枢機市
毎週土曜日の午前中は、必ず彩乃の病室を訪れるようにしていた。
それが鷹音自身にとって己の罪悪感を紛らわす事に繋がっていたし、こうして定期的に顔を出して話し掛けていれば彼女がいつか目を覚ますだろうと、そんな浅薄な希望を多少なりとも持っていたからだ。
しかし、鷹音がどれだけ献身的に声を掛けても、彩乃の意識が回復する事は無かった。
担当医師の話では命に何ら別状は無く、所謂「心神を喪失した状態」にあるとの事。
死んでいるわけでは無いと分かっていながら、彩乃の虚ろに染まった力無き双眸を見る度に、鷹音はどうしても想像してしまう。
——もしかしたら彩乃は、とっくに死んでしまっているのではないか。
——彼女の生命は、もう彼女の身体から離れてしまったのではないか。
想像して、直後にそんな可能性を無理矢理に排除する。彩乃は生きている。彩乃の命は今ここにある。常に一定のリズムで鳴り続ける心電モニターの機械音が、鷹音の言葉を裏付けしてくれていた。
部屋の隅から持ち出した丸椅子に座り、静かに彼女の整った貌を眺める。
三年に渡ってまともな食事を摂っていない筈の彼女だが、肉付きはそこまで悪くない。病院側の丁寧なケアのお陰だろう。流石に筋力は昔と比べ物にならないほどに落ちてしまっているだろうが、看護婦の入念なマッサージの甲斐あってそれほどみすぼらしい身体つきには見えなかった。
嫋やかに伸びる細い肢体は華奢で儚く、それもまた美しいと鷹音は感じた。
そこで不意に病室の扉が開く。
「あら、筱川さん、おはようございます。……そう言えば今日は土曜日でしたね。いつもお見舞い、ありがとうございます」
お湯の入った桶とタオルを数枚併せて持ってきた看護婦も、すっかり顔馴染みになってしまった人間の一人である。
胸に取り付けられた名札には『都揺(つゆり)』と書かれていた。
鷹音が椅子から立ち上がりサッと頭を下げて挨拶を返すと、温和な雰囲気の看護婦はベッド近くに備え付けられているテーブルに桶を置いた後、手にしたタオルを当然の様に鷹音へと手渡してきた。
「では、本日も湊波さんの介抱、お願い出来ますか?」
短くそう訊ねてくる都揺ナースに、鷹音もまた、疑問を抱く事なく頷いた。
彩乃が身に付けているのは、入院患者に支給されている簡素な病衣ではなく、彼女自身の所有物と思われる白を基調としたパジャマであった。
鷹音はそのボタンへと手をかけ、ひとつひとつゆっくりと外していき、上半身を肌蹴させる。そのまま両腕を袖から抜けば、眩いほどに白く滑らかな柔肌が露になった。
「よっと……」
上着を丁寧に畳んでテーブルの上に置いてから、彼女の胴体へと腕を回し、優しくその身を抱き起こす。意識が無いとは言え女性の、それも三年も寝台の上から動いていない人間の身体など、鷹音にしてみれば異様なまでに軽い。もう何度も繰り返してきた手順通りに事を進める。
十分に絞って水気を抜いたタオルで彩乃の身体を拭く。
微かに汗ばみしっとりとした感触を持つ彼女の肌に触れると、やはり筋肉の衰えを感じた。
腕や背中、腹部にはじまり、腋の下や乳房、首筋までも丹念にタオルをあてがう。
自分が眠っている間に年下の男から何十回と裸体を見られたと知れば、彩乃は盛大に羞恥を露わにするだろうが、それもまた、彼女が目覚めてこそ見る事が出来る姿だ。そう割り切って、少年は彼女の介抱役を担い続ける。
こんな光景、彩乃の家族に見られれば卒倒されてしまうかも知れないが、まだ彼女と共に戦場を駆けていた頃、ふと聞かされた事があった。
――彼女の両親は、どちらも死廃領域の探索任務を主な仕事とする支機官だったそうだ。毎月の如く神屍の跋扈する荒廃した領土へと踏み入り、神屍の生息領域や分布状況の調査、残留資源の回収と言った作業をこなしていたらしいのだが、不幸にも五年前……彩乃が一八歳の時に神屍に襲われ亡くなったのだと言う。
そのせいで、この病室へ定期的に見舞いへと来る者など鷹音くらいしかいない。
鷹音がこうして彩乃の介抱をしている間、他の誰かが病室へ入って来た事など一度として無かった。
しかしそれは、とどのつまり彼女の覚醒を心より望んでいる者が少ないと言う事だ。その事実に少しばかりの寂しさを覚える。
上半身を拭き終え、再び彩乃の身体をベッドに横たえた鷹音は、流れる様な動作でパジャマのズボンを脱がせた。長期入院用の簡素なものとは違う清楚な下着や、忌まわしい程の艶めかしさを感じさせる細脚が鷹音の目を刺激する。
最初の内は、彩乃の一糸纏わぬ肢体を見れば恥ずかしさが沸き起こり、まともに介抱など出来ていなかったのだが、さすがに三年近くもも続けていれば慣れてしまった。
少し力を込めるだけで折れてしまいそうな腕も、さらさらと流れ落ちる髪に隠れる首筋も、触れれば仄かな熱を伝えてくる背中も、しなやかに伸びる太股も、全てが鷹音にとっては汚す事の出来ない至高の代物だ。
優しく、ゆっくりと、割れ物でも扱うかのように大切に触れる。そしていつも思う。
――きっと自分の中で、湊波彩乃と言う人物に対する価値観は明らかに変わってしまったのだろう、と。
もしも。
仮に彩乃が目覚めたとして、かつてのように、共に戦場を駆け巡り神屍と戦う事が自分には出来るだろうか。
彼女の身体を針の先ほども傷付けてはならないとさえ思ってしまっている今の自分に、それが出来るだろうか。
そんな事を考え、同時に浮かぶ
獅子の姿を象る四足獣の巨大な神屍によって容易に食い潰された彩乃の姿。
出撃中の機士は、例え心臓を穿たれたとしても決して死ぬ事は無い。しかし戦闘の最中に受けた痛みや精神的ダメージはありのままに本人の心へ裂傷を刻む。
乱立する牙を突き立てられ。
尋常を超えた力で圧搾され。
凄まじいまでの激痛が全身を駆け、けれども死ぬ事を許されなかった彩乃の精神は、あの一瞬で完全に崩壊した。
自己を喪失し、植物人間同様の有り様になった。
光を失い虚空を見つめるかつての相棒の瞳を眺めるたびに、鷹音は重い罪悪感に苛まれる。
何が意のままに神々を屠る事の出来る最強の機士だ。
大切な相棒一人まともに守れない者など、無力極まりないではないか。
自分に力に酔って、得物さえ握れば自分はどんなに強大な敵であろうと倒せるなどと盛大な錯覚をして。
結局自分は、本物の〝絶対的な存在〟を前にすれば無様に震え、切っ先ひとつ動かす事が出来なかった未熟者だ。人類が最後の力を振り絞って創り出した盤上で踊る、滑稽な存在に過ぎなかったのだ。
「彩乃さん……俺さ、」
――いい加減に気持ちの整理を付けようと思っているんだけど、良いかな。
最後の台詞だけは胸中で呟くに留めておいた鷹音は、濡れたタオルを手にしたままに、彩乃の身体に触れる。そして、柔らかい肢体から伝わる温もりを指先で感じながら、彩乃の首筋へと顔を近付け、その絹のように滑らかな素肌にそっと唇を這わせた。
※
彩乃の介抱を終えて病室を出た鷹音は、受付で看護婦に一言挨拶をしてから病院を後にした。相変わらずの快晴を見せる空を仰ぎ見つつ、すぐ傍のバス停には行かずにそのまま徒歩で坂を下り始める。
鷹音の住むアパートや彩乃の入院する病院がある街は、十年前に大規模な土地開発によって新たに造り出された新興住宅地を中心に成り立っており、『
かつては人や物で溢れかえっていた東京の街であるが、世界が神屍の侵略によって破綻に陥っている影響を如実に受け、二〇四〇年代後半、急激な財政悪化を迎えた挙句に大規模な恐慌状態へと嵌り込んだ。
その結果、街は瞬く間に衰退していき、経済界は異様なまでの波乱を経験する事となった。未だこの東京が、23区を始めとする数多くの名称を持っていた頃の話である。
そんな東京を財政破綻から救ったのが、当時まだ壊滅的被害を受けていなかった京都の外資系企業『枢機電力』だった。
先方の狙いとしては、莫大な民間資本を投資し全面的なバックアップを約束する事で中小規模の一企業でしかない自分達の仕事場をどうにか拡大しようと言うものだったのかも知れない。
しかし今思えば、国外の大企業にマーケティングシェアの殆どを奪われていた当時の世情に於いて地方の弱小企業が大都市の政治を丸ごと肩代わりするなど、有り得ない話だった。
けれどもその頃は、『外は神屍の侵攻、内は財政の悪化』と逃げる道も隠れる穴も見つからなかった混沌の時代である。頼れるものなら何であれ頼りたいという思想に行き着くのは、そう難しい事では無かった。
結果として、東京は枢機電力に身を委ねる形となった。
想定外だったのは当該企業のブランディング力の高さである。
採算を度外視し、崩壊間際とは言えかなりの規模と人口を有していた都市を丸ごと買収した枢機電力は、はじめに東京西部の都市開発へと着手した。
具体的には、無人の家屋やシャッターの閉まった商店街などに提携関係を結んでいた電気会社や家電メーカーからありったけの電具を搬入。夥しい数の電球や電飾を取り付け、異様なまでに煌々とした明るい街へと変えたのだ。
沈んだ空気が漂っていた当時に於いて、その幾万の光源は気分を晴らす所以ともなった。
殆どの電力会社が看板を下ろし、電気がかなり貴重な資源となった今でも、この街が何不自由なく生活を送れているのはその為だ。
今も鷹音の視界には、等間隔で延々と立ち並ぶ街灯が映っている。あれも夜になれば全てに光が灯り、明々とした空間を作り出す事だろう。
路肩に立つ電柱には、このような広告も張り付けられていた。
『住民の過疎化により急激な衰退傾向にある旧町田市を、枢機電力が新たに買収する事が発表! 大々的なバックアップを約束された旧町田市は今後、一三番目の経済特区として大規模な再生事業が行われる模様です』
人類の理解を超えた者達の侵略は、途轍もない速度で人々の生活環境に影響を与えている。
日本の東西を分断する位置にある京都は数年前に神屍の蹂躙によって壊滅、それにより西日本側からの物流が途絶え、まともな資源や食材を確保する事が困難になりつつあるのが現状だ。
その為、人々はより快適な環境を求めようと度重なる転居を繰り返すようになった。
しかし東京は、今なお自然が豊富に残っている岩手や高知などとは異なり、人口の集中に比例して物の入りが見られる都市だ。
他方面からの取入れを行わない限りは、自発的な生産と言う面で非常に不利な条件下にある。
いくら東京の住民が東京内部で転居を繰り返したところで、結局はイタチごっこにしか成り得まい。
広告にあった旧町田市のように、無駄な過疎地域を生んでしまうだけだ。そして万が一、残存土地の最も外周に位置する街から人が消えれば現状維持もままならなくなり、いつか必ず神屍の侵入を許す事に繋がる。その果てに待っているのは、人間の生活領域の減退に他ならない。
機士であったが故に、一般人よりもその事実を重いものとして認識している鷹音は、そうして電柱の広告を冷めた目つきで一瞥した。
また、鷹音の歩く街路の周囲には、つい最近になって建造されたと思われる真新しい物件が幾つか見受けられる。だがそのどれにも居住人はいない。土地開発の末に三番目の経済特区となって以降、取り敢えず空いた土地には家を建築し、空物件として常に用意しておくと言う姿勢が常となったからだ。
一見すれば単なる新興住宅街。
しかし不意に〝裏〟を見返せば、異質な静けさを纏うゴーストタウンにも見えてしまう。そんな一種の裏面性を有しているのも、この第三特区の特徴と言える。
――否。それを一概に特徴と定義して良いものか。
街の至る所に影や静寂が存在すると言う事は、その分だけ闇に棲まう悪意や害意も存在すると言う事だ。
ちらりと横合いに目をやれば、家屋と家屋の間隙に出来た細長い路地が見える。
その暗がりから、何者かは知らないが複数の人間の醜い視線が投げられている事を、一般市民に比べて鋭敏な感覚を持つ鷹音は察知していた。
恐らくはか弱い女子供を狙う連中だろう。
まともな働き口も見つけられず、最低限の生活環境の維持すら危うくなった者は、ああして通りすがりの者から金目の品を奪うと言う選択肢に走る。
一時的に神屍の侵略を食い止める事が出来ているとは言え、注意すべきは〝外〟のみに限らないのである。
念のため、無意識な警戒を張り巡らせておきながら、徒歩で街の中心部を目指した。
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