-結- 答え合わせ

 開け放たれた窓からは、寒さを孕んだ秋の風が吹き込んでいた。

 柔らかな風が、テーブルの上に飾られていた花を優しく揺らす。毎週土曜日、いつ来ても綺麗な花が生けられている事を、鷹音は少しだけ不思議に思っていた。

 彩乃の両親は支機官としての任務中に命を落としている。三年近く入院している彼女を見舞う者など、自分以外にはいないのかも知れないと。

 そんな事を勝手に思っていた。


「……、」


 紗夜は何も言わず、鷹音の顔を見つめていた。

 鷹音も彼女に対して何を言う事も無く、静かに歩み出し、彩乃の横たわる寝台へと近寄る。

 儚げな雰囲気を纏い、ゆっくりと呼吸を繰り返す女性を、鷹音は見下ろした。紗夜の視線も、彼から彩乃へと落ちる。

 暫し、無言の間が病室を満たす。やがて紡がれる言葉があった。


「……看護婦さんから聞いてたの。お姉ちゃんが入院し始めた頃から、毎週必ずお見舞いに来る人がいるって」


 紗夜の顔は穏やかだった。

 穏やかに、虚ろの瞳を浮かべる『姉』を見ていた。


「だから筱川さんの事は、名前だけ聞いて知ってたんだよ。いつか会えるかなってずっと思ってたんだけど、筱川さんがここに来る土曜日は私、いつも外せない予定があったから」

「……だからあの時、俺の名前を聞いて驚いてたんだね」


 紗夜が暴漢二人に襲われ、鷹音がそれを助けた後。

 彼女に対して名前を告げた鷹音に、紗夜は少しだけ、目を見開いていた。

 鷹音の言葉に、紗夜は少しだけ苦笑を浮かべる。


「まさかあんなところで会えるなんて思ってもなかったよ。もしかしたら同姓同名の違う人かなって思いもしたけど、機士だって分かって確信したかな」


 思いもよらない運命の妙に、鷹音も思わず苦笑したくなる。


「君は、彩乃さんが機士だって事を知ってたのか?」

「うん。まぁ、全部知ったのはお姉ちゃんがこうして入院した後だったんだけどね。たぶん監理局の人だと思うんだけど、私がお見舞いに来てた時に鉢合わせちゃって、そこで色々と聞かされたよ」


 その言葉を聞いて、鷹音は少し不審に思った。

 機士に関する個人情報を、監理局の人間はむやにみ口外したりしない。例えその相手が身内であったとしても。それが規則であるからだ。

 にも関わらず、当時何も知らなかった紗夜の前に現れて、彩乃が機士であると彼女に明かした。

 彩乃を見舞うような人間の中で、そのような規則違反をしてしまうような者と言えば――、


「……朝唯か」


 呆れを混ぜた声で、小さく呟いた。

 旧多朝唯。かつて鷹音や彩乃の所属していた部隊を率いた歴戦の機士。彼であればそのような行動に出てもおかしくはないだろうと、鷹音は戦友でもあり師匠でもある男の顔を思い浮かべながら、溜息を吐いた。

 それを見止めた紗夜が首を傾げるが、鷹音は何でもないと首を横に振った。


「……それにしても、まさか君が彩乃さんの身内だったなんて思わなかったよ。俺の事を知ってたなら、もっと早く教えてくれたって良かったのに」

「あー、うん……その事なんだけどね」


 そうして紗夜は鷹音に語った。

 自身と彩乃の関係性について――元は第七特区に住んでいたと言う彼女達が、ある日を境に離れ離れになった事。そしてその後、彩乃との連絡が杳として途絶えてしまった事を。

 話の大半を聞き終えた鷹音は、神妙な面持ちを紗夜へと向けた。


「彩乃さんの両親が亡くなったのは、支機官だった二人が死廃領域で命を落としたからだ。そして恐らく、それをきっかけにして彩乃さんは機士となった。彼女の経歴を考えれば、君が言った四年前っていう期間も辻褄が合うよ」

「……え? てことは入院する前……筱川さんと一緒にいた頃って、お姉ちゃんってまだ機士になって一年くらいだったって事?」

「そうだよ」


 驚いた表情を浮かべる少女に、鷹音は淡い微笑みを向けた。


「彩乃さんはたった一年足らずで、当時在籍していた機士達の中でも抜きん出た評価を得て、選ばれた者しか所属出来ない部隊に名を連ねたんだ。皆は俺の事を最強の機士だなんて言って持て囃していたけど、俺としては、彩乃さんこそ当代最強の機士だって言って回りたいくらいだよ」


 ポカンと呆けたように固まる紗夜。苦笑を浮かべ、当時の様子を思い返しながら鷹音は続けた。


「彩乃さんは本当に素晴らしい機士だった。当時の皆の希望だったって言ってもいい。彼女の明るい性格や何事も諦める事の無い姿勢は、まず間違いなく、三年前の機士達にとって見間違える事の無い指針となっていたよ。……だから、そんな人が監理局から消えてしまった時、多くの人に衝撃が走ったものだ」

「筱川さんもその一人?」


 不意に。

 割り込むようにそう訊ねられ、数瞬、鷹音は固まった。

 無意識に瞠目していたかも知れない。そして恐らくそれを見ていたであろう紗夜は、やがて静かに、穏やかな声音で言葉を続けた。


「私、お姉ちゃんがどうしてになったのか、その理由までは知らないの。自分が機士として実際に戦場に出て、死ぬ事は無いんだって分かってから、その〝疑問〟は更に強まった。……ねぇ筱川さん、教えてくれないかな。三年前、お姉ちゃんの身に何があって、ずっと心を失わなければならなくなったのか」


 真摯な声色だった。

 注がれる視線も、真っ直ぐで、尚且つ揺らぎの無いものだった。

 これがこの少女の、雪村紗夜と言う名の少女が持つ心の実直さであると判じて、鷹音は再び微笑んだ。

 この真っ直ぐさも、『姉』によく似ていると思って。

 故に迷う事なく、静かに、鷹音は紗夜へと三年前の出来事を事細かに語り始めた。




 全てを聞き終えた紗夜は、変わらず彩乃の貌を見つめていた。

 三年前に、この女性が経験した凄惨な出来事を知った今、恐らく少女の目には彩乃の姿が丸っきり違うものに見えているのだろう。

 鷹音は必要以上の事を言わなかった。

 彩乃の美しい貌を見つめる紗夜を、少年は静かに眺める。


「……お姉ちゃんをこんな風にした神屍と、筱川さんは戦ったんだよね?」


 何処か抑揚がないように聞こえる声に、鷹音は素直に頷いた。


「そうだ。勝手気儘に単独行動をしておきながら、俺は成す術なく奴に打ちのめされたんだ。みっともないと笑ってくれたって全然構わない訳だけど」

「そんな事する訳ないよ」


 鷹音の言葉に、けれど紗夜は軽々しい様子で応じる。


「筱川さんの事をずっと見てれば、お姉ちゃんをどれだけ大事に思ってたかなんて嫌って程に分かるよ。三年前の出来事をどれだけ悔いてるのかも、その後悔が理由で、この間とんでもない無茶をしたって事もさ」


 何故か、紗夜の視線は鷹音と交わらない。

 わざと紗夜が鷹音から目線を逸らしたいるかのような違和感を覚えながら。


「……君は怒らないんだな」

「え? 何に怒るの?」

「いつも考えてたんだよ。彩乃さんの事を大切に思う人が俺の他にいて、その人が俺の事を恨んでたりしたらどうしようって」


 瞼を伏せながらそう言った鷹音に、紗夜は苦笑いを浮かべた。


「そんな事ある訳ないよ。お姉ちゃんが心を無くしちゃったのは筱川の所為じゃないんだし、寧ろこの三年間、ずっとお姉ちゃんの事を後悔しながら生きてきたんでしょ? それだけ苦しみ続けてきた人を、更に苦しめるような真似なんかしないって」

「でも」


 鷹音は苦渋を呑んで言う。


「事実、俺は彩乃さんが目の前で喰われているのに、一歩も動けなかった……ただ見ているだけだった! そんなの、見殺しにしたのと同然じゃないか! それを分かっているから、俺はずっと自分を責め続けてきた。誰も罰してくれないから、恨みつらみを投げ付けてくれないから、代わりに俺が俺自身を責め続けてきたんだ! 自己満足だって嗤われてもいい。それだけの罪を、俺は犯してしまったんだから‼」


 病室に、少年の言葉が反響した。

 紗夜に向けたものでありながら、何処か、独り言のような叫びだった。

 いつもは抑えている情動が、彩乃の顔を見ているが故に、そして彼女を大切に思う『妹』が傍にいるが故に、その蓋が外れてしまう。

 吐いても意味のない怨嗟の声を。

 


「……じゃあ、今から私が筱川さんを罰してあげます」


 そう、唐突に紗夜が言った。

 寝台を挟んで対面に座っていた彼女は、おもむろに椅子から立ち上がると、ベッドをぐるりと回り込んで鷹音の傍へとやって来た。

 戸惑いの表情と浮かべる少年と真正面から向かい合う。小柄な紗夜は鷹音の顔を間近から見上げて来る。


「……えっと、」

「えいっ」


 そう言って。

 紗夜は右手を手刀の形にして、鷹音の頭へと振り下ろした。いわゆるチョップである。

 さほど力の込められていなかった手刀は、少年の前頭部に当たる。突然の行動に無言となってしまった鷹音の見下ろす先で、紗夜は微笑みと共に言った。


「はい。たった今、私は筱川さんを罰しました。これで筱川さんは自分を責めなくて済むよね。だからもうむやみに苦しむのはやめてよね?」

「ッ……」


 その言葉に、鷹音は眉根を寄せる。

 何かを反論しようとして、しかしそれよりも早く紗夜が続けた。


「それに、きっとお姉ちゃんだって、いつまでも筱川さんが自分の事で思い悩んでるのは嫌だって言うと思うよ? 私の事なんか気にせずに、もっと力を抜いて気楽に生きてほしいって。寧ろ筱川さんがそうやって勝手に自分を傷付けてたら、そっちの方にお姉ちゃんは怒りそうだけどね」


 言葉自体は、よくある『こっちの気も知らないくせに』と思ってしまうようなもの。

 しかし何故か、鷹音は紗夜の言葉がすんなり自分の心に入って来るのを感じていた。

 彼女が彩乃の事を良く知る人物だからだろうか。それとも――言葉の後に見せた笑顔が、いつも鷹音に向けられていた彩乃のそれに、よく似ていたからか。

 少女が浮かべる無垢な笑顔を、鷹音は静かな目で見つめた。

 やがて。

 ゆっくりと口を開く。


「……随分と子供じみた懲罰だね」

「機士らしく、剣でも向ければ良かった?」

「彩乃さんの『妹』である君に首を刎ねられるなら、それでも良かったけどね」

「嫌だよ。そんな事したらすぐにでもお姉ちゃんが目を覚まして、私の頭に容赦なく拳骨を落としてくるんだもの」


 そんな冗談に、鷹音と紗夜は薄く微笑み合った。

 少しだけ、心の中に留まり続けていた楔が緩んだような気がして、鷹音は自分の胸にそっと手を触れた。


「この程度で心が軽くなるなんて、自分の苦しみや後悔はそんなに軽々しいものだったのかと呆れてしまう訳だけど」


 そんな彼に、紗夜は彩乃の貌を見つめながら応じた。


「筱川さんはきっと、ずっと誰かに赦して貰いたかったんだよ。そしてその『赦し』は、自分の前でお姉ちゃんが目を覚ます事でしか得られないと思ってた。そんな勘違いをずっとしてたんだから、そう思うのも仕方ないよね」

「……それは、本当に勘違いなのかな」

「勘違いだよ」


 くるり、と。

 紗夜は再び鷹音へと向き直り、下から覗き込むような姿勢で言う。


「でも、それでもまだ何か免罪符が欲しいって言うなら、私に協力してほしいかな。私と筱川さんの望みは、多分一緒なんだって思ってるから」


 艶やかな黒髪がさらりと揺れた。

 純粋で無垢、そんな笑顔を向けられて、鷹音は少しだけ目を瞠った。

 だがすぐ後に、困ったような笑みを浮かべる。


「別に協力するのは吝かではないけど、どちらかと言えば、君が早く俺に追い付いてくれないと協力関係にはなれない訳だけど」

「大丈夫! お姉ちゃんはたった一年で筱川さんと同じくらい強くなったんでしょ? だったらきっと私もすぐに強くなれるよ!」


 姉の為に神屍を屠る。そう誓ったと少女は言った。

 例えそれが偽りの行動理念によって齎された決意だったとしても、それを全うする為に、彼女は無謀を押して行動に出た。

 ならばそれは、とどのつまり、彼女の真なる意志そのものだ。

 そしてそれは、鷹音が心に抱き続けてきたものと一致している。

 故に少年は、固持してきた何かを諦めるような素振りで嘆息を零しながら、それでも落胆の色の無い微笑を口許に見せた。


「なら少しだけ引退宣言は先延ばしかな。少なくとも、君と一緒に自分の望みを叶えるまでは、剣を握り続ける事にしよう」


 言いながら、寝台の下から椅子を引っ張り出してそれに座る。

 長い間、静謐を纏って眠り続ける彩乃を見つめながら。


「だからせめて、君が一刻も早く俺に追い付けるよう手助けをしなくちゃね。なるべく早く俺のところまで来て、とっとと俺を隠居させてくれると嬉しい訳だけど」

「まだまだこれから働き盛りなのに、そんな後ろ向きな姿勢でどうするのさ。私は別として、華嶋さんや射葉さんが絶対に許さないと思うんだけど?」

「一度無断で彼等の前から逃げて、二年以上も音信不通にして見せた経験があるんだ。二度目だって簡単だよ」

「二度目だからこそ、次は絶対に逃げられないんじゃないかなぁ?」


 言いながら、紗夜は窓際の壁に凭れ掛かる。

 そろそろ窓を解放しておくのも憚られる寒風が、彼女の黒髪を優しく撫でる。

 冬の到来を感じて、羊雲の浮かぶ青空を振り返った鷹音は、それだけは変わらず在り続ける蒼穹を、細めた目付きで見やった。

 すぐ後に、傍らで同じように窓の外を眺めていた紗夜に視線を戻す。


「……俺はいつか必ず、あの獅子型の神屍を殺す。その為には、君の力が必要だ。今の堕落した機士達では話にならない。その為に、俺は君を鍛える事に全力を尽くす」

「なら、私は早くそれに応えなきゃね。その目的が達成出来たら、今度はどうやって筱川さんを引退させないか考えなきゃなんだけど」

「本音を言えば、その悩みが現実化するのはだいぶ先だから、今は放っておいても問題ないのではないかな」


 苦笑と共にそう言えば、紗夜もまた淡い微笑みを湛えた。

 その向こう側に、鷹音は獅子の姿を象る神種型の姿を透かし見た。歪な笑みと歪な剣群を向けて来る神屍に、しかしもう、鷹音は怖れを抱かなかった。

 全ての事から逃げず、正面から受け止める強靭な光を瞳に宿し、そうして鷹音は静かに、その鋭利さを鞘に納めるかのように潜ませた。

 方針は決まった。

 後は動くだけだ。

 再び彩乃の綺麗な素顔を見下ろしながら、確かに意志を固める。

 ……そこで余裕の出た胸中に。

 鷹音としては全く関係のない、一つの疑問が湧いて出た。


「そう言えば、今日は普通に平日だけど、学校はいいのかな?」

「……え?」

「中学か高校かは知らないけど、一応機士とは言え、勉学を疎かにするのはやめた方がいいと思うよ」


 自分も一応は高校生の身でありながら、その事を棚に上げて訊ねる。

 すると紗夜は、何かを考えるように沈黙した後、首を傾げながら言葉を返した。


「あの、筱川さん……ここでも何か勘違いしてると思うんだけど」

「うん?」


 気軽な様子で、鷹音は紗夜の言葉を追って彼女を見上げた。

 困ったような様子で苦笑いを浮かべる紗夜は、少しの間を置いて、何処か気まずさげに言葉を続けた。


「……私、一九歳の大学生だよ? 今日は講義が無い日だから、こうしてここに居るんだけど?」


 何の気なしに告げられた台詞に、鷹音は暫し沈黙し。

 その後。

 自分よりも小柄な少女に向けて、思わず素っ頓狂な声を上げるのであった。





【第一章 完】

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昏き世界の虚神譚<ホロアート> ~神殺しの最強機士、筱川鷹音の伝記~ 明神之人 @Yukito_Myojinn

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