ブラッド・ギア

 過去に学校で行った身体測定、その中でも百メートル走の自己最高記録は何秒だっただろうか――こんな状況であるにも関わらず、紗夜の頭にはそんなどうでもいい疑問が浮かんでいた。

 枢機市第二経済特区の一角。

 超密度で入り組んだ路地が形成する、所謂『裏の街』の袋小路で少女は力なく蹲り、何度も荒い息を吐き出していた。

 肩が絶えず上下し、額には汗の珠が浮かんでいる。

 酸素を求めて空気を吸い込む度、喉と肺が炎症を起こしたように痛むものの、彼女にしてみれば何よりもまず水分が欲しかった。


「はぁ、はぁ……もう、これっ! 学校の持久走なんかよりもずっとキツイって……!」


 黒郷達と別れて、まだ十分程度しか経っていない。にも関わらず、紗夜の疲弊度はかなりのものであった。

 決意を固めて自身を囮にすると言ったものの、まるで街に侵入した神屍が徒党を組んでいるかの如く、その全てが現在進行形で彼女を追っているからだ。

 下手に隠れるような事もせず、目立つように街中を駆け巡っていたのだから、自業自得と言えるかも知れないが。

 今も何処か遠くから神屍の唸り声が風に乗って聞こえてくる。見るも悍ましい漆黒の異形がまるで雪崩のように追ってくる光景もまた、彼女の精神を削る要因になっていた。


「……これからどうしよ……須藤さん達の所へ戻ろうにも、この辺にはもう神屍が集まっちゃってるし……」


 紗夜が視認した限りでは、現状に於いて狼の姿を象った神屍が総数の大半を占めているようだ。

 その中でひと際目立つ頭目らしき個体は五体。群れのリーダーと麾下の個体の知能にどれほどの差異があるのか定かではないが、少なくとも頭目を筆頭に無数の麾下が統一的な動きで紗夜を追っていたのは確かである。


(監理局から機士が来るまで、最低でもあと三〇分はかかる……それまでずっと逃げ回ってるなんて無理過ぎる……!)


 どれだけ身体能力に優れた人間であろうと、全速力での疾走を続けられるのは八秒程度だと言われている。

 機士としての適性がある以上、紗夜もまた一般人よりは高い運動神経を持っているが、それも結局は平均より多少上振れていると言うだけの話。

 一定の間隔で休息を取ってはいても、常に全速の行動を取り続けていればいずれ体力は尽きる。

 そうなれば神屍の侵入出来ない細路地に身を隠せばいいだけの事だが、紗夜の追跡を諦めた神屍が隣接する特区に向かう可能性も捨て切れない。

 故に紗夜は、後続の機士が到着するまでこの第二特区に神屍を留めておく必要がある。ビルの屋上や開けた通りの真ん中を選んで街中を駆け回っていたのも、それが理由だ。

 だがやはり、早々に体力の限界を迎えてしまう事は避けられないようであった。


「……取り敢えず、こんな路地の奥にまで神屍は入ってこないだろうし、もう少し休憩したらまた外に出て―――」


 刹那。

 紗夜の顔に突如として翳が差した。

 まず瞠目し、次いで反射的に頭上を仰ぎ見る。

 左右と後方をビルの外壁が取り囲む袋小路、その上空に突如として漆黒の影が躍り出たのだ。

 当然、その影の正体とは神屍であり、早くも見慣れつつある狼型の異形―――その数三体。

 恐らく建物の屋上を移動してきたのだろう。

 この路地へ入るには非常に細い道を通過しなければならず、故に神屍は侵入出来ない。そんな一種の楽観は脆く甘い考えに過ぎなかった。

 鉛のような脚へと必死に力を込め、身体を前方へと投げ出す。直前まで紗夜の居た地点へと三体の異形が半ば落下するように降り立った。その重量にコンクリートが容易く爆ぜるが、神屍本体は何の損傷も追っていない。


「ほんっと頑丈すぎ……!」


 即座に体勢を立て直した紗夜は、そのままの勢いで大きく跳躍する。建物の中層辺りに設けられた外階段へと着地した彼女はすぐさま地上を振り返り、三体の神屍がここまでは辿り着けない事を確認すると、所々塗装の剥げた手摺りへ乱暴に凭れ掛かって大きな息を吐いた。


(……しまった、気を抜いた……! 今ので力が……)


 全身の力を抜いて安堵してしまった為だろう。それまで酷使し続けた脚が途端に震え始める。緊張が緩み、それによって筋肉が弛緩した事で必死に無視してきた筋肉疲労が表面化したのだ。

 機士はホロウによって仮想の肉体を得ているとは言え、肉体限界の尽くを超えられるという訳ではない。

 言うなればホロウの生み出す仮想体は鎧だ。どれだけ異形の神々に対抗出来る力を持っていようと、それを操るのが生身の人間である以上、こう言った弊害が出てくる。

 寧ろ、下手に身体能力が向上した分だけ、生身の肉体に掛かる負荷は増大していると言ってもいい。

 故に殆どの機士は戦闘に支障が無いよう平時の鍛錬を欠かさないのだが、紗夜にしてみれば例外の話であった。

 ちらりと下を見る。

 三体の神屍は紗夜の方を見上げて何度も吠えているが、どうしたって此処には辿り着けないと分かっているのだろう。外階段の直下に集まるだけで、それ以上は何も動きを見せない。


(……あの個体だけがビルを伝って来たとは考えにくいし、そうなるとここもあんまり安全じゃないかも……)


 今すぐにでも離脱したいが、もう少しだけ休息を取らねば移動もままならない。

 この調子だと明日は必ず筋肉痛に見舞われるなと、またもどうでもいい事を考えていた紗夜の耳に、小気味いい電子音が響いた。

 唐突に聞こえたその音にビクリと肩を震わせる。音の出所は何であるかを探して、それがホロウを使用した直後からずっと耳に装着されているワイヤレスイヤホンからのものであると気付く。

 普段、スマホのアラームを止める時の習慣からか、鳴り響く音をなるべく早く止めねばと言う思考が働く。

 耳元のイヤホン型デバイスに触れようとして――だが寸前で、ひとりでに音は鳴り止んだ。間を置かずして機械的なノイズを微かに孕んだ声が聞こえてくる。


『紗夜、聞こえるか?』

「ッ……!」


 耳に飛び込んできたその声に、紗夜は目を瞠る。

 電子の和音を伴ったものであるが、確かに聞き覚えのある声だった。慌てて返事を口にする。


「は、はい!」

『良かった。取り敢えずは無事と判断して構わないね』

「しっ、筱川さん……えっと、どうして……?」


 要領を得ない問い掛けに、嘆息混じりの言葉が返る。


『君が無茶を押して出撃した所為で無理矢理働かされているんだよ。とにかく余計な問答をしている暇はない。今の君にとって最優先すべき事柄だけを伝えるよ』


 不思議だった。

 彼の声を聞いているだけで、全身に走っていた強張りや恐怖と言ったものが和らいでいくようであった。

 自然と脚に力が戻っていく感覚を覚えながら、伝わってくる声に耳を傾ける。


『此方で確認する限り、君の付近には三体の神屍がいるだろう。現状、それらから逃げる事は困難か?』

「う、ううん、さっきまでは足が動かなくて休んでただけで……」

『なら重畳だ。因みに君を中心とした半径一キロ圏内には今、大半の神屍が集まっている。正直、とんでもないほどの四面楚歌な訳だけど』

「うぅ! 分かってたけどそんなに絶望的な状況なの……⁉」

『大方、派手に動き回ったんだろう。君の現在位置と神屍の移動経路を見てすぐに確信したよ』


 イヤホンの向こうで、鷹音が呆れたような息を漏らした。


「どうしよう筱川さん……! 私ここからどうすればいい……⁉」

『それを教える為にこうして連絡をしたんだ。まず初めに、君にブラッド・ギアの展開方法を教える』


 聞き慣れない単語に脳内ではてなマークを浮かべた紗夜に、鷹音は間を置かずして続ける。


『君の場合は……左手首に腕時計のようなデバイスが装着されているだろう。それのベゼルを右に九〇度回すんだ』

「べ、べぜるって何……?」

『腕時計で言う数字が彫られている円形の部位だよ』


 言われ、イヤホンと同様に初期段階から取り付けられていた手首の装置を見やる。

 英国紳士が付けるような銀細工の施されたドレスポウォッチよりかは、スポーツマンが運動の際に身に着けるスマートウォッチのような意匠のデバイスであった。

 指示された通りに円形の外縁部を摘み、右に九〇度回転させる。

 直後、時計中央の文字盤が淡く輝き始め、さながら映画館の映写機のように光を投影したかと思えば、紗夜の眼前へと矩形のホログラフを出現させた。


「わっ……これって……」

『そのデバイスは『LOST・AREAロストエリア=SYSTEMシステムUSERユーザー=TOOLツールARTIFACTアーティファクト』、通称『LASUTAラスタ』と呼ばれる機士専用のウェアラブル端末だ。監理局にあるターミナルの下位互換版と言えば分かりやすいかな』

「ターミナルの?」

『ホロウの一部機能とも同期していてね。主にはこういう通信や、死廃領域のマップ表示なんかが行える』


 で、と鷹音は続ける。


『ブラッド・ギアとは、機士が神屍と戦う上で必須な武装の事だ。今、君の腰には何の得物も装着されていないだろう?』

「う、うん」

『本来であれば機士が決して疎かにしてはいけない事項の一つだ。なのに君は華嶋さんからの説明をろくに受けないまま、丸腰の状態で無謀にも飛び出して行ってしまった訳だけど』

「うぅ! だ、だって居ても立ってもいられなくて……て言うか元はと言えば筱川さんが私のお願いを無下にしたからであって……!」

『その話は後だ』


 強引に話題を切り替えられ、紗夜はほんの少しだけ頬を膨らませた。


『現在表示されている画面の右下に、「武装の表示・変更」と言う項目があるだろう。そこをタップするんだ』

「え、タップ? この画面に?」

『ラスタのウインドウはホロウの励起システムによって実体を持っている。そのまま問題なく触れるから早く触れ』


 すげなく言われて、紗夜は左手首のデバイスから照射されている矩形の画面の、指示された項目を恐る恐る指で叩く。

 パネルに触れた時のような感触が伝わり、ウインドウに微かな波紋が広がる。すると監理局のターミナルでも見た、紗夜自身を模した人型の映像が表示された。


『次いで、切り替わった画面の上部にある「武装の投影」を。ギア自体は既に登録されているから、続けて現れるリストに唯一示されている武装を選べ』

「わ、分かった!」


 疑問を挟ませる余地の無いレクチャーに、紗夜は懸命に付いてゆく。

 初めに告げられた欄をタップすれば、ずらりと空白のリストが列挙された。その最上部に一列だけ色の付いた文字で表示された項目がある。迷わずそこを指で叩いた。

『武装の再投影を行います。宜しいですか?』という文言が浮上し、その下に現れた『YES or NO』の可否選択ですぐさま左をタップする。

 直後、変化があった。

 それまで何も装備していなかった腰のベルトに白い光の粒子が無数に出現したかと思えば、何かに導かれるように集束し、間を置かずして一振りの長剣へと変貌を遂げる。

 全長九〇センチほどの、余計な装飾の無いシンプルなデザインの得物だった。何もないところから出現したにも関わらず、硬質な質感を備えているように見えるそれは、吊るされた剣帯から確かな重みを紗夜に感じさせた。


「……これが、ブラッド・ギア……?」


 小さな呟きに、鷹音は通話越しに彼女がギアを展開出来た事を確認したのだろう。落ち着いた声が返ってきた。


『そのギアの名前は『量産型の有象無象スプラック・ユニット』、新人機士に等しく配備される機械直剣な訳だけど………………ねぇ市乃瀬さん、このセンス皆無な名前、二年前から全くとして変わっていないではないか』

『命名権は全て皇木博士にあるのですから、私に言わないで頂けますか』


 イヤホンの向こうから、そんな会話が漏れ聞こえてきた。

 右手の指先で剣の柄に触れれば、鋼で鍛造されたものと遜色ない感触が伝わってきた。生まれて初めて目にする代物に、紗夜は無意識の内に生唾を呑み込む。

 その嚥下を聞き留めた訳ではないだろうが、無線の向こう側で鷹音が穏やかに言った。


『本当なら事前に得物の扱いを教わるものなんだけど、今回はイレギュラーだ。だからその武器はあくまで自己防衛の為だけに使え』

「けっ、剣の使い方なら、少しは勉強したことあるけど……」

『だとしても』


 端的な反論があった。


『いま君の周囲にいる神屍の名は『餓狼種A型ハウンドタイプ・エー』、獣種型の中で最も数が多く、最も弱いと言われる個体だ。だが現状、群れの総数は四〇にまで膨らんでいる。であれば、例え最弱の個体とは言え危険度は跳ね上がっている訳だけど。少なくとも新人中の新人な君が立ち向かってどうこう出来る範疇は超えている』

「で、でも! なるべく早く街中の神屍を倒さなきゃいけないんでしょ? なら、少しずつでもやっつけていった方が……」

『神屍の急所は知っているのかな。素早く動く獣種型の首や心臓を狙う事がどれだけ難しいのか想像は出来るだろう。加えて単独で群れを相手取る際は各個体を一撃で屠る「プライド潰し」の戦術が必須になる。それは当然、一介の機士ですら困難を極める戦い方だ。君には出来る筈もない』

「ッ」


 紗夜は歯噛みした。

 強かな圧が込められた鷹音の言葉に、反論出来なかったからだ。

 眼下の神屍を見る。餓狼種A型と言う名の異形は尚も紗夜に対して吠え続けているが、あれらに剣を握って立ち向かう事を考えると、ほんの少しだけ足が竦む。そして僅かでも怯えの感情を抱いている以上、行動の尽くが鈍るだろう。結果として無謀に立ち向かわねば良かったと後悔するのが目に見えている。


(……それでも)


 そんな普遍の未来など、紗夜にとっては些事だった。

 ここで己を赦して大人しく監理局に帰還する事は簡単だ。それでも、身体の内側にある一種の自己犠牲に似た精神が彼女をこの場に繋ぎ止めようとしている。

 当初の目的を鑑みれば、第二特区の住民の大半がシェルターに避難している以上、現状に於いて紗夜が取るべき行動は、数十分前に別れた黒郷達に合流する事の筈だ。

 にも関わらず、何故か彼女はここに留まっていなければならないと判じていた。

 その判断が何を原因として存在しているのかは分からない。ただ漠然と、此処にいなければという気持ちが心にあって――

 だが恐らく、その選択は間違っていなかったのだろう。

 紗夜が脳内に思考を巡らせている最中の事だった。


 突如として街中に、女性のものと思しき悲鳴が響き渡ったのだ。

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