦燥と言った負の圧力がのし掛かった。

 虹彩も瞳孔も無い。ただひたすらに血の色だけを称える悍ましい眼光が、非力な一人の少女を捉える。

 直後、粗く削り出されただけの岩石の槌が凄まじい速度で振り抜かれ、紗夜の身体に横合いから直撃した。

 ドッッ!! と、鈍い打撃音と共に少女の小柄な体躯が宙を舞う。容赦や手加減と言ったものは皆無だった。人外の膂力で以て繰り出されたフルスイングは少女の全身を強打した挙句、彼女を黒鋼壁の付近にまで吹き飛ばした。


「ッ……うぁ?」


 何度も地面をバウンドした後、防壁に激突した紗夜は崩れるように倒れ伏した。

 口端から声が漏れる。現状理解が及んでいない事による困惑の声だ。

 ホロウによる痛覚走査機能は、現実体と仮想体との間に生じる僅かな〝ズレ〟を利用し、機士の肉体が負ったあらゆる損傷を無効化する効力を持つ。だが痛みそのものを消す事までは出来ない。

 おおよそ大型のトラックに轢かれたかの如き……いや、もしかすればそれ以上の衝撃を全身で受けた紗夜は、自らの身体に駆け巡る凄まじい激痛を自覚し、だがそのあまりの痛みに声を上げる事すら叶わなかった。

 骨は砕けていない。

 流血もなく、内臓も無事だ。

 それでも今まで感じた事の無い激痛に意識が霞み、視界が明滅し、全身が小刻みに痙攣する。

 腕も脚も、全く感覚が無い。凄まじい痛みが走っている筈なのに、その痛みを何処か自分のものではないとすら感じている。気絶と覚醒を紙一重の領域で行き来しながら辛うじて意識を保つ紗夜の視界に、緩慢な動作で此方に近付く神屍の姿が映った。

 真紅の隻眼を炯々と煌めかせ、たった数歩で紗夜の間近にまで迫る。

 右の腕が豪快に振り上げられる。

 蛮鬼ダイダロスは狙った獲物を握り殺す事も食い殺す事もしない。その手に握る棍棒でただ只管ひたすらに圧殺し、磨り潰し、跡形もない肉片へと変えるのだ。

 岩石の大槌――野蛮と暴力の象徴。それが鬼の膂力全てを以て紗夜を叩き潰さんと振り下ろされた。

 その光景はまるで、額縁の外に広がる景色のよう。自らに迫る殺戮凶器を、他人事であるかのように捉える。

 けれど。

 当然。

 蛮鬼ダイダロスの得物が少女を圧搾する事は無かった。

 寸でのところで紗夜と神屍の間に割り込んだ鷹音が、迫り来る凶器に向けて刃を振るったからだ。


「ぐぅッ…………おおアァッ!!!!」


 少年の喉から裂帛の気合が迸る。

 大型トラックの激突に匹敵する衝撃の全てを殆ど真正面から迎え撃つ。火花が飛び散り少年の視界を明るく照らした。

 抜剣と同時に打ち込まれた刃は、左下から一直線に斬り上げられ、棍棒の軌道を僅かに逸らす。ほんの数十センチ程度、岩石の暴威が鷹音達の右に逸れる。それでも僅かに力が足りず、粗削りな岩肌は鷹音のこめかみを浅く削った。

 痛みに顔を顰める。けれど視線だけは逸らさない。

 弾かれて上方に流れた戦槌が一撃目の軌道を辿るように、だが威力や速度を確実に増した上で落ちてくる。

 鷹音は全身の神経が痺れる感覚を味わいながら、轟然と迫るそれに再び直剣をぶつけた。またも重吹く火花。下方から直上にかけて振るわれた『量産型』の直剣が、二度目の攻撃をも危うく退けた。

 ……機士になったばかりの者は自らの携える得物を扱う際、それが元は光の量子でしかない事を知っているが故に、信頼を置く事無く使ってしまう事例が多々見られる。

 要は、いざ神屍と相対した時、本当にこの武装は実体を持った上で機能してくれるのかと言う不信感を新人機士の多くが抱くのである。

 勿論、人類知識の叡智を集結させて造られたホロウの最重要機構である励起システムは、光の粒の集合体でしかないものに確固とした実体を与えてくれる。実際にブラッド・ギアへ触れれば硬質な感触が返って来るし、戦闘服に触れれば伸縮性のある布地の感触が返って来る。

 とは言え、その事実と機士の中にある自覚は全く別の話。

 李夏も言っていたが、光彩量子励起システム・ホロウの仕組みを隅々まで理解した上で戦場に出る機士はほんの一握りだ。

 そのシステムに対する不知が、ギアに関する不信を抱かせるのである。

 だが。

 鷹音は当然、とうにその領域を超えている。

 それどころか彼は新人機士として初めて死廃領域に出た時から、多くの者が最初に抱くシステムへの疑念を抱かなかった類の人間だ。

 だからこそ、この場に於いても自身の握るギアに全幅の信頼を置いた上で、その数倍の質量を有する戦槌に対して正面から刃をぶつける事が出来る。

 息つく間もなく次々に振るわれる岩石の凶器。

 それを全て紙一重のところで逸らしながら、鷹音の思考と迎撃の精度は無意識でありながら恐るべき速度で水準を上げていた。

 極限の状態。

 それが人の持つリミッターを外す事もあると言う。

 鷹音の中では未だ制約を振り切る事は出来ていないものの、最初の一撃では数十センチ軌道をズラすだけで精一杯だった筈なのに、今では頭一つ分程度の余裕を以て猛攻を凌げている。

 けれど、その状況に反して鷹音は歯を食い縛っていた。

 彼の背後で紗夜が何とか自力で起き上がろうとしている。食らったダメージは相当なものなのだろう。脚は小刻みに震え、力を込めようとしても即座に崩れ落ちる始末であった。


「ッ……紗夜! 痛みを意識から外せ! ホロウのシステムを介している以上、身体に損傷は無い! その痛みを我慢すれば脚や腕は問題なく動く筈だ!!」


 二秒に一撃の頻度で振るわれる棍棒を辛うじて防ぎながら、背後の少女に声を飛ばす。

 けれど彼女は操り糸の殆どを断ち切られたマリオネットの如く、立ち上がろうとしては崩れ落ちると言う動作を幾度も繰り返していた。

 ――鷹音には。

 どうしてこの少女があれほど衝動的に他者を救おうと奔走するのか、その理由を理解する事は出来ない。それでも彼女がまるで魘されているかのように動くその様を見て、この少女も相応の理由があって機士になったのだと、そう漠然と思った。

 自らを顧みる。

 筱川鷹音と言う人間が、今ここにこうして立っている理由は何だ。

 過去の悲劇に囚われ、あれだけ無様に燻っていたのに、その心因の悉くを無視して刃を振るっている理由は何だ。

 背後で蹲る少女の成した無謀に感化されたが故か。その無謀に身を滅ぼしかけた少女を救いたいと思ったが故か。

 いいや。

 そのどちらでもないと、それだけは確信があった。

 筱川鷹音はそれほどに他者を慮り、その上で誰かに影響を受けるような人間ではない。


 


 視界に映る災いの全てを退けんと奔走する者を知っていた。人類そのものの救済を真正面から願い、その為に刃を振るう者を知っていた。

 かつて鷹音の傍らで常に背を預けてきた一人の美しい剣士と、この無謀を繰り返す非力な少女が、ふと。

 何処か似通った雰囲気を持っていると、そう思ったのだ。

 紗夜の行動理念は辻褄の合わない破綻したロジックに基づいて構築されているのかも知れない。まるでズタズタに引き裂かれた襤褸雑巾ぼろぞうきんを縫い合わせて見栄えの悪い一枚の布を作るかの如く、共通性のない原理を無作為に集めた末、やがて〝救済〟と言う行為が疑似的に表面化しただけなのかも知れない。

 けれど。

 それでも。

 己に降り掛かる危険を丸ごと無視して誰かを救うべく奔走するその姿は、確かに、鷹音の記憶に刷り込まれている一人の女性機士と重なって見えた。

 故に少年は刃を振るう決意を下したのだろうか。

 どうでも良かった。

 それが今、己がこうして刃を振るう因子になっているのならば。

 〝彼女〟に免じて、筱川鷹音は身を粉にしてまでこの少女に手を貸す意思を心に定めた。

 そうして一層深まった集中が、少年の意識を更に深層にまで没する。既に数十回にまで及んだ得物同士の激突は周囲に衝撃を撒き散らす程に激化し、散乱する瓦礫をも粉砕する暴威に発展していた。

 このままではジリ貧だ。何とかして迎撃から反撃に転じる隙を作る必要がある。だが蛮鬼ダイダロスによる絶え間ない猛攻は、低性能のギア使用を強いられている今の鷹音にとって攻撃の軌道を逸らすだけで精一杯だった。

 類い稀なる技量で武装の性能を補っているものの、この極限状態がそれもいつまで続くか分からない。

 恐らく蛮鬼ダイダロスは鷹音達を殺すまで棍棒を振るい続けるだろう。

 故に。

 鷹音は現状を打破する為に己の身体を使い潰す選択を容易に下した。

 轟然と降ってきた棍棒を、それまでと同様に弾く。蛮鬼ダイダロスもまた攻撃の精度と速度を上げ続けており、次の振り下ろしに入るまでの間隔は既に一秒を切っていた。

 その束の間よりも短い時間の中で、鷹音は瞬時に直剣をに持ち替える。

 武装を扱う上で、鷹音は両方の手を同じ水準で使えるよう、機士になったばかりの頃に相応の訓練をしていた。死廃領域での神屍討伐の際に何らかの原因で利き腕が使えなくなり、戦闘が継続出来ない状況になるのを防ぐ為だ。事実、これまで数回ではあるがそう言った事態を経験した事はあった。

 棍棒が再び降って来る。

 それを視認しながら、鷹音は直剣を握る左手に、右手の時よりも数倍強い力を込めた。

 これまでは迫り来る戦槌を弾く事に注力していたが、それは腕の負担を軽減する為である。

 左手に得物を持ち替えて低く構えた鷹音は、それらの懸念の一切を捨て去り、降り掛かる攻撃に対して真正面から全力の斬撃を放つ。

 ゴガアアァァァンッ!! と。 

 耳をつんざく程の果てしない轟音と共に、有りっ丈の衝撃や振動、爆風が周囲へと容赦なく伝播した。

 肉薄する力を確実に逸らす繊細な技術と、膂力の全てを傾けて真っ向から迎え撃つ力技。その両方を注いで放った一振りであったが故、それを成した鷹音の左腕に直後、神経を冒すほどの鋭い激痛が迸った。

 あれほどの超重量を誇る岩塊の凶器を、真正面から受けて弾き返したのだ。腕に決して少なくない負荷がかかるのは当然である。

 だが自ら痛みの享受を容認した甲斐はあった。力に頼った激しい刃の打ち込みによって蛮鬼ダイダロスもまた大きな衝撃を受けて仰け反り、絶え間なく繰り出されていた猛攻にようやくの空隙が生じる。

 だが鷹音は追撃に走らなかった。

 左腕の激痛を意識の外へ追いやり、即座に直剣を腰の鞘に納めると、くるりと身を翻してその場に蹲る紗夜を横抱きに抱え上げる。その動きを、蛮鬼ダイダロスは体勢を崩しかけながらも確かに視認していたが、少女のベルトから掴み取った閃光手榴弾を鷹音が放り投げた事により、直後、またも莫大な光に視界を奪われる事となった。

 紗夜の華奢な体躯を抱き締めて強引に視界を遮り、彼女の目を大質量の閃光から守る。自身は瞼を固く閉じる事で視覚のフラッシュアウトを防ぎながら、鷹音は瞬時にその場から退避した。

 神屍の巨躯をぐるりと回る形で駆ける最中、思い出したように離れた地点へと視線をやる。

 蛮鬼ダイダロスに襲われていた二名の支機官は、鷹音がその猛攻を凌いでいる間に近くの建物へと非難したのだろう。少なくとも鷹音が視認出来る範囲に彼等の姿は無かった。せめて今度は戦いに巻き込まれない安全な場所まで退いてくれている事を願うばかりである。

 ひとまず、紗夜を伴ってその場からの離脱に成功した鷹音は、二度目の撤退を強いられた事に僅かばかりの苦い表情を浮かべて、立ち並ぶ建物の間に形成された細路地へと身を隠した。

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