それぞれの想い
不思議な感覚があった。
己の奥底から何かが湧き上がる感覚。
自身を形成する全ての要素が丸ごと変転する感覚。
さながら全身の血液が限界を超えて流動するかの如き、ある種の忘我さえ
自らの身体を見下ろす。
上等な質感を見せる黒灰色の軍服。左胸の部分には特殊な紋章を象った刺繍が施され、それは紺碧の彩りに染まっている。
腰に提げているのは刃渡りだけで一メートルに及ぶ長大な機械太刀。銘は『
少年の愛刀。かつて共に死地を駆け、神屍を惨殺した相棒。
その柄へと静かに手を掛け、数年ぶりに触れる感触に手先を馴染ませる。
傍らで座り込む紗夜が何かを言いかけているが、それを鷹音は一瞥のみで制した。集中を途切れさせない為だ。既に捨て去ってしまい、もう二度と戻っては来ないと決めつけていたかつての戦闘感が、まるでブラッド・ギアを介してデータ流入しているかの如く彼の中を走っている。
その高揚が、少年の双眸に鋭利な光を灯す。
湧き上がる情動に従って鷹音は強く地を蹴り、神の撃滅を成すべく路地の影から飛び出した。
※
華嶋李夏と射葉章蔵は、フロアの中央モニターに映し出された幾つもの小型ウインドウの一つに、揃って視線を注いでいた。
李夏は街中の神屍掃討を請け負った機士達の
そんな二人が、同時に動きを止めたのだ。
周囲を忙しなく奔走していた局員数名が、そんな彼らの唐突な行動に訝しみ、同じように中央モニターへと視線を向ける。
だが枢機市第二経済特区の全体を隈なく見渡せるように細かく区分けされた画面に、思わず目を引かれるような事態は発生していない。殆どの画面に於いて、複数の機士が数体の餓狼種に対して苦戦しながらも掃討作戦を敢行している。
怪訝な表情を浮かべたまま、そうして彼等は自らの業務に戻るべくモニターから視線を外した。
「……、」
李夏が、僅かに瞳を震わせている。本来であれば、今の状況で全てのタスクを放棄して固まっているのは彼女自身が許さない愚行だ。第二特区には既に数十名の機士が派遣されているが、彼等はこちらの遠隔支援が無ければ右往左往してしまう程の力量しか持っていないのだから。
それでも。
この時だけは、李夏は自らの職務や矜持を無視して一つの画面に視線を注いでいた。
傍らに立つ射葉もそうだった。草臥れたスーツを身に纏う壮年の男は、何か胸中の大きな感情を消化しているかの如く、ゆっくりと深い息を吐いている。
二人の見据える先には、一人の少年が映っていた。
第二特区の中でも黒鋼壁に程近い余剰区域の一角。建物の各所に設置された監視カメラの一つから送信される映像の中で、暗い灰色の服に身を包む一人の機士がじっと佇んでいる。そして腰に提げた、長大な機械太刀。
李夏と射葉の心裡に、様々な感慨が浮かぶ。
感情に任せて何かを言おうとして、だがそれは間違いなく無粋であると判じて口を紡ぐ。
――かつて、大きな悲劇とそれに伴う後悔を背負い、彼等の前から姿を消した少年がいた。
いつか再び自分達の前に現れてくれる事を信じ、そして何より少年の胸中を埋め尽くす悔恨を慮り、進んで彼に連絡を取ると言う事は決してしなかった。
一年が過ぎ、二年が過ぎ。
そうして彼等の中から少年に対する期待や羨望が、末端からほんの僅かずつ削れ掛かっていた折に。
唐突に、少年は現れた。
嬉しかった。再び彼の顔を見れた事に歓喜した。
だが少年は、この世界から足を洗う確かな覚悟を引っ提げてしまっていた。
それが二人に些細な落胆を齎した。そして同時に、その覚悟を受け入れるべきとの諦念もあった。
少年が心に抱えた傷は並大抵のものではない。それを思えば、強引に引き留めるのは酷な行為でしかないと分かっていた。
……だからこそ。
再び〝その姿〟となった少年へと多大な感慨を向ける。
神殺しの最強機士。
その帰還に、李夏と射葉は無言のままにそれぞれの感情を視線に乗せた。
※
監理局最下層にあるシステム保管室。その一角に設けられた研究室のようなフロアで、季遥は先程まで強固なプログラムの解除に忙殺されていたのだ。
強く残るキーボードの感触に軽く指を震わせながら、正面のコンピュータに投影された映像を見やる。
オペレーションフロアにある巨大なモニターとは異なり、たった一面のみの画像が映し出されている。一定の画質補正を施されたその画面には一人の機士の姿があり、その者は見ようによっては地味とさえ思えてしまう程の装いに身を包んでいた。
だが、その姿を季遥が軽んじる事はない。
黒灰色の軍服。現在この東京支部に属する機士の中に、それと類似する戦闘服を纏う者はいない。
既に忘れ去られて久しい装い。けれど過去を知る者にとっては、決して少なくない感慨を引き起こされる強者の衣装。
「……ここまで尽力したのですから、きちんと責務を全うしてくれなければ割に合いませんね」
赤縁の眼鏡を外しながら、誰にともなく呟く。
彼女は李夏や射葉と同じく少年の過去を知る者だが、その二人と違って画面に映る少年に対して特別な思い入れなどない。故に彼女の瞳は平淡であり、特段に強い感情などもない。
それでも、久し振りに見たその装いは、季遥の記憶に確かな刺激を与えた。
今よりも幼かった少年がその実力を監理局から認められ、〝ある部隊〟への配属を言い渡された。それに伴い戦闘服やブラッド・ギアの一新が行われ、その調整を季遥が手掛けたのだ。
あの軍服を初めて纏った少年の姿を彼女は今でもはっきりと覚えている。
昔から子供っぽくないところが多かった少年は、新装された戦闘服を冷めた目付きで見下ろしていたものだ。だが表情に微かな笑みが混じっていた事を、季遥は確かに見抜いていた。
その事を思い出した彼女の頬が、笑みを浮かべかける。だが寸でのところで自制した季遥はいつもの冷淡な表情に戻りながら、まるで誤魔化すかのように咳払いをした。
「危ない……仕事に余計な感情は無用の筈だと言うのに」
外していた眼鏡を掛け直す。それは彼女にとって、自分を統制する為の行為でもあった。
成すべき事の全てが終わった訳ではない。数十名の機士がホロウを用いて出撃している以上、システムの管理を疎かにしてはならない。人類叡智の結晶であるホロウは人間が神を屠る為に造り出された機構だが、それを稼働させる上では繊細かつ超高度の調整が常に必要なのだ。
気持ちを切り替えた季遥が、怜悧な貌に決意を浮かべてコンピュータへと向き直る。
彼女の視線が外れた画面の中で、軍服を纏った少年が凄まじい速度で駆け出していた。
※
深い集中が、鷹音の意識を引き延ばしていた。
音が遠退き、認識する景色が緩慢な速度で過ぎ行く。
圧縮された意識の中で、少年は自身の心に決して無視出来ない
言うなればそれは、一瞬の忌避感。恐怖と言い換えても良い。
機械太刀の柄に手を触れれば、否が応でも蘇る
相棒の女性が神屍の牙に食い散らかされる姿。顎が閉じられると同時、容赦なく耳朶を打ち付けた生々しい圧搾音。此方の無力さを嘲笑うかのように、人が神に歯向かう傲慢を思い知らせるかのように、少年へと差し向けられた異形の歪に染まる笑み。
その全てが自己を縛る鎖となり、意識や神経の悉くを蝕み始める。
想定はしていた。
もし万が一、自分が再び戦場に戻るような事があれば、記憶に強く焼き付いたかつての悲劇が呪いの如く自らを冒すのだろうと。
過去と現在を結ぶ三年と言う空白期間の中で、あの凄惨な出来事を悪夢として追憶した回数は数知れない。後悔と懊悩に侵食されるのが嫌で、そうして現実から目を背けて逃げ続けて、それでも尚、悲劇の過去は筱川鷹音を解放してはくれなかった。
逃げるなと。
逃さないと。
必死に目を閉じて、暗闇の中に身を投じても、それを赦さない糾弾の声が響き続けた。
それが彼の心を燻らせる。茫洋と送る日々の中で、けれど確実に尾を引き続ける悔恨の念が楔となり、誰とも知らぬ声による呵責を少年に植え付け続けた。
未だ心の底に残る『根』が、かつて愛用していた武装を抜き放つ手を抑え込む。
だが。
その時。
鷹音の脳裏に、無謀を犯して戦場へと飛び出た少女の姿が
つい先刻に聞いた少女の切迫した叫びが、鷹音の耳に
……いいや。
それが何を意味するのか、本来であればとことんまで問い詰めたかった。だが今はそのような状況ではない。故に湧いたあらゆる情動の悉くを捨て置く。
現状に於いて果たすべき最優先事項は明快。
異形を成す神の撃滅。
深く考える必要はない。かつての記憶に身を任せるだけで良い。
そうして少年は己の瞳に決意を灯す。その貌からは既に、過去に縛られているが故の制約は全て取り払われていた。
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