死廃領域
鷹音と紗夜は市街地の建造物を足場の中継点にして、黒鋼壁の崩壊箇所を目指していた。
軽快な様子で空を駆ける少年は、背後で僅かに息を切らしながら懸命に追随する少女に向けて声を掛ける。
「紗夜、一回一回の跳躍の全てを脚の力だけで行おうとしない方がいい。現時点で身体に生じている慣性を上手く利用して、着地の瞬間、前に流れ続ける勢いを殺さない内に次の跳躍をするんだ。そうすれば余計な負担がかからずに長時間の疾駆が可能になる」
「……そんなこと言われてもっ、急には出来ないよっ……!」
「少しずつでも調子を確かめろ。でなきゃいつか
言いながら、鷹音は僅かに速度を落として紗夜の脚に合わせた。
二人が一定の距離を空けて真隣に並ぶ。そのお陰で紗夜の呼吸はある程度落ち着いたものの、今度はどこか気まずさげに口をもごもごし始め、そんな様子を鷹音は彼女を見ないままに感じ取った。
「……何か言いたいことでも?」
「えっ」
不意の問い掛けに、紗夜は驚いて鷹音を見た。
けれど進行方向から視線を逸らしては危ないと分かっているのか、即座に正面へと向き直る。そこから数秒の沈黙が生じた後に、少女は訥々と言葉を口にした。
「あの、ごめんなさい」
「ん?」
「頬っぺた、思いっきり引っ叩いちゃって」
「何だその事か」
オフィスビルの屋上を足場に跳躍を重ねた鷹音は、そんな風に軽い口調で言った。
「まぁ、確かにビンタされた時は痛かったけどさ。でも別に君は悪くないだろう。君は俺に対して当たり前の要求をしただけで、俺がその要求を利己的な感情だけで払い除けたんだから、あの平手は当然の仕打ちだった訳だけど」
「……確かに、あそこで筱川さんが二つ返事で私の言葉を受け入れてくれてたら、色々な事がもっと簡単に済んでたか知れないよね……」
「おっとさりげなく人の心へ訴えに来たなこの娘」
現在地点から黒鋼壁までの距離はおおよそ三キロ。
既に主街区は通過し、今は街と黒鋼壁との間に設けられた『余剰区域』と呼ばれる地帯を二人は駆けていた。
長大な鋼の壁によって周囲を囲われている東京エリアであるが、何も壁の至近ギリギリにまで人が住んでいると言う訳ではない。最低限の非常事態を踏まえて黒鋼壁と人の居住区には一定の〝空白地帯〟を設ける事が定められており、幅一キロ程に及ぶその一帯を『余剰区域』と呼んでいるのだ。
だがそこは完全なる無人の荒野と言う訳ではなく未だ確かな形で多くの建造物が残り、言うなればゴーストタウンとも言うべき様相を呈している。特区内部の街並みとは大差なく、きちんと枢機市によって管理されている事で風化の兆候等もない。ただ単純に、人間の居住区と死廃領域との間に設けられた安全弁として存在しているだけだ。
この
変わらず街中の建造物を足場に駆ける二人であったが、やがて余剰区域の外周に近付き、ラスタのマップを頼りに神屍が侵入した崩落穴へと進行方向を軌道修正する。
そんな中、紗夜はおずおずと言った風に鷹音へと口を開いた。
「……あれだけホロウを使うのを嫌がってたのに、どうして助けに来てくれたの?」
その問いを受けた鷹音は、感情の読めぬ貌を浮かべたままに数秒だけ口を噤ぐ。紗夜と似たデザインの戦闘服に身を包む少年は、やがてちらりと隣を駆ける少女を一瞥した後、静かに言を紡いだ。
「自分の行動の尻拭いをしろと何人かの大人に言われてしまったことも理由だけど、俺の言葉が原因で君が戦う術を持たないままに神屍と相対して、
「……言葉?」
「ろくでなしと言われた上に失望までされて、それで何食わぬ顔で平然としていられるほど、俺は無神経な人間じゃなかったって事かな」
そうして言葉を交わす二人は、
――高さ一〇〇メートルにも及ぶ黒き硬質な防壁。
数十年前までは街を貫く幹線道路だった敷地を活用して建造された代物であり、東京エリア全域をぐるりと囲う形で聳え立っている。
建設時はさながら七〇年以上前に存在したベルリンの壁の如く、有刺鉄線を張り巡らせる事で死廃領域と人間の居住領域を簡易的に乖離させ、それから五年以上もの歳月を掛けて少しずつ壁を構築していったそうだ。
因みに日本だけでなく世界中に点在する残存都市部にも黒鋼壁は存在し、それら全ては全く同質の素材で造られている。その内部からは神屍が忌避する微弱な電磁波が常に漏出しているらしく、それによってこの黒鋼壁付近にまで神屍が接近してくる事はないとされている。
だが、現実の事象として餓狼種の群れが街へと侵入している。
機士の護衛を伴わないままに支機官は現場検証を行う事は出来ず、故に外壁の一部が崩壊したその原因は未だ究明出来ていないと李夏は言っていた。
――だが、鷹音にはある予感があった。黒鋼壁が破壊された原因に関する予感である。その予想が現実だった場合を想定したからこそ、彼は先ほど李夏にあのような申し出をしたのだ。
現場の最も近い位置に建つビルの屋上に着地した鷹音と紗夜は、まずその地点から黒鋼壁の崩落穴を見下ろした。
黒鋼壁の残骸と思しき瓦礫が辺り一面に転がっており、鋼鉄の防壁が外部から派手に突き崩された様子が手に取るように分かった。神屍の侵入は現時点でパタリと収まっているようで、周辺に異形の姿は見受けられない。安全を確認した後に二人は地上へと軽快に飛び降りた。
「……私、こんな近くで黒鋼壁を見たの初めて……」
「大半の人間がそうだろうね。この第二特区みたいに死廃領域に近い街に好んで住もうなんて考える人はいないし、だからこそ壁に最も近い外周の特区はオフィス街やビジネスビルが軒を連ねている訳だけど」
「って事は、この向こうはもうすぐに死廃領域があるの?」
「そうだよ。さすがに映像では何度も見た事がある筈だろうけど、実際にその目で見た経験はないだろう。一度見てみるといい」
鷹音は各所に散乱する大小様々な瓦礫を踏み越えながら、高さ四メートルほどの穴へと近付いた。その左手が腰に提げられた機械直剣の柄にやんわり添えられている所を見るに、いつ神屍が現れてもいいよう当然のように警戒をしているのだろう。
紗夜もまた気を引き締めて鷹音の背を追う。
黒鋼壁の厚さは五メートルもない程度だが、特殊な錬鉄が用いられている為なのか、その薄さに反して聳え立つ威容は強固の一言。だがそんな硬質さが嘘であるかのように孔が穿たれており、まるで幾つもの爆薬で破壊したかの如き形跡があった。
無残に砕かれ形成された洞の縁に手を触れ、その内部を見やる。
――その時に、初めて。
紗夜は己が暮らしてきた領土と常に隣接している崩壊した世界の有様を目の当たりにした。
無意識に息を呑む。その僅かな喉の音を聞いてか、すぐ傍らで同じように壁の向こう側を見据える鷹音が静かに言った。
「まだあの辺りは人が生きていた頃の面影を辛うじて残しているけど、でも一目見ただけで嫌でも理解させられる。……あれが、たった半世紀の間に神屍によって奪い尽くされた人類領土の残骸……
立ち並ぶビル群や家屋がある様は紗夜達の住む居住街区と何ら変わりない。だがその全てが無残に半壊もしくは朽ち果てており、総じて廃墟と称しても過言ではないほどだ。心無しか淀んだ空気が可視化されているようで、孔の隙間から広がる遠景は『此方側』と比べて暗く沈んで見える気がした。
すぐ背後には人の栄華に満ちた街並みが広がっているのに、たった数メートルの壁一枚を隔てた向こう側の世界は完全に死滅している。文明が途絶えている、と称すべき光景がこれほど近くに存在した事に、紗夜は怖気にも似た感情を抱え込んだ。
神屍と言う異形の存在によって壊滅の一途を辿った人類の居住圏――死廃領域を表す上でそのような文言が度々使用されているが、
「……ここから先は、もう完全に神屍の棲家なんだね」
「そうでもないさ」
紗夜の呟きを聞き留めた鷹音が穏やかに続けた。
「今はどうか分からない。が、俺の知ってる三年前までは、大半の機士が死廃領域を再び人類が住める土地にすると言う目標を掲げていたものだ。そして実際問題、そういった志を持つ者達によって過去に幾つかの都市部は神屍の駆逐に成功している。まぁ、世界中の死廃領域の面積に比べれば、取り戻せた領土は雀の涙程度なんだろうけど」
言いながら、鷹音の瞳が僅かに細められるのを紗夜は横目で確認した。
三年前。
鷹音が未だ現役で、且つ全盛期と呼ばれていた頃の話。
当時はただの一般人でしかなかった紗夜にとって、一切を与り知らぬ頃の話。
「だからまぁ、死廃領域が今後も神屍の生息区で在り続ける訳ではない。人類が神屍の撃退に成功した事例は確かに存在するからね。いつかこの壁の向こうにも人類が住める日が来るかもと言う望みは、決して甘い理想なんかではないって事だ」
「……筱川さんも、その望みは持ってるの?」
「昔は持っていなかったけどね。でも俺にとって大切な人が、その望みをいつだって成し
そうして少年は、自嘲を孕んだかの如き苦笑を口許に浮かべた。その翳を帯びた貌を見た紗夜が何かを言いかける。だがその寸前で、彼等の背後より掛かる男性の声があった。
「――お前等が護衛をやってくれるっつー機士サマかぁ?」
太く掠れた声だった。
僅かな粗雑さを伴って聞こえたその声に紗夜は僅かに肩を震わせた。恐る恐ると言った風に後方を振り返る。
逞しい身体付きにたった一枚だけ黒のインナーを着込む男性が目に映る。その後ろからは比較的細身な若い男が付き従うように付いて来ているのが見えた。布地の無い部分から見える肌は土埃か煤のようなもので汚れており、そのボロボロの様相を呈した姿は彼等が決して一般人では無いと言う証明になっていた。
前に立つガタイの良い男性が紗夜達に険しい視線を向けている。何か彼等の恨みでも買ったのではと思ってしまう程の剣幕に、紗夜は思わず後退った。
「ったく、来るのが遅すぎんだよクソが。お前等がちんたらしてるせいで俺等がどんだけ苦労させられたと思ってやがる。半端な仕事しか出来ねぇなら今すぐ機士なんざ止めちまえや」
「ちょっと葛山さん、そういうの駄目ですって。せっかく来て下さったんですから。それに華嶋さんから聞いていた到着予想よりだいぶ早いじゃないですか」
「ウッセェ! 本当ならコイツ等が真っ先に現場出てなくちゃなんねぇのに、のんびり自宅待機してがったんだぞ。お陰で傷付く必要の無ぇ住人や支機官が余計に傷付いた。そんなクソみてぇなクソ野郎共に何でテメェはいちいち感謝出来るんだよ有馬ぁ‼」
「いやまぁそうですけど……」
怒号を上げる男に、有馬と呼ばれた細身の青年は苦い表情を浮かべて視線を逸らした。
彼等の会話を聞いていて、紗夜もまたその顔に渋面を作る。男性の言っていた事は全て紛れもない事実であると思ったからだ。
どうやら二人は支機官を務める者達なのだろう。つまり彼等は、黒鋼壁が破壊され神屍が街へ侵入したその時点から今まで危険を冒しながら住民を避難させてくれていたのだ。機士とは異なり、支機官に身体は生身のそれであると李夏から聞いた。神屍に襲われれば呆気無く死んでしまう危険性を抱えながら、機士に代わって住民の安全を確保すべく奔走した彼等に、紗夜は相応の罪悪感を覚えた。
「あ、あのっ……!」
「あん?」
彼等に一歩近付いて声を上げた紗夜に、葛山と有馬は揃って彼女の方を向く。訝るような視線を感じながら、紗夜は二人の前で自らの頭を深く下げた。
「すみませんでした! 到着が遅れてしまって、その所為で沢山の人に迷惑を掛けました……本当にごめんなさい! それと、私達に代わって街の皆さんを避難させてくれて、本当にありがとうございました‼」
矢継ぎ早に紗夜は言葉を並べる。
早口言葉かと思えるほどの早口で告げられた謝罪と感謝に、支機官の二人はポカンとしたように黙り込んだ。まさかそんなことをわざわざ言われるとは思っていなかったのだろう。紗夜が頭を下げ、葛山達が何を言うべきか迷い、そうして生まれた唐突な静寂が場に満ちた。
それを破ったのは、先ほどから三者に背を向けて壁の孔をじっと見つめていた鷹音がおもむろに零した小さな笑い声だった。
「……あまり紗夜を怖がらせないでくれないかな、葛山さん。これでも彼女は誰よりも真っ先に監理局を飛び出して、丸腰にも関わらず神屍から街の人を守ろうとしてくれたんだからさ。少なくとも貴方が嫌悪している多くの機士とは、その心構えや意思の強度が違う訳だけど」
少年の言葉に葛山は片眉を上げて怪訝の色を見せる。
鷹音が彼等を振り向く。その瞬間、葛山が「あぁッ!?」と驚いたような声を上げ、紗夜はまたもビクリと身を震わせる羽目になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます