朦朧とした決意


 唐突に聞こえた悲鳴に、紗夜は反射的に頭上を仰ぎ見た。


「ッ……⁉」

『どうした、紗夜。今の悲鳴は?』


 イヤホンでの通信を介して同じ声を聞いたらしい鷹音が問うてくる。

 甲高い叫び声は西の方角、街の中心部を貫く大通りから聞こえてきたようだった。ギアの柄に掛けていた手を放し、反射的に腰を上げる。


「……まさか、非難しきれてない人がいたんじゃ……」


 自らの零した呟きに身体が反応した。

 疲労の蓄積した脚を叱咤し、外階段の踊り場から飛び出す。ろくな足場も無い中、ビルの外壁を強引に蹴って屋上を目指す。眼下の神屍が紗夜の動きにつられて追ってくるが、今はそれに気を向けている場合ではない。

 屋上へ辿り着き、そのままパルクールの要領で空を駆ける紗夜の耳に、鷹音の声が入り込んできた。


『待て紗夜! これ以上迂闊に行動するな! 無謀な特攻をすれば神屍に喰われるぞ‼』


 彼の叫びは不自然な切迫を孕んでいた。


『いくら機士が死なない身体を持っていると言っても、肉体の痛みや精神の苦しみはありのまま当人にフィードバックする! そうなれば最悪、今後一生消えないトラウマを背負う事になる‼ そうなってもいいのかッ‼』


 鷹音の言葉を、紗夜は理解出来なかった。

 ――

 そうしてイヤホン端末を耳に押し当てながら、過ぎ行く風の音に負けないよう叫び返す。


「そうなったっていい! 私にとっては誰かを救う事が何よりも大事だもの! だから手の届く範囲に助けられる人がいるのなら、私は何が何でも助けたいの‼」


 それだけを告げて、イヤーカップの位置に設けられた小さなボタンを無意識に押す。するとそれは通信回線を遮断するスイッチだったようで、ブツリと言う音を最後に鷹音の声は聞こえなくなった。

 これは絶対に後で怒られるやつだな、と苦笑いを溢した紗夜は、だが即座に気持ちを切り替え、悲鳴が聞こえてきた方角を改めて見据えた。

 ――先程の地点から目算で二〇〇メートルほどの距離を数秒で駆け抜け、やがて等間隔に歩道橋が並ぶ大通りへと辿り着く。道路に面した二階建ての建物に降り立ち、素早く周囲を見渡せば、通りの端を二体の餓狼種が何かを追って並んで走っている姿が捉えられた。

 瞬間、紗夜は瞠目する。


「ッ……‼」


 神屍の先にいたのは、二人の親子だった。

 年若く見える母親が腕に小さな子を抱き抱えて漆黒の異形から逃げている。親子と神屍の間には一定の間隔が空いているが、それはあの母親の走りが餓狼種から逃げ果せるほどに早いという訳ではない。わざと神屍が走る速度を緩慢にし、人間の恐怖を煽っているのだ。

 それは言うなれば神屍としての本能に近い行動なのだろう。半世紀近く昔から人類の領土と命を貪り尽くしてきたあの異形の神々には、そう言った嗜虐的な習性が染みついていると紗夜は聞いた事があった。

 恐ろしいと思った。

 同時に、怒りのような感情が湧き上がった。

 気付けば少女は全力で地を蹴っていた。一切の躊躇なく身を投げ出し、親子を追跡する神屍へと駆ける。彼我の間はおおよそ五〇メートル。生身の人間であれば全速力でも五秒以上は要する距離を、歩道橋の柵を中継点として、わずか二秒で埋める。

 神屍の背に追い付く。

 背後を振り返りながら走っていた母親が、驚いて目を見開いたのが見えた。

 流れるような動作で、機械直剣の柄を握る。

 そうして無音の中に抜き放ち、鈍く煌めく刃を眼前に迫った神屍へと叩き付けた。


「ガアァァッ⁉」


 突如として横合いから受けた衝撃に、斬撃を浴びた餓狼種が甲高く呻き声を上げた。同胞の叫びに反応してか、もう一方の神屍も足を止める。

 その様子を視認しながら、紗夜は息を呑んだ。

 疾駆の勢いすら上乗せして全力で剣を振り抜いたにも関わらず、異形の巨躯がビクともしなかったからだ。まるで大木でも斬り付けたかのような硬い感触が柄を通じて伝わってくる。

 だが戦慄したのは一瞬、即座に得物を引き戻す。右手に機械直剣を提げたまま二体の神屍を飛び越えるように跳躍し、青褪めた表情を浮かべる親子の許へ降り立つと、強引に母親の手を引いた。


「早く逃げましょうッ!」


 切迫した声に、幸いにも母親はすぐさま状況を理解したのか、コクリと頷いて走り始めた。

 親子が転んでしまわないよう速度に注意して通りを走る。背後で餓狼種二体が怒ったように吠え、重質な足音を鳴らしながら追蹤してくる。その気配を背に感じた紗夜は、続く行動をどう選択すべきか思考した。


(シェルターに避難してもらうのが最善だけど、此処から一番近いシェルターが何処にあるのか全然分かんない……! こうなったら、何処でもいいから建物の中にでも隠れてもらって……いやでも、適当なビルとかじゃ神屍が侵入してきちゃうかもだし……)

「あっ、あの……!」


 不意に声を掛けられ、紗夜の思考は遮られた。

 足は止めないままに顔だけで後ろを振り向く。母親が何を理由に呼び掛けてきたのか訊ねるより早く――紗夜は浅く息を呑んだ。

 母親が腕に抱く子供……まだ三、四歳と言った頃合いの女の子が、その額から血を流していたからだ。

 瞼を閉じてはいるが、一定の間隔で呼吸は刻んでいる。負傷した際に泣いたのだろう、目元には涙の跡が見られた。

 見れば、幼子だけでなく女性も怪我を負っているのか、右の肩口に血が滲んで赤く染まっていた。額には脂汗が浮かんでいる。紗夜の中で、苦悶の表情を浮かべるその様子が先に出会った黒郷の姿と重なった。

 本来であれば今にも倒れそうなのだろう。何度も足が縺れて転びかけていた。


「ッ……すみません、少しだけ我慢して下さい!」


 そう言って紗夜は右手に提げたままだった機械直剣を腰の鞘に納め、母親の背後に回り込むと、細身なその体躯を一息に抱え上げた。ホロウによる身体能力増強機能が、自身よりも体重のある女性を軽々と持ち上げる。

 驚いた女性が小さな悲鳴を上げるが、内心で「ごめんなさい!」と謝り、背中と膝裏に腕を回して横抱きに抱えた状態で正面へと向き直った。


「跳びます! 落とさないように気を付けますけど、一応しっかり掴まって下さると助かります!」


 返事を聞かずして、再び上方へと跳躍した。神屍に追い付かれる寸でのところで、紗夜の背中が異形の牙から逃れる。

 負傷した女性と子供を抱えている以上、それまでの三次元的な移動は控えなければならないだろう。故に通りの路面や歩道橋のみを用いて疾駆する。

 ――ある程度経験を積んだ機士ならば、一度の跳躍で己の脚に掛かる負荷を軽減する術を持っている。だが現状で紗夜にはそんな知識など無く、一回一回が全力での行動である為、脚への負担が尋常ではない。

 僅かに回復していた筈の脚部に再び疲労による重さが戻ってきた事を感じながら、それでも歯を食い縛って懸命に地を蹴った。



 結局、辿り着いたのは先刻に黒郷達と別れた理化学研究所だった。

 母娘と遭遇した地点と研究所が大通りによって直線的に繋がっていた事が幸いした。おおよそ三キロほどの距離を、女性と子供を抱えたままに移動し、ようやく建物の前に到着したのだ。


「はぁ……はぁっ、はぁ……!」


 二人を優しく地面に降ろした後、紗夜はぷつりと糸が切れたかのようにその場へ崩れ落ちた。

 移動距離の半分を超えた辺りで肉体疲労は早くも限界を迎えていた。それでも酷使に酷使を重ねてここまでやって来た為に、未だ気を抜いては駄目だと分かっていても、倒れ込まずにはいられなかった。


「だ、大丈夫ですか……?」


 荒い呼吸を繰り返す紗夜に、女性が心配そうな顔で伺ってくる。

 微かに明滅する視界の中で何とか彼女を見上げ、無理矢理な笑みを口元に浮かべる。


「だいじょ……ぶ、です! それよりも、早く中のシェルターにっ……!」


 屋内に神屍が侵入している可能性を踏まえ、出来る事ならば建物の中にまで付いて行きたかったが、身体が言う事を聞かない。

 自分は決して運動不足ではなかった筈なのに、等と思いながら、理化学研究所の砕かれた正面玄関へと視線を向ける。今のところ、見える範囲に神屍の気配はない。

 だがそれでも楽観は出来ない。先ほど撒いた餓狼種二体が追い付いてくるかも知れない上に、更には他の個体をも引き連れている可能性だって捨て切れないのだ。

 やはり最悪の事態を想定して自分も随行する必要がある――そう判じて強引に立ち上がろうとした紗夜の耳に、何処からか足音が聞こえてきた。

 人間のものだ。

 僅かに反響して聞こえるその音は、研究所の中から発せられている。

 紗夜と女性が同時にそちらを向けば、無惨に破壊されたエントランス奥の薄闇に二つの人影が浮き彫りになる。その者達を見止めて紗夜は目を瞠った。

 シェルターに退避した筈の黒郷と未來は迷わず屋外に飛び出ると、そのまま紗夜達の許へとやって来た。


「雪村くん、無事か⁉」

「……お二人とも、どうして……」


 その問いには、未來が傍らの母娘に肩を貸しながら応じた。


「まだ避難出来て無い人が少なからずいるみたいで、時折こうして外の様子を見に来てたんですよ。そのタイミングでちょうど雪村さんが戻って来てくれて良かったです!」

「シェルター内では今、重傷を負った者達の治療が行われている。彼女とお子さんの手当てもしてくれるだろう」


 黒郷の言葉を聞いて、未來に身を預けていた女性が安堵したように息を吐いた。

 紗夜もまたほんの少しだけ肩の力を抜いたが、これで全てが終わった訳ではない。彼等と無事に合流出来た以上、次の目的は医療機器や余剰人員を集めてあの病院に戻る事だ。

 それを改めて思い出し、未だ震える足腰をガツンと叩いて立ち上がりかけた紗夜の肩へと、黒郷が優しく手を置いた。


「それと、先ほど須藤くんに連絡があった。私達が出発した病院に運良く外科医の方が避難して来たらしい。医療道具は万全ではないが、あの場にいた患者の殆どは問題なく処置してくれるそうだ」

「え……そう、なんですか?」


 黒郷は確かに頷く。途端、胸中に溜っていたしこりのようなものが一つ取れた気がした。脚から力が抜け、半端な位置まで上げた腰が落ちる。咄嗟に黒郷が支えようとしてくれたが、それを片手で制し、二人の親子へと視線を向けた。


「私は大丈夫なので、早くその人をシェルターの中に。黒郷さん達も早く退避して下さい」

「……君はこれからどうするんだ?」

「監理局から機士が来るまであと二〇分と少しあります……それまで、他に逃げ遅れた人がいないか探します」

「少し休んだらどうだ。見るからに体力の限界なのだろう」

「問題ありません」


 そう告げて、紗夜は気力を振り絞って立ち上がった。

 まだ呼吸は整っていない。膝は小刻みに震えている。

 それでも一つ深い息を吐いて意識をクリアにした彼女は、定まった眼差しで傍らの男を見やる。


「それに、こんなところでのんびりしてたら、それこそ彼に怒られちゃうかもしれないので」


 少女の言葉は、黒郷には理解出来なかっただろう。

 それでも彼女の澄んだ瞳を見た男は、数瞬驚いたように目を瞠ると、不意に柔らかく微笑んだ。


「そうか。――君の無事を、ただひたすらに祈っているよ」


 穏やかで、それでいて強い声だった。

 彼の背後で、未來もまた紗夜に優し気な微笑みを向けている。二人に笑みを返して頷き、負傷した母娘を支えながら研究所のシェルターに向かう彼等の後姿を見送りながら、紗夜はほんの少しだけ心にぬくもりを覚えた。

 守りたい者達を守れただろうか。

 それは自分には判断しようもない。

 答えがあるとすれば、それは黒郷達が己に対して向けてくれた笑みなのだろう。

 心の裡に湧く温かな感情を噛み締めながら、紗夜は自分の胸にそっと手を触れた。


 ――静寂のみが聞こえていた一帯に、ふと、異質な音が混じった。


 半身だけを振り向かせ、音の方を見る。

 大通りから研究所の敷地に繋がる決して広くはないエリアに、複数の神屍が佇み、此方を静かに見据えていた。総数はざっと一〇体ほど。頭目らしき巨大な個体は見受けられず、総数も先ほどまで紗夜を追っていた時に比べれば大幅に少ないが、それを幸いとは思えない。

 先刻、初めて神屍を斬り付けた際の感触を思い出す。

 紗夜が武器の扱いに慣れていないとは言え、相応の力が乗った一撃だった筈だ。にも関わらず、斬撃を受けた餓狼種はビクともしなかった。

 その事実が、また新たな怖れを生む。

 己の脚を見下ろした後、周囲の建造物へと視線だけを配る。踏ん張りは利くものの、確実に蓄積している疲労がそれまでと同様の立体移動を不可能なものにしているだろう。

 つまるところ、逃げる事は出来ない。

 その現実を認識した途端、喉が干上がった錯覚を覚えた。生唾を嚥下するが、それで渇きは満たされない。

 目の前に広がる光景をまるで額縁の外の景色であるかのように捉えながら、けれど紗夜は必死に視界の焦点を定め、両の拳を握り込んだ。

 そして誰にも聞こえない声量で小さな言葉を紡いだ。


「……大丈夫。大丈夫だよね。私頑張るから……だから力を貸して、


 少女の脳裏に、幼い頃から慕ってきたある女性の姿が浮かぶ。しかし記憶の中で、その者は静かに眠っており、決して目を覚ます事はない。

 とうに染み付いた病床での姿が浮かんで、紗夜は一瞬だけ瞼を伏せた。

 追憶に揺らいでいる暇はない。再び写り込んだ十数体の神屍を視界に捉え、彼女は強く唇を引き結んだ。

 腰に提げた直剣の柄に右手を掛ける。

 同時に、群れの前列に佇む数体の餓狼種が、緩慢な足取りで紗夜へと近付く。


 ――直後。

 漆黒の体躯を持つ異形の群へと、非力な少女がたった一人、剣を携えて無謀にも飛び込んだ。


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