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侵喰の歴史
自分の絶叫で目を覚ますのは、何度目であろうか。
全身を流れる寝汗に不快感を露わにしつつ、鈍い痛みが走る頭を押さえる。顰めた顔で窓の外を見れば、既に日は昇り切っているらしく、カーテンの隙間から豊かな陽光が差し込んでいる。
頭を振ってベッドから出る。
激しい動悸を訴える心臓を深呼吸によって鎮めながら勢い良くカーテンを開ける。途端に質量を増した朝日は鷹音の朧気だった意識を容赦無く刺激した。
ここ暫くは見なくなったと思っていた夢である。
以前は毎日のように見て、
ふと振り返れば、住み始めて二年以上が経つ自分の部屋が目に入る。
一八歳の高校三年生が暮らすにしては違和感を覚える程に、質素で閑散とした一室。
私物と言える私物は一切として存在せず、シングルサイズのパイプベッドに最低限の衣類を収納したカラーボックス、申し訳程度に最新型のテレビがあるのみだ。
奥にはキッチンスペースがあるものの、冷蔵庫にはあまり食材は入っておらず、調理器具もフライパン程度しかない。
隅々まで見ても生活感の薄い空間であった。
気紛れにテレビの電源を入れる。
丁度朝のニュース番組が始まったところで、スーツに身を包んだ男性アナウンサーが原稿を読み始めるタイミングだった。
『本日、最初のニュースをお伝えします。総理大臣の諮問機関である神屍対策本部は本日午前九時、旧北海道地区で報告された神屍急増の対策案として、当該区域への機士及び支機官の増員を要求。赤城首相へ直接的な申し立てを行う事を表明しました。これを受けて赤城首相は、「出来るだけ真摯に現状を受け止め、誠実な対応を心掛ける」と発言。早急に岩手エリアの住民に対して呼びかけを行い――』
『ヨーロッパの各地域で今なお続いている信仰団体の暴動ですが、地元警察の手には負えず、各国政府は自衛隊の派遣を決断。これまでのおよそ四倍の人員を投入したうえで事態の収束に努めるだろうと思われます。また、先月一七日に起きたヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂における襲撃事件ですが、犯人グループのリーダーを含めた構成員五名が捕縛され、現在は事情聴取の段階にあると――』
『神屍の脅威に怯えながらの暮らしはもう嫌だ、平和で安全な生活を送りたい! ……そんな思いを抱いているそこのアナタ! 我々「
『先日、死廃領域を訪れた機士により、支機官二名の死体が発見されました。現場からの報告によれば、彼等の遺体があったのは旧島根エリアの北西部、所謂「未踏領域」であったらしく、遺体には十数か所にも及ぶ咬傷があった事から「獣種型」の神屍に襲われたと推定されます。数年前まで精力的に活動をしていた「
プツリ。
幾つかチャンネルを回して番組を流し見ていた鷹音は、〝その単語〟を聞いて反射的に電源を切った。
昔の彼にとっては誇りとも思え、しかし今の彼にとっては全力で逃れたいとさえ思わせる言葉。
固く目を瞑り、逆立つ神経をゆっくりと抑える。
「……大丈夫。大丈夫だ」
そう自分に言い聞かせ、心の平静を取り戻す。
そのままキッチンへと向かい、冷蔵庫から牛乳のパックを取り出して透明なコップに注ぐ。
鷹音は習慣的に朝ご飯を食べない。口にするものと言えば専らこの牛乳一杯である。
昔から少食な方ではあったのだが、三年前の〝あの出来事〟以来、一層食は細くなったように思う。年の割に身体が貧相なのはその所為だ。
その後は軽くシャワーを浴びて汗を流し、身体を清潔にする。
衣服を納めた箪笥からスポーツブランドのパーカーとジャージを取り出し、身に纏う。
そうして支度を整えた少年の貌には、何処か後ろ暗い影が浮かんでいた。
※
秋も終わりに近付き始め、肌に僅かな寒気を覚えるようになった、そんな時季。
鷹音は住居としているアパートを出て街の中心部へと向かう。
ここ一帯は都心から少しばかり離れた郊外と言う事もあり、基本的には人気が少ない。
彼が在籍する高校もまた、電車とバスを乗り継いでようやく到着するような場所にある。
しかし今日の目的地は学校では無い。駅へと繋がる丁字路を、いつもであれば右に曲がるところを今日は左に折れる。
暫く続く下り坂を一定のペースで歩く。時折吹く乾いた風が鷹音の長く伸びた前髪を揺らした。
周囲の環境を見る限りでは、まさか人類が神屍などと言う異形の侵略者に脅かされているとは到底思えない。
主婦達の井戸端会議は聞こえるし、子供達の笑い声も普通に飛び交う。大人は当然の如く会社に勤めて仕事をこなし、学生はその本分を全うすべく学び舎へと通う。
鷹音の視点から眺めてみても、そこにあるのは紛れも無い平和そのものであった。
しかしそれはあくまでも、本質から切り離された額縁の中の景色でしかない。
ふと外に目を向ければ惨々たる光景が広がり、今か今かと人類滅亡の針が動き続けている。
誰しも、真実から目を背けているだけに過ぎない。
偽りに染まった虚構の平和と言う滑稽な茶番劇を演じているに過ぎない。
それを自覚して尚、人々は安寧を求めようとしている。
壊滅や絶望と隣り合って生きていかなければならないこのご時世で、彼等に与えられる救いなど、自己暗示の他に確定的なものは無かった。
とは言え、人類が神屍の脅威に後ろ向きなのは何も最初からでは無い。
そうなったのには当然理由がある。
神屍と思われる生命体が初めて確認されたのは、二〇二〇年の事だ。
当時はこの東京にて世界中を巻き込んだ大規模な競技大会が行われ、日本と言う国は盛大な熱狂の下にあったと聞く。
確認場所はメキシコ南西部の森林地帯。動物狩りに森を訪れていたハンター達によって目撃された。
当初は目撃情報が非常に曖昧だったせいもあり、さしたる騒動にはならなかった。
だが、それから四年が経過した二〇二四年、突如として神屍は人類へと牙を剥き始めたのだ。
漆黒の体躯を持つ化け物達がどうして人間を襲うのか。
そもそも彼等は一体どこからやってきたのか。
奴らを屠る術は無いのか。
神屍に関する情報を人類側が得る頃には、世界の総人口はかつての六割にまで減少していた。
それほどまでに、神屍の侵略は圧倒的なほどだった。
かつての鷹音のように最前線に立って神屍と戦う機士や死廃領域の探索を主な任務とする支機官と言った役割を担う者が現れたのは、神屍が人間の住む領土を汚し始めてから、およそ三〇年近い月日が経ってからの出来事であった。
その時、世界は既に壊滅と混沌に溢れ返っていた。
神屍には人類が開発した銃や大砲と言った兵器の類は一切として通用しない。
たった一度だけ行われた防衛戦争では世界中の自衛隊が総動員され、一斉飽和攻撃すら決行されたものの、神屍の侵攻を食い止めるには至らなかった。
ただ無駄に戦力を消耗するだけと分かっていながら人類は尚も立ち向かった。
一七世紀初頭から神聖ローマ帝国にて勃発した三〇年戦争などの方が、まだ可愛げが感じられるだろう。
ヨーロッパ大陸を巻き込むだけに留まった彼の戦争とは一線を画し、現在においては嘲笑と戒めを込めて『
石油や天然ガスが枯渇した今では、電力の大半を太陽光や水力といった自然エネルギーに頼る事で、生活を成り立たせている。
神屍が出現する以前では有り得ない話である。
皮肉にも、神屍によって世界総人口が四億を下回った現在の世情だからこそ、破綻する事無く安定した日々を保てているのである。
そんな世界にあって、機士とは人類最後の砦とも言うべき存在だった。
二〇五二年に米国の研究者によって開発された〝とある装置〟によって人類は神屍と戦う術を得た。
それによって、侵略者達に対して無様なまでに非力だった人間は自分達の領土を取り返すべく立ち上がり。
けれど一五年が経過した今でも、奪還出来た土地は世界で見ても片手の指で数えられる程度。
精々、これ以上領土を奪われないために侵攻を食い止めるよう努めるのが精一杯だった。
しかし。
今や世界中で千人にも及ぶとされる機士達は、人類の領土の奪還に対して完全に諦観している訳ではない。
だからこそ彼等は日々、武器を携え、雄叫びを上げて漆黒の化け物に立ち向かっていくのだ。いつか必ず、人類の栄華を取り戻せる日が来ると心より信じて。
――かつての鷹音も、そんな希望を持っていたかも知れない。
若くして機士となり、地に堕ちたとは言え神話に語られる神々を意のままに屠る事が出来る最強の戦闘者と謳われ。いつか自分の手で神屍から人類を救うのだと、馬鹿馬鹿しいと思いながらもそんな願いを抱き続けて。
そして突き付けられた。
人は、自分は、筱川鷹音というひとりの人間は、何と無力な存在なのだと。
以来三年、少年はまともに機士としての任務を果たしていない。
気紛れに戦場へと降り立ち、剣を振るう事はあっても、一度の戦闘で引き揚げてしまう始末。
死闘の世界から逃げる事もなく、かと言って一般市民の立場に戻る事も出来ず。
日々を茫洋と感じながら、中途半端な心持で惰性的に生きている。
それが今の鷹音であった。
停留所からバスに揺られる事、四〇分弱。
幹線道路から少し外れて丘陵地帯を巻くなだらかな上り坂を過ぎれば、やがて前方に巨大な建造物が姿を現す。
現在の日本国内で最も整った医療設備を有していると評判の、某民間企業によって運営が成されている高度医療機関だ。
正門前のバス停で降り、既に顔馴染みになっている守衛さんと軽い挨拶を交わして敷地内へと入る。
広大な面積を誇る駐車場を過ぎ、装いとしては格式高いホテルを思わすロビーの受付で、看護婦にここを訪れた理由を説明する。とは言え、彼女とも何度となく同じようなやり取りを繰り返しているため、多くを言わなくとも顔パス同然で通らせて貰えた。
鷹音が行こうとしているのは九階の一室である。そこで床に臥せっているある患者を見舞うために、彼はこの病院を訪れたのだ。
エレベーターに乗り込み、目的の階層を目指す。
九階フロアは長期的な入院を余儀なくされている患者が集められているため、他の階と比べてもかなり人気が少なかった。
無人の廊下を静かに歩く。
やがて突き当りにまで達すると、大きな横開きの扉が目に入って来た。
一般的な人の目線よりも少し高い位置に取り付けられたネームプレートを一瞥する。
『湊波彩乃 様』
チクリ、と。胸に微かな痛みが生じる。
この場所に立つ度に、いつも感じる小さな痛み。
それは決して大きくなる事も小さくなる事も無い。いつも同じ痛みを鷹音に与えてくる。
ゆっくりと深い息を吐いて心の内を整える。
ドアノブに手を掛け、音を立てないよう慎重に扉をスライドさせる。
途端、仄かな熱を宿した空気が少年の肌を撫でた。
鷹音の住むアパートの間取りと同じくらいの広さを持つ病室だった。窓際には彩鮮やかな花が生けられ、優美に飾られている。恐らく看護婦や見舞いに来た者が、定期的に花瓶を差し替えているのだろう。この部屋に咲く花はいつだって、綺麗で凛と揺らめいていた。
室内へと足を踏み入れた鷹音は、穏やかな足取りで部屋の中央へと近付く。
そこにはかなり大きいサイズの介護型ベッドが備え付けられており、寝台の上にはひとりの少女が横たわっている。
三年前と比較してすっかり伸びきった色素の薄い髪。
清潔な上掛けから覗く肌は陶器の如く透き通るような白さを宿しているものの、やはりどこか病的な印象が目立つ。
嫋やかに伸びる肢体に力は感じられず、開かれた瞼の奥に潜む瞳は光を失い空虚に前を見据えるばかり。
常に半開きとなっている桜色の唇からは今にも言葉が漏れ出て来そうで――しかしそれは酷く甘い望みなのだと何度も思い知らされた。
湊波彩乃は決して目を覚まさない。
三年前のあの出来事から、彼女の魂は今も尚、どこかの世界を彷徨い続けている。
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