黒髪

 紗夜の中で、その女性は確かな憧れだった。

 可憐な美貌もさることながら、いつだって他人の心に寄り添える人柄は、雪村紗夜にとって眩く見えた。


 幼い頃、家が近所だったからと言う理由で遊ぶ機会が多く、一人っ子だった紗夜にしてみれば、いつも自分を引っ張ってくれる彼女は実の姉も同然だったのだ。


 だがある日、彼女の両親が唐突に亡くなり、それに伴って『姉』は紗夜の住んでいた第七特区から余所の街区へと引っ越さなければならなくなった。

 それは紗夜が齢十四、その姉が十八の頃だった。

 当時の紗夜は高校に入学したばかりだったが、長く慕ってきた姉が自分の許から去るという現実に、酷く泣いた覚えがある。そして、その際に自身の頭を優しく撫でてくれた姉のぬくもりもまた、鮮明に思い出す事が出来る。


 以降、同じ東京エリア内であったにも関わらず、二人が会う機会はめっきり減った。

 それは紗夜が高校での勉強や諸々の事情に勤しんでいたせいもあるが、離別を皮切りに、第三特区へと移住したらしい姉が常に何かの理由を付けて会うのを拒んでいたからだ。


 理由は分からない。

 定期的に電話で話す事はあった為、嫌われた訳ではないとは思っていた。

 それでも姉が何かしら自分に隠し事をしている事実に、紗夜は掴み切れない靄のようなものを感じていたのだ。


 ――それが理由かは定かでないが。

 姉が突然、病院に緊急搬送された事を知らされた時は、思った以上に驚かなかった。


 早朝だったように思う。

 寝ぼけまなこで朝食を食べていた紗夜に、母親が驚愕した顔で伝えてきたのだ。

 その日は学校を休んで、姉が搬送されたと言う第三特区の病院へと向かった。一体どんな怪我を負ったのか心配していたけれど、想像に反して姉の身体は平常だった。

 一見して外傷は無く、久々に見た美貌は変わらず綺麗で、そんな状況の中でも思わず見惚れた気がする。


 ただ一点。

 指先すらも微動だにせず、ただ機械的に呼吸を繰り返し、虚ろの瞳で中空を見つめるばかりの姿を除けば。


 担当医師曰く、精神に多大な負荷を受けた事で心神喪失状態に陥ってしまったのだと。

 紗夜は言葉を失った。

 何を経験すれば、人はこんな状態になるのか想像も付かなかった。

 けれど現実は確固とした事実として眼前に在り、夢幻ではない代物として少女の心を突き刺した。


 それから一週間は、毎日姉の病室を訪れた。

 学校に行く事など意識の外だった。面会が許されている時間を最大限に使って、常に姉の傍に寄り添い続けた。

 けれど姉は一向に目覚めなかった。

 紗夜がどれだけ呼び掛けても、息遣い一つ乱れない。


 もしや姉の魂はとうに消えてしまっているのではないか。

 そんな恐怖に駆られた事もあったが、紗夜はそんな自身の想像を決して認めなかった。嫌な考えの尽くを振り払い、いつしか必ず姉は目覚める筈だと信じて、彼女の傍で彼女の虚ろな瞳を見守り続けた。


 ――そんなある日、初めて姉の病室に訪問者が現れた。

 自分どころか、姉よりも年上と思しき男性だった。不思議な雰囲気を纏うその男は、病床に横たわる姉の姿を無言で眺めると、おもむろに紗夜を見つめ、やがて静かに語り始めたのだ。


 その時に初めて。

 紗夜は自身の良く知る姉が、人類と神屍の緩衝材として戦う『機士』であったことを知った。



     ※



 上方から飛び掛かってきた神屍の巨躯を横合いに身を投げ出す事で回避する。

 ろくな受け身の取り方も知らないが、以前にフリーコンテンツの娯楽動画で見た動きをなるべく再現しながら転がる。右肩に多少の痛みを感じながら立ち上がった紗夜は、間を置かずして肉薄してきた黒狼を視界に捉えると、なりふり構わず全力を込めて右手の武器を振るった。


「いやあぁぁぁッ‼」


 切迫の気合を込めて、光量子の塊でしかない機械直剣を漆黒の体躯へとぶつける。

 ホロウの基盤システムによって質量を得た刃は大きく開かれた餓狼種の顎へと直撃し、けれど僅かな拮抗を見せる事もなく、派手に後方へと弾かれた。

 先程から何度も繰り返されている行為である。

 ノックバックによって流れた剣を即座に引き戻し、刹那の後に襲い掛かってきた別の餓狼種へ袈裟懸けを放つ。咥内まで黒く染まった神屍の顎を間近に見ながら、紗夜は直剣の柄を両手で握り、尋常でない力で押し込まれる牙を何とか防ぐ。


「ッ……こっ、のぉ……!」


 鋭い牙と刃が擦れ、微かな火花を散らす。だが数瞬の硬直すら今は自殺行為だ。擦れ合って火花を散らす刀身を無理矢理に逸らして異形の鋭牙を受け流し、すぐさま後方へ飛び退く。コンマ数秒の間を置き、寸前まで紗夜の留まっていた地点へと新たな個体が圧し掛かった。


「もう! 数が多い‼」


 思わず毒づくが、現状に於いて紗夜に牙を剥いている神屍は総数の内の半数……つまり七体前後である。残りの個体はまるで紗夜の動きを観察しているかのように一定の距離を空けて佇んだままであり、一向に動く気配は見られない。

 それは紗夜にとっては謂わば怪我の功名であろうが、半数を相手取っている今ですら半ば手一杯と言ったところだ。絶えず襲い来る猛攻を奇跡的に間一髪のタイミングで防ぎながら、何とか凌いでいる状況であった。


「……何で刃が通らないの……?」


 群れから距離を置いて後退した紗夜は、右手に携えた機械直剣を見下ろしながらそうぼやいた。

 今持てる全力を常に注いで斬り付けているにも関わらず、たった薄皮一枚を破るだけで一向に肉を断つ事が出来ない。

 それほどまでに神屍の肉体と言うのは頑強なのだろうか――そんな考えを抱いた矢先、紗夜を目掛けて三体の餓狼種が大きな弧を描いて飛び掛かってきた。

 巡りかけた思考をかなぐり捨て、再び横へ身を投じる。

 辛うじて回避したものの、内一体の鋭い爪が紗夜の脹脛を掠め、刃物で引き裂かれたかのような痛みが脚部を襲った。


「ッ……‼」


 走った痛みに顔が歪む。そのまま後方へとバックステップで飛び退き、神屍と最低限の距離を空けた後に自らの脚を見下ろす。

 血は流れていなかった。

 ただ〝痛い〟という感覚だけが、爪を掠めた部位に残留している。これが李夏の言っていた『痛覚走査ペイン・スキャニング機能』かと納得する間も無く、彼女を追うように複数の餓狼種が統率を成して特攻してきた。

 自らへ襲来する異形を見据えながら、紗夜の思考は何処か別の場所へと逸れる。


 ――この世界で、神屍に恨みを持たぬ人間などいないだろう。


 人類の領土を侵食し、数え切れないほどの人命を潰してきた異形の神々。

 彼等に憎しみ以上の感情を抱いてきたからこそ、人間と言う種は神屍を屠る為の機構を開発したのだろう。そして同様の情念を持つ者が集まり、異形の神を屠る最新鋭の戦闘者が誕生した。

 少なくともホロウと言う人類の叡智が開発された頃に、そう言った志を持つ者が多く存在した事によって、現在も尚、機士を生業とする人種が連綿と続いているのだと思う。

 全てはこの世から神屍を絶滅させる為。

 それこそが、多くの戦闘者が持つ望みである。

 ……けれど。

 紗夜にとって、機士となる上で抱いていた最上の目標とは、無数の機士が掲げるそれとは違っていた。


 紗夜の掲げる望み。

 それは、最愛の姉の心を破壊した神屍にその罪を贖わせる事であった。


 だからこそ雪村紗夜は機士となった。

 かつて姉が生きていた戦場を知り、姉が体感した痛みを知る為に。そしていつか姉が目覚めた時に誇りを持って彼女と対面出来るように。

 故に今、ここで躓いている訳にはいかない。

 圧し掛かってくる神屍を目掛けて直剣を横薙ぎに振るう。最も先頭に乗り出していた一体に刃は直撃するが、案の定、そこで勢いは減衰する。だがそれでも紗夜は諦めず、更に力を込めて剣を振り抜いた。


「……あああぁぁッッ‼‼」


 気合を込めた叫びを放ち、斬り付けた個体諸共、他数体の餓狼種をまとめて吹き飛ばす。

 反動で腕の神経に鋭い痛みが走るが、歯を食い縛って耐える。力任せな斬撃によって中空を舞った神屍はそのまま後方に控える残党の許へと着弾し、派手に地面を転がった。


「はぁっ、はぁ……はぁ……!」


 認識する世界が明滅する。手足が鉛のように重く、何度も膝が崩れかける。

 ともすれば手から取り落としてしまいそうな直剣の柄を握り直しながら、紗夜は己を見据える神屍の群れを見やる。

 吹き飛んだ数体の餓狼種は既に立ち上がり、怒りを孕んだ呻き声を口端から漏らしている。獰猛な威が真紅の双眸を炯々と輝かせているように見えた。


「……あと、どれくらい……なのかな」


 疲労は蓄積するばかり。周囲の建造物を足場に逃げる事も叶わないだろう。

 それでも決して現状を諦観しない。自身の力が及ばずとも、監理局からの救援が来るまで刃を振るい続けるだけだ。

 霞む視界の中でおおよその時間経過を計算する。

 紗夜が監理局を飛び出してからおおよそ四〇分ほどが経過していた。つまり局内で聞いた李夏の言葉を踏まえれば、この第二特区に機士が到着するまで最低でもあと二〇分は要する。

 二〇分。

 一時間を三等分にしたそれだけの時間が、紗夜にとっては永遠に感じた。

 群れに特攻して未だ五分と経っていない。にも関わらず、現状はジリ貧と言える。

 相手取っている餓狼種は七体。残りの個体は恐らく、紗夜が最大限に弱った瞬間を狙って待機しているのだろう。紗夜の体力に限界が訪れた時、目の前に佇む全ての神屍が自らへと襲い来る――そんな事は嫌でも理解していた。

 力の入らない右腕を、左の拳で思い切り殴る。

 刃を鳴らして直剣を構え、震える切っ先を無理矢理に抑え込んで神屍の群れへと突き付ける。

 ……そうしてやがて、心の裡に渦巻く恐怖を改めて自覚した。

 けれどそれは無謀を突き詰めた先に横たわる死の気配が感じさせるものだ。であれば、その恐怖は排斥すべき無意味な感情である。何故ならば、今の自分が如何なる損傷をその身に負おうとも、生身の肉体が傷付くことは決してないのだから。

 恐怖を無理矢理に意識の外へ追いやる。

 例えどれほど無様でも、今の己は機士と言う最新鋭の戦闘者だ。故に眼前の異形に対して恐れを感じる必要はない。

 だから怖がるな。

 恐怖の尽くをかなぐり捨てろ。


「――、」


 けれど。

 そう自身に言い聞かせるほど、指先の震えは激しくなる一方だった。

 呼吸が整わない。意識が空白になる。天秤の上で揺らぎ続ける意志が、何もかもを放り投げて逃げ去る選択肢へと傾きかける。

 恐怖が、呑み込めない。

 嚥下する傍から吐き戻される。

 もしも仮に今、ホロウを通じて紗夜のバイタルをモニタリングしている者がいたとしたら、異常なほどに上振れている彼女の心拍数に驚く事だろう。

 システム側からホロウと機士の接続を断つ事は可能だが、その場合、仮想の肉体を失った生身の人間が突如として戦場に取り残される羽目になる。故に機士が如何なる危機的状況に陥ったとしても、局員が自己の判断でホロウのシステムに介入する事はない。

 そうしてわざわざ余計な救いを施して機士の『本体』を危険に晒すよりも、ホロウの『安全機構』を与えたままの方が何倍も頼もしい盾となってくれるからだ。

 だとしても。

 その安全機構に一〇〇%頼り切りになれる機士などいない。

 決して心から拭えない恐怖は存在する。それが人間であるというものだ。

 そしてその現実を容易く容認出来ないのもまた、人間である。

 だから、紗夜は叫んだ。

 胸中にわだかまる嫌な感情全てを投げ捨てたくて。

 その感情を免罪符に、自分がこの場から逃げてしまう可能性を投げ捨てたくて。


「――うわあああああぁぁぁぁッ!!」


 全力で地を蹴り、漆黒の蝟集いしゅうへと駆ける。

 半ば倒れ込むような前傾姿勢で群れに踏み入った紗夜は、最前に佇んでいた個体へと直剣を振り下ろす。狙いなど全くとして定まっていない捨鉢の一撃だ。

 当然、標的の餓狼種は俊敏な機動でそれを回避する。刃は無残にも空を切り、惰性で流れた力に紗夜は思わず地面へと転がってしまう。

 あたかもその瞬間を狙っていたかの如く、二体の異形が地に蹲る紗夜目掛けて飛び掛かった。

 巨躯が覆い被さる寸前で危うく横に飛んで躱すものの、結局は同じ事の繰り返しだ。立ち上がる事もままならない。不格好に何度も地面を転がり、間一髪のところで神屍の牙から逃れる。目まぐるしく回る視界の中で辛うじて神屍の猛攻を視認しながら、紙一重の生存を保ち続ける。


 ――けれど、そんな偶然は長く続かなかった。


 再び襲い掛かって来た個体を前方に転がって回避した直後、立ち上がろうと膝に力を込めた瞬間、彼女の背後から別の個体が来襲した。

 力のベクトルが崩される。咄嗟に回避する方向を転じた紗夜は、けれど重ね続けた酷使が祟り、不意に体勢を崩してしまった。


「っ……⁉」

 

 ガクンッ、と。

 膝が折れて地に着き、決して埋められない絶対の隙が生じる。

 その不覚を異形の神々が見逃す筈もなく――


 次の瞬間。

 一体の餓狼種がその鋭利な牙を、紗夜の左肩へと容赦無く突き立てた。


 僅かな痺れの後、苛烈な熱を思わす痛みが全身を駆け巡る。堅牢な黒の巨駆に圧し掛かられながら、紗夜はあまりの激痛に叫びを迸らせた。


「がっ……あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」


 少女の絶叫が街中に響き渡る。コンクリートの地面へと押し倒され、転んだ弾みで加わった力が餓狼種の牙を更に深く食い込ませた。

 呼吸が止まる。眼前の景色が不規則に霞む。凄まじい灼熱感が全身の神経を冒すような感覚さえあった。

 幼い頃に実家で飼っていた犬に手を噛まれた時の記憶が脳裏に巡るが、その際に感じた痛みとは比べ物にならない。ゴギリッ、と言う骨を削るような音が耳朶を刺激し、左腕が小刻みに痙攣し始める。

 火花さえ散り始めた視界の中で紗夜は歯を食い縛り、両の目に涙を浮かべながら、それでも懸命に力を振り絞って右腕の直剣を振り回した。

 非力な抵抗に、けれど神屍はあっさり牙の拘束を解き、紗夜の上から飛び退く。

 解放された瞬間、紗夜は思い切り息を吐いた。目許に溜った涙がぽたりと落ちて地面に染みを作る。未だ左の肩口から巡り続ける痛みの所為か、身体が言う事を聞かない。地に蹲りながら左肩を押える紗夜を、まるで嘲笑うかのように無数の神屍が揃って喉を鳴らした。


(な、に……この痛み……)


 意識すら明滅を始める状況の中、あまりの激痛に脳が現実認識を拒否している。ここが夢の中なのではないかと言う一種の逃避を抱くが、熱を孕んだ痛みは一向に引かず、視線の先では幾体もの神屍がゆっくりと此方へ迫って来ていた。

 認識する世界が遠退く。

 零れる涙が少女の頬を濡らした。

 掻き消えそうになっている意識を何とか繋ぎ止めながら、そうして彼女はぼやけた視界の奥に姉の笑顔を見た。

 走馬灯ではない。

 だが、当人にとって最も安らぎを与える映像を脳が見せている。それは結局、人が何かを諦めかけた時に見てしまう幻覚の類なのだろう。

 姉が微笑んでいる。

 彼女を知る為に、彼女に追い付く為に神を屠る資格を得た。

 けれどこのままでは、無様に追い縋る事すら出来なくなってしまう。紗夜はそれが只ひたすらに怖かった。

 ……その恐怖が、紗夜の脚に力を与えた。

 未だ激痛の走る左肩から手を放し、よろめく脚に無理を強いて立ち上がる。僅かでも気を抜けば手から滑り落ちてしまいそうな得物の柄を握り締め、緩慢な足取りで接近する餓狼種の群れを見やる。

 朧げな意識の先に見る異形の神々は、冒涜そのもののように思えた。

 まるで紗夜を檻に閉じ込めるかの如く、一定の距離を空けて円形を成す。四方全ての行く手を遮られた紗夜は、しかし絶望的な状況の中でも決して瞳から光を消す事なく、前方の餓狼種に向けてゆるやかに剣を構えた。

 譫言うわごとのように呟く。


「……おねえ、ちゃん……私、がんばる、から……見守ってて、ね……」


 直後。

 紗夜の正面に立ち並ぶ三体の餓狼種が、全く同時に跳躍した。

 だが狙いはそれぞれ別だ。頭、胴体、腕――僅かに異なる角度で襲来する漆黒の波浪を、せめて視線だけは逸らすまいと真っ直ぐに見据えた。

 足は動かない。行く末は先の何倍にも及ぶ激痛だろう。

 それでも構えた切っ先は下げない。それは決意の現れであるからだ。腕が鉛のように重かろうと知った事ではない。

 負けたくなかった。

 迫り来る異形にではなく、自らの抱いた意志に。

 やがて紗夜の眼前に漆黒が満ち、華奢なその体躯に悍ましいほど鋭い牙や爪が突き立てられ――――


 突如として戦場に吹き荒れた突風が、紗夜の前髪を優しく揺らした。


 視界の中を何かが横切る。霞むほどの速度を伴って紗夜の寸前に着弾したそれは、一つの人影だった。

 腰から細身の直剣を抜き放ち、鋭い一閃を神屍へと叩き込む。不可視とさえ思えるほどの斬撃がまず中央の個体のあぎとを横一文字に斬り裂き、次いで得物を振り抜いた際の慣性を利用した蹴りが放たれる。

 ドウッ‼ と言う鈍い音が響き、向かって右の個体諸共横合いへと吹き飛ばされる。だがそこで終わりではない。コンマ数秒の世界で剣筋を翻したその者は、体勢を右へ流しながら残る左の個体に刃を振るう。

 果たしてそれは偶然が必然か――餓狼種の首筋に吸い込まれた斬撃は、それまで紗夜を苦しめた硬質な肉体をさながら紙切れであるかの如く、スゥ、と滑らかに斬り裂いた。

 肉が両断される。頭部と胴体が鮮血を纏って分断される。頸部から下を失った躯幹は斬り飛ばされた勢いでそのまま地面を転がり、微かな痙攣を残して横たわる。

 一連の動作は、わずか一秒にも満たぬ刹那の間で終えられた。


「――まったくさ」


 直剣を振り抜いた姿勢のまま静止していた人影は、やがてゆっくりと身を起こすと、唖然として固まる紗夜を振り向いて何の気なしに行った。

 

「何だか上手いこと焚き付けられたような気がしてならない訳だけど」


 黒髪を揺らし、今まさに神屍を屠った直剣を肩に担ぎながら。


「せっかく引退を決意したのに、これではまるで先達の風を吹かせて未練がましく過去の座に居座る老害のようではないか」

 

 ぼやくようにそう言った鷹音は、そうして浅い溜息を一つ吐き出した。

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