ふとした出会い


 ――そんな意識の網に不穏な気配が引っ掛かったのは、病院を出てからおおよそ三〇分が経過した頃合いであった。


「……ん?」


 車や人の往来が増えて雑多な印象が大きくなってきた街路に、微かながら異質な音が混じっていた。

 怒号に悲鳴、あるいは足音。

 少年は立ち止まり、気紛れに耳を澄ます。強く地を蹴る音は、聞こえてきた限りでは三つ。心なしか、段々と鷹音のいる場所へと近付いてきているように思えた。


 土曜日の、それも通行人の多い白昼である。

 こんなところで何かしら厄介ごとが起きているとは考えにくい。

 しかし確かに、傍に見える呉服屋と古本屋の間に形成された空間からは幾人かの足音が響いてくる。

 鷹音は様子を窺うべく、付近に植えられた街路樹の陰に隠れる事にした。

 徐々に鮮明なものへと変わり始めた反響音。

 やがて鷹音はその足音のひとつが、他ふたつに比べて歩幅が小さい事から女性のものなのではないかと判じた。

 こう言った鋭い察知能力も、かつて機士として死地を駆け回っていた頃の名残である。

 とっくに前線からは退いた身であるにも関わらず、一向に衰えは見られない。その事に少しばかりの嫌気を覚えつつも、鷹音は木の幹に背を押し当て、無意識に息を潜めて暗がりを注視する。


(……考えられるとすれば、裏通りに迷い込んだ女が其処の〝住民〟に狙われ、必死に逃げていると言ったところか。まったく、世間知らずな人間もいたものだ)


 別段、大々的に呼び掛けられている訳ではないが、基本的に女子供がひとりで路地裏の通りに入り込む事は避けるようにとの認識が存在する。

 非力な者は裏社会に棲む野蛮な輩の格好の餌となるからだ。衣類や金品を剥ぎ取られ、最悪の場合は容易く純潔すら奪われる事もあると聞く。近年はあまりの治安の悪さに警察すら巡回エリアを縮小していると聞く。

 何が理由で路地裏へと入ったのかは知らないが、おおよそ逃走中の女性は、第三特区における暗黙の了解を知らない者なのだろう。


 ――あまりに大きな厄介ごとだったら、このまま静かに退散させていただくとしよう。


 そんな薄情極まりない事を考えていると、鷹音の視線の先にある建物の間隙から、まずひとつの人影が飛び出してきた。

 華奢な体躯、小柄な体型。彼の予想通り、小刻みな疾走音の主は女性だったようだ。

 そしてその直後、先の女性に続く形でふたりの男が現れた。

 片方はかなり痩身で、骨ばった印象が強い。対してもう一方は何とも筋肉質な体つきを持ち、頭部は見事なまでに禿げ上がっている。

 薄汚れた服装や微かに漂う異臭。あからさまに家無し(ホームレス)を思わせる身形の彼らは、下卑た笑みを浮かべながら、ようやくと言った風に小柄な少女の腕や肩を掴んだ。


「へっへっへ、やっと捕まえたぜ。長い長い鬼ごっこもこれでお仕舞いだなぁ。楽しかったかぁ?」

「なぁなぁ譲ちゃんよぉ、そんな血相変えて逃げる事はないんじゃねぇのかい? 俺達はただお譲ちゃんと楽しくお喋りしたいだけなんだからさ~」


 捕まえられた少女は必死にもがいて男達の拘束から逃れようとしているが、力の差は明らかである。

 そんな彼女の抵抗すら男二人は愉快を覚えて嗜虐的に笑う。

 通りを行き交う人々も、道の一角で行われている非日常的な出来事に足を止めて、何事かと遠目から眺め始める。けれど誰一人として、彼女を助けようと近付いてくる者はいなかった。

 被害者側である少女も少女で、周囲の野次馬達に声を荒げて助けを求める素振りを一向に見せない。肩口で切り揃えられた黒髪を振り乱し、懸命に足掻く。


「――、」


 そんな光景を見て一歩を踏み出したのは、本当に気紛れ以外のなにものでも無かっただろう。

 面倒ごとには極力関わりたくないと常々思っている鷹音であるが、その時ばかりは、何故か足が動いた。

 ひとつため息を吐き、身を潜めていた木陰から出るとゆっくりした足取りで少女達の方へと近付く。


「……あん? 何だテメェ」


 鷹音の接近にまず気付いたのは、禿げ頭の大柄な男であった。何の気なしに歩み寄ってくる少年を見て眉根を潜め、怪訝そうな視線を投げかける。

 すると掴まれていた少女も一旦抵抗するのを止め、鷹音を見やる。

 近くで見れば思った以上に整った顔立ちには、尚も苦渋の表情が浮かんでいた。

 彼らと少し距離を空けて立ち止まった鷹音は、刺激させないよう努めて穏やかな声で話し掛けた。


「あー、その……彼女から手を放したほうが良いんじゃないかな? 白昼の、それもこんな往来で堂々と女の子を襲うなんて人、とっくの昔に絶滅したと思っていた訳だけど。貴方達も、警察に通報されて今よりも惨めな生活を送りたくはないだろうに」

「あぁッ⁉」


 状況を収めるために告げた言葉であるが、無自覚に棘のある物言いをしてしまい、逆に禿げ頭の男は琴線に触れられたかのように顔を歪ませた。途端に男の視線が、煩わし気に野次馬を見るものからありったけの害意を含んだものへと変わる。

 その様子に、鷹音は再度息を吐いた。


 こういう輩は往々にして、自分達に歯向かって来る者に対しては高圧的な態度を取る。

 強引な手段を何ら厭わず、暴力に任せて己の力を誇示しようとする。だからこそ鷹音は、普段であればこう言う状況には一切として首を突っ込まないのだが、今回に限っては気紛れが働いたのである。

 禿げ頭の男はわざとらしく大股で鷹音へと詰め寄り、迫力のある顔面で以て威嚇するような眼を飛ばす。


「何だテメェ。ガキが粋がって王子様気取りか? 痛い目見たくなきゃ余計な口出しなんかしてくんじゃねぇ。とっとと遠巻きの見物人に戻れや」

「いや、王子様とかそんなつもりは微塵もないんだけどさ。もしこれが『裏町』で隠れて行われていた暴行事件だったら俺も見て見ぬふりをしただろうけど、わざわざこんな通りの真ん中まで出てこられたんだ。流石に見過ごすのは後々気分が悪くなる」

「……そうか。なら仕方ねぇわな」


 と、おもむろに巨漢は逞しい筋肉を備えた腕を持ち上げ、目に見える程に強く力を込めた。


「俺はな、調子に乗って粋がるガキは大っ嫌ぇなんだ。そう言う野郎はとことんまで殴りたくなっちまう性分なんでな……覚悟しろや、クソガキ」


 そう言って、これから喧嘩を始めようとするヤクザ連中のような構えをとる禿げ頭の男。

 鷹音はチラリと、もう片方の痩身の男を見やった。彼筈っと少女の腕を掴んで拘束しているだけで、こちらには加勢してこないようである。

 さすがに大人二人が同時に襲い掛かってくれば、鷹音とて穏便に状況は切り抜けられない。

 だが、一対一であれば話は別だった。


「まぁ俺もそこまで鬼じゃねぇもんで、せいぜい病院送り程度に抑えといてやるよ。今の内から救急車呼んどいた方がいいんじゃねぇのか?」


 男は悠々と近付く。

 あぁは言っているが、と事んまで暴力で蹂躙してやろうと考えているのは明らかである。ゴキリと首を鳴らし、威圧的に鷹音を見下ろす。

 対して、比較的貧相と言って差し支えない身体を持つ少年は、それでも頬を強張らせる事もなく、泰然と巨漢と相対する。

 そして、静かに口を開く。


「争いごとは嫌いなんだけどね。出来れば暴力沙汰以外で事は済ませられないだろうか」


 あくまでも柔らかく、少年は応じる。

 周囲に殺到する野次馬は増加する一方で、かなりのざわめきがそこには生まれていた。

 先程は冗談半分で言ったものの、流石にもう誰かが警察へ連絡を入れている事だろう。鷹音としても、これ以上面倒な事柄に巻き込まれるわけにはいかないので、ここは早急に事態を収めるべきだと判断する。


 ――男が動く。

 豪快に振り上げられたのは力が凝縮された右の腕。全力で走り込みながら、ただひたすらに拳と言う原始的な攻撃によって鷹音を叩きのめさんとする単純な暴力。

 けれども、速い。振り上げから突き出しまで一秒と掛かっていない。

 構えからして、相手は武術の類の一切を会得していないと想定していた鷹音であったが、この瞬間ばかりは意表を突かれた。

 拳骨が迫る。狙いは違わず鷹音の顔面中央。直撃すれば間違いなく鼻骨が粉砕されるだろう。それほどの力が込められた殴打であった。

 しかし。

 全神経を視覚に集中させていた鷹音にとって、認識する世界の時間は極限にまで引き伸ばされていた。

 真っ直ぐに襲い来る拳に対して、彼が及んだ対処法は、如何にもシンプルだった。

 男の殴打が直撃する寸前、鷹音は重心を右に傾けた。一般の人間では偶然でもない限り発生しないと思われる、数ミリ単位における回避行動。けれども常人と比較して動体視力に優れた鷹音は、その偶然をいとも容易く可能とした。


 斯くして、たったそれだけの行為で決着は付いた。

 全力を込めた打撃を回避された男は、力の慣性に従って前のめりに体勢を崩す。完全に自重を支える事が出来なくなったその一瞬、鷹音の左手が、微かに男の背中を押した。前方に力のベクトルが集中していた為に、彼の身体は更に平衡を保つ事が困難となった。

 自身の力を利用されて前へと転げかけた男は、それでも全身の力を踏ん張り何とか体勢を立て直そうと足を踏み出す。両手をも振り回しながら懸命に直立しようとし――


 直後、派手に鳴らされるクラクションに身を震わせた。


 鷹音によって歩道を突き抜けさせられた男は、転げまいと躍起になった故に、車道へ出てしまった事に気が付いていなかった。

 唐突な身の危険に、しかし呆然と立ち尽くすしか出来ない巨漢に、猛スピードで軽トラックが迫る。


「う……、うわぁぁぁああああああああああぁ―――――――――――――あ⁉」


 刹那の遅れを伴って、男の悲鳴が街に響き渡る。

 けれども彼の巨躯が車によって跳ね飛ばされる事は無かった。絶妙なタイミングで伸ばされた鷹音の手が男のシャツを掴み、寸でのところでグイと後ろに引き寄せたからだ。

 恐怖に顔を歪める巨漢の、文字通り目と鼻の先を軽トラックが走り抜ける。

一瞬、悲鳴や息を呑む音が混じった野次馬のざわめきに、安堵の息が伝播していった。


「……周りを見てないからそうなる。貴方みたいな人は怒ると視野が狭まるから、こんな単純な手に引っかかるんだ」


 男のシャツから手を離しながら、彼をトラックで轢き殺そうとした張本人たる少年は告げる。

 だが、男は瞬間的に体験した絶大の恐怖によって腰を抜かしてしまったらしく、小刻みに顎を震わせながらへたり込んでいた。

 その様子を見て、鷹音は肩を竦める。


「あんまり暴力沙汰にしたくないからって、少しやり過ぎたか。でもゴメンよ、俺だって殴られるのは嫌いなんだ」


 事も無げに頭を掻く少年は、次いでくるりと後ろを振り返ると、唖然として硬直する痩身の男へ視線を投げる。


「ひっ……!」

「怯える前にその子を放しなよ。彼女、痛がってるだろう」


 鷹音が言うと、痩身の男は即座に少女を解放した。そしてそのまま少しの迷いも見せずに、禿げ頭の男を置き去りにして野次馬の波へと逃げ去っていく。

 何とも薄情な人間だな、と内心で呟きつつ、鷹音は呆然自失としている巨漢の傍を離れて、追われていた少女へと歩み寄る。

 周囲に殺到していた傍観者達は、荒事が収束を迎えたと分かると途端に方々へと散って行った。あのように潜在的な好奇心に従うまま端から眺めるだけの人種は、事が収まれば何事も無かったかのように日常へと戻っていく。

 一分も経たぬ内に、街路はいつも通りの喧騒を取り戻していた。

 しかし彼等とは異なり、少女はその場に立ち止まったまま鷹音の顔を見つめてくる。

 鷹音は彼女に話し掛けた。


「怪我は無い?」


 短くそう訊ねると、僅かな沈黙を挟んで、首肯が返ってきた。

 潜められっぱなしだった眉が、緊張を解くかのように緩められる。

 そしてピンク色に染まる小さな唇がそっと開かれ、


「あ、あの……助けてくれて、ありがとうございました」


 華奢な見た目に反しない、高く澄んだ可愛らしい声音であった。

 外見的特徴から推察するに、恐らく鷹音よりもひとつかふたつは年下だろう。サラサラと靡く黒髪を結わえている髪形も、彼女を幼く見せている所以かも知れない。

あどけない印象が強い整った顔立ちに、しかし未だ微かな警戒の色が混じっているのを鷹音は見て取った。

 恐らく、現状に困惑しているのだろう。路地裏に入り込んで男二人組に散々追い回された挙句、全く見知らぬ男に助けられたのだ。現在の状況にまだ理解が追い付いていなくとも当然である。

 鷹音は少し迷った末に、こう口にした。


「ごめんね、怖がらせてしまったかな。……俺は筱川鷹音。別に危ない人間じゃないから安心してほしい訳だけど」


 すると途端に、小柄な少女は何やら驚愕したように目を見開いた。

 信じられないと言った風に鷹音の顔を凝視し、小さく彼の名を反芻した。


「しのかわ……たかね……」


 少女がその名前に何を感じ取ったのかは理解できない。けれども鷹音は、己の名を紹介した事で少女の警戒の網が少しばかり緩んだ事を密かに察していた。

 やがて少女の側も、口を開く。


「私は……紗夜さよ雪村ゆきむら、紗夜です」


 ――土曜日の白昼。

 かつて最強と称されていた機士の少年は、奇妙な縁あって一人の少女との出会いを果たした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る