ありふれた悲劇


 今や世界全土を見ても何百人と増えた機士の中でも、間違いなく一等の実力を持つ彼等にしてみれば、自身の何倍も大きな体躯を持つ黒竜の体力を削る事はそう困難な事では無かった。

 一時間程度で戦闘は終了し、今は前線から離脱して作戦エリアの外縁部に位置する電波塔の中で休息を取っていた。


「……うん。周囲三キロ圏内に敵影無し。今日の戦闘はここまでかなぁ」


 彩乃が、手首に装着した小型の専用端末から投影される矩形のホロブラウザを眺めながら、頷いた。

 鷹音も含めてすべての機士に携帯が義務付けられている腕時計型のウェアラブルデバイスである。機能のイメージとしては映画館などで用いられている投影機に近いだろうか。

 側面に取り付けられたダイヤルを回せばレンズを通して光が投射され、空間にホログラムが形成される。

 薄青に染まる半透明のその画面は、指で触れればタッチパネルの様な機能を果たし、いま彩乃がしているみたく、現在位置を中心とした死廃領域の地図を表示する事で神屍の位置を知る事も出来るため、機士にとってこの機器は不可欠な代物だった。

 ダイヤルを回してウインドウをおさめた少女は、すぐ傍の階段に腰掛けて同じように地図を見ていた年下の相棒を振り返る。


「どうする、鷹音くん。別エリアまで移動すればまだ戦えると思うけど、流石に今日はやめとく?」


 呼び掛けられた鷹音は彩乃の言葉を受けてか地図の表示エリアを南西方向に移動させる。

 すると、小さな赤い点がポツリポツリと見受けられるようになってゆく。この赤く輝く点こそが、神屍の位置を示しているのだ。

 少年は暫し沈黙した後、ウインドウを閉じ、口を開く。


「……やめとこう。幸いあっちには別働隊の機士が何人かいる。別エリアの標的は別エリアの機士に任せるのが道理だよ」


 そう言って立ち上がり、壁に立て掛けていた青鉄・水脈を腰の剣帯に取り付ける。

 ガシャリと音が鳴り、慣れに慣れた重みを感じつつ窓の外を見やる。


「それにもうすぐ三時。そろそろオペレーターの華嶋かしまさんから帰還命令が来ると思う」

「そうだねぇ。私もいい加減に眠くなって来ちゃった。明日も学校だし早く寝ないとね」


 その言葉通り、一応品を弁えてか口許を手で押さえて小さく欠伸を漏らす彩乃。

 ホントこの人はどんな時でもマイペースだな、と内心で呟き、外へ出るべく階段を降りる。

 外では今も絶えず雨が降り続いているが、どれだけ濡れようと彼等が風邪を引く事は無い。機士の身体とはそういうものだ。


「そういえばさ、鷹音くん」


 不意に、後ろを付いて来ていた彩乃がそう口にした。


「特務の件で、上からまた幾つか話が来てるって。今は旧多ふるたさんが内容を確認してる段階だけど、もうすぐしたら他の皆にも話が回るんじゃないかな」

「……分かった」


 振り返る事なく少年は頷く。


「でもまぁ、今の日本は土地の七〇パーセント近くが死廃領域になってる訳だけど。今さら俺達が未踏領域に出張っても、意味ないんじゃ?」

「そんな事ないわよ。支機官さん達の話じゃ、旧京都エリアはもう少しで奪還できるかも知れないんだし、私達機士が頑張らなきゃ誰が頑張るのよ」

「奪還出来たところで、とっくに神屍の住処になった土地をまた人間が住めるようにするには、膨大な労力と時間が必要なんじゃないかなぁ……」

「住める場所が増えるに越した事はないでしょうに」


 現在、神屍の侵攻を受ける事無く安全に人々が暮らせている場所と言うのは、日本で見た場合は岩手、東京、兵庫、高知、長崎の五つのみとなっている。

 世界全土で見ればアメリカやヨーロッパと言った主要国の都市圏は総じて無事であり、残った人類はそれら限られた土地で日々の生活を送っている。

 とは言え完全なる安寧を迎えられているというわけでは無く、常に神屍が踏み入って来る脅威は存在した。


「でも、日本の機士総数は現時点でおよそ三〇〇人。対して神屍は無限に生まれ続けてる。きっと数年も経たない内に死廃領域は拡大だろうし、結局は差し引きゼロな訳だけど」

「もうっ、すぐそうやってダメな方向に考えるの、鷹音くんの悪いとこだよ!」

「むぎゅ⁉」


 あくまで冷めた姿勢を貫く少年の頬を、不意に彩乃が両手で挟み込んだ。


「鷹音くんのそういう現実的なところ嫌いじゃないけど、あんまり悪い事ばっかり考えてると、幸せがどこかに逃げちゃうよー。ほらほらー」

「むぐ……や、やめてってば……」


 強引に鷹音の頬をこねくり回す彩乃。

 まるで弟にするような行為だが、実際彼女からすれば、目の前の少年は弟も同然である。

 いくら最強の機士と呼ばれていようと、彩乃にとって鷹音は、可愛い年下の男の子でしかないのだ。

 散々遊んだ彩乃が不意に両手を止め、今度はぐっと顔を近付けてきた。

 端麗な貌が至近に迫り、思わず顔を逸らそうとする鷹音だが、頬を挟む両手がそれを許さなかった。

 一転して柔らかな笑みを湛えた少女は、優しい声音で言った。


「大丈夫だよ。どんなに叶う見込みが薄い事でも、諦めずに頑張ってればきっと望みは実現できる。まさか鷹音くんも、いつか神屍が絶滅するって本気で思って戦ってる訳じゃないでしょ?」

「……それは、まぁ」

「それでも毎日ずっと戦い続けてる。それって心のどこかで、少なからずそう言った願いがあるからなんじゃないの? 希望を持つ事すら馬鹿馬鹿しくて、でも希望を持たなきゃ生きていけないこの絶望的な世界で、鷹音くんの戦う理由は何だった? 前に一度、教えてくれたよね」

「……、」


 刹那の逡巡の後、少年は言葉を吐く。


「……俺達人間から永久に平和を奪った神屍に、その罪を贖わせるため。ほとんどの機士が掲げている〝神屍の絶滅〟とは少し違うよ」


 俯く鷹音に、それでも、彩乃は言う。


「根っこのところには人類の救済があると思うんだよね、鷹音くんの願いには。何の罪も無い人達を神屍の脅威から救いたいから戦う。それもまた一種の願いだって思うなぁ」


 柔和な雰囲気を纏って笑う少女は、いつもこんな感じである。

 剣を握り神屍と対峙すれば素晴らしい強さを見せてくれる彼女ではあるが、基本的にはマイペース極まりない。

 神屍に食い荒らされて凄惨たる運命に立つこの時世に於いて、彩乃のように絶望や失意と縁遠い性格を持つ人間はかなり少数派だ。

 希望を捨てずに己が力で人の世を取り戻そうと奔走する機士や支機官の中でだって、ここまで世情に楽観的な者はそういまい。

 鷹音は時折、不意に知りたくなる。

 この湊波彩乃という人間が戦場に立つ理由を。

 何故、如何なる理由があって彼女は神を屠るという咎を背負い続けるのか。


「……、」


 けれども少年が、実際に問いを発した事はない。

 いつか必ず、彼女自身の口から明かされる事を信じて、待ち続ける。

 ――とにかく今日はもう引き上げよう。

 鷹音がそう口にしようとした、瞬間の出来事だった。


 ガアアアァァンッッッ‼ と言う人間の可聴領域を超えるほどの轟音が襲った。


 先ほど相対した黒竜の咆哮よりも凄まじい大音量。

 吹き荒れる暴風から顔を庇いつつ、鷹音は瞬間的に現状把握に努めた。


(神屍の急襲……⁉ いや、周囲三キロ圏内に反応は見られなかった。だとしたら、支機官に支給されている鉄鋼手榴弾の誤爆……それも違う。機士と神屍の戦闘領域に支機官が侵入する事は規定違反の筈。だとしたら……)


 二秒の内にあらゆる可能性を想定し、直後にそれら全ての可能性を排除した鷹音は、次に背後に控えていた相棒が無事かどうかを確認すべく、振り返る。

 そして唖然とした。

 目の前に広がっていたのは、ただひたすらの壊滅だった。天井が消え、階段が砕かれ、壁が崩落している。

 まるでその一箇所だけ何かに食い破られたかの如く、荒々しい破砕の痕跡を残してぼっかりとした空虚な空間がそこにはあった。

 壁を失った所為でいっそ開放的となった電波塔は、外を臨めば都合七階分の高さのおかげで死廃領域をかなり遠くまで見渡す事が出来た。

 けども鷹音に、そんな景色を見る余裕など皆無だった。


「……彩乃、さん?」


 心より信頼する女性機士の姿がどこにも見当たらない。

 先刻の衝撃を受けて吹き飛ばされたか。もしくは咄嗟に回避しようとして外へ身を投げたか。

 鷹音が崩落現場の淵に至り、地上を見下ろそうと身を乗り出した、その時。

 ガゴンッ、という不吉な音と共に、電波塔全体が激しく揺れた。

 突発的な衝撃による崩壊を受けて、建物の支柱が数本へし折られたのだ。

 その所為で電波塔は直立する能力を失い、徐々に傾き始める。


「くそッ!」


 鷹音は刹那の判断で、自ら宙へ身を躍らせた。

 あの場に留まり続けていれば、間違いなく塔の倒壊に巻き込まれてしまう。それを避けるために、彼は地面へ激突する痛みを受け入れた。

 地面を何度も跳ねながら、懸命に衝撃を体外へと逃がす。

 最低限、胸と頭部だけを腕で覆い、瓦礫の散乱する荒地を転がった。

 傷の一切を受けないとはいえ、並の機士であれば全身の痛みに苦しんで動けなくなるほどの無茶な行為であった。しかし特殊な訓練を受けている鷹音は、肩を僅かに痛めた程度におさまった。

 僅か数メートル離れた位置に、電波塔は崩落した。

 腹の底を刺激してくる振動と轟音、濛々と立ち上がる土煙。それら全てを無視し、少年は周囲に視線を巡らせた。

「彩乃さん! 無事なら返事を! 彩乃さんッ‼」

 必死に呼びかけに、しかし応じる声は無く。

 早鐘を打ち始める心臓の脈拍を鬱陶しく感じながら、鷹音は何度もパートナーの名を呼んだ。 

 呼ぼうとして――――止めた。


 止めざるを得なかった。

 鷹音は見てしまったのだ。崩落した塔の瓦礫を踏み砕き、周囲を睥睨するかのごとく猛然と佇む一体の神屍を。


 見た事も無い姿を成す神屍であった。

 まるで古代ギリシアの神話に語られている獅子神を連想させる逞しい巨躯。四本の足で地に立ち、背部には何やら棘のような異質な突起物が幾つも伸びている。

 鷹音の知識にあるありとあらゆる神屍と似通った特徴を持たず、けれどもやはり全身はどこまでも黒々と染まり、唯一紅に輝く双眸は〝あれ〟が紛れもなく神屍なのだと思わせる。

 獅子を象る神屍と、目が合う。

 瞬間、少年の身体にブワリと冷や汗が浮かび上がり、金縛りにあったかの如く硬直した。


 そして悟る――何をどう足掻いたところで、あの神屍には敵わないと。


 鷹音がもし、機士になったばかりの新米であったならば、神屍の脅威を底の底まで理解していない馬鹿であったならば、ここで得物の柄を握りなおし、無謀を無謀とも思わず特攻していただろう。

 しかし。

 当代最強と呼ばれるほどの実力者であったからこそ、鷹音は「勝てない」と判じた。

 どこまでも鋭い真紅の眼光。

 あの瞳に睨まれていると、やはり神屍は人類の栄華を根底から奪い去った存在なのだと改めて理解させられる。

 刃の切っ先を向ける事が、どれほど罪深く取り返しのつかない行為なのかを改めて認識させられる。

 喉が、

 唇が、

 脚が、

 全身が、

 否応無く恐怖を受けて震える。

 脳が次の行動選択を完全に放棄している。

 逃げるか、武器を構えるか。

 最低限の二択ですら、今の鷹音には判断のしようが無かった。

 まるで見えない糸で全身を絡め取られているかのような錯覚に陥る。そしてその糸は、鷹音が少しでも動けば目の前の神屍へと振動を伝え、即座に彼の命を刈り取りに来るだろう。

 ――と。

 不意に鷹音の目は、あるものを捉えた。

 それは獅子を象る神屍の、漆黒の髭に覆われた巨大な口許。その口内より覗く、何やら白く染まる棒状の〝それ〟。


「――あ」


 気付いた。

 気付いてしまった。

 少年にとって見慣れに見慣れた、信頼する相棒がいつも腰に下げていた一振りの得物。

 少年の愛用する青鉄・水脈と同じく柄から刀身に掛けて数本のラインが刻まれただけの、無骨なデザインを見せる機械直剣。

 『白鉄しろがね雪脈せつみゃく』。

 そして、新雪の如く眩い白を湛える直剣の柄を握る、女性のものと思しきほっそりとした腕。


「あ……、あぁ」


 鷹音の視界が、激しく明滅した。

 目の前で起きている状況を受け入れたくなくて、脳が本能的に情報を遮断しようとしたのだ。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼‼‼」


 少年は吠えた。けれども、結末はあまりに虚しく。

 グジュリ、と。何かが潰される音が彼の耳朶を突き刺した。


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